コルサコフ歴史郷土博物館(2017年07月30日 & 08.12)

色々な地域に、地域の歴史等を紹介する博物館、または郷土資料館のようなモノが設けられています。サハリンの各地でもそういう例は幾つも在ります。

これまで、サハリンに在る稚内市の友好都市の中、ネベリスクの博物館、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館に関してはこのブログでも紹介して来た経過が在ります。

(↓下記を御参照願います。)
>>ネベリスク歴史郷土博物館(2017年05月06日)
>>(カテゴリ) 訪ねる/サハリン州郷土博物館


もう一つの友好都市であるコルサコフにも歴史郷土博物館が在ります。

↓こういうような具合に、ひっそりと建っている小さな建物が博物館になっています。
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コルサコフでは1983年に、「古いモノを持ち寄って、地域の人達や来訪者が観る場」として博物館が起こり、1993年に市の施設という位置付けを得て、やがて現在の独立した建物に入るようになります。

コルサコフ歴史郷土博物館は、地域に伝わる様々な資料を所蔵して展示する他、昔の街の様子や人々の暮らしぶりについて児童生徒が学ぶ場であったり、同時に美術系の作品展も催される等、地域の文化活動の拠点にもなっている場でした。

「古いモノを持ち寄って」という発祥経過も在るのですが、何かの工事を行う場面等で「何やら古いモノが出て来た!」という話しになって、博物館の関係者が視に行って、興味深いモノであれば資料に加えるということも行われているようです。

限られたスペースの中ですが、博物館では「地域の歴史を語ろう」と大変に熱心に展示を紹介して下さる館長さん以下のスタッフが頑張っていて、他所の博物館よりも小柄な展示内容ながらも好く纏まっています。

↓展示室に入って直ぐ辺りには、動物の剥製が在って、動物達が来館者を迎えてくれます。
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↑サハリンで「最大最強の野生動物」はヒグマです。ここの剥製は、未だ母親に伴われているような年恰好の小柄なモノです。大きなヒグマは「サハリンの象徴」のような扱いを受ける場合も見受けられます。

↓「学習のため」という意味合いなのでしょうが、地域の歴史に関して、大まかな"時代分け"をして、要領よく纏めたパネルが掲出されていました。
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この博物館で紹介する、地域の歴史に関する大まかな"時代分け"ですが、「アイヌの時代」、「歴史の記録に登場するようになって以降」、「流刑地だった頃」、「チェーホフの来訪の頃」、「大泊の時代」、「戦後のソ連時代」という具合で、ソ連時代の後が現代という訳です。

「列車でコルサコフを訪ねて」ということを試してみましたが、実は博物館に掲出されているパネルをゆっくりと読む時間を設けたかったので、コルサコフを訪ねたかったのです。色々と面白い記述が在りました。

「アイヌの時代」に関しては、現在のコルサコフの市域の一部が"クシュンコタン"という大きなアイヌの集落になっていて、彼らの独自の生活が永く営まれていたことが紹介されていました。

「歴史の記録に登場するようになって以降」に関しては、主に「欧州諸国の記録にあらわれるサハリン」という話題や、かのネヴェリスコイ提督の一隊がやって来て活動した経過が紹介されているのと同時に、「日本の間宮林蔵による樺太踏査」に関する紹介も在りました。

「流刑地だった頃」に関しては、ネヴェリスコイ提督の一隊が築いた"ムラヴィヨフスキー哨所"がクリミア戦争等の状況を受けて活動を休止した後、1869年に"コルサコフスキー哨所"として活動を再開して以降のことが紹介されています。1875年に日本とロシアとの間で<樺太・千島交換条約>(ロシアでは<サンクトペテルブルグ条約(1875年)>と呼ばれる。)が締結されると、ロシアはサハリンを流刑地とし、人を送り込んで開拓を手掛けます。そんな時期のことが紹介されています。

「チェーホフの来訪の頃」に関しては、チェーホフがコルサコフに滞在していた経過が紹介されています。チェーホフは80日間にも及ぶ長旅でモスクワからサハリン北部のアレクサンドロフスク・サハリンスキーに至ります。サハリン滞在の前半はアレクサンドロフスク・サハリンスキー等をベースに活動しますが、後半は船でコルサコフに至り、コルサコフをベースに活動していました。

それらを経て「大泊の時代」、「戦後のソ連時代」へと進みます。このパネルの掲出と併せて、展示室には色々なモノが展示されています。

↓チェーホフがサハリンを訪れたような19世紀末から20世紀初頭のロシアの紙幣です。
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↑現在では「何枚かの小銭」になっている「3ルーブル」の立派な紙幣が使われていました。

