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July 2007

休みをとって
母と
ちひろ美術館へ。

以前に一度訪れ、
ぜったいにまた行きたいと思っていた空間。
もともと、いわさきちひろの絵は大好きだったけど
この美術館に行って
自分がこんなにも
ちひろの世界やセンス、色やニュアンスに共感するのか
と、気づいた場所。

そして、
今回もまた。

ちひろの絵は、
わたしの眉間と胸の間を結ぶ細い線を
びんびん奮わす。
普通だと細くて入り込めない隙間から、
ミリより細かいナノの毛穴から、
染み込むように
心にアクセスしてくる。

あぁ、わたしは一体なにをやっているのだろう。

ちひろ

甘味屋さんで玉露を頼んだら、
「三煎楽しんだあと、茶葉を食べてください」
というので、
「はぁ?」
と言ったあと、
いかんいかん、もっと素直な心を持たねば、と思い直し
従ってみることにした。

お茶を出し切って、
ポン酢で味付けして
お箸で食べる。

茶葉

変な感じ。
でも・・・あら。
おいしい。
おいしいじゃない!?
よい程度のにがみと、ポン酢から来る甘みと、私の好きな歯ごたえと。
あら。
結構はまりそうな。

新鮮だわ。
やっぱり、自分の常識に囚われてちゃ、
新しい楽しみも拓けないのね。

終わった跡は、茶碗もすっきりきれいで気持ちいい。

茶葉なし

しかも、
これで、今日の野菜はとれたぜ。
ふっふっふ。

ついに、その日が来た。
トマト姉妹が
収穫の時期を
迎え始めたのだ。

とまと赤い

なんて美しいのだ!
並ぶトマトたちが
緑から赤へのグラデーションの錦を織りなす。
生っている様があまりに絵になる。
穫るより、いつまでも眺めていたくなる。

子どもが七五三や成人式の衣装を纏っているのを眺めるは、
こんな気持ちなのだろうか。
かわいくていつまでも見ていたいけど
あくまでも
通過点のいちにち。
衣装を脱ぐ夜が来るように、
実も穫るときが来る。

赤い粒の根元に
はさみを入れる。
どきどき。

収穫

本日の収穫は3つ。
いや、3人と言おうか。
近くで観察すると、それくらい、
一粒一粒に個性があるぞ。

手の平にのせると
その子たちは、
ちょこんと座って
わたしを見上げる。

手の平とまと
「えっと・・・こんにちは!」

なんてかわいく
なんて美しい奇跡なのだろう!
朱の皮の色艶といい、
緑のヘタの部分の細かな産毛といい、
自然のデザイン・センスに改めてため息が出る。

街で売っているミニトマトよりは
ずいぶん小さいけど、
トマト姉妹が
体中の栄養をかき集めて
生らせた子たちだ。

愛しさワールドクラス。

さらになんかしたくなって、
その姿が映えそうな小皿に並べてみたりする。
皿のトマト

部屋のなかでゴソゴソ動き回って
かわいいかわいいとつぶやくわたしを、
ベランダのトマト姉妹は
じっと見ているようだった。

トマト姉妹もたげ

子どもだったトマト姉妹が、
いつのまにか
人生の先輩の顔。
まだ蒼い実がたくさんついた体を
重そうに
少しもたげながら。

街を歩いていて
ふと、小さな公園に目が止まる。

[画像:公園1]

なんじゃ?
公園の遊具に囲いがしてある。

公園2

透明なカバーみたいなものをかぶせ、
さらに黄色や赤の器具で、派手に囲ってある。
ちょっと、大げさすぎやしないかい?!
まるで、事件現場の様相!?(笑)

なにがあったのだろう?
気になるので近づいていみる。
カニ1

囲われているのは、子どもがまたがって遊ぶ遊具。
カニちゃんだった。
カニちゃんは、透明カバーの下から
左手で無邪気にピースサインをしているようだった。
「どうしたの?こんなに囲われちゃって?」
裏へ回ると、

カニ2

へ?
養生中、ですか・・・(汗)!?
カニちゃんは、無邪気なピースサインの裏で
とっても疲れていたのか?!
養生しないといけないほど・・・。
都会の生活は、遊具をも疲弊させるのだろうか。
笑いとともに、なんだか切なさの混じった気持ちに浸りながら
その場を去った。
「養生してね、カニちゃん・・・!」

