嘗ての「豊原市役所」の建物(2017年10月11日)
↓コムニスチ―チェスキー通に在る、少し古く視える建物で、色々な会社のオフィスが入居しているようです。
旧豊原市役所庁舎 11-10-2017.JPG
↑長く白と淡いピンクの塗装で、経年変化で塗装も傷んで見栄えが悪かったのですが、茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見になりました。
この建物は「豊原市役所」であったそうです。
日露戦争の末期、1905年に日本軍が樺太を占領し、ポーツマス条約による戦後処理で南樺太が日本領になった後、1908年にロシア語名のウラジミロフカを「豊原」と改称し、都市建設が始まって「樺太庁」を大泊から豊原に移しました。
豊原は樺太の行政の中心であったことから、経済や文化の面でも樺太をリードする地域となって発展を続け、1937(昭和12)年に市制を施行して「豊原市」となりました。樺太で「市」であったのは豊原だけでした。その豊原市の登場以前、国内では旭川市が「最北の市」であったとのことですが、以降は豊原市が「最北の市」ということになりました。因みに稚内市の市制施行は1949(昭和24)年です。
戦後の1946(昭和21)年、南樺太がソ連化されて行く中で豊原は「ユジノサハリンスク」に改称されて現在に至っています。そして日本の側では、戦後の行政機関に関することを規定する「国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)」が1949年に施行され、「樺太庁」や「豊原市」は法的に廃止ということになっています。
この画の古い建物が、日本の法の下で「豊原市役所」であった期間は12年程、実質的には10年足らずであったということになります。
茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見が「往時を偲ばせる」感じになりました。が、嘗ての経過等を伝える展示が為されているのでもなく「普通の、何処かの会社のオフィス等が入居する、実は相当に古いらしい建物」という存在感です。外観を眺めるというだけの場所です。
旧豊原市役所庁舎 11-10-2017.JPG
↑長く白と淡いピンクの塗装で、経年変化で塗装も傷んで見栄えが悪かったのですが、茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見になりました。
この建物は「豊原市役所」であったそうです。
日露戦争の末期、1905年に日本軍が樺太を占領し、ポーツマス条約による戦後処理で南樺太が日本領になった後、1908年にロシア語名のウラジミロフカを「豊原」と改称し、都市建設が始まって「樺太庁」を大泊から豊原に移しました。
豊原は樺太の行政の中心であったことから、経済や文化の面でも樺太をリードする地域となって発展を続け、1937(昭和12)年に市制を施行して「豊原市」となりました。樺太で「市」であったのは豊原だけでした。その豊原市の登場以前、国内では旭川市が「最北の市」であったとのことですが、以降は豊原市が「最北の市」ということになりました。因みに稚内市の市制施行は1949(昭和24)年です。
戦後の1946(昭和21)年、南樺太がソ連化されて行く中で豊原は「ユジノサハリンスク」に改称されて現在に至っています。そして日本の側では、戦後の行政機関に関することを規定する「国家行政組織法(昭和23年7月10日法律第120号)」が1949年に施行され、「樺太庁」や「豊原市」は法的に廃止ということになっています。
この画の古い建物が、日本の法の下で「豊原市役所」であった期間は12年程、実質的には10年足らずであったということになります。
茶系の塗装を施して「建物が出来たような頃はこんな雰囲気だった?」という外見が「往時を偲ばせる」感じになりました。が、嘗ての経過等を伝える展示が為されているのでもなく「普通の、何処かの会社のオフィス等が入居する、実は相当に古いらしい建物」という存在感です。外観を眺めるというだけの場所です。
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