↓大泊時代の写真や街の地図が掲示されています。
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↑こういう図版の他、展示室には色々な場所から出て来た日本の食器等の生活用具もケースに並んでいました。

↓現在も「先人の辛苦を偲んで感謝すべき日」と位置付けられている「5月9日」の翌日、「1945年5月10日付」の新聞<プラウダ>です。
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↑当時の最高指導者であったスターリンの写真が在ります。

こうした展示の他、「ソ連時代の様子」を伝える展示室が在ります。コルサコフでの産業の変遷等を伝えていて、存外に興味深い展示です。

↓大変に隆盛であった缶詰工場の製品見本が、展示ケースに収められています。
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↑現在もコルサコフ地区で水産系の缶詰製造は行われていますが、この製品見本を手掛けていた会社とは然程関係は無いようです。

↓事績が評価された企業が選抜され、そこに贈られたという「レーニンの肖像画の入った赤旗」です。
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↑これは「約1万人の関係者がコルサコフ地区に居た」と伝えられる<遠洋漁業公社>が持っていたモノだといいます。その<遠洋漁業公社>はソ連末期からロシア連邦に移行して程無く、実体が無くなってしまいました。

↓ソ連時代の紙幣も展示されていました。
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↑手前の「10ルーブル」という紙幣は、1961年頃まで使われたモノだといいます。現在の10ルーブルは「コイン1枚」です。

↓ソ連時代にポピュラーであったモノということになる、機械式のタイプライターも展示品になっていました。
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というようなことで、コルサコフ歴史郷土博物館は小柄な展示施設ですが、なかなかに興味深い場所です。

<奇蹟者聖ニコライ寺院>(2017年08月04日)

コルサコフからユジノサハリンスクへ北上、またはユジノサハリンスクの街の南側に在る空港や大型商業施設<シティーモール>の在る辺りから街の「より賑やかな側」へ進む際、「"郊外"と"都心"の境界?」という具合に感じる辺りに、特徴の在る建物が建っています。

↓ミール通の南寄りに建つこういう木造という感じの建物です。なかなかに目立ちます。これはロシア正教の教会です。
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↑暗い時間帯には少し見え難いのですが、この建物が視えてからほんの少し北へ進むと、大きな集合住宅が多く並んでいて、広告看板のようなモノも目立ち始め、時間帯にもよりますが車輛の通行量が多くなって行きます。

↓木造の、なかなかに個性的な外観をした建物です。
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↑サハリンの幾つかの街で教会を視掛けていますが、或いはこういう感じの木造のモノが少し多いような感もします。

サハリンで盛んに教会が建設されるようになったのは、「ポストソ連」というような状況だった1990年代以降のことで、この建物もそれほど古いということでもありません。

この教会は<奇蹟者聖ニコライ寺院>と呼ばれています。この教会を建てようという構想自体は1996年頃から起こっていたということですが、2004年に着工し、2005年に教会そのものの建物が竣工しているということです。以降、敷地内の整備や付属的な建物の建設が進められ、現在ではそれらが一応完成しているようです。

ロシア正教ではこの"奇蹟者聖ニコライ"を正式には「ミラ・リキヤの大主教奇蹟者聖ニコライ」と呼ぶそうです。西暦270年頃に産れたとされる、古代ローマ帝国時代の聖職者です。"奇蹟者"という異名が在るように、数々の奇蹟を起こしていると伝えられ、多くの人達を救い導き、大変に敬愛される人物であるといいます。そして、「"サンタクロース"は"聖ニコラウス"の転訛である」とも言われ、欧州諸国などで12月に「聖ニクラウスの日」という祭事が催されている事例も在ります。

↓これがその"奇蹟者聖ニコライ"です。
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↑この教会では、建物の中にイコンが飾られ、ロシア正教の祭事が催されていますが、それ以外にもこうやって敷地内の戸外にイコン風なモノが飾られています。

↓教会敷地へ入る場合は、南北に延びているミール通の側ではなく、東西に延びるバリニッチナヤ通の側に廻り込む必要が在ります。これがその門です。
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↑門には独特な画風のイコンのような感じの画が飾られています。

色々な活動が行われている「地域の教会」という風情なのですが、近所の子ども達が遊んでいるような様子や、御近所と見受けられる方達が散策しているような様子も在りました。

↓敷地内には非常に美しい花壇が設けられていました。
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"大聖堂"、"聖堂"に対して"寺院"というモノは少し小さな施設のようなのですが、こうした木造の教会の感じは「ロシア」と聞けば漠然と思い浮かべる建物のイメージに近いモノのような気がします。

ウラジミロフカ村が起こった経過を示す記念碑(2017年07月23日)