帰宅して、念のため、と思って辞書を調べた。
すると、

養生:1)生活に留意して健康の増進を図ること
2)病気の回復につとめること
3)打ち込んだコンクリートやモルタルが十分に硬化するように、
低温・乾燥・衝撃などから保護する作業

とあった。

なぁんだ。
3)の意味だったのか・・・。

辞書を調べたことを
ちょっぴり後悔した。
普段、なんの人間味も感じないコンクリートの固まりに
少しシンパシーを感じられていたから。
でも、
あのカニちゃんのピースサインは
なにかを言っているように見えたよ。
「あたしは、自分の持ち場でがんばるわ!」

人間もコンクリートも
都会の片隅で
それぞれの役割を演じている・・・。

少しだけ先輩で
道をまっすぐ選んできたのが伝わってくる素敵な男子が、
仕事の"はかり方"について言ったひとこと。

「自分が悔しいと思うかどうか、それがひとつのバロメータになっているかも。
人の仕事を見て、悔しいと思うか、
あるいは、辞めてよかったと思うか。」

聞いた瞬間、しっくりきた。
ほんとそうかも、と思った。

ひとは、
社会的地位とか
お金とか
損得とか
見栄とか
権威保持とか、
そんな欲とか計算が、
仕事や道を選んでいくときに邪魔をする。

分野を同じくする人の仕事ぶりを見て、自分がどう感じるか。
純粋に悔しいと思う仕事は、
計算とか抜きに
自分が本心から評価しちゃってる仕事なのだ。
自分が、無意識に(本能的に?)
いま現在やりたいと思っていることだったりするのだ。
それをはかるのに、
確かにいいバロメータかもしれない。

悔しいのにそのままにしていたことが
結構あったかも・・・。
自分で、自分が悔しがる道を行ってるかい?
たまに自問してみるのも
いいかもしれない。

最近、リアルな夢をみる。
知ってるひとが出てきたり、
筋が現実的だったり。

そういうの見ちゃうと、
朝から疲れるのよね...(汗)

なんで見ちゃうのだろう。
緊張してるのかな、
寝てる間も現実の生活について
考えちゃってるのだろうか。

どうせなら
ラブリーな夢が見たいものだ。
いちにち
にこにこしてしまうような。

ジャズは、父の好きな音楽だった。
あんな秩序のない音楽、どこがいいのよ、
とティーンのわたしは思っていた。

しかし、
おとなになったら、
自分が変わった。
ジャズを聴きまくり、
歌いまくり、
はまりまくり、
ジャズが大好きになった。

秩序のない、
ばらばらなものが合わさっているうちに
突如現れる、一瞬の力強い「和」。
それは頭で理解する前に体が反応して、
鳥肌と涙が一気に出るような
そんな興奮と意外性に満ちた「和」だ。

「熱帯ジャズ楽団」のライブに行った。
最近、洋楽カバー中心の楽しいアルバム『Let's Groove』。が出たばかり。
わたしの大好きな
「HIP TO BE SQUARE」Heuy Lewis & the News(なつかぴー!)も入っている。

ライブは最高♪
圧倒される音の迫力、
複雑な曲の進行の中に
やはり突如現れる「和」の連続。
上を向いて聴いていないと
興奮で涙が出てしまう、
そんな2時間あまり。
すごいね、
やっぱりビッグバンドいいねっ!

久しぶりに、
ジャズが好きになった頃の、
社会に出たての自分を思い出した。

社会とは、
ばらばらの人間の集まりで、
到底、無機質な秩序は望めない。
でも、そのばらばらの人間たちによって
思いも寄らず
興奮と意外性に満ちた「和」が生まれる瞬間がある。
それは、最初から予想される「和」より、
なんて力強いんだろう・・・。
その瞬間の鳥肌と涙は、
おとなの喜びを運ぶ。

父さん、
わかったよ。

朝、カーテンを開けてベランダをのぞくと・・・

とまと赤く

おお!
赤くなり始めた子がいる!
感動・・・。

緑の世界に、ぽつんと赤が現れる。
クリスマスカラーは、トマトからヒントを得ているんじゃないだろか、
なんて考える。
自然の色はなんて、
楚々としていて、
なおかつ
圧倒的なのだろう。

