<サハリン日本人会(北海道人会)>の白畑正義会長への「日本国叙勲伝達式」(2018年06月20日)

サハリンでは<サハリン日本人会(北海道人会)>という団体が活動しています。第2次大戦以降にサハリンに残留した日本人に関する福祉活動、戦没者等の慰霊碑や墓碑の保全等の慰霊活動を行う団体です。

この<サハリン日本人会(北海道人会)>は、日本側パートナーということになる<NPO日本サハリン協会>と協力し、第2次大戦後にサハリン等に残留することとなった各地の皆さんの一時帰国や永住帰国等の取組をしており、他方で各地の慰霊碑等を保全する活動や、日本人来訪者の墓地訪問の御案内等の活動も続けています。

2018年4月29日に発表された「春の叙勲」で、<サハリン日本人会(北海道人会)>による福祉活動、慰霊活動への永年に亘る功績に対し、同会の白畑正義会長が<旭日双光章>を受章することとなりました。

その「伝達式」が、在ユジノサハリンスク日本国総領事館によって催され、平野総領事から<旭日双光章>が白畑会長へ伝達されました。稚内市サハリン事務所でも御招きを頂いたことから、伝達式に足を運んだところです。

「伝達式」には、90名前後の人達が参集し、地元報道機関の取材陣も集まり、何台ものテレビカメラが撮影しているような中で盛大に、同時に厳かに催されました。

↓白畑会長に<旭日双光章>と証書が贈られている場面です。
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↑筆者は、この種のモノが展示されているのを視た記憶は在りますが、実際に受章した方に伝達が行われている場面は初めて視ました。独特な厳かな雰囲気が漂います。

↓日ロ双方の大勢の参集者の前で、白幡会長が挨拶に立ちました。
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白畑会長は2009年に<サハリン日本人会(北海道人会)>の会長に就任されました。様々な事情で第2次大戦後にサハリン等に残留することとなった皆さんのことに関して、白畑会長御自身は「離散した家族や一族の問題」と表現されていましたが、戦後70年以上を経ても問題は残っているのです。白幡会長の就任以降だけでも、のべで746名が一時帰国をし、61名が永住帰国をしているそうです。

<サハリン日本人会(北海道人会)>では、サハリン州の色々な街に在る日本人に纏わる記念碑、慰霊碑に関して、それらの保全に努めると同時に、日本からの来訪者を御案内するような支援活動も同時に継続しています。

白畑会長は、そうした活動を評価して叙勲という栄誉に浴したことに感謝の意を、そして多くの関係者への御礼を申し上げたいとし、今後も日ロ両国の交流に資する活動を継続したいとされていました。

「伝達式」の席上、来賓や関係者の方達のスピーチが在りました。

ロシア側の来賓の方は「サハリンに、歴代の北海道知事を含むような"北海道代表団"がやって来るような場面では、何時もその傍らに白畑さんの姿が在ったということが思い出される」として、地域間交流を傍らで支えようとし続けて来た白畑会長御自身や<サハリン日本人会(北海道人会)>の真摯な姿勢を話題にし、「"友好交流への寄与で叙勲"という側面も在り、ロシア側としても今般の叙勲を大変な慶事として御祝い申し上げたい」とされていました。

日本側関係者の一方は、<サハリン日本人会(北海道人会)>が1990年に結成されて以来、28年間に亘る活動を続けていることに触れながら「白畑会長や現会員の皆さんに留まらず、多くの人達が活動に関わって来た経過が在る訳だが、そうした全ての人々に対する感謝を形にしようという国の意図が、今般の叙勲なのだと思う」とされ、「国が評価する立派な活動を続けていることを誇りに、活動を次の世代へ受け継がれることを、そして私達と手を携え合った取組を永く続けられることを希望する」とされていました。

<サハリン日本人会(北海道人会)>の皆さんによる一時帰国に関しては、稚内市でも「親族が待つ国への出入口」として永く関わって来た経過が在り、皆さんとは「何時も気持ちは隣り合った場所に在る。実際に物理的な距離も近い」という間柄です。そういう意味も在って、今般の白畑会長の叙勲については、心よりお祝い申し上げます。

ТОКИКО КАТО=加藤登紀子さんがサハリンへ(2018年06月19日)

