スタロドゥプスコエ(旧 栄浜)で流氷を観る...(2018年02月10日)

詩人・作家の宮澤賢治は、1923年7月31日から8月12日にかけて樺太を訪ねた経過が在ることが知られています。サハリンへの旅に関することでも、時々この「宮澤賢治の足跡」というようなことが話題になります。

岩手県で農学校の教員として勤めていた宮澤賢治は、樺太の王子製紙に勤める先輩を訪ね、卒業生の就職に関する相談をすることを目的としていたということですが、御本人の気持ちの問題としては、前年11月に他界してしまった妹の「魂の行方を追う」というようなものが在ったとも言われます。

宮澤賢治は、樺太旅行の中で幾つかの作品を構想していると言われていますが、『オホーツク挽歌』という詩は、オホーツク海岸の栄浜を散策しながら巡らせた想いが綴られているといいます。

栄浜は、現在はスタロドゥプスコエと呼ばれています。ドリンスク地区の小さな町です。人口は2千人余りとのことです。

この場所が栄浜と呼ばれるようになる以前、1886年に「ドゥプキ」という村が起こります。これは「樫の木」を意味する「ドゥプ」という語から起こったように見受けられる名です。1890年にサハリンを訪れているチェーホフは、現在のドリンスク地区にも足を踏み入れていますが、その記録によるとドゥプキには44名(男性31名 女性13名)の住民が在ったということです。第2次大戦後にソ連化された際、スタロドゥプスコエという名になりました。「スタロ」は「古い」という形容詞から来ている語なので「嘗てドゥプと呼ばれていた」というような含意で、「ドゥプ」の形容詞形の「ドゥプスコエ」を使ったのでしょう。

↓これがその宮澤賢治が足跡を残した栄浜、今日のスタロドゥプスコエの現在の様子です。
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↑手前の畝のようになった部分が、海岸に圧し上げられてしまった流氷の上に雪が積もった箇所と推測出来ます。が、何処からが海面なのか判りません。普通は「水平線」に視えるような辺りまで、悉く氷です。更に「沖の方向」へ歩いている人影が多く視える状態です。

↓概ね「左に海」で「右に浜」という具合になるように様子を視ました。
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↑浜の側には、「台数を推定し悪い」程度の、非常に多くの車輛が駐車しています。

「サハリンの紹介」という中に、「冬季は氷上での釣りが人気」という話題が時々在ります。スタロドゥプスコエは、その「氷上の釣り」を愉しもうという人達が、最も多く集まるような場所でもあります。

浜には多くの車輛が駐車中ですが、ここを訪ねようとするなら、例えばユジノサハリンスクから「路線バスを乗り継いで」訪ねることも可能です。

↓先ず、ユジノサハリンスクから、バスでドリンスクへ出ます。ユジノサハリンスクの鉄道駅の近くに在るバス乗り場です。画に写っているような型の車輛が、路線バスとして存外にポピュラーです。
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↑ドリンスクまで出て、スタロドゥプスコエへ向かうバスに乗ります。ドリンスクへ行くバスは、多目な時間帯で「20分に1本」で、少な目な時間帯でもう少し間隔が開きますが、「何となく乗場に行くと、次のバスが待機中」という確率が高いです。運行系統番号112がユジノサハリンスク・ドリンスク間の路線です。現在の運賃は、片道115ルーブルです。

ドリンスクでは、鉄道駅の辺り、<ユビレイナヤ>というホテルの傍がバスの起点・終点です。

ドリンスクでは、スタロドゥプスコエへ向かうバスを待ちます。その間、<ユビレイナヤ>というホテルで、御手洗を拝借出来ます。有料で30ルーブルではありますが、北海道の方言で言う「あずましい」((注記)居心地が好い)状態で利用可能なので助かります。また、道路を挟んで向かい側に一寸した売店が在って、「多分インスタント?」な50ルーブルの温かいコーヒーも売っていました。

ドリンスク・スタロドゥプスコエ間のバスですが、朝早く6時半、7時半、8時50分と変則的な時間に発車した後には、「10時、11時、12時...」と午後8時まで毎正時に発車しているとのことです。スタロドゥプスコエからドリンスクへ向かうバスは、「10時半、11時半、12時半...」と1時間毎、「30分」に発車しているとのことです。

今般、朝7時10分に出るバスでユジノサハリンスクを発ち、ドリンスクには朝8時15分頃に到着で、朝8時50分にスタロドゥプスコエへ向かうバスに乗車することにしました。