ユジノサハリンスク市では「ウラジミロフカ村が起こった」とされる「1882年」を「建都」と位置付けています。

そういうことではあるのですが、都心部の主だった場所というのは1907年頃から拓かれ、札幌の事例を参照しながら建設が進められたという豊原を基礎としたものです。主要な道路は豊原と呼ばれていた時代のモノに、ソ連化以降に付けられた名称で呼ばれている状態です。そういうことなので「"ウラジミロフカ"とは何処なのか?」と少し気になっていました。

↓その「ウラジミロフカ村」のことを伝える記念碑が、ユジノサハリンスク市内に在ります。
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↑好天に恵まれた日曜日、一寸訪ねてみました。

ユジノサハリンスクの鉄道駅、大きなレーニン像、市行政府の本庁舎が在る辺りからレーニン通を少し北上します。<サハリン>という古くから在る百貨店の辺りでサハリンスカヤ通と交差します。このサハリンスカヤ通を西側へ、鉄道の線路が在る側へ進みます。踏切を越えて真っ直ぐ進み、20分まで掛からないような気がしますが、ガソリンスタンドが在って「少し先に橋らしいもの?川か?」というような辺りに、写真の記念碑が在ります。

以前に、街の色々なことに明るい方とお話しをした際に、この記念碑に関して話題にしたのですが、「ウラジミロフカ村の中心的であったと見受けられる場所」というのは、記念碑が在る場所よりも北東側に相当する「レーニン通を更に少し北上した辺り」と推定されるようです。記念碑の場所は、ウラジミロフカ村で営まれていた農場の一部に相当するそうです。とは言え、この記念碑の周辺が現在では"ウラジミロフカ"と呼び習わされているようです。

とりあえず、この記念碑が在るという他、特段に何かが眼に留まるでもありません。何となく「135年前に村を起こした人達」に想いを巡らせて、何となくぼんやりとしていました。ここへ至る沿道に、レストランやカフェ等は若干眼に留まりましたが、取り立てて目立つ感じでもありません。もっとレーニン通に寄った辺りに、ビール等を造っている工場の販売所が在って、なかなかに好いとは聞きましたが。

記念碑の傍に、ユジノサハリンスクではよく視掛ける「停留所名不詳なバス停」が在りました。レーニン通方向へ向かう側でバスを待っていると、「真っ直ぐ東へ進んで、ミール通に入って南下し、大型商業施設の<シティーモール>の向こうへ」という運行系統#81のバスが現れました。それに乗車して、ミール通辺りへ引揚げました。市内線のバスは、料金一律で20ルーブルです。

ユジノサハリンスクの<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(2017年07月08日)

日本国内の方々で"酷暑"というような状態になっているようですが、ユジノサハリンスクでは「暑い...」という表現を「半ば忘れる」ような状態が続いていました。

そんな状態が俄かに一転し、「25°C超」が見受けられるようになりました。"酷暑"な各地の皆さんに笑われそうですが、「冷涼な気候」に慣れ切ってしまっているので、「25°C超」になると「半ば忘れた」ようになっていた「暑い」という表現が帰って来ます。

「25°C超」ともなると、街を歩いている人達も「夏らしい服装」という方が圧倒的多数を占めるようになり、レーニン広場の噴水の辺りには「裸になって水遊びをしている子ども達」も見受けられるようになります。

↓そういう中、「高い所に上がると、爽やかな風が抜ける?」と期待して、オフシーズンは展望台の様相を呈しているスキー場の<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>のゴンドラが運行している時間帯であったことを思い出し、立ち寄ってみました。
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↑「高い所に上がると、爽やかな風が抜ける?」という勝手な期待は外れました。多少暑いと、空気が霞んでしまって、殊に遠景はハッキリ見えない感じになります。大勢の人達が、山頂部に設けられた屋外席も在るカフェで思い思いに寛いでいる感じでした。

2本を乗り継ぐゴンドラで行くことが出来る最も高い場所から、"中間地点"のような場所まで下りました。

↓高さが変わると、街の見え方も変わるのですが、「大きいなぁ...」と思いながら大聖堂を視ていました。
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↑「何か変なモノが動いていないか?」と思えば、画の右上側に見えますが、パラグライダーで飛んでいる方が居ました。

↓5月にも立ち寄った経過が在りましたが、同じ場所でも街の見え方が全然違います。
>>オフシーズンは大展望台:ユジノサハリンスクの<ゴールヌィー・ヴォーズドゥフ>(2017年05月14日)

サハリン鉄道史博物館(その2)(2017年06月30日)

