<兵士の母>のモニュメント(2017年07月24日)

ユジノサハリンスク駅近くから街の東側に在る丘陵の麓に延びるコムニスチ―チェスキー通は、豊原時代には「樺太神社に至る道」ということで"神社通"と呼び習わされていたそうです。

その嘗ての神社の周辺であった地域は、現在では"栄光広場"と呼ばれ、第2次大戦の戦死者や戦禍の犠牲になった人達を悼むと同時に、先人が辛苦を耐え忍んだことへの感謝の意を表するモニュメントが多く設けられています。その他方で、辺りは都市緑地として良く整備されており、散策を楽しむ人達や、元気に遊んでいる子ども達の姿も見受けられ、そういう人達を相手に飲物や食べ物を販売する車まで出ていて、「市民の憩いの場」という趣も在ります。

その"栄光広場"の一隅の、ベンチが据えられていて、腰を下ろして休んでいる人達も見受けられる小さな広場のような設えの場所に、少し不思議なモノが在りました。

↓こういうモノです。
<兵士の母> (1).JPG
↑中央に女性の彫像が佇み、両脇に壁のようなモノが設えられています。

「これは何?」と近付いてみました。

↓壁状のモノには、サハリン州内等の地名と年号、人名、そして更に地名と年号です。
<兵士の母> (3).JPG
↑これはサハリン州内等で産まれた方の出生地と生年、そして「命を落とした地域とその年」が記されているのでした。

これは、主に1980年代以降の軍事作戦―アフガニスタン関係を主としているようですが、1990年代のチェチェン紛争関係も含まれています。―に従事したサハリン周辺出身の将兵で戦死した方を悼み、顕彰する記念碑のようです。

↓中央の女性の彫像は<兵士の母>ということです。
<兵士の母> (2).JPG
↑何とも名状し悪い、不思議な雰囲気が漂う彫像で、何か引き込まれるように眺めていました。

第2次大戦の後にも、ロシアは幾つもの軍事作戦を実施した経過が在り、犠牲が発生しています。殊に期間が長期に及んだアフガニスタンや、戦闘が苛烈な様相を呈したと伝えられるチェチェンは犠牲が多かったようです。これはそうした犠牲者を悼むモニュメントなのです。

軍務で命を落としてしまうようなことは、周囲には「名誉在る」と言われるのでしょうが、最も身近な家族としては拭い難い悲しみを留めることが出来ないものであるというのは、普遍的なテーマかもしれません。筆者としては、自身と同世代か、それよりも若い方の名が壁状の場所に多く刻まれていることに、何か深く考えさせられました。

ユジノサハリンスク市内にも、日本からの来訪者に然程知られていないような、色々なことを伝えてくれる場所が色々と在るようです。

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