↓見覚えが在る、日本の有名アーティストの写真が入った、大きなバナーが登場しているのを視掛けました。
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↑来る6月21日に催される加藤登紀子公演を伝えるものです。

様々な団体の協力の下、加藤登紀子公演がユジノサハリンスクで催される運びとなりました。

御本人を含む一行は、6月19日にサハリン入りし、公演等を行った後にウラジオストクへ移動し、6月24日にはウラジオストク公演―ウラジオストクでもポスターが掲出されていると聞きます。―も催して帰国するそうです。

↓ユジノサハリンスクの劇場である<チェーホフセンター>の、最大級の広告バナーのスペースに、大きなモノが設えられてかなり目立ちます。
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加藤登紀子さんと言えば、ロシアのヒットソング『百万本のバラ』の日本語カバーでよく知られていますが、公演チケットの売行きは好調であるとの噂です。

新しい噴水:映画館<オクチャブリ>前(2018年06月16日)

コムニスチ―チェスキー通のレーニン広場に近い側から東寄りへ少し進むと、映画館の<オクチャブリ>が在ります。

<オクチャブリ>の前が広場のようになっていて、何となく通り抜けも出来て、1本南側のカール・マルクス通の方へ行くことが出来ます。

↓<オクチャブリ>の前を通り抜けようとして、足を停めました。
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↑暫らく工事をやっていて、「あれは?何??」という奇妙なモノが見えていたのですが、何やら「現代アート?」という感の噴水が登場していました。

この新しい噴水は6月に入ってから、何時の間にか水が出るようになっていました。何か「オープニングセレモニー」的な催しが在ったとは聞きません。

ユジノサハリンスクでは、以前から順次こうした少し大きな施設の前辺りの広場、または都市緑地のような場所の整備が進んでいるように見受けられます。この<オクチャブリ>の前の広場に見受けられる例のように、この種の場所の整備に際して「噴水の設置」というのが、存外に人気であるようです。

ユジノサハリンスクも「積雪寒冷地」ですから、こういう噴水も「雪が積もり始めるような時季」、またはその少し前には水が停められます。そして雪や氷に閉ざされる冬季を経て、春にはまた水が出るようになります。

↓それにしても、水の噴き出し方がダイナミックな感じです。
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↑映画館の建物を背景にする側ではなく、通を背景にする側から眺めてみました。

映画館の前の噴水ですから「あの噴水の所で...」と映画を観る前の"待ち合わせ場所"のようになって行くのでしょうか?そんなことを想いながら噴水を眺め、カール・マルクス通の方へ通り抜けたのでした。

"ソフトボール":<サハリン野球連盟>の活動(2018年06月17日)

↓緑の芝生の上で熱戦が展開中です。
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↑場所はサッカーの試合が行われるような場所で、コーナーにホームベースを据え、2本のラインを各々1塁、3塁への線に見立ててソフトボールの試合会場として利用しています。

サハリンには野球競技の愛好者団体、競技団体ということになる<サハリン野球連盟>が在ります。

樺太時代には、戦前の"中等学校野球大会"の例のように、樺太でも学生スポーツの野球が盛んであった経過が在ります。が、ソ連化以降は野球は殆ど行われず、また余り知られていない競技でした。1990年代になり、野球がサハリンに入って来て、愛好者が少し増えた経過が在るそうです。そういう意味で「概ね四半世紀の"サハリンの野球"の歴史」というように聞きます。

一頃は、現在は商業施設等が建っているような場所が空き地であったことから、そこに野球のグランドを設えて盛んに練習や試合を催していたそうです。ユジノサハリンスク、コルサコフ、アニワと3地区にチームが登場し、互いに競い合った他、<サハリンチーム>を編成して極東大会、ロシア大会と他地域のチームと競う大会にも出場していました。

現在でもロシア国内の各種大会に<サハリンチーム>は出場し、上位入賞、優勝を目指して健闘していますが、競技環境は好いものでもありません。競技愛好者人口が伸び悩み、アニワやコルサコフに在ったチームは活動を止めてしまった状況で、試合形式のことが簡単に出来ない状況です。

