旧 王子製紙豊原工場(2017年08月14日 & 17)
ユジノサハリンスクの東寄りな辺りを南北に貫くミール通を北上し、ブマージナヤ通と交差する辺りまで進みます。
豊原時代に「南1丁目、南2丁目...」と「北1丁目、北2丁目...」との境目で在ったというサハリンスカヤ通を越えて北へ進むと、少しずつ"郊外"というような雰囲気が増して行くような気もします。そういうような気分が沸き起こり始める辺りでブマージナヤ通と交差し、ユジノサハリンスク市内等に多くの店舗を展開するチェーンスーパーが視えます。
↓その辺りで視えるのがこういう光景です。
「王子製紙豊原工場」の遺構 (1).jpg
↑ミール通の住所は、都心部という感じの辺りでは「3桁」なのですが、何時の間にか「2桁」になっています。そして古く背が高い構造物が建っている様子が視えます。
このミール通から覗く、古く背が高い構造物は「王子製紙豊原工場」の遺構です。
「王子製紙豊原工場」は1917(大正6)年に起こったそうです。林産資源に恵まれた樺太には、チップ製造、製紙のために幾つかの製紙会社が工場を起こしました。やがて昭和に元号が切り替わった少し後に製紙業界の再編が起こり、「大王子製紙」とも呼ばれた「シェア8割以上」という会社が登場し、樺太各地の工場は「王子製紙○しろまる○しろまる工場」という具合になって行きました。
工場の遺構が視えるブマージナヤ通の「ブマージナヤ」は「紙」を意味する形容詞です。「王子製紙豊原工場」が在って、ソ連時代になって以降も製紙工場であったという経過がこの通の名前の由来であると視られます。
↓ブマージナヤ通を進み、工場の遺構に近付きました。工場の遺構の辺りは、現在では自動車整備や機械修理等を手掛けていると見受けられる幾つかの企業が使用していて、間近に寄ることは基本的には出来ません。これが最も間近に寄ることが出来た場所です。
「王子製紙豊原工場」の遺構 (2).jpg
↑これは"製薬塔"と呼ばれていた構造物で、チップを加工して製紙を行っていく過程で使用する薬剤を生成するための施設だったそうです。
現在でも「それなりに目立つ」程度の高さになっている塔の遺構です。樺太時代には、現在以上に目立ったと想像できます。
↓林立する煙突です。
「王子製紙豊原工場」の遺構 (3).jpg
↑現在では煙突として機能しているようには見えません。
筆者の私事になってしまいますが、既に他界して久しい祖父母が昭和の初め頃に豊原に住んでいた時期が在るらしく、祖母と少し話した内容を総合すると、どうやら「若き日の祖父母」はこの工場が視えたような辺りで暮らしていたのだと想像出来る状況なのです。この「遺構」を眺めて、「現に工場だった」頃に同じ場所を眺めたかもしれない祖父母達、そしてそんな世代の人達が暮らしていた時代を何となく思っていました。
こうした古い時代の遺構に関しては、「土地に積み上げられた"時間"」を感じます。
豊原時代に「南1丁目、南2丁目...」と「北1丁目、北2丁目...」との境目で在ったというサハリンスカヤ通を越えて北へ進むと、少しずつ"郊外"というような雰囲気が増して行くような気もします。そういうような気分が沸き起こり始める辺りでブマージナヤ通と交差し、ユジノサハリンスク市内等に多くの店舗を展開するチェーンスーパーが視えます。
↓その辺りで視えるのがこういう光景です。
「王子製紙豊原工場」の遺構 (1).jpg
↑ミール通の住所は、都心部という感じの辺りでは「3桁」なのですが、何時の間にか「2桁」になっています。そして古く背が高い構造物が建っている様子が視えます。
このミール通から覗く、古く背が高い構造物は「王子製紙豊原工場」の遺構です。
「王子製紙豊原工場」は1917(大正6)年に起こったそうです。林産資源に恵まれた樺太には、チップ製造、製紙のために幾つかの製紙会社が工場を起こしました。やがて昭和に元号が切り替わった少し後に製紙業界の再編が起こり、「大王子製紙」とも呼ばれた「シェア8割以上」という会社が登場し、樺太各地の工場は「王子製紙○しろまる○しろまる工場」という具合になって行きました。
工場の遺構が視えるブマージナヤ通の「ブマージナヤ」は「紙」を意味する形容詞です。「王子製紙豊原工場」が在って、ソ連時代になって以降も製紙工場であったという経過がこの通の名前の由来であると視られます。
↓ブマージナヤ通を進み、工場の遺構に近付きました。工場の遺構の辺りは、現在では自動車整備や機械修理等を手掛けていると見受けられる幾つかの企業が使用していて、間近に寄ることは基本的には出来ません。これが最も間近に寄ることが出来た場所です。
「王子製紙豊原工場」の遺構 (2).jpg
↑これは"製薬塔"と呼ばれていた構造物で、チップを加工して製紙を行っていく過程で使用する薬剤を生成するための施設だったそうです。
現在でも「それなりに目立つ」程度の高さになっている塔の遺構です。樺太時代には、現在以上に目立ったと想像できます。
↓林立する煙突です。
「王子製紙豊原工場」の遺構 (3).jpg
↑現在では煙突として機能しているようには見えません。
筆者の私事になってしまいますが、既に他界して久しい祖父母が昭和の初め頃に豊原に住んでいた時期が在るらしく、祖母と少し話した内容を総合すると、どうやら「若き日の祖父母」はこの工場が視えたような辺りで暮らしていたのだと想像出来る状況なのです。この「遺構」を眺めて、「現に工場だった」頃に同じ場所を眺めたかもしれない祖父母達、そしてそんな世代の人達が暮らしていた時代を何となく思っていました。
こうした古い時代の遺構に関しては、「土地に積み上げられた"時間"」を感じます。
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