(注記)(その1)からの続きです。

↓<サハリン鉄道史博物館>に展示されていた写真の一つですが、何やらテープカットを行っています。
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↑これはサハリンの西海岸に在るホルムスク港と、対岸の大陸、ハバロフスク地方のワニノ港とを結ぶフェリーの開業を記念するセレモニーということです。

ホルムスク・ワニノ航路ですが、<サハリン>と名付けられて「1号」から「10号」まで―現在も「8号」、「9号」、「10号」は現役です。―建造された大型フェリーが就航し、船内の車輛甲板には鉄道貨車が積載されるものです。甲板上に鉄道のレールが敷かれていて、桟橋に敷かれたレールに繋がって、貨車はそのまま船内に「乗入れる」型です。(運航終了から既に30年にもなりますが、日本国内の事例では<青函連絡船>がそういう方式で貨車を運んで航行していました。)

↓1970年代のホルムスクの様子を撮影した写真も展示されています。
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↑ソ連時代には、サハリンの工場で製造されたモノが貨車に載せられ、このホルムスク・ワニノ航路で大陸に渡り、ソ連全土に届けられていました。そして様々な物資が、ソ連全土から鉄道で運ばれ、貨車に収まった状態で、ワニノからホルムスクへこの航路の船で運び込まれていたのです。

鉄道貨車で物資を運ぶという場合、「大陸とサハリン」では少々問題が在ります。

サハリンの鉄道の多くは「樺太時代」の建設で、ソ連時代にもそのまま使用され続けました。「樺太時代」の鉄道は「日本の規格」で線路の幅(軌間)が設定されており、「1067mm」です。これに対して大陸ではソ連で主流を占めている規格である「1520mm」という軌間が採用されています。

ということは、「大陸で使っている貨車をサハリンに持ち込む場合」でも「サハリンで使っている貨車を大陸に持ち込む場合」でも、貨車の車輪の軸は「軌間」(線路の幅)に合わせたモノである以上、「動かしようが無い」ということになってしまいます。

↓そこでこの写真のような作業が発生します。
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↑幅の狭い線路と、幅の広い線路が「重なり合う」かのように配置されている様子も視えますが、これは「貨車の台車を交換する作業」をする場所で、ホルムスクに設けられています。

クレーンで貨車を引っ張り上げながら、「大陸から到着した貨車をサハリンで運行」であれば「1067mm」に合わせた台車を、「サハリンから大陸に運ぶ貨車」であれば「1520mm」に合わせた台車を、各々必要に応じて嵌め込んでしまう訳です。

こういう様子は「サハリンの鉄道」に「際立って特徴的」なことと言えるかもしれません。他方、サハリンに限定せず、「ロシアの鉄道」ということで考えても、「1520mm」という軌間は欧州の他の国々と規格が異なり、「やや特殊」という面は在ります。欧州の多くの国々では「1435mm」という軌間が採用されています。そこでロシアと他の欧州諸国との間を行き交う国際列車に関しても、色々な工夫は在ります。近年では「軌間の変更に対応する独特な工夫が施された機構」である所謂"フリーゲージ"の車輛も登場しているそうです。そういう意味では、このサハリンの特徴的な作業について、ロシアでは「意外に淡々とした感じ」で取り組まれているのかもしれません。

とは言っても、所謂"フリーゲージ"のような機構はどんな車輛にでも簡単に採用出来る訳でもありません。そこで、реконструкция(レコンストルクツィア)=再建と呼び習わされる作業に着手されます。

реконструкция(レコンストルクツィア)=再建というのは、「2本在る線路の脇に"3本目"を敷く」ことに他なりません。「1067mm」規格の2本の脇に、「1520mm」規格になるような"3本目"を敷くと、何れの規格の車輛でもその工事が施された後の軌道を行き交うことが適います。

↓こういうような型にするというのです。
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↑「1067mm」規格の2本の脇に、「1520mm」規格になるような"3本目"を敷いた型に整えている場面です。

こういうようにすると「万事解決」と思えますが、「意外に難しい問題」も在ります。それは、例えば橋梁や、線路を敷設した路盤の幅が狭い箇所では「1520mm」に対応出来るように、橋梁や路盤を改修する必要が生じる場合が在ります。更にトンネルに関しても、古いトンネルは「車輛が通過可能なギリギリの大きさ」に掘り抜かれているモノが見受けられるので、改修を施すとなれば作業は大掛かりになります。