そうした中、サハリンに駐在している日本の企業や団体の関係者による<日本人会>の有志によるチームとの間で、ソフトボールの試合を行うという交流が起こりました。

<サハリン野球連盟>では、「試合形式」で動くことが出来る<日本人会>チームとのソフトボールの試合に張り切って望んでおり、溌剌とプレーしていました。それだけではなく、同時に「物凄くマイナーな競技」である野球を普及したり、<サハリン野球連盟>の活動に関心を寄せる人達を増やして行く機会として、ソフトボールの試合が催されている場を最大限に活かそうと一生懸命でした。

↓試合中、グランドの脇でマイクを手に1人立っています。
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↑これは試合を何となく視ている皆さんに向けて、「ルールの解説」をしている様子です。

「只今、青いユニフォームの<サハリンチーム>の各選手がフィールドの各々の位置に着きました。これを"守備"と言います。対する<日本人会>は"攻撃"です」というところから始まります。

打者が三振すれば「決まったゾーンにボールが入って打者が見送ってしまう、または打てずにバットを振ると"ストライク"で、"ストライク"が3つで"アウト"です」と話します。打ち上げられた打球を野手が巧く捕れば「ボールが地面に落ちる前に捕球した場合は"アウト"です」と話します。3つ目のアウトの後、「"アウト"が3つで攻守交代です」と話します。

結局、サハリンで"野球"または"ソフトボール"は「全くと言って差し支えない程度に知られていない」という面が否定出来ないのです。

休日の<ガガーリン公園>を会場としていたので、親子連れ等が数十名観戦していました。中には野球やソフトボールのルールを知っていて、観戦を楽しんでいた方も見受けられました。また「皆様!こちらのボールが飛んで危ない辺りで、ピンクのコートに白い帽子の小さな女の子が泣いています。どちらのお子さんでしょうか?!」とマイクで呼んで、小さな子のお姉ちゃんが走って来て連れて行き、一旦休止したプレーが再開というような、如何にも休日の公園という場面も在りました。

↓試合開始前には、地元テレビメディアが取材に入っていました。
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↑サハリンのメディアでは、マイナーなスポーツに取組み、<日本人会>チームと定期的に試合を楽しんでいる<サハリン野球連盟>の活動に好意的な面が見受けられ、取材チームを何度も送り込んでいます。

インタビューの中では、この交流試合は何度も開催していること、野球とソフトボールとのこと等を話していました。

肝心の試合ですが、1試合が最初から最後まで行われ、2試合目も始めましたが、会場を借りている時間が切れて中途半端に終わりました。

第1試合は、先攻の<日本人会>が均衡を破って得点を挙げた後、<サハリンチーム>が追い付き、直ぐに<日本人会>が加点して逃げ切り、8対6で<日本人会>が勝ちました。第2試合は、<サハリンチーム>が「打者2順の連打」という猛攻で試合を決定付けてしまいましたが、時間切れで4回で終えてしまいました。

使用し易いグランドが在るでもなく、試合形式の練習がし易いでもない中ですが、<サハリン野球連盟>の皆さんは国内大会の上位進出を目指して一生懸命です。また競技の普及を図り、永く野球が続けられることを期して、近年は「少年チームを育てる」ということにも心を砕いていると聞きます。

少々寒い中ではありましたが、「熱い人達」で出逢えた感じでした。

鮮やかな季節へ...:花壇に花を植栽中...(2018年06月16日)

ユジノサハリンスク都心部で少し驚く場合が在るのは「歩道が広い」ということです。「多分、乗用車が擦れ違うことも出来る?」というように感じられる、稚内市内の幅が狭いような車道と然程変わらないと感じられる歩道が存外に見受けられます。

↓街を南北に貫く、長いレーニン通の一部に、そういう「広い!」感じの歩道が設えられている箇所が在ります。
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↑歩道の真ん中が、なかなかに幅の広い花壇になっています。

この花壇は、冬季には雪の下で、雪が完全に消えて暫くは土が剥き出しなままになっていましたが、花の植栽が始まりました。

この日はたくさんの作業員が出ていて、トラックで運んで来た花を下ろして、順次花壇に植栽していました。これから花が育って、見栄えが好くなって行く訳です。手前は既に植栽を終えていますが、奥は未だ作業が続いていました。

