<ルースキー・テーレム>の皆さんは元気に活動中です。(2017年10月15日)

10月13日から10月15日の<ユジノサハリンスク道北物産展 2017>が無事に終了した後、ユジノサハリンスク市の御招きで「ユジノサハリンスク・旭川 友好都市50年を記念する夕べ」に参加しました。

ユジノサハリンスク市では、旭川市をメインの事務局に道北9市で催している<ユジノサハリンスク道北物産展 2017>について、「ユジノサハリンスク・旭川 友好都市50年記念催事」の一環と位置付けていました。そうしたことで、旭川市代表団や文化交流・スポーツ交流の関係者と合わせて、<物産展>の関係者、更に日頃からユジノサハリンスク市との御縁が深い各種団体の関係者がこの夕べに招かれました。稚内市サハリン事務所としては、「御縁が深い各種団体」という枠であると同時に、<物産展>関係ということにもなった訳です。

↓会場で嬉しい再会が在りました。
テーレム 15-10-2017 (1).JPG
↑稚内で毎年のように公演を続けていて、「ローカルアイドル」の趣さえ在る<ルースキー・テーレム>の皆さんが、この夕べに登場しました。

<ルースキー・テーレム>はユジノサハリンスク市の文化団体ですから、市の催事に登場して、華麗な歌や演奏を披露する場面が時々在ります。今回もそうした例の一つです。

稚内での公演でも聴く『恋のバカンス』や『カチューシャ』等、お馴染みの曲の"テーレムバージョン"を少し懐かしく、嬉しく聴いたのでした。

↓女性ヴォーカリスト達の歌声にバヤンの演奏とお馴染みの音が嬉しかったのですが、最近"エレキバラライカ"というような感じの、独特な楽器を演奏するメンバーが加わったようです。
テーレム 15-10-2017 (2).JPG

御縁の在る皆さんと出会うというのは、非常に嬉しいものです。

嘗ての「豊原市役所」の建物(2017年10月11日)

↓コムニスチ―チェスキー通に在る、少し古く視える建物で、色々な会社のオフィスが入居しているようです。
旧豊原市役所庁舎 11-10-2017.JPG
↑長く白と淡いピンクの塗装で、経年変化で塗装も傷んで見栄えが悪かったのですが、茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見になりました。

この建物は「豊原市役所」であったそうです。

日露戦争の末期、1905年に日本軍が樺太を占領し、ポーツマス条約による戦後処理で南樺太が日本領になった後、1908年にロシア語名のウラジミロフカを「豊原」と改称し、都市建設が始まって「樺太庁」を大泊から豊原に移しました。

豊原は樺太の行政の中心であったことから、経済や文化の面でも樺太をリードする地域となって発展を続け、1937(昭和12)年に市制を施行して「豊原市」となりました。樺太で「市」であったのは豊原だけでした。その豊原市の登場以前、国内では旭川市が「最北の市」であったとのことですが、以降は豊原市が「最北の市」ということになりました。因みに稚内市の市制施行は1949(昭和24)年です。

戦後の1946(昭和21)年、南樺太がソ連化されて行く中で豊原は「ユジノサハリンスク」に改称されて現在に至っています。そして日本の側では、戦後の行政機関に関することを規定する「国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)」が1949年に施行され、「樺太庁」や「豊原市」は法的に廃止ということになっています。

この画の古い建物が、日本の法の下で「豊原市役所」であった期間は12年程、実質的には10年足らずであったということになります。

茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見が「往時を偲ばせる」感じになりました。が、嘗ての経過等を伝える展示が為されているのでもなく「普通の、何処かの会社のオフィス等が入居する、実は相当に古いらしい建物」という存在感です。外観を眺めるというだけの場所です。