「軌間の違い」に関して、日本国内の事例で判り易いモノを例示するとすれば「在来線の列車の座席」と「新幹線の列車の座席」の件が挙げられるでしょう。軌間が「1067mm」の在来線では「右側に2列の座席+左側に2列の座席」の「計4列」が多く見受けられる状態です。軌間が「1435mm」の新幹線では「右側に2列の座席+左側に3列の座席」の「計5列」が見受けられます。座席の幅は、在来線も新幹線も然程違いは無い訳ですから、こうして考えると「軌間の違いの故に車輛の幅も違う」ことが判り易いと思います。ソ連規格の「1520mm」というのは、新幹線にも採用されている「1435mm」より更に大きいのです。その大きな車輛がトンネルを通過する可能性を考えれば、正しく「再建」という感じで取り組む仕事になってしまいます。

↓<サハリン鉄道史博物館>を出て、直ぐ傍の辺りにこういう記念碑が建っています。
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↑これは上述の「再建」と呼び習わされる工事が2003年に着工したことを記念するモニュメントです。

この「再建」と呼ばれる工事ですが、2017年に入った時点で「サハリンの使用されている鉄道の概ね70%弱が完成」と言われており、「2020年完成」を「目標」にしているということでした。この種の工事は、「思わぬ難工事」になってしまったり、予算等の制約が生じてしまう等、色々な状況が在り得る訳ですが、完成すればサハリンの鉄道は「より一層活用」となって行く筈です。因みに、サハリンで「鉄道の利用」と言う場合、どちらかと言えば貨物輸送が重きをなしていて、旅客列車は現在は非常に限定的な運行となっている状態です。

こういうような<サハリン鉄道史博物館>の展示に在る様々な話題ですが、この館の学芸員で、殆ど御一人で館を切り盛りして「実質的な館長さん」ということになるアンドレイ・ニコラエヴィチ・チリキンさんとお話しして色々と知りました。「残念ながら、外国からの来館者向けの外国語説明等は未整備なのだが...」ということで、ロシア語でお話しを伺った訳ですが、「時間の経過を半ば忘れる」ような具合で見学させて頂きました。チリキンさんは、色々な型で伝えられている「日本由来のモノ」にも強い関心を寄せられていて、ロシアの方にはやや判り難い「昭和〇〇年」という、モノが製造された年次等の記載についても勉強されている様子で、そんなこともお話ししました。

結局、樺太時代に主に南部で、日本の規格で整備され、或る程度盛んに利用されて行った経過が在って、やがて2003年以降の「再建」という時代に入って行くという「サハリンの鉄道史」が判るのが、この<サハリン鉄道史博物館>の展示です。

そういう"大筋"に加えて、色々と面白いモノが限られたスペースに一寸詰まっています。

↓これは、この<サハリン鉄道史博物館>が開設された時にサハリンの鉄道局長を務めていた方が、退職後に寄贈して下さったという制服です。
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↓これは、よく見ると「京東」と「"東京"の昔の書き方」になっているモノが読めるのですが、ポイントに使われる部品であるようです。1930年代のモノと見受けられます。
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↑サハリンの鉄道では、1930年代頃までに様々なモノがかなり長く使い続けられた経過も在るようです。

<サハリン鉄道史博物館>は、何か「色々と面白いグッズを小さなスペースに詰め込んだお店」のような場所に「一寸寄ってモノを見てみる」というような雰囲気も漂いますが、とにかく興味深いと思いました。

サハリン鉄道史博物館(その1)(2017年06月30日)

ユジノサハリンスク駅の近くに「日本のD51?!」と、日本からの来訪者が一寸注目してしまう古い蒸気機関車が静態保存されている場所が在ります。この古い蒸気機関車ですが、辺りで何やらモノの販売をやっていたり、間近に何処かの車が駐車されていたりで、何やら「好い感じ」で眺めることが叶わない感じの場合が多いのですが、この近くに一寸興味深い展示施設が在ります。

↓然程大きくない建物の入口に地味な看板が在ります。
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↑月曜日から金曜日、9時から18時開館で12時から13時が休憩のために一時閉館という案内が在りますが、ここが<サハリン鉄道史博物館>です。

企業の本社や工場の管理部門の場所に、過去の製品や広告、何かの出来事の記録写真、或いは何かで表彰を受けた経過を示す物等、活動の経過を関係者や来訪者に紹介する"展示室"のようなものが設けられる場合が在ります。サハリンの鉄道に関しては、1970年代頃にそういう場所が設けられていたそうですが、そうした場所をもう少し踏み込んだ"博物館"という体裁の「公開の展示施設」とすることが企図され、2004年に<サハリン鉄道史博物館>が開館したということです。

近年、日本国内では方々のJRで「鉄道博物館」を設けて好評を博しているようですが、ここはそういうような大規模なものでもなく、「企業の"展示室"」の延長線上の地味な施設です。屋外に古い車輛を並べて在って、そこを眺めることも出来るのですが、今回は「ユジノサハリンスク駅の傍という次元の近所に在りながら、なかなか立寄る機会を設けられなかった展示施設」を一寸訪ねてみたのです。地味であることが「つまらない」ということにはなりません。ここはなかなかに興味深い展示が視られる場所でした。