ユジノサハリンスク市内の方々に、こういうように毎年植栽を行うタイプの花壇が設えられていて、最近は時々その植栽を行っている様子を眼にします。

所謂"リラ冷え"というような、気温が落ちた状況で、それがなかなか上昇しない感ではありますが、街は少しずつ「鮮やかな季節」へ進んでいます。

「リラ冷え」の中...(2018年06月15日)

最近のユジノサハリンスクでは、光の感じから「夕刻」と表現したくなる雰囲気の中、時計を視ると「稚内に在っては夕食を頂いた後か、場合によってグラスが既に空いているような...」という時間帯に至っている場合が多く在ります。

↓午後7時前の様子です。
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↑西日にライラックの花の淡い色が透けます。花の背後に在る背が高い木は、やや冷たく少し強い風に枝や葉を大きく揺らしている状況でした。

札幌辺りで始まった言い方であると聞きますが、ライラックの花が咲いているような時季、上昇していた気温が不意に落ちてしまうという状況が在って、それをライラックの別名に因んで「リラ冷え」と呼ぶようです。

ユジノサハリンスクは方々でライラックが美しく咲いている様子が見受けられますが、6月前半の「20°C超」が「10°C程度」に落ちてしまい、なかなか気温が上昇しません。正しく「リラ冷え」です。

そういう中ですが、晴れ間の中で視るライラックはなかなかに美しく、少し足を停めて見入ってしまいます。

空の蒼が覗いた朝...(2018年06月15日)

ユジノサハリンスクでは、<ロシアの日>の連休前辺りから曇りがちで時々雨が交じるという「少し薄暗い?」ような感じが続き、気温も落ちていて、時々冷たくやや強い風が吹き抜けます。月の上旬に温かくなった折に、脇に除けていた上着や、少し温かいアンダーウェアをまた引っ張り出しています。

そういう状況ですが、前日の夜―陽が沈みそうになって「夕方」という趣きになるのが、午後9時前から午後9時半頃で「夜」と表現したくなります。―に至り、冷たくやや強い風が吹いていたものの、雲の間に空が覗いて夕焼けが暫らく振りに視られました。

↓暫らく振りに夕焼けを視た感な後、迎えた朝のレーニン広場です。
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↑少し雲が多い感にも視えますが、「空の蒼」が覗いています。複雑に幾重もの雲が組み合わさったような空が覗く日が続いていたので、こういう雰囲気が酷く新鮮です。

既に濃くなっている木々の緑が鮮やかではありますが、画で視ても「寒々しいような空気感」は伝わるような気がします。気温は5°Cを挟むような状況でした。

朝の街を行く人達を視れば、「ライトダウン」のような上着を着ている人達に存外多く擦違います。

或る方は「多少暑いような感じになった時、少しだけ涼しくなると有難いと思ったのは間違いない。と言って、こんなに"寒い"のはどういうことだろう?天気が"悪ふざけ"でもしているようにしか思えない...」と言っていました。同感です。

<旭川広場>(2018年06月14日)

6月に入ってから、ユジノサハリンスクでも「プラス20°C超」の気温が見受けられ、戸外が気持ちの好い状況も在りました。冬季には「氷点下20°C」も頻発していたので、「プラスとマイナスとが逆転」と変な感慨のようなものさえ湧き起こりました。

ところが<ロシアの日>の祝日辺りから気温が落ち、曇りがちで雨が交じる天候が少し続き、時々吹き抜ける風も冷たいので、何となく「肌寒い?」という感になっています。

↓近所の<旭川広場>です。チェーホフ通辺りからアムールスカヤ通辺りへ動く時、「斜めに横切る近道」のようになるので、よくここを通り抜けて広場の緑に親しみ、寛いでいる人達や遊んでいる子ども達の様子を視ています。朝早くは、愛犬の散歩をしている人達や、筆者同様に通り抜けようとしている人達が散見する程度で静かなことが多い場所です。
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↑木々の緑も濃く、少し目立つ大き目な気は「堂々たる」という感になっています。そして背が低い後方の木には花が咲いている様子も視えます。

こんなに緑が鮮やかな場所では在りますが、「概ね1ヶ月前」まで、木は昨年の晩秋から初冬に葉を落としてしまった状態から然程変わっていないように視えました。

↓今朝視た木と同じ木を、5月15日に視た時の様子です。
>><旭川広場>(2018年05月15日)