朝8時半過ぎに、バス乗場と聞いているドリンスクの鉄道駅の前で様子を伺いました。確かにバスの出入りが見受けられ、乗場で間違いは無いと思ったのですが、少し気になったのは「存外に人が多い」ということです。その場に居た皆さんは、各々に確りした防寒衣料に身を包み、色々な道具を手にしています。そして、そういうような出で立ちの人達が後からドンドン集まっています。皆さんは「氷上の釣り」に出掛けようとしている訳です。

8時50分の発車の10分位前に、少し大き目なバスが現れ、集まった人達が乗車を始め、筆者もそれに加わりました。乗車の際に運賃の31ルーブルを運転士さんに払います。サハリンの路線バスでは、乗車時に運転士さんまたは車掌さんに運賃を支払う原則になっています。

大き目なバスで座席が全て埋まり、通路に殆ど隙間が無い程度に乗客が詰め込まれました。そこまでに10分近くを要しました。多分40人以上が乗り込んだと見受けられます。その状態でバスは発車し、15分程度走り、終点の1つ手前で多くの乗客が下車するので、筆者もそれに交じって下車しました。

↓スタロドゥプスコエに到着したバスです。運行系統番号116です。
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↑バスの後方の側へ向かうと、海岸への道になります。車の出入りが酷く多く、<ДПС>(デーペーエス)というマークが入った、交通警察の車が辺りを見回っていました。

因みに、スタロドゥプスコエから引揚げる際にもこのバスを利用しました。「氷上の釣り」に出掛ける多数の人達で溢れているという訳でもなかったのですが、11時半のドリンスク行きには幅広い年代の20名前後が乗車していて、ドリンスク到着後にユジノサハリンスク行きに乗り継いでいる方も見受けられました。「1時間に1本の運行」というのが、「何とか利用し易い」範囲の運行体制で、それなりに高い乗車率であるように見受けられました。ドリンスクまでは概ね10km程度ということです。

↓夥しい数の駐車中な車輛に驚きながら海岸、または海の様子を伺いましたが、大勢の人が海に相当する場所を歩いているというのに止まらず、スノーモビールが走り回っている様子まで見受けられました。
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↑スノーモビールは、橇を牽引して、何人かを乗せて"沖"まで送る「氷上タクシー」のようなことをやっていました。その他、スノーモビールを持ち込んで、走行を愉しんでいるという風な人達も居ました。

筆者が幼少の頃に親しんだ特撮ヒーローが、「スキー場で敵と戦う」というエピソードが在って、御馴染のオートバイではなくスノーモビールに乗って登場したというのが在りました。そんな「どうでもいい...」ことを不意に思い出して苦笑いしていましたが、このスタロドゥプスコエでは「視たことがない位に多くのスノーモビール」を視て、非常に驚いていました。

流氷に関しては、以前に紋別を訪ねて眺めた、更に<ガリンコII>で遊覧航海をした想い出が在ります。

紋別で眺めた流氷は、大きさや形が様々な氷が「流れ」ていて、それが或る程度「集まって」いるということで、「海水の上に漂っている」という感が強いものでした。

それに対して、このスタロドゥプスコエでは氷が「非常に高い密度に集まって」しまって、浜辺に「圧し付けられる」ようになって一部が隆起しながらも、全般的には「平板な氷原」のように固まってしまっています。最早「漂っている」という状態でもなく、何やら「埋立地」とか「干拓地」のような様相で、そういう状態になった上に積雪も見受けられる感です。

↓強く圧されて隆起した流氷の痕跡が判るのですが、「見渡す限りの荒涼とした氷原」という状態が「水平線」まで続いています。
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↓画の左側のモノは、遠くから視えた時には「何?」と思ったのでしたが、朽ち果てた廃船でした。
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↑他の時季、この廃船は「半ば海水に浸かった」ような状態だと推定出来ますから、画で視えている辺りは「殆どが海水の上」と思われます。

筆者は特段に釣りは嗜まないので、正直なところ「氷上の釣り」には然程関心は在りませんでした。が、この「凍る海」の光景を観るということには興味津々でした。

例えば、春から秋に畑になっているような広い場所が冬季に雪を被ると「一面が真っ白」と驚くような光景になります。が、大概は少し離れた辺りに丘陵や山、建物、森林等が視えます。このスタロドゥプスコエでは、「水平線」に至るまで「遮るようなモノが全く無い」感じで、須らく氷に覆われています。

こういう凄い光景が、「或る程度利用し易い範囲の運行体制」である路線バス利用で眺めに行けるという状態は、非常に好いと思いました。

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