<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>(2017年09月16日)
稚内市サハリン事務所の近くのレーニン通を南下し、東の端に大聖堂等が在るパベーダ通を越えて、少し先に進むとパグラニチナヤ通が在ります。レーニン通と交差する辺りは、少しユニークな建物のカフェも在る緑地になっていて、寛ぐ人達、親子連れや遊んでいる子ども達が見受けられます。
そのパグラニチナヤ通を東側へ少し進むと、少し気になる建物が在ります。
↓こういうような屋根が視える建物です。
インノケンティー (1).jpg
↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が見当たらず、少し寄って「気になる」切っ掛けとなった特徴的な屋根の辺りを撮ってみました。
丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられています。十字架の形状はロシア正教の、上と下に横線が加わった独特な様式のモノです。
↓「恐らく?」と思って入口に寄ってみれば、間違いなくロシア正教の寺院でした。
インノケンティー (2).jpg
↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称です。上の方は、ロシア正教の施設であって、何処の管轄区であるかを示す表現です。ここは<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるようです。
↓寄ってみたのは土曜日の日中で、中に入ることも出来ました。
インノケンティー (3).jpg
↑大きな堂内でもありませんが、確りとイコンの壁が形成され、なかなかに立派な設えです。
↓外から見えるドームの辺りから、中に光が入り込むような具合になっていて、ロシア正教の寺院で多く見受けられる雰囲気が醸し出されています。
インノケンティー (4).jpg
この堂内の隅に、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>のあらましを綴った小さなリーフレットが在りました。それを視ていると関係者の方が通り掛かり、「頂いて構わないか?」と尋ねると「勿論!」ということなので、有難く頂きました。「なるほど...」とリーフレットを視ていると、関係者の方が近付いて来て「こちらも差し上げます」と、この寺院の名の由来となっている「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物を紹介したリーフレットも下さいました。
この寺院の場所は、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとしていた中、当時在った古い建物を使用出来るということになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだということです。これが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となって行きます。
地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられ、建築が許可されました。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至っています。活動を始めた頃の旧い建物は撤去したとのことです。
建物は2012年供用で新しいモノですが、1990年代初めに「ロシア正教の活動」が活性化したような頃からの経過が背景に在ります。筆者のような見知らぬ来訪者でも、ロシア語のリーフレットが読めるのであれば、そういう経過を知ることが出来るように、リーフレットが用意されています。そういう辺りに「生き生きと活動が行われている場」というような雰囲気を感じました。
ここの名の由来である「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)は、今年が生誕220年ということになります。活躍した時代は、日本史で言うと「江戸時代の末頃から明治時代の初めの方」という時代です。
イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となり、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任しています。イルクーツクを発って、任地に到着出来たのは翌年になってからのことだったそうです。
アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成し遂げました。そして彼が活動と並行して綴った様々な記録は、現在では現地の当時の状況を知る貴重な史料にもなっているようです。
1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けています。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになりました。
1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っています。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任されました。
ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物ですが、「アラスカのインノケンティ」としても知られています。
19世紀後半から末の頃、様々な少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたといいますが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る訳です。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思えます。
彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうです。
↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのですが、本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所です。
インノケンティー (5).jpg
大勢で見学に出掛けるような雰囲気でもないようには思えますが、「地域に根差した普通な教会」という雰囲気が判るのは、こういうような場所かもしれません。
そのパグラニチナヤ通を東側へ少し進むと、少し気になる建物が在ります。
↓こういうような屋根が視える建物です。
インノケンティー (1).jpg
↑綺麗な感じで、建物全般の外観を眺めて写真が撮れるような場所が見当たらず、少し寄って「気になる」切っ掛けとなった特徴的な屋根の辺りを撮ってみました。
丸みを帯びたドーム型の屋根が在って、頂上部に十字架が掲げられています。十字架の形状はロシア正教の、上と下に横線が加わった独特な様式のモノです。
↓「恐らく?」と思って入口に寄ってみれば、間違いなくロシア正教の寺院でした。
インノケンティー (2).jpg
↑真中辺りの「Храм」(フラム)以下がここの呼称です。上の方は、ロシア正教の施設であって、何処の管轄区であるかを示す表現です。ここは<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と呼ばれるようです。
↓寄ってみたのは土曜日の日中で、中に入ることも出来ました。
インノケンティー (3).jpg
↑大きな堂内でもありませんが、確りとイコンの壁が形成され、なかなかに立派な設えです。
↓外から見えるドームの辺りから、中に光が入り込むような具合になっていて、ロシア正教の寺院で多く見受けられる雰囲気が醸し出されています。
インノケンティー (4).jpg
この堂内の隅に、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>のあらましを綴った小さなリーフレットが在りました。それを視ていると関係者の方が通り掛かり、「頂いて構わないか?」と尋ねると「勿論!」ということなので、有難く頂きました。「なるほど...」とリーフレットを視ていると、関係者の方が近付いて来て「こちらも差し上げます」と、この寺院の名の由来となっている「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物を紹介したリーフレットも下さいました。
この寺院の場所は、1993年にロシア正教の活動拠点を設けようとしていた中、当時在った古い建物を使用出来るということになり、建物の改修を施して1994年から利用することとなったのだということです。これが<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>となって行きます。
地道に活動を続け、10年が経った2004年頃から「新たな寺院を建設してはどうか?」ということになり、それを支持する2500名以上の市民の署名と共にユジノサハリンスク市に請願が為され、2007年にそれは容れられ、建築が許可されました。やがて現在の建物の設計が準備され、2009年に着工し、2012年9月に現在の建物が竣工して供用されるに至っています。活動を始めた頃の旧い建物は撤去したとのことです。
建物は2012年供用で新しいモノですが、1990年代初めに「ロシア正教の活動」が活性化したような頃からの経過が背景に在ります。筆者のような見知らぬ来訪者でも、ロシア語のリーフレットが読めるのであれば、そういう経過を知ることが出来るように、リーフレットが用意されています。そういう辺りに「生き生きと活動が行われている場」というような雰囲気を感じました。
ここの名の由来である「モスクワ府主教・成聖者インノケンティ」という人物(1797-1879)は、今年が生誕220年ということになります。活躍した時代は、日本史で言うと「江戸時代の末頃から明治時代の初めの方」という時代です。
イルクーツクの神学校に学び、卒業後に同地で司祭となり、1823年にアリューシャン列島のウナラスカに赴任しています。イルクーツクを発って、任地に到着出来たのは翌年になってからのことだったそうです。
アリューシャン列島では現地住民のアレウト語を学び、当時は文字が無かったというアレウト語をアルファベットで表記する方法を工夫し、後にアレウト語で福音書を出版することまで成し遂げました。そして彼が活動と並行して綴った様々な記録は、現在では現地の当時の状況を知る貴重な史料にもなっているようです。
1834年にはアラスカのシトカへ移り、そこでも宣教活動を続けています。やがてサンクトペテルブルグでアレウト語の福音書を出版する仕事に奔走する期間を挟み、アラスカ主教に選任されてアラスカに戻ることになりました。
1850年から1860年にはシベリアからアムール河流域に至るまで、更にカムチャッカに至るまで広範な地域で伝道活動を行っています。1867年には、永い熱心な伝道活動への評価により、ロシア正教会では最高の地位であるモスクワ府主教に選任されました。
ロシアではロシア正教会の最高位であるモスクワ府主教の地位に就いたということで、それを冠されて紹介されることが多い人物ですが、「アラスカのインノケンティ」としても知られています。
19世紀後半から末の頃、様々な少数民族も含めて極東の諸民族にロシア正教の信仰が拡がっていたといいますが、それらはこのインノケンティの伝道活動の成果という側面が在る訳です。サハリンでは「この地域に正教を普及させた偉人」という受け止め方なのだと思えます。
彼を記念し、<モスクワ府主教・成聖者インノケンティ記念寺院>と命名された場所は、ユジノサハリンスクのこの場所の他、クリル諸島のセベロクリリスクにも在るそうです。
↓決して「大きく立派で見応えが在る」という感じではないのですが、本当に「地域に根差した、地元の皆さんが集まる教会」という雰囲気が色濃く滲む場所です。
インノケンティー (5).jpg
大勢で見学に出掛けるような雰囲気でもないようには思えますが、「地域に根差した普通な教会」という雰囲気が判るのは、こういうような場所かもしれません。
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