5月半ばで未だ葉が視えないという木を視て、「広場の緑は何時になったら還って来る?」というようにも感じました。5月後半から6月前半で、緑はドンドン濃くなった訳です。

↓こういうように葉が多くなった状態は夏季と余り変わらないように視えますが、背景の空が「やや寒々しい?」ように思えます。
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最近は戸外に出て、擦違う人達の服装を視ると「秋が少しずつ深まろうかとしているような時季」を思わせるような、多少温かい上着を着ている方が目立つ感です。「秋?」という服装の人達が目立つ他方、人々が行き交う街では既に緑が濃く、花も鮮やかですから、何処となく不思議な雰囲気です。

↓<旭川広場>で今朝視た木ですが、秋には綺麗に色付きます。
>>黄葉した木(2017年10月10日)

季節は「行ったり、戻ったり」という具合に移ろうのが、或いは「寧ろ普通」なのかもしれません。気温や天候はそういう具合ですが、緑の方は濃くなったモノが不意に逆戻りということはありません。とりあえず「鮮やかな季節」という感じにはなっているユジノサハリンスクです。

<PRO100БУРГЕР>は何と読む??(2018年06月12日)

6月のユジノサハリンスクは、「プラス20°C超」という状態が続いた後、「プラス10°C程度」に気温が下がり、<ロシアの日>の連休は少々肌寒い感でした。

そういう中、5月末に近所でオープンしたハンバーガーを主体にする店に立寄ってみました。

写真が入ったメニューを視ながらカウンターで注文して支払いを済ませると、レシートに受付番号が書き込まれ、料理が出来ると番号を呼ばれるのでカウンターで受取り、席で頂くか持ち帰るという仕組みになっている店です。

オープンして日が浅いので、昼食時間帯等は酷く混み合っている感ですが、大概は「適度に賑わっている」というような感です。

そんな店に寄り、メニューの中に<PRO100БУРГЕР>という295ルーブルのモノを見付けました。

ロシア語でハンバーガーは「БУРГЕР」(ブルゲル)です。「バーガー」(burger)をロシア語のアルファベットで書いて、そのまま読んでいる訳です。

「БУРГЕР」(ブルゲル)は判りますが、「PRO100」は「?」という感じです。

「PRO」はロシア語であれば「ПРО」(プロ)です。「100」は「сто」(スト)です。とすれば、「PRO100」は「普通な」とか「単純な」というような意味になる「ПРОСТО」(プロスタ)のことかもしれないと考えました。

で、カウンターの店員さんに「プロスタブルゲル」と頼んでみれば、店員さんは大きく頷き、無事に頼むことが出来ました。

↓出て来たモノはこういう具合でした。
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↑本当に「普通なハンバーガー」という具合です。脇に小ぶりなピクルスが添えられているのが、「何となくロシアの好み?」というように思えました。

ロシア語の世界では、この種の「言葉遊び」は存外に見受けられます。<PRO100БУРГЕР>というメニューの文字を初めて視た時は驚きましたが、「プロスタブルゲル」と確り覚えました。美味しいビーフのハンバーグに野菜とチーズというオーソドックスな感じが非常に好いので気に入りました。

因みに、ハンバーガーに入っているハンバーグですが、ロシア語では「котлета」(カトリェタ)と呼ぶ場合が多いようです。

この<PRO100БУРГЕР>(プロスタブルゲル)の店で別なメニューを御願いしようとした時、「これはどういうモノ?」と尋ねると、店員さんが「котлета」(カトリェタ)という語を使いました。日本国内のファストフード店で、トンカツやチキンカツをパンに挟んだモノが在るので、「котлета」(カトリェタ)と聞いて「そういう類?」と一瞬思いました。が、以前に「宗谷黒牛の肉でハンバーグ」という話しになった場面で、サハリンの方がハンバーグのことを「котлета」(カトリェタ)と呼んでいたことを直ぐに思い出した訳です。

モノ自体の呼び名、中に入っているモノの呼び名は「所変われば...」ですが、美味しいハンバーガーは何処でもなかなかに人気です。

「釣銭」の中に「新しい紙幣」(2018年06月08日)

