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April 2011

心身が自然を求めている。
と、最近感じることが多い。
いや、ふだんから、どちらかというと、放っておくとそういうタイプ。
しかし、ハードコアなアウトドアまでの技術やガッツも今のところなく、
自然の多いところを散歩するくらいがいつものマイ処方箋。
いちばん効くのはバンクーバーの緑に囲まれ散歩することだが、
なかなかすぐには行けませんので、
きょうは、ひさしぶりの自然スポットに。

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等々力渓谷。大学生以来かなぁ。
夏に来て、ひんや〜り気持ちよかったのを覚えている。
きょうは、新緑の中。
空のほうはすごい風で、枝葉が大きく揺れ、わさわさサワサワとBGMを奏でる。
しかし、渓谷の底には風はあまり入ってこず、
水の流れとともに歩いていると、静かに守られている気持ちになる。
自然の力、自然のバランスについて、考える。
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20分も渓谷を歩いて、深呼吸をして、空を見上げ、伸びをしていると、
それ以前の自分とはまったく違う体感になる。
お腹の余分な力みが抜け、代わりにそこがふんわり綿あめのようなエネルギーで満たされる。
背骨ひとつひとつの間が広がっているような、身体の体積が少し増えたような、解放感。
そして、気持ちが前向きになる。

以前は気のせいかなあって思っていたけれど、
最近は、緑や水など心地よい自然が自分に及ぼす影響は
ぜったいに気のせいだけじゃないと感じるようになった。
わたしの細胞を活性化してくれる、ありがたいパワー。
都会の日常生活、
コンクリートのビルを渡り歩けばいまや何でも事足りるようになってはいても、
ちゃんとたまに、自然の影響を意識的に浴びにいかねばなぁと再確認した。
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昼はかわいい女子とランチ、
夜はひさしぶりの方々とご飯会、
最近、人と会ったり、旧交を深めたりする機会が続いている。
気づくのは、前に比べて、少しだけ自分の感受性のアンテナの方向が変わっていること。
いろいろな言葉が今までとは違った響きを持って聞こえてきたり、
いろんな話題に対して自分の感じ方が少し違っていたり。
いずれにせよ、前よりクリアなのかも。

変わったと言えば、くろすけがずいぶん大きくなってきましたわ。
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これ、一緒に入っているというより、
くろちゃんが上に乗ってるやんっ。
ぎゅうぎゅう。
しかし、それでも一緒に入りたいみたいなのだ。

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仲良しですにゃ。

そうそう、きょう自分で人に説明していて気づいたことがあったので、メモ。
さみしさについて。
簡単には会えない、なかなか誘えない、あるいは少し距離のある状況にいることは、
一見、さみしい。
しかし、わたしはそれよりも、
身近にいていつでも連絡できる、いつでも誘える状況にあるのに連絡してこないことのほうが、
何百倍もさみしいと感じる。
「本人はほんとうは連絡したいのに、できない状況だからかもしれない」と考える余地があり、
救いがあるから。
よく恋愛でもあることよね。
電話できる状況にあるのがわかっているのに連絡してこないときは、さみしいと。
最初から離れていれば、あきらめがつくもの。
そして、そのあきらめが、守ってくれる。

そういう風に感じる者は、他の人たちが"さみしい"と感じているときに、
むしろ救われた気分になっていることすらある。え、なんで?とか言われながら。
しかし、それは、あっさりとドライな人間だからなわけではなく、
むしろ、人一倍さみしがりやだということの裏返しなのかもしれない。

仕事でふたつインタビューを受ける。

これまでは断然インタビューをする側が多かったのだが、
ふたつ立て続け、別テーマでインタビューを受けたため、
あぁ、話を聞かれる側に立つ機会が多くなるのだなぁ、となんだか実感した。

