海上からクリリオン岬を望む―『サハリンの涯へ』ツアー(2017年08月19日)
<На краю Сахалина>(ナ クラユ サハリナ)なるツアーが在ることを知りました。「サハリンの涯(はて)へ」というような名前が冠せられています。
「サハリンの涯」?クリリオン岬です!宗谷岬の対岸、約43km先に在る場所です。稚内から望む「サハリンの島影」というものは、このクリリオン岬の辺りに他なりません。
クリリオン岬の周辺、更にクリリオン岬へ通じるサハリンの南西海岸の辺りに関しては、樺太時代までは村落が点在していた場所ながら、現在では住民も殆ど無く、陸路でクリリオン岬に至るとなれば長い道程の旧道のような所、林間に出来た道のような所を越えて向かうことになり、なかなかに大変で在ると聞きます。「一寸、行ってみたい」という雰囲気ではありません。
他方、海路でクリリオン岬が視える辺りへ進み「"サハリンの涯"!」と眺めて来るというのは、船が用意出来れば容易なのです。そこで登場したツアーだといいます。
ツアーは、朝にユジノサハリンスク駅前から送迎車で出発し、ネベリスク地区のゴルノザヴォツクに在る船着場へ向かい、そこで小さなモーターボートに乗船し、その船でクリリオン岬を海上から眺め、クリリオン岬を眺めた後、クズネツォフ岬辺りのカモイと呼ばれる砂浜に上陸し、少しのんびりと過ごし、やがてボートで再び出発し、ゴルノザヴォツクの船着場に引き返し、また送迎車でユジノサハリンスクへ引揚げるという内容です。朝8時に出発して、午後8時前に帰着というような「丸1日」のツアーで、料金は7500ルーブルです。
↓これがその『サハリンの涯へ』ツアーの船上から望んだクリリオン岬です。近付く前に、「手持ちのスマートフォンが通信を受けると、"国際ローミング"の適用で高額な請求が生じる場合が在るので、機器の調整または電源を切るなどしてください」と船長が案内をしてから接近するような場所です。
『サハリンの涯へ』ツアー (1).jpg
↑画の右奥がアニワ湾、船が停止している辺りがラペルーズ海峡(宗谷海峡)、船がこの位置まで南下して来たサハリンの南西海岸はタタール海峡です。船が停止している辺りは「日本海上のロータリー交差点」のようなポイントということになるでしょうか?
↓望遠で眺めてみると、左側に灯台が在って、国境警備関係の施設らしきモノが散見する状態です。岬に上陸することは叶いません。
『サハリンの涯へ』ツアー (2).jpg
↑それでも「この位の近さ」でクリリオン岬を眺められるのは、少し感動します。
実はこの海域では、条件が好い場合には宗谷辺りの陸地の影や、遠くに聳え立つ利尻富士が視える場合が在ると聞きました。が、この日は水蒸気で煙った様な状態で、そういう遠景は視えませんでした。というよりも、少し沖合に在るモネロン島の影にも期待していましたが、それも残念ながら視えない状態でした。
やがて、ツアーの一行が「うわっ!?」と驚くことになったのですが、文字どおり「瞬時」に白い霧が立ち込め、見る見る間にクリリオン岬を覆ってしまい、「視界が悪くなってしまわない間に引揚げましょう」と船は直ぐに北上しました。
クリリオン岬に視えていた灯台ですが、これは1875年の<樺太・千島交換条約>でロシアがサハリン全土を領有していた時期、霧が発生し易く潮流も複雑なクリリオン岬周辺海域での船舶航行の安全性を向上させようと、アレクサンドロフスク・サハリンスキーに築かれていた灯台―現在、同地には再建されたモノが在るらしいです。―の例に倣って建設を行ったのが起源であるといいます。クリリオン岬に往時の建物は既に無く、現存しているのはその後に建てられたものであるとのことです。
