<遠藤米七記念碑 メモリアル>の除幕式(2018年07月19日)
ユジノサハリンスク都心部の少し北東に寄った辺り、<ガガーリン公園>の出入口の一つ、大きな池が在る辺りに「非常に目立つ大きな建物」が在ります。
↓<メガパレスホテル>というホテルです。
19-07-2018 ENDO (1).jpg
↑近くを通ると「仰々しい感じのビル...」と、思わず見上げてみたくなります。
2006年にオープンしたホテルです。
↓オープン当時の様子を御紹介した記事が、稚内市ウェブサイトのサハリン関係のコーナーにも在りました。
>>極東一を誇る「メガパレスホテル」がグランドオープン(2006年5月)
地上10階建てで地下も利用されている建物なのですが、幅が広い構造物が複数組み合わさっているような外観で、辺りは公園で背が高い建物が無いことから、物凄く大きく視えます。
宿泊施設の他に、レストランやナイトクラブが在り、会議室等も色々と利用されている施設です。ホテルは、連邦政府の要人がサハリンを訪れた際に滞在することがある場所としても知られています。
下記のホテルのウェブサイトで、館内の写真等が色々と御覧頂けます。
↓<メガパレスホテル>のウェブサイト(露語)
>>Mega Palace Hotel - Главная
話しは、この大きなホテルが建設されようとしていた2003年に遡ります。
<メガパレスホテル>の運営に携わる会社のアン会長は、自身の会社で手掛けようとする、サハリン随一の規模、極東屈指のものになる筈のホテルが出来上がる様子を思い描きながら、建設予定地を検分していました。
2003年頃というのは、サハリンでの資源開発を軌道に乗せようという動きが活発であった時期に相当し、俄かにビジネスマン等のサハリンへの出入りが盛んになっていた中、ホテルビジネスに注目が集まっていた時期でもあります。そして社会資本の整備が進み、商業や各種サービス業も盛んになって行き、地域の人達の所得も伸びていたという時期です。そうした追い風を受け、<メガパレスホテル>の計画も注目されていたようです。
アン会長は、そのホテルの建設予定地の中に、奇妙なコンクリートの塊が立っていることに気付きます。道路側からも視えたそうですが、概ね4mもの背が高い構造物でした。
「一体、これは何なんだ?」とアン会長は思い、そのコンクリートの塊を視ながら考えたそうです。「この型は、記念碑の台座か何かではないか?」とです。そして「恐らく、旧い時代に大切にされていたのであろう。粗末にも出来ないのではないか?」と思い、「これを保存し、可能であれば少し綺麗に整備すべきではないだろうか?」との考えに至ったそうです。
そこでアン会長は関係者を集めて協議し、不思議な"台座"を保存すべく、ホテルの建物を建てる場所を数メートル道路側にスライドさせました。そして"台座"はホテルの建物の裏、レストランのテラスの脇に残ったのです。
その後、「現在の<メガパレスホテル>の場所に、4メートル程度の高さの、記念碑の台座らしきモノが在る。あれは一体、何なのか?」という疑問が解決されるまでに数年を要しました。地元の歴史研究者等、色々な方に尋ねながら調べ続け、コンクリートの台座が1936年に建立された<遠藤米七記念碑>の台座であったことが判明しました。
「遠藤米七」という人物は、樺太時代の実業家です。建設業を核とする企業グループ<遠藤組>の創業者で代表を務めていた他方、1920年代に設立された豊原商工会議所の初代会頭を始めとする公職を多く歴任し、他方で数々の社会事業への協力を惜しまず、方々への多額の寄附を行った篤志家としても知られた人物とのことです。
日露戦争後、南樺太に移り住んだ最初期の入植者達の中に、遠藤米七の姿が在りました。遠藤米七が営んだ<遠藤組>は、様々な社会資本整備や施設建設の需要が在った南樺太で、建設業者としての実績を積上げて成長を遂げて行きました。<遠藤組>が手掛けたという建物等は現在でも残っているものが見受けられるとのことですが、最も有名であるのは往時の<樺太庁博物館>の建物、現在の<サハリン州郷土博物館>の建物ということになるでしょう。
1935年に遠藤米七が逝去し、翌1936年には当時の豊原市長が発起人となって記念碑が建立されたとのことです。
↓<遠藤米七記念碑 メモリアル>の除幕式の会場に、1936年建立の記念碑の写真が展示されていました。
19-07-2018 ENDO (2).JPG
↑4m程の台座に、3m程の銅像が乗っていたのです。
↓外観を美しく整えた台座に幕が掛かった状態のものが、40人程度集まった除幕式の参集者やメディア関係者を迎えました。
19-07-2018 ENDO (3).JPG
↓そして、アン会長とゲストの平野駐ユジノサハリンスク日本国総領事とで除幕が行われました。
19-07-2018 ENDO (4).JPG
大きな建物を建てようという場合、「数メートル位置を変える」というようなことは、簡単には出来ないようにも見受けられますが、そうまでして「大切な記念碑」を伝えようとして頂いた関係者の皆さんの御尽力には感謝しなければならないでしょう。
↓<遠藤米七記念碑 メモリアル>は<メガパレスホテル>の裏に、こういう具合に佇んでいます。
19-07-2018 ENDP (6).jpg
↑館内に入って、レストランを通り抜けてテラスに出る以外には、道路側から正面入口の左側に向かって壁沿いを進み、テラスの辺りに至れば直ぐに近付けます。
↓記念碑と、その台座が保存された経過を記したプレートです。
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「樺太時代」を伝える、「旧くて新しい場所」が登場しました。