↓稚内の郷土資料館である<北方記念館>に、1930年代の南樺太の図が在るのですが、それにソックリな図に驚きました。「サハリン南部の図」とロシア語が入って、書かれている地名等もロシア語です。
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↑これは作成年代を特定する資料が無いということですが、長くサハリン鉄道局の局長室に飾られていたそうです。多分、1940年代末、または1950年代に入って直ぐ位のモノと思われます。1930年代の日本の図案を模倣したと考えられるのですが、決定的な違いは、日本の図では詳しく描かれていない、サハリン州の管轄区域ということになった千島列島が詳しく描かれていることです。

この図に在る鉄道路線は、日本統治下で建設されてソ連時代にも使用されたものが殆どですが、その後新たに設けられた路線が一部在るものの、使用されなくなってしまっている路線も在ります。更に図にはソ連時代に入っても使用され続けた、各地の製紙工場のような大型工場等も描き込まれています。

↓第2次大戦後、ソ連化されたサハリンが本格的に色々な体制を固め始めた1947年1月1日付の、鉄道運行区間を示す略図です。
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↑図の右側では「ロシア語アルファベットの日本地名・ロシア語地名」、左側では「ロシア語地名・ロシア語アルファベットの日本地名」というようにして場所を示し、起点からの鉄道の距離が記されています。

図の右側を視ると、一番下に配された「オトマリ-ミナト」=大泊港を「0.0」としていて、ユジノサハリンスクとなっている「トヨハラ」=豊原は「41.1」となっています。この資料は、手に取って視ても差し支えないようにラミネート加工されたモノでした。実際、手にしてゆっくり見ていました。

↓赤地に黄色の文字で「D51-30」と在ります。これは蒸気機関車の正面に掲げられるプレートです。
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↑日本の国鉄の蒸気機関車では、例えば「D51 30」というようになっているもので、「D51-30」というように「-」(ハイフン)は入りません。これは「訳アリ」なD51形蒸気機関車なのです。

これは「サハリンの"日本規格"の鉄道で使用する蒸気機関車が必要」というソ連政府の求めで、日本で製造してサハリンへ送り出された機関車で、日本で最も多く製造されたD51形とは「別枠」なのです。30輛在ったということで、ここで展示されている「D51-30」は「最終番機」です。

↓プレートが飾られている「D51-30」の同型である「D51-4」は動態保存でした。「でした」と過去形なのは、2008年頃までは動いたそうですが、その後調子が悪くなり、現在は動かないというのです。
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↑修復しようにも、古いメカで特殊なために、簡単には出来ないということのようです。ここには「D51-4」が客車を牽引して運行されていた時の写真が飾られています。

こういうように「華々しい何か」が在るでもないのかもしれない他方で、なかなかに興味深い展示が在るというのが、御理解頂けたと思います。

(注記)(その2)へ続きます...

A.P.チェーホフ 『サハリン島』 文学記念館(2017年06月18日)

アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов)(1860年 - 1904年)は、「ロシアを代表する」とさえ形容される劇作家です。『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』という"四大戯曲"が殊に著名です。

このチェーホフですが、劇作家として名声を博して行く以前は、寧ろ短篇や中篇の小説の書き手であり、ルポルタージュ作家としても知られていました。

チェーホフを「ルポルタージュ作家」と評する場合が在るのは、彼が1895年に上梓した『サハリン島』の存在が在るからです。1890年、当時は30歳の青年だったチェーホフは80日間余りの旅を経てサハリンを訪れ、サハリンでの見聞を克明に書き綴りました。

「ロシアを代表する」とさえ形容される存在感を示す作家であって、「実際に当時のサハリンの地を踏んでいる」ということで、チェーホフは地元サハリンでは「非常に敬愛されている文学者」という感じがします。

ユジノサハリンスクには、このチェーホフの『サハリン島』の事績を伝える<A.P.チェーホフ 『サハリン島』 文学記念館>が在ります。サハリン州政府の大きな本庁舎の向かい側に"チェーホフ"の名を冠した劇場が在り、劇場の脇を少し南に進んだ辺りにこの記念館が在ります。

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<A.P.チェーホフ 『サハリン島』 文学記念館>は1980年代頃から構想が登場し、1995年に開館し、2013年に現在の新しい建物に移転して現在に至っているというものです。正直、公式の名称がやや長い関係で、日常的には「チェーホフ・ミュージアム」というような感じ、日本語なら「チェーホフ記念館」という雰囲気な呼び方をすることが多いかもしれません。