クリリオン岬の俄かな霧には驚きましたが、この日は大変な好天に恵まれました。
↓鏡面のようにもなっていた海が空の色を跳ね返して蒼く輝き、緑に覆われた丘陵状の地形が陽光を受けて独特な存在感を示しています。
『サハリンの涯へ』ツアー (3).jpg
↓霧のクリリオン岬から少し北上すると、霧が気にならなくなって、青空が戻りました。
『サハリンの涯へ』ツアー (4).jpg
↑相当に古い事故船の残骸のようで、以前はもっと「船らしい」細長い形状だったといいますが、状態は「不思議な"現代前衛芸術"の作品?」という様相です。何か「朽ち果てて自然に飲み込まれつつある」という感で「海鳥達の巣」のようになっていました。
↓事故船の残骸の近辺では、アザラシ達が棲んでいる場所も見受けられました。
『サハリンの涯へ』ツアー (5).jpg
↑「どういう訳か、彼らは音楽好きらしい...」と船長が船上でMP3プレーヤーのスピーカーでボリュームを少し上げると、泳いでいた一部のアザラシ達が船の方を向き、「何となくこちらに?」という動きを見せました。乗客達は大笑いでした。
この後、船はクズネツォフ岬の少しだけ南に在る砂浜に向かい、ツアー一行は上陸しました。
↓突き出して視えているのがクズネツォフ岬です。
『サハリンの涯へ』ツアー (6).jpg
↑この場所では、予定の時間を多少オーバーしてのんびりと過ごすことになりました。素晴らしい天候だったのです。
↓ツアーで使ったのは、こういう小型船です。海釣りをするような方には、何となく馴染みが在るでしょうか?日本製の小型ボートで、船長によれば「40ノットは出る」という代物です。鏡面のように輝く海を、多少跳ね上がるような動きも見せ―筆者は「アクション映画のワンシーンのようだ」などと思っていました。―ながら疾駆しました。
『サハリンの涯へ』ツアー (7).jpg
↑これは北海道内の紋別で購ったモノということでしたが、ゴルノザヴォツクの船着場に出入りしていたボートの多くが、こういうような日本の小型ボートでした。この船の外観にはそういうモノは視えませんが、船着場で視掛けた船の中にはハッキリと日本語のカタカナや漢字が船体に書かれているものさえ在りました。
船は「6名で満員」です。後部に4人並んで座り、船長の操縦席が在って、その操縦席の脇に1人座ることが可能です。「あなたはここ...」と割り当てられたのが、その「操縦席の脇」でした。外の写真は撮り悪く、停船時のみに限定されてしまいましたが、居住性は「風防の中」なので悪く在りませんでしたし、何やらの無線の声が聞こえて「国境周辺の海を疾駆!」という臨場感が愉しいと思えました。
「観光ツアー」と聞いた時に何となく思い浮かべるのは、「便利で快適」な状況であり、「"観光地化"した景勝地」という感ですが、このツアーでは「便利で快適」な何かが在るでもない状態です。"樺太時代"には幾つも村落が連なっていた沿岸なのですが、現在では「昔の村の建物跡と見受けられる石の基礎が在るんだ...」と上陸ポイントでのんびりしていた時に船長が話題にしていたような、「人が住んでいた経過こそ在るが、現在は誰も住んでいないような場所」が延々と続いている場所に入って行く状態です。
「高速艇で疾駆」とでも言えばカッコウ好いかもしれませんが、或いは「万人向けでもない」というのは事実であると思います。何となく「一寸した"探検隊"に参加」という気分にもなるような感です。「純粋に」景色を愉しんで、上陸ポイントでは「何も無い所でのんびりする」という按配です。ハッキリ言って、天候が悪ければ"苦行"に近いモノが在るかもしれません。