しかも、自分のことを言葉にするのは難しい。
それに、限られた時間で表現をしなくてはならない。
思わぬ質問をされ、頭の中を懸命に探りその場で答えを捻り出しても、
自分の中の漠然とした感覚をちゃんと伝わるように言葉にできているのか、こわくなる。
取材に来てくださる方々の、それぞれの記事テーマに応じた期待に添えているのかどうか、
そのくらい聞く価値のある具体的な話ができているのかなど、
話しながらもどきどき不安になる。
聞く側の気持ちが痛いほどわかるからだろうか。

結局終わったあとは、ひとり反省。
ああでもなかったか?こうだったか?など話を反芻しながら、
どっと疲れて、ちょっと落ち気味になる。

その後。夜はもともと、
浜田真理子さんのライブを聴きにいく予定だった。
ずいぶん久しぶりの真理子ねえさんだわ。
昨年は自分の仕事が忙しくてうまくタイミングが合わず、
珍しく一度もライブに伺えなかったのだ。
空は雨が降り出しそうにどんより曇ってきていたし、少し重いキモチのまま、
マブダチと合流し、暗い会場に座った。

わぁ。
久方ぶりの真理子さんの唄声。
なんて器が大きいのだろう。
力の抜けた余裕の緩さと同時に、びんびんと眉間のツボや胃の奥に響くエネルギー。
んん、心地よい。
曲の間のトークも真理子さん独特の毒とユーモアが利いていて、
数十分するとすっかり真理子ペースの夜に、自らもひきこまれていた。

終演後、真理子ねえさんと会うのがあまりに久しぶりでうれしく、
打ち上げ会に参加させていただいた。
真理子さんの隣に座っているだけで、ほんとホッとするのだよね。
強さと脆さと、大きさと小ささと、トゲとフワフワを併せもつこのヒトは。
ねえさんというか、にいさん?と思うほどぶっちゃけた面もあるし、
と思えば、ふと見る横顔はゾクッとするほど色っぽかったり。

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みなで"仕事"というもの話で盛り上がっていると、
真理子さんが、
「わたし、悩んでいる量で言ったら、人に負けないくらいすごいからね。
仕事って、結局、悩んでいる量でしょう?
悩んだ量だけ、つまり、どれだけそこに気持ちを注いでいるか。
それで決まるわけだから。悩んでなかったらだめよ」

そっかぁ。
妙に、心にささる。
妙に、っていうか、順当に、ちょっと昼間の不安でモヤモヤしていたからかもしれない。
すっきり自信をもってできない自分にガッカリしていたからかもしれない。

深夜の東京も小雨。
でも、生・真理子ねえさんのおかげで、雨の前よりも自分の足取りは軽くなっていた。

関西への旅、最終章。
まず昨夜から友人宅へ。
仲良しのともちゃんは新婚さんで、
話には聞いていた素敵な旦那さまのケンさんにお会いしてみたくて、
泊めて〜、と頼んだのだ。

想像以上の素敵なケンさん。
雰囲気いいし、あったかくて落ちついていて地に足がついていて、
会話も楽しいし、仕事のお話も興味深い。
お宅に到着した瞬間から、三人で会話が止まらな〜い。
意気投合。
そして、夕飯は、三人でお好み焼きを焼くことにした。

わたしと似ていてあまり料理が得意分野ではない ともちゃんが、
「お好み焼きは任せといてぇ!」というから、
二人でついていくことにした。

サッサと作業をするともちゃん。
しかし、焼くときになって、びっくり!
だって、
[画像:IMG_1416]
で、でかすぎないか・・・?
鉄板全体で、1枚、ですか・・・?

ええ、そうぉお?これ普通ちゃうん?と、ともちゃん。
しかし、裏返す段になって、やはりでかくて裏返せない。
仕方がないから、ケンさんが柔らかいまな板を持ってきて、利用。
[画像:IMG_1418]
これで、なんとか裏返したのだが・・・
おーう。
[画像:IMG_1419]
裏返す道具を探しているうちに、ちょいとお焦げになりました・・・
しかし、食べてみると美味しく、だいじょうぶでした。