ロシアでは昨年10月から新紙幣が流通しています。

ユジノサハリンスクでは12月辺りから出回って、視掛ける機会が生じるようになりました。

↓新しいモノなので、とりあえず写真に収めて、このブログでも御紹介した経過が在ります。
>>ロシアの新紙幣―200ルーブルと2000ルーブル(2017年12月22日)

日本での新紙幣発行の様子を思い出すと、例えば「千円紙幣」であれば「伊藤博文の肖像画入り→夏目漱石の肖像画入り→野口英世の肖像画入り」と変遷している訳ですが、何れも「従前のモノを替える」ということになっていて、「少し前まで千円の札は?」という具合に、何時の間にか「新しい方の紙幣」ばかりを視掛けるようになっていました。

こういう例に対して、「二千円紙幣」のように「全く新しく登場」という例も在りましたが、こういう場合は「時々視掛けるようになった」という按配で、従前からの別な額面の紙幣が従前と同様に並行して使用され続けます。

ロシアでの「200ルーブル紙幣」や「2000ルーブル紙幣」は、日本の「二千円紙幣」のように「全く新しく登場」という感の存在です。従前からの紙幣はそのまま普通に使用され続けています。そういう訳で、存外に手にする機会が少ない感です。

↓先日、支払に「5000ルーブル紙幣」を使ったのですが、釣銭に「2000ルーブル紙幣」が入りました。「多分初めて...」と少々驚き、偶々「200ルーブル紙幣」まで在ったので、思わず財布の中身を引っ張り出して写真に収めてしまいました。
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↑「2000ルーブル紙幣」と「200ルーブル紙幣」の背後に在るのは、従前から在る「1000ルーブル紙幣」、「500ルーブル紙幣」、「100ルーブル紙幣」と硬貨です。

ロシアの紙幣には国内の様々な地域をテーマにした画が入っています。青い「2000ルーブル紙幣」は極東をテーマにしていて、ウラジオストクで見受けられる巨大な橋梁の画が入っています。

聞けば、ウラジオストクの名所となっている「橋梁が視える高台」に行くと、他地域から訪れた人等が「2000ルーブル紙幣」を取り出して、「橋梁の画が視えるように紙幣を持つ自身の背後に橋梁」という記念写真を撮っているような様子が見受けられるようです。

支払に「5000ルーブル紙幣」を使って、釣銭に「2000ルーブル紙幣」が入るという状況が「多分、初めて?」発生したのでしたが、ユジノサハリンスクの店で「5000ルーブル紙幣」を使おうとすると「もう少し細かいのが...」と言われてしまう場面が存外に多いと見受けられます。そういうことなので、「5000ルーブル紙幣」は「何となく財布に残ってしまい、"この店は大丈夫?"と遠慮しながら支払に使う」という感じになってしまいます。

日本国内でも「一万円紙幣」に関して、支払に用いようとすれば一部に「もう少し細かいのが...」という場合は在るかもしれません。が、ユジノサハリンスクでの「5000ルーブル紙幣」は、その発生頻度がより高いような気がします。

「2000ルーブル紙幣」を眼にする機会や手にする機会はやや少ない感ですが、「200ルーブル紙幣」の方は、雪が少なくなった4月以降に手にする機会が少し増えて来たように思えます。「1000ルーブル紙幣」や「500ルーブル紙幣」を支払いに用いた時の釣銭に、存外に高い確立で「やや見慣れない濃い緑の紙幣」が交ざります。

「200ルーブル紙幣」と言えば、現在となっては"蒐集用"(コレクターズアイテム)になってしまっていますが、通貨のデノミネーションが行われるずっと以前、<ロシア連邦>という国名を名乗って日が浅かった1990年代前半にも「200ルーブル紙幣」というモノが在りました。あの時代は「とんでもないインフレ」で、それを1枚持っていても、然程の使い道は在りませんでした。現在の「200ルーブル紙幣」であれば、店にもよりますが、カフェでコーヒーが頂けますし、買い求めることが出来る食べ物や飲物も色々と在ります。

日本では、モノの値段が余り変わらない状態が永く続いているような感で在るのに対し、ロシアでは「少しずつモノが値上がり」という状態が見受けられます。が、過去の「烈し過ぎる」ような状態を思えば「普通?」という感じで、手近な場所では余り「モノの値上がり?」を強く意識しない感でもあります。
2018年05月 2018年07月