それでも一緒にツアーに参加した皆さん―筆者自身を含めて5名。筆者以外はサハリンの人達で、女性3名と男性1名。―は「サハリンにも未だこんな場所!!」とか「私達だけがここに!!」と上陸ポイントでかなり率直に感動していたり、「水温は20°Cに届かない...15°C位??」を意に介さずに海に入ってみたり、語らったり―それは一部仲間に入れて頂きました。―という感じで、何か「一味も二味も違う楽しみ方」に接したような感じもしました。
ユジノサハリンスク・ネベリスク間の道路が大幅に改善されて往来が速やかで快適になったことから、地元では「ネベリスク地区への来訪者の増加」に期待を寄せています。「ネベリスク地区には風光明媚な場所が多く、様々なアクティヴィティーにも好適である」という話しは聞いていますが、実際にそういう様子を視たという程でもありません。「ボートで沿岸を疾走し、クリリオン岬に至る」というツアーに参加してみるというのは、或いは「一寸様子を視る」ということには好適な経験でした。
↓それにしてもこういうような景色を視られたのは、率直に嬉しい経験でした。
『サハリンの涯へ』ツアー (8).jpg
"さいはて"と言われるような稚内の少し先に新たな"涯"が在る、「境界の向こうに続くモノ」を実見したという、なかなかに好い経験、忘れ難い経験をすることが叶いました。
↓今般のツアーを催行した会社のウェブサイト(ロシア語)
>>АДРЕНАЛИН-ТУР | ГИД ПО САХАЛИНУ И КУРИЛАМ
「サハリンの涯」?クリリオン岬です!宗谷岬の対岸、約43km先に在る場所です。稚内から望む「サハリンの島影」というものは、このクリリオン岬の辺りに他なりません。
クリリオン岬の周辺、更にクリリオン岬へ通じるサハリンの南西海岸の辺りに関しては、樺太時代までは村落が点在していた場所ながら、現在では住民も殆ど無く、陸路でクリリオン岬に至るとなれば長い道程の旧道のような所、林間に出来た道のような所を越えて向かうことになり、なかなかに大変で在ると聞きます。「一寸、行ってみたい」という雰囲気ではありません。
他方、海路でクリリオン岬が視える辺りへ進み「"サハリンの涯"!」と眺めて来るというのは、船が用意出来れば容易なのです。そこで登場したツアーだといいます。
ツアーは、朝にユジノサハリンスク駅前から送迎車で出発し、ネベリスク地区のゴルノザヴォツクに在る船着場へ向かい、そこで小さなモーターボートに乗船し、その船でクリリオン岬を海上から眺め、クリリオン岬を眺めた後、クズネツォフ岬辺りのカモイと呼ばれる砂浜に上陸し、少しのんびりと過ごし、やがてボートで再び出発し、ゴルノザヴォツクの船着場に引き返し、また送迎車でユジノサハリンスクへ引揚げるという内容です。朝8時に出発して、午後8時前に帰着というような「丸1日」のツアーで、料金は7500ルーブルです。
↓これがその『サハリンの涯へ』ツアーの船上から望んだクリリオン岬です。近付く前に、「手持ちのスマートフォンが通信を受けると、"国際ローミング"の適用で高額な請求が生じる場合が在るので、機器の調整または電源を切るなどしてください」と船長が案内をしてから接近するような場所です。
『サハリンの涯へ』ツアー (1).jpg
↑画の右奥がアニワ湾、船が停止している辺りがラペルーズ海峡(宗谷海峡)、船がこの位置まで南下して来たサハリンの南西海岸はタタール海峡です。船が停止している辺りは「日本海上のロータリー交差点」のようなポイントということになるでしょうか?