ご飯をいただいている最中に、もうひとり、
わたしがなんと20年会っていない同級生が、ともちゃんちに来てくれた。
近所に住む、いまこ。
当時からめっちゃ面白いボーイッシュな子で、
彼女のトークにわたしは何度涙流しまくり、爆笑したことだろう。
最近の姿は写真では見ていて、ずいぶんオトナっぽく女性らしくなったなぁと思っていたが、
本人に会ってみると高校のときとまったく変わらなかった。
声とかしぐさとか、表情とか、あと、
めちゃめちゃオモロイ話しっぷりとか。
2時間くらい、彼女の今の日常を、爆笑トークとして聴かせていただいた。
話し終わってみると、すべてのストレス?モヤモヤ?が吹き飛んだ感じ、
日常を忘れ、いま何時代だっけ?と言わんばかりの勢いで脳がトリップしていたことに気づき、驚く。
すごいなぁ、関西パワー!
わたしのこっちの友達は、ほんまにオモロイ子ばっかりやわ・・・と心の中でうれしくなる。

さらに、きょう、関西最後の日は、また別の、小学校からの友達とランチ。
忙しくてなかなか会えず、もう4年振りくらいかな?
彼女は、単身赴任で2人の子育てをしながら働いている強者だ。
周りからは、めっちゃバリバリキャリア女性として目に映るんだろうなぁ。
でも、小学5年生のときから付き合っているお互いは、
そんな「バリバリ働いている」の内側にある、ひとりの女の子としての互いを知っている。
だから、会って互いに、ホッとする。
昼休みの短い時間であっても、顔を直接合わせる意味というのは、ここにあるのだろう。

帰りの新幹線、今回の関西滞在がものすごく濃密で充実した時間になっていたことを
あらためて振り返った。
楽しかっただけではなく、自分のためになったというか、精神の栄養になり。
また、ひさしぶりの再会や、偶然の出会いなど、
ここからまたスタートする何かを感じさせる、
自らの偶然力や"シンクロニシティ"というものを試す機会にもなった気がする。

フリーランスになって数週間。
自分で時間を設計し、自分の責任において充実させる感覚を初めて味わったのかも・・・
そう思って、新幹線の窓のカーテンを上げた瞬間、
真正面の景色に息をのむ。
Yes, that's right と、肯定された気がした。
[画像:IMG_1431]

きょうは素敵なカップルの結婚披露宴の司会をさせていただいた。

[画像:IMG_1385]
元プロテニスプレイヤーの森上亜希子さんと、旦那さまの孝明さん。
美男美女カップル。

結婚式って、それぞれ、場の空気、温度が違う。
おふたりの親しい方々が集まるから、"類友"で、
そのカップルならではの雰囲気になるのだ。
きょうの会場は、
あったかくて、ユーモアと明るさがあり、かしこまってなくて、
人数がとても多かったのにまとまりがあって、
新郎新婦を想う優しさに溢れた会だった。
おふたりが、さらに好きになる宴。
結婚式は、やっぱりいいものだ。

その証拠に、終わってもホンワカしているもの。
そんな場の司会をさせてもらえるなんて光栄だわぁ、とホンワカを味わいながら、
今夜泊めてもらう友人宅へ移動だぜぃ。

大阪へ。
初めて、生・通天閣を見る。
なんでしょう、この存在感、この質量感。
見上げる者に迫りくる。

[画像:IMG_1373]

その下で、カキフライをいただく。
好物なので、カキフライにはうるさいのだが、
巨大で、衣がサクサク味わえて、最高でした。

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素敵な人たちと共にいただいたのも、
味わいをアップさせた。
初対面の女子と濃厚人生トークをしていたら、
かなり似た経験をしてきてたことがわかり。
しかも、実はご近所さんだってこともわかったり。
うむ。共感ボタンが押しあえる人はどこに潜んでいるかわからない。