↓入口には「1890年頃のアレクサンドロフスク・サハリンスキー」という写真を使った、常設展を紹介する幕が在りました。
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↑「チェーホフの眼に映じたサハリン」というのが常設展のテーマで、主な展示は1890年頃のサハリンの様子を紹介するというものです。

↓館の入口辺りでは、チェーホフの胸像が来館者を迎えてくれています。
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1階に設けられている常設展示の入場料は50ルーブルです。2階の企画展―立寄った時は絵画展と写真展でした。―は別途で、この時は100ルーブルだったので、合計150ルーブルでした。写真(静止画)撮影は特段に別料金無しで許可されています。

↓これが1895年にチェーホフが上梓した『サハリン島』です。
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↑現在使用されているロシア語の文字はロシア革命以降のモノです。これはその時期以前の出版ですから、一部に「現在では普通に使われていない文字」が在ります。写真の中表紙では、最上段の著者名の語末、二段目の書名の語末にその「現在では普通に使われていない文字」が入っています。

↓チェーホフはアレクサンドロフスク・サハリンスキーに上陸していますが、チェーホフが上陸した頃に既に在ったという灯台の模型が在りました。
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当時のサハリンは「流刑地」でした。送り込まれた人達の労働力で林業や炭鉱開発や土木工事、建築工事が行われていました。そして同時に定着しようとする人達が農業や漁業を営んでいました。

↓等身大の人形で、「1890年頃のサハリンの人達」が再現されています。これは炭鉱での作業の様子です。
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↓これは小屋に住んでいた労働に従事した人達が、手近なモノを賭けてカード遊びに興じているという様子です。
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館内の展示に在る資料を視る限り、1890年頃のサハリンには8千人余りの人達が居たようです。そのなか、25歳から45歳が半数を占めていたと言いますが、これは「流刑」の人達が大きな割合を占めたということなのでしょう。他方で、サハリンで産まれる子ども達も少しずつ増えていました。

↓チェーホフがやって来たような時期、「流刑地」の暮らしの中、刑期を終えて定着しようとする人達や、移り住んで来た人達が「新しい家族」を形成する例も見受けられるようになっていたようです。
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↓小さな模型で1890年頃の様子を示した展示も在ります。これは、子ども達が増えたことを受けて、文字や算数を教える教場、学校が開設された様子です。
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↓これは教会ですが、司祭の前に男女が佇む様子を視ると、結婚式を挙げている場面のようです。
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↓1890年のサハリンの様子、「チェーホフの眼に映じたサハリン」という展示の他、作家チェーホフに関する展示も在ります。
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↑これはチェーホフが執筆活動をしていた書斎をイメージした展示です。

↓更に、チェーホフが生きていた時代にも在ったと見受けられる古いピアノも展示されていました。
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チェーホフは、往路では大陸を列車や馬車で横断して、船でサハリンへ渡っています。復路は<ペテルブルグ号>という船で、サハリンのコルサコフから南下してインド洋に出て、セイロン島を経てオデッサに向かう船旅で帰ったそうです。

↓その、サハリンを離れるチェーホフが乗船したという<ペテルブルグ号>の模型が在ります。
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↓館のウェブサイト(ロシア語)
>>Литературно-художественный музей книги А. П. Чехова "Остров Сахалин"

↓館の前には、『サハリン島』の事績を伝えるモニュメントが据えられています。
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本のページをイメージしたモニュメントで、「30歳頃をイメージ?」というチェーホフの肖像画と、『サハリン島』からの引用が在ります。

引用部分は、拙訳ですが「地方は未だ若い...人々の仕事と過去における献身は大なるものがあったが、それでもこれは未だ始まりに過ぎず、未来にあっては少なからぬよきもの、そして興味深い役目があるはずだ...」という程の意味です。

この記念館は小さなモノかもしれませんが、何となく「サハリンの草創期」と地元の皆さんが感じているような時期に関して、色々と想いが巡る興味深い場所です。

訪ねた時には企画展が催されていた2階ですが、この場所は文化ホール的に利用されていて、色々な催しの場としても親しまれているようです。

<サハリン観光情報センター> (2017年06月21日)

↓日曜日の午後に、通に掲出されている大きな看板を目に留めました。
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↑左側には、色々な型で方々を巡るツアーを指し示す「エクスカーション」という語と、「土産」を意味する語が大きく出ています。右側は、欧州諸国の観光案内所で視掛ける「i」のマークが出ています。更に、よく見ると<北海道センター>というビルの住所が在ります。

