旧 王子製紙眞岡工場(2017年05月21日)

樺太時代には「眞岡」(まおか)と呼ばれていたホルムスクは、海岸部に「南北」に市街が拡がっているだけではなく、丘陵の階段状の地形に街が拓かれているので、「上下」にも市街が拡がっています。

そういう「南北」に加えて「上下」にも市街が拡がっている状況なので、色々と「独特な表情の景色が視られる」街でもあります。

↓「独特な表情の景色が視られる」と言う場合に「際立って独特な」と形容したくなるのが、こんな様子です。
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↑様子を眺めていると、「SF系統の映画やコミック」のような「現実離れ?」な印象も抱いてしまいます。この写真を友人に見せた時、「"街中の巨大廃墟"?何か混沌としているのだろうか?」という感想を漏らしていました。(実際、"街中"とは言っても、中心街的な場所を僅かに外れた感じになっていました。)

朽ちているような大きなコンクリートの構造物は「旧 王子製紙眞岡工場」です。

1919年9月に「樺太工業」という会社が当地に製紙工場を起こし、1921年5月に工場が全焼してしまい、1922年3月に復旧したという経過を辿ったようです。そうした経過や、元号が"昭和"に切り替わった少し後の不況等が在って、製紙業界で企業合併等により業界再編が進められ、1933年に「樺太工業」は「王子製紙」に合併となり、眞岡工場は王子製紙の工場となったのだそうです。

((注記) 因みにこの眞岡工場を運営していた会社は1949年に解散し、1961年に清算を終えて消滅しているので、現在も存在する同名の製紙会社の"前身"的な性質は帯びるものの、関連性は弱いそうです。)

1945年に樺太が放棄されて以降、眞岡工場はソ連の工場になり、新聞印刷用の紙を製造する等、長く活動を続けていたそうです。1990年代に入って間もなく工場が操業を停止し、現在の"廃墟"状態になってしまったとのことです。

↓「工場」が「工場跡」ということになってからだけで、既に四半世紀が経っていますから、相当に傷んでしまっている様子が判ります。
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↓塔のようになっている場所の金属製と見受けられる階段は錆びてしまっていて、昇降すると壊れてしまいそうに見えます。
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「眞岡」(まおか)と呼ばれていた時代にも、街は「西海岸の海陸交通の要衝」という位置を占めていましたが、ソ連時代にも「大陸との貨物輸送の拠点」となっていて、サハリンでは最大級の港を擁する都市でした。

((注記) 近年は「日本海のハブ港」となっている釜山との間を往来する貨物船、ロシアで「極東方面の輸送の要」となっているウラジオストクとの間を往来する貨物船が多く出入りしているコルサコフ港の方が、船の出入りや扱い貨物量は多いかもしれません。)

現在もホルムスクは大きな港を擁する都市で、港の出入口と向かい合うように丘の上の中心的市街地へ続く通が在ります。その辺りから地区行政府庁舎等も在る辺りを抜けて、更に少し進んで行くと集合住宅が一群を成している場所に出ます。その集合住宅が一群を成している場所の辺りから、「旧 王子製紙眞岡工場」が好く視えます。

「旧 王子製紙眞岡工場」の直ぐ横に鉄道が通っていて、鉄道と並行して道路が設けられています。この道路の辺りから「見上げるように視る」というのが、「旧 王子製紙眞岡工場」を視る場合によく在る型だと思いますが、集合住宅が一群を成している場所の辺りからは「見下ろすように視る」ということが出来ます。

この「旧 王子製紙眞岡工場」は、「サハリン=嘗ての樺太」というイメージの中では非常に「らしい」イメージの場所なのかもしれません。この場所を「とりあえず視たい」という方も多いと想像されます。サハリンを訪れる方が滞在する場合が多いユジノサハリンスクとホルムスクとの間は、1日に14往復の路線バスが運行されていて、所要時間は片道2時間以内ですから存外に訪ねてみ易い場所です。

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