↓望遠で眺めてみると、左側に灯台が在って、国境警備関係の施設らしきモノが散見する状態です。岬に上陸することは叶いません。
『サハリンの涯へ』ツアー (2).jpg
↑それでも「この位の近さ」でクリリオン岬を眺められるのは、少し感動します。
実はこの海域では、条件が好い場合には宗谷辺りの陸地の影や、遠くに聳え立つ利尻富士が視える場合が在ると聞きました。が、この日は水蒸気で煙った様な状態で、そういう遠景は視えませんでした。というよりも、少し沖合に在るモネロン島の影にも期待していましたが、それも残念ながら視えない状態でした。
やがて、ツアーの一行が「うわっ!?」と驚くことになったのですが、文字どおり「瞬時」に白い霧が立ち込め、見る見る間にクリリオン岬を覆ってしまい、「視界が悪くなってしまわない間に引揚げましょう」と船は直ぐに北上しました。
クリリオン岬に視えていた灯台ですが、これは1875年の<樺太・千島交換条約>でロシアがサハリン全土を領有していた時期、霧が発生し易く潮流も複雑なクリリオン岬周辺海域での船舶航行の安全性を向上させようと、アレクサンドロフスク・サハリンスキーに築かれていた灯台―現在、同地には再建されたモノが在るらしいです。―の例に倣って建設を行ったのが起源であるといいます。クリリオン岬に往時の建物は既に無く、現存しているのはその後に建てられたものであるとのことです。
クリリオン岬の俄かな霧には驚きましたが、この日は大変な好天に恵まれました。
↓鏡面のようにもなっていた海が空の色を跳ね返して蒼く輝き、緑に覆われた丘陵状の地形が陽光を受けて独特な存在感を示しています。
『サハリンの涯へ』ツアー (3).jpg
↓霧のクリリオン岬から少し北上すると、霧が気にならなくなって、青空が戻りました。
『サハリンの涯へ』ツアー (4).jpg
↑相当に古い事故船の残骸のようで、以前はもっと「船らしい」細長い形状だったといいますが、状態は「不思議な"現代前衛芸術"の作品?」という様相です。何か「朽ち果てて自然に飲み込まれつつある」という感で「海鳥達の巣」のようになっていました。
↓事故船の残骸の近辺では、アザラシ達が棲んでいる場所も見受けられました。
『サハリンの涯へ』ツアー (5).jpg
↑「どういう訳か、彼らは音楽好きらしい...」と船長が船上でMP3プレーヤーのスピーカーでボリュームを少し上げると、泳いでいた一部のアザラシ達が船の方を向き、「何となくこちらに?」という動きを見せました。乗客達は大笑いでした。
この後、船はクズネツォフ岬の少しだけ南に在る砂浜に向かい、ツアー一行は上陸しました。
↓突き出して視えているのがクズネツォフ岬です。
『サハリンの涯へ』ツアー (6).jpg
↑この場所では、予定の時間を多少オーバーしてのんびりと過ごすことになりました。素晴らしい天候だったのです。
↓ツアーで使ったのは、こういう小型船です。海釣りをするような方には、何となく馴染みが在るでしょうか?日本製の小型ボートで、船長によれば「40ノットは出る」という代物です。鏡面のように輝く海を、多少跳ね上がるような動きも見せ―筆者は「アクション映画のワンシーンのようだ」などと思っていました。―ながら疾駆しました。
『サハリンの涯へ』ツアー (7).jpg
↑これは北海道内の紋別で購ったモノということでしたが、ゴルノザヴォツクの船着場に出入りしていたボートの多くが、こういうような日本の小型ボートでした。この船の外観にはそういうモノは視えませんが、船着場で視掛けた船の中にはハッキリと日本語のカタカナや漢字が船体に書かれているものさえ在りました。
船は「6名で満員」です。後部に4人並んで座り、船長の操縦席が在って、その操縦席の脇に1人座ることが可能です。「あなたはここ...」と割り当てられたのが、その「操縦席の脇」でした。外の写真は撮り悪く、停船時のみに限定されてしまいましたが、居住性は「風防の中」なので悪く在りませんでしたし、何やらの無線の声が聞こえて「国境周辺の海を疾駆!」という臨場感が愉しいと思えました。