トマト姉妹から、いろんなことを教えられるよ。

葉をめくって近くで観ると
その子は頬を赤く染めて言った。

とまと赤く2
「こんにちは。恥ずかしいから、まだそんなに観ないで・・・」

昔、「オバタリアン」というのが流行った。
女子が歳を減るうちに、
おばさんに輪をかけて
ちょっと怪物的に図々しくなっていく、
オバタリアン。
気をつけないとだめだわ
と、思っていた。

しかし、さいきん思うのだが、
独り身で働く女子は、
おばさんやオバタリアンではなく、
むしろ、
「おじさん」になっていく気がする。

職場の新人や、アルバイトの女子たちを見て
「カワイイねぇ」という
男子おじさんたちの感覚が分かるようになったら要注意だ。

居酒屋のおしぼりで拭く"範囲"が最近拡大してきたら
黄色信号だ。

そして、
わたしはついに、
自分の中でこれまで抵抗していた赤信号に、
手を伸ばしてしまった。

つぼ押し器

つぼ押し棒だ。
肩こりや背中の凝りに
独りでも手が届く。
いままで、「だめよ、ここを許したら、もう先が・・・」
とお店の売り場で頭を横に振って抵抗していたのだが、
この度、
母が「もらいものなのよ。要らないからあげるわ」と
私に見せてきた。
要らないと抵抗したが、
3日後に折れた。
「ええんか、ええんか?おっさんやで?」
ん・・・自分の中の葛藤。
しかし、
昨夜ついに手に取って押してしまった・・・
およよぉ〜。

わたしの背中のつぼに、
つぼ押し器の押し跡と
「おじさん印」が正式に残った。

さいきん、気がついたときに
寄付とかお賽銭とか、
「気持ち」を少しばかり置いてくることにしている。
手当たり次第どこでも、じゃなくて
基準は、自分がぴーんと来たところ、
あるいは、自分の思いと重なるところに。

先日も、あるお店のレジ近くあった
盲導犬の寄付箱に小銭を入れたら、
周りがとても静かだったのもあって
ちゃりーーん。
といい音がした。
こちらが出した方なのに、
なんだか逆に何かもらったような気持ちになって
妙にうれしかった。

〜〜〜

カナダやアメリカはチップ社会だ。
店員さんやサービス業に関わる人はみな
チップでかなり収入が変わってくる。

客側からすれば、チップで「気持ち」が表せる。
例えば、ひどいサービスや不当な対応を受けた場合。
全くチップを置かないのではただ忘れたのかと思われるから、
抗議として1セント、つまり1円だけ、テーブルに置いて出る。
「あなたのサービスはよくありませんでしたよ!」という
メッセージになるのだ。
逆に、ほんとうによいサービスをしてくれたときには
みんな、ちゃんと多めに出す。
「よいサービスをありがとう!おかげで良い時間となりましたよ。」
という気持ちを置いていくことができる。
店員さんのほうも、お客さんの気持ちが個人的にはね返ってくるから
サービスに自然と気持ちをこめるようになる。

サービス業だけでなく、
ダンサーやミュージシャン、絵描きさんなど
街でパフォーマンスをしているアーティストにも
ちゃんと楽しませてもらった「ありがとう」分とか
応援の気持ちをこめた「がんばってね」分、
気持ちを置いていく。
なにも気張ったことでなく、
観察していると、
かなり普通の行為としてみんなお金を出している。

ちょっとした小銭を
「気持ち」が沿うところに置くこと。
価値の交換のためでなく、
気持ちの交換のために、小銭を利用すること。
お互い名乗らぬまま、
見ず知らずの人や活動の力になること。
それが、社会のなかで、
日常になっているのだ。

すごいことだなぁ、って感じた。
ほんとうは、日本人の方が
「ちょっとした気持ち」を贈るのは
うまいのではないかと思っていたのだけど・・・。
「チップ」という社会のしくみのなせる技だろうか。
それだけだろうか。

〜〜〜

バンクーバーのある店で、
レジの横に置いてあったチップ箱に
「Karma box」と書いてあった。
ふふふ。
なるほど、そうだね。
感謝の気持ちを置いてくることで
カルマのように
どこかで自分にも気持ちが戻ってくる。
「ちゃりーん」で嬉しい気持ちになるのは、
そのせいなのかもしれない。

ぴんと来る場所や人や才能に出会ったら、
迷わず「気持ち」を表明して
ちゃんと置いてこれるオトナでありたい、と思うのだった。

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traq

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