用事を兼ねて、久しぶりの関西へ。

新神戸で新幹線を降りるとしとしと雨が降っていて、
緑の匂いがした。
そうそう...この感じ。

神戸は、小学校から高校にかけて、
思春期の5年間を過ごした地だ。
匂いだけでも、いろんな記憶がよみがえる。

まずは友達宅で、友人ふたりプラス子供ちゃんたちと
ランチ会。
比較的最近も会えている彼女たちとは、
ひとしきり近況話などで盛り上がる。

そして、夜は、
小学校の恩師とのご飯。
会うのは四年振りくらい?
しかし、ご飯食べてゆっくり話せるなんて、社会人になってお初である。
楽しみである。
小学校の先生と会うほどつながっているのは珍しいとランチをした友人たちには言われたが、
小6の担任だった坂江先生とは、
年賀状のやりとりだけでなく、メールなどでもちょこちょこ連絡をとっていた。
わたしたちのクラスが、先生が初めて担任した6年生だったとかで、
先生も忘れられない生徒たちと言ってくれる。
その頃二十代だった初々しい先生を、クラスの女子たちは、なかば友人か姉のように慕い、
休日にも会ったりしゃべったり、
悩み相談をしたりアホ話をしたり...。
あれから25年...(こ、こわっ。)

待ち合わせ場所に向かう。
雨はいつのまにか止んでいて、
思い出を燻し出してくれそうな、優しく甘い湿度に変わっていた。
駅までの道を歩いていると、母校の中学の制服を着た女子たちとすれ違う。
懐かしい...ドキドキする。

通学でいつも使っていた電車に乗り込む。
表が小豆色、中が抹茶色のこの電車は、
宇治金時好きにはたまらなくて、
乗っているとホッとする。
電車の何両目で!などと友人と待ち合わせ、
斉藤由貴歌ったり、とんねるずのマネしたりしながら登校したころが思い出される。
胸がキュンとする。

待ち合わせの駅で先生と落ち合う。
会った瞬間から会話は止まることなく、
25年どころか、25分しか時間は経っていなかったのでは、と思うほど、
ブランクを感じさせない。
近況、思い出話、教育の話、女の生き方の話と、ディープに展開する辺りだけが、
「大人・対・小6」ではなくなった証拠だ。
新たな親友を見つけたかのような勢いで、互いに言葉が溢れる。

当時の同級生の話題から、クラス会をしたいという話になり、
食事が終わる頃、ダメもとでひとりにメッセージを送ってみる。
すると、なんとタイミング良く連絡がつき、
喫茶店で、三人で即席プチ・クラス会をすることに!
これには大興奮。
彼女とは、15年以上振り?
しかし、まったく、ハイ、まったく変わっていなかった(笑)
たまたま四月から彼女も新しい仕事にチャレンジしていたりして、
またここでも話は尽きることはない。
三人の親友はコーヒー一杯で、深い時間まで語り合ったのだった。

しかし、おもしろいのが、
15年前よりよっぽど話しやすい気がしたこと。
中途半端に若いころよりなんだか互いに肝も座ってきてるし、
人生もアップダウン、酸いも甘いもいろいろ乗り越えてきてるし、
変に気も使わず、がつっと話せる感じなのだ。
わたしも渋さが増したのかもっ、うひゃ。
大人になるって、
歳を重ねるって、
変わることって、
こういうところがいい。
そんなことを痛感したひとときだった。


そうそう。
先生が、わたしが小6卒業のとき書いた先生へのお別れカードを持ってきてくれた。
うむ...。
これを見ると、やっぱりあの頃からあまり変わってないかも(笑)
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「おはにょー」「おはにょー」

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「さとねえ、なめなめプリーズ?」「しょうがないにゃ〜」

[画像:R0021286]

「ありがとう〜、さとねえ」

朝から仲良しなふたりを見ていると、
ほのぼの気分になる。
ネコたちのペースに乗る。

きょうの人間のほうの達成は、
母が作ってくれると大好きですぐに鍋いっぱい分食べられていた
ひじきの煮物を作ってみて、
けっこう美味しく出来たこと。
[画像:R0021292]

