Хлеб Островной(フリェープ オストロヴノイ)(2017年05月17日)

「島のパン」と言われて、どんなモノを思い浮かべるでしょう?

↓「島のパン」と言ってみても、どうということもない「普通のパン」でした。
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スーパーに寄ると、大概は「パンのコーナー」が在ります。パンが好きな方は、そこを一寸眺めるだけで「幸せ!」と感じてしまうかもしれない程に、色々な種類のパンが在ります。毎日違うモノを求めても、全部を試食するまでに何日掛かるか判らない程に色々と在る店も見受けられます。

その「パンのコーナー」で、主食のように扱われる、日本の感覚で言う"食パン"のようなモノは「ラップに包まれている状態で、レジ用のバーコードを含む、品名や内容物等が書かれたシールが貼り付いている」という状態で棚に並んでいる場合が多く在ります。

今般、「島のパン」という商品名に妙に惹かれて入手したパンは、本来はもっと大き目なサイズのモノを半分にカットした状態で、ラップに包まれている状態でスーパーの棚に在りました。24ルーブルと格安でした。

或いは「島の」というのは「パン しろまるしろまる」という「個別商品名」的に使われているのかもしれません。

「島の」という一般的な形容詞でもある「オストロヴノイ」(Островной)ですが、サハリンでは少し独特な意味で用いられる場合が在ります。「オーストロフ」(島)という語句を「サハリンの代名詞」のように使っているのです。

ラジオを聴いていて、例えば「ヴォシムナッツァチ ノリ ノリ ナ オーストロヴェ」(18-00 на Острове)と聞こえることが在ります。"直訳"としては「島は18時です」と言っているのですが、"島"という語が「サハリンの代名詞」として使われていて、「サハリン時間18時です」と理解すべきなのです。

恐らく、巨大なユーラシア大陸の広大な部分を占めるロシアでは、サハリンのように「島である」ということ自体が「際立った地域の特色」であるために出て来たことなのでしょう。

↓「島のパン」でも「パン "オストロヴノイ"」でも構いませんが、ハッキリと白いパンでもなく、と言って黒パンでもないという感じの美味しいパンでした。
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ドリンスクのチェーホフ胸像(2017年05月13日)

ユジノサハリンスクの北東40km余りの場所にドリンスクという街が在ります。人口1万2千人弱ということですが、ドリンスク地区の中心的な街です。

ユジノサハリンスクの鉄道駅近くから各地へ向かうバスを視ていると「112」という運行系統番号のドリンスク行きが多く発着しています。休日に試に乗車してみると、ドリンスクまでは115ルーブルで、コルサコフへ向かう135ルーブルよりも若干安価であることが判りました。

詳しい距離というよりも「乗車している時間」に拠る「感じ方」の問題ですが、ドリンスクへ向かう行程の半分近くは、ユジノサハリンスク市の管轄区域の北東部に拡がる市街で、バスの速度は余り上がりません。ドリンスクが近付くと、ユジノサハリンスクとオホーツク海側とを結ぶ経路として整備されたらしい街道のような趣の道路になり、バスは速度を上げます。

↓このドリンスクの地区行政府の近くに在る広場に、画のような胸像が据えられています。
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↑劇作家として著名なアントン・チェーホフの胸像です。

チェーホフは30歳であった1890年、サハリンの地を訪れていて、サハリンでの見聞、調査結果を纏めた『サハリン島』という本を著しています。

現在のドリンスクの辺りは、チェーホフがサハリンを訪れた時代には1884年に起こったという<ガルキノ・ブラッスコエ>と呼ばれる村でした。チェーホフはこの<ガルキノ・ブラッスコエ>にも立ち寄っています。それを記念して設けられたのが、画の胸像であると見受けられます。

その後<ガルキノ・ブラッスコエ>は、樺太時代に落合町となり、1946年のソ連化の際にドリンスクとなりました。

この日、ユジノサハリンスクをバスで発った時点では曇天だったのですが、ドリンスクに着くと、歓迎でもしてくれるかのように天候が好転しました。そうした中、実際にチェーホフが訪れたという地域に設けられた胸像を眺めながら、チェーホフの時代から現在までの時代の変遷に思いを巡らせていました。