「観光ツアー」と聞いた時に何となく思い浮かべるのは、「便利で快適」な状況であり、「"観光地化"した景勝地」という感ですが、このツアーでは「便利で快適」な何かが在るでもない状態です。"樺太時代"には幾つも村落が連なっていた沿岸なのですが、現在では「昔の村の建物跡と見受けられる石の基礎が在るんだ...」と上陸ポイントでのんびりしていた時に船長が話題にしていたような、「人が住んでいた経過こそ在るが、現在は誰も住んでいないような場所」が延々と続いている場所に入って行く状態です。
「高速艇で疾駆」とでも言えばカッコウ好いかもしれませんが、或いは「万人向けでもない」というのは事実であると思います。何となく「一寸した"探検隊"に参加」という気分にもなるような感です。「純粋に」景色を愉しんで、上陸ポイントでは「何も無い所でのんびりする」という按配です。ハッキリ言って、天候が悪ければ"苦行"に近いモノが在るかもしれません。
それでも一緒にツアーに参加した皆さん―筆者自身を含めて5名。筆者以外はサハリンの人達で、女性3名と男性1名。―は「サハリンにも未だこんな場所!!」とか「私達だけがここに!!」と上陸ポイントでかなり率直に感動していたり、「水温は20°Cに届かない...15°C位??」を意に介さずに海に入ってみたり、語らったり―それは一部仲間に入れて頂きました。―という感じで、何か「一味も二味も違う楽しみ方」に接したような感じもしました。
ユジノサハリンスク・ネベリスク間の道路が大幅に改善されて往来が速やかで快適になったことから、地元では「ネベリスク地区への来訪者の増加」に期待を寄せています。「ネベリスク地区には風光明媚な場所が多く、様々なアクティヴィティーにも好適である」という話しは聞いていますが、実際にそういう様子を視たという程でもありません。「ボートで沿岸を疾走し、クリリオン岬に至る」というツアーに参加してみるというのは、或いは「一寸様子を視る」ということには好適な経験でした。
↓それにしてもこういうような景色を視られたのは、率直に嬉しい経験でした。
『サハリンの涯へ』ツアー (8).jpg
"さいはて"と言われるような稚内の少し先に新たな"涯"が在る、「境界の向こうに続くモノ」を実見したという、なかなかに好い経験、忘れ難い経験をすることが叶いました。
↓今般のツアーを催行した会社のウェブサイト(ロシア語)
>>АДРЕНАЛИН-ТУР | ГИД ПО САХАЛИНУ И КУРИЛАМ
この記事へのコメント
中林20系
'94年発行の古いサハリン地図帳(等高線入り)を持ってるので、今回はそれを眺めつつ記事を拝見させていただきました。位置関係がよく解って、なるほどここに...と楽しめました。
そしてさらに興味が湧いてしまったのが、おっしゃるモネロン島。検索してみれば、素晴らしいところながら訪問はなかなか...みたいですね。
で、件の地図帳では日本の地形図同様に建物を現す黒い四角形や道なども描かれてますが、google mapでは何も...念のためЯндлексのКартыも観ましたが、こちらも同様。
これはやはり、国境の島だから...そういう面もあるのでしょうか。
こういうクルーズに縁がないのでこれが高いのか安いのかよく判らないのですが(=ルーブル安の今ならお得なのかも知れませんが)、好天に恵まれると価格には換えがたい感動なのでしょうね。
いつもいつも興味深い情報、ありがとうございます!
稚内市サハリン事務所
何時もこのブログをお楽しみ頂き、ありがとうございます。
地図帳を引っ張り出して御覧頂いたというのも嬉しいお話しです。
稚内から影のように視える場合が在る場所の近くまで、アクション映画にでも出て来そうな小型高速船で行ったというお話しでした。
相当な移動距離になり、朝から夕方までの丸1日なので、ツアー料金の7500ルーブルは「そんなもの?」という料金のようにも思えます。地元の皆さんが参加していて、一定の人気も在るらしいですから、そういう意味でも妥当な価格かもしれません。が、今般は好天であったこともあり、「視られた景色」は正しく「プライスレス!」だったと思います。忘れ難い経験となりました。写真を視て余韻に浸ってしまいます。
モネロン島に関しては、色々と興味深いモノが在るらしいですが、「手軽に一寸」という雰囲気でもない感です。自然保護の見地で、立ち入りを控えるようにしているような話しも聞きますが、船が定期的に行き交っているというのでもありません。何か判れば、ここで取り上げるかもしれませんが。