ドリンスクのチェーホフ胸像(2017年05月13日)
ユジノサハリンスクの北東40km余りの場所にドリンスクという街が在ります。人口1万2千人弱ということですが、ドリンスク地区の中心的な街です。
ユジノサハリンスクの鉄道駅近くから各地へ向かうバスを視ていると「112」という運行系統番号のドリンスク行きが多く発着しています。休日に試に乗車してみると、ドリンスクまでは115ルーブルで、コルサコフへ向かう135ルーブルよりも若干安価であることが判りました。
詳しい距離というよりも「乗車している時間」に拠る「感じ方」の問題ですが、ドリンスクへ向かう行程の半分近くは、ユジノサハリンスク市の管轄区域の北東部に拡がる市街で、バスの速度は余り上がりません。ドリンスクが近付くと、ユジノサハリンスクとオホーツク海側とを結ぶ経路として整備されたらしい街道のような趣の道路になり、バスは速度を上げます。
↓このドリンスクの地区行政府の近くに在る広場に、画のような胸像が据えられています。
ドリンスクのチェーホフ胸像.jpg
↑劇作家として著名なアントン・チェーホフの胸像です。
チェーホフは30歳であった1890年、サハリンの地を訪れていて、サハリンでの見聞、調査結果を纏めた『サハリン島』という本を著しています。
現在のドリンスクの辺りは、チェーホフがサハリンを訪れた時代には1884年に起こったという<ガルキノ・ブラッスコエ>と呼ばれる村でした。チェーホフはこの<ガルキノ・ブラッスコエ>にも立ち寄っています。それを記念して設けられたのが、画の胸像であると見受けられます。
その後<ガルキノ・ブラッスコエ>は、樺太時代に落合町となり、1946年のソ連化の際にドリンスクとなりました。
この日、ユジノサハリンスクをバスで発った時点では曇天だったのですが、ドリンスクに着くと、歓迎でもしてくれるかのように天候が好転しました。そうした中、実際にチェーホフが訪れたという地域に設けられた胸像を眺めながら、チェーホフの時代から現在までの時代の変遷に思いを巡らせていました。
ユジノサハリンスクの鉄道駅近くから各地へ向かうバスを視ていると「112」という運行系統番号のドリンスク行きが多く発着しています。休日に試に乗車してみると、ドリンスクまでは115ルーブルで、コルサコフへ向かう135ルーブルよりも若干安価であることが判りました。
詳しい距離というよりも「乗車している時間」に拠る「感じ方」の問題ですが、ドリンスクへ向かう行程の半分近くは、ユジノサハリンスク市の管轄区域の北東部に拡がる市街で、バスの速度は余り上がりません。ドリンスクが近付くと、ユジノサハリンスクとオホーツク海側とを結ぶ経路として整備されたらしい街道のような趣の道路になり、バスは速度を上げます。
↓このドリンスクの地区行政府の近くに在る広場に、画のような胸像が据えられています。
ドリンスクのチェーホフ胸像.jpg
↑劇作家として著名なアントン・チェーホフの胸像です。
チェーホフは30歳であった1890年、サハリンの地を訪れていて、サハリンでの見聞、調査結果を纏めた『サハリン島』という本を著しています。
現在のドリンスクの辺りは、チェーホフがサハリンを訪れた時代には1884年に起こったという<ガルキノ・ブラッスコエ>と呼ばれる村でした。チェーホフはこの<ガルキノ・ブラッスコエ>にも立ち寄っています。それを記念して設けられたのが、画の胸像であると見受けられます。
その後<ガルキノ・ブラッスコエ>は、樺太時代に落合町となり、1946年のソ連化の際にドリンスクとなりました。
この日、ユジノサハリンスクをバスで発った時点では曇天だったのですが、ドリンスクに着くと、歓迎でもしてくれるかのように天候が好転しました。そうした中、実際にチェーホフが訪れたという地域に設けられた胸像を眺めながら、チェーホフの時代から現在までの時代の変遷に思いを巡らせていました。