↓<メガパレスホテル>というホテルです。
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↑近くを通ると「仰々しい感じのビル...」と、思わず見上げてみたくなります。
2006年にオープンしたホテルです。
↓オープン当時の様子を御紹介した記事が、稚内市ウェブサイトのサハリン関係のコーナーにも在りました。
>>極東一を誇る「メガパレスホテル」がグランドオープン(2006年5月)
地上10階建てで地下も利用されている建物なのですが、幅が広い構造物が複数組み合わさっているような外観で、辺りは公園で背が高い建物が無いことから、物凄く大きく視えます。
宿泊施設の他に、レストランやナイトクラブが在り、会議室等も色々と利用されている施設です。ホテルは、連邦政府の要人がサハリンを訪れた際に滞在することがある場所としても知られています。
下記のホテルのウェブサイトで、館内の写真等が色々と御覧頂けます。
↓<メガパレスホテル>のウェブサイト(露語)
>>Mega Palace Hotel - Главная
話しは、この大きなホテルが建設されようとしていた2003年に遡ります。
<メガパレスホテル>の運営に携わる会社のアン会長は、自身の会社で手掛けようとする、サハリン随一の規模、極東屈指のものになる筈のホテルが出来上がる様子を思い描きながら、建設予定地を検分していました。
2003年頃というのは、サハリンでの資源開発を軌道に乗せようという動きが活発であった時期に相当し、俄かにビジネスマン等のサハリンへの出入りが盛んになっていた中、ホテルビジネスに注目が集まっていた時期でもあります。そして社会資本の整備が進み、商業や各種サービス業も盛んになって行き、地域の人達の所得も伸びていたという時期です。そうした追い風を受け、<メガパレスホテル>の計画も注目されていたようです。
アン会長は、そのホテルの建設予定地の中に、奇妙なコンクリートの塊が立っていることに気付きます。道路側からも視えたそうですが、概ね4mもの背が高い構造物でした。
「一体、これは何なんだ?」とアン会長は思い、そのコンクリートの塊を視ながら考えたそうです。「この型は、記念碑の台座か何かではないか?」とです。そして「恐らく、旧い時代に大切にされていたのであろう。粗末にも出来ないのではないか?」と思い、「これを保存し、可能であれば少し綺麗に整備すべきではないだろうか?」との考えに至ったそうです。
そこでアン会長は関係者を集めて協議し、不思議な"台座"を保存すべく、ホテルの建物を建てる場所を数メートル道路側にスライドさせました。そして"台座"はホテルの建物の裏、レストランのテラスの脇に残ったのです。
その後、「現在の<メガパレスホテル>の場所に、4メートル程度の高さの、記念碑の台座らしきモノが在る。あれは一体、何なのか?」という疑問が解決されるまでに数年を要しました。地元の歴史研究者等、色々な方に尋ねながら調べ続け、コンクリートの台座が1936年に建立された<遠藤米七記念碑>の台座であったことが判明しました。
「遠藤米七」という人物は、樺太時代の実業家です。建設業を核とする企業グループ<遠藤組>の創業者で代表を務めていた他方、1920年代に設立された豊原商工会議所の初代会頭を始めとする公職を多く歴任し、他方で数々の社会事業への協力を惜しまず、方々への多額の寄附を行った篤志家としても知られた人物とのことです。
日露戦争後、南樺太に移り住んだ最初期の入植者達の中に、遠藤米七の姿が在りました。遠藤米七が営んだ<遠藤組>は、様々な社会資本整備や施設建設の需要が在った南樺太で、建設業者としての実績を積上げて成長を遂げて行きました。<遠藤組>が手掛けたという建物等は現在でも残っているものが見受けられるとのことですが、最も有名であるのは往時の<樺太庁博物館>の建物、現在の<サハリン州郷土博物館>の建物ということになるでしょう。
1935年に遠藤米七が逝去し、翌1936年には当時の豊原市長が発起人となって記念碑が建立されたとのことです。
↓<遠藤米七記念碑 メモリアル>の除幕式の会場に、1936年建立の記念碑の写真が展示されていました。
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↑4m程の台座に、3m程の銅像が乗っていたのです。
↓外観を美しく整えた台座に幕が掛かった状態のものが、40人程度集まった除幕式の参集者やメディア関係者を迎えました。
19-07-2018 ENDO (3).JPG
↓そして、アン会長とゲストの平野駐ユジノサハリンスク日本国総領事とで除幕が行われました。
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大きな建物を建てようという場合、「数メートル位置を変える」というようなことは、簡単には出来ないようにも見受けられますが、そうまでして「大切な記念碑」を伝えようとして頂いた関係者の皆さんの御尽力には感謝しなければならないでしょう。
↓<遠藤米七記念碑 メモリアル>は<メガパレスホテル>の裏に、こういう具合に佇んでいます。
19-07-2018 ENDP (6).jpg
↑館内に入って、レストランを通り抜けてテラスに出る以外には、道路側から正面入口の左側に向かって壁沿いを進み、テラスの辺りに至れば直ぐに近付けます。
↓記念碑と、その台座が保存された経過を記したプレートです。
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「樺太時代」を伝える、「旧くて新しい場所」が登場しました。