一日ずつ、ひとつずつ、
味わいつつ。

[画像:R0021288]
「うにゃ」

ライブ、無事終了。
本日、ホッとして、脱力していた。

きのう日曜の昼、バンドメンバーが初めて揃って
スタジオで音出し練習。
1回しか練習で合わせられないなんて、
わたしには難儀な技だ〜。
しかし、
ドラマーのOさんはその日のためにわざわざ札幌から来ていたので、
仕方ない。練習できるだけ贅沢なのだ。
しかも、実はわたし、それまでの体育会系個人練習の度が過ぎ、
喉の調子がいまいち。
アホか、練習しすぎて筋肉痛みたいな、中学部活の地区大会当日のような失敗やんか
と、心の中で大きく自分に突っ込む。

いらっしゃる予定のお客さんは顔見知りばかりだから、
余計にプレッシャーだった。
みんながシラケたらどうしよう、
「なんでオマエの歌聴かなあかんねーん」みたいな空気やったらどうしよう、
と、考えると後ろ向きになるから考えないように。
やるっきゃない。

開始時間が近づくにつれ、
どんどんやるっきゃない気運は高まり、
徐々に「なるようになる」、そして最後は「まぁいっか!」と
腹くくりモードに突入。

そして、定刻。
お客さんがどんどん会場に入ってくる。
親しい笑顔ばかりで、なんだかうれしくなってくる。
あったかい顔、会いたかった顔。
フシギ。
あぁ、これが、人の力か。

なんて思ううち、演奏タイム。

始まってみると、
予想以上の盛り上がり!

[画像:R0021187]

[画像:R0021155]


なんて温かな客席だろう。
体を揺らして聴いてくれたり、
頭上で手を叩いてくれたり、
ひゅーひゅーって途中で言ってくれたり・・・。
こちらが盛り上げたというより、
お客様側に盛り上げていただいたというような。
もちろん、楽器演奏がみんな上手くてノリノリで、
お客さんを乗せられるとびっきりの個性的メンバーであったことも大きい。

いろいろ思うと、すべてがありがたい、この瞬間・・・。
すると、出来不出来を気にして不安になることより、
「精一杯やろう」とか、
「この曲を選んだキモチを伝えよう」とか、
「この歌詞の内容を伝えよう」とか、
なんだかそういう方向に自然と意識がシフトしていった。

[画像:R0021145]
なりふり構わず、ゆけ〜〜〜。

やっぱり音楽はいい。
言葉や理屈を一瞬にして超えられる。
会場がいったいとなった、ぽかぽか栄養満点の一夜に、ただただ感謝であった。
演奏が終わったあと、感想を伝えてくれた人が数人。
しろまるしろまるの曲で、気持ちが伝わってきて、自然と涙が出た」
とか
「歌っているときに"気"が出ていて、それを浴びていると元気になった」
とか
「個性的な歌で、誰の真似でもない自分の世界持っていて、それがおもしろかった」
とか。
へええ、そんな風に聴いてくださっていたんだ・・・意外な感想に、うれしくなる。

歌うのは大好きで、バンド活動は高校生のころからやってきたが、
最近はちょっと遠のいていた。
もちろん仕事が忙しくて仲間と都合が合わないこともあったが、
大人になり、だんだん音楽の耳が肥えてくるにつれ、
"うまくないから恥ずかしい"という自己評価が勝っていたのだ。
自分を、見限ってしまっていたのかもしれない。

でも、聴いている人に、
歌の技巧でなく「気持ち」や「表現まるごと」を届けるという次元に、
そんな「評価」を超えた世界があるのかもしれないと、
昨夜のライブで初めて感じた。
高校時代からバンド活動をしてきて、初めての体験だから、
これは重大な感覚の発見かもしれない。
伝えるということ。
おぉ、基本に戻る、だす。

片付けを終えて帰り際、お店の方に、
「きょうのバンドはなかなかやるねぇ!あとは、歌いつづけることが大事だよ」
と声をかけていただいた。
継続はチカラなり、か。
そうね、自分を見限ったり、なにかあきらめ切ったり、
割り切ったり、わかり切ったりするのは、
どんな歳になっても、もったいないことなのかもしれない。
続けた先にどんな初体験や発見が待っているかは、誰にもわからないのだから。

[画像:R0021151]

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