<北海道センター>というのは、日本の企業や団体のオフィスが入っているビルです。入口辺りに常時係員が居て、来訪者に身分証明書の提示を求めて記録し、"入館カード"を出し、来訪者は"入館カード"を使って中に入り、退出時に"入館カード"を回収というような方式で出入りする場所です。"セキュリティー"が非常に確りしています。率直に、「来訪者が一寸立ち寄る"観光案内所"」というのが在る場所として、「理解し悪い」感じがしました。

「理解し悪い」という感じはしたものの、とりあえず誰でも視られる看板に「<北海道センター>内に在る」としているのです。非常に気になったので、<北海道センター>にオフィスを構える会社の方に電話連絡をしてお尋ねすると、「そういうモノは確かに在る」というのです。そして、それは非常に確りとやっている"セキュリティー"の手前に相当する場所で、「来訪者が一寸立ち寄る」ことも可能だというのです。

↓「そういうことなら...」と立ち寄ってみた<サハリン観光情報センター>です。
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↑2人の職員が常駐していて、業務にあたっています。

<サハリン観光情報センター>(ГБУ «Сахалинский туристско-информационный йентр»)ですが、これはロシア語の正式名称では「国の予算によって設立運営されている法人」という程の意味になる"ГБУ"(ゲーベーウー)という語が冠せられている公的な機構ということになります。<サハリン観光情報センター>は、サハリン州政府によって2016年10月に設立され、2017年4月から<北海道センター>の現在地を本拠地としたとのことです。<北海道センター>の他、ユジノサハリンスク空港の国内線到着エリアにも"案内所"を設けているとのことでした。

<サハリン観光情報センター>は、サハリンへの来訪者に向けて様々なエクスカーション(様々な型で何処かを巡るツアー)を提供(有料のモノは販売)すること、情報を提供することを旨として活動しているということでした。

場所の状況に関して「気軽に誰でも寄るイメージの商業施設でもないようなオフィスビルで、外から判る目印も無い状態で、来訪者がセンターに寄ることが叶うのであろうか?」と思えたので、率直に係の方にお尋ねしました。すると「近日中に外から判る看板が登場する」ということでした。

<サハリン観光情報センター>では「7月以降」を「国内外の来訪者が多くなる時季」と考えていて、「7月1日」を基準日と考えて色々な準備を進めているところなのだそうです。看板の他、英語、韓国語、中国語、日本語等の外国語による案内資料等も鋭意準備中で、7月頃から登場するようです。

↓現在の時点では、サハリンのイメージを伝える、多彩な写真が在って、主なホテルや旅行会社の住所等も掲載されたロシア語(一部英語)のパンフレットや、「歩いて巡るユジノサハリンスク」というようなリーフレットが在ります。
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↓「歩いて巡るユジノサハリンスク」に関しては、偶々ですが筆者が普段から動き回っているような地区に該当しました。確かに、数時間で随分楽しめるようなコースです。
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結局、「7月により多くの資料が登場」と聞いて、「そういう時季にまた寄ってみる」と、この<サハリン観光情報センター>を辞去しました。が、それ以前に稚内で、更に北海道内や日本国内で「ユジノサハリンスクにサハリン州政府が設けた機構による"観光案内所"が在って活動している」ということが余り知られていないと思いました。そこで、"資料"は御紹介出来ない状態ですが、この<サハリン観光情報センター>について、ここで御紹介してみることとしました。

<サハリン観光情報センター>
オープン:月曜日 - 金曜日=09:00 - 18:00


↓彼らのウェブサイト(ロシア語)=なかなかに素晴らしい写真が色々と掲載されています。
Туристический портал GoSakhalin

この<サハリン観光情報センター>については、情報が入った時点で続報したいと考えています。

ネベリスク歴史郷土博物館(2017年05月06日)

ネベリスクの地区行政府庁舎や文化センターが在る広場の辺りに、嘗ての地区行政府庁舎を転用した博物館が在ります。

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2007年の地震災害の後も地区行政府庁舎として旧庁舎は使用されていましたが、2012年頃までに近くの新庁舎に地区行政府が完全に移転した後、旧庁舎には改装工事が施され、2014年に「ネベリスク歴史郷土博物館」として開館しました。

"歴史郷土博物館"としては、市内の建物を利用したものが1989年に開設され、地域の歴史等を学ぶことが出来る場となっていた経過が在ります。2014年に現在の旧庁舎を利用した新館―少し紛らわしい言い方を余儀なくされていますが...―に移ってからは、ネベリスク地区の歴史や自然を主なテーマに、地域の色々なことを学ぶことが出来る展示が為されていることに加え、様々な作品展のような催しが開かれる"文化ホール"の機能も担っています。

古くからサハリンで暮らしていた北方少数民族のことを紹介する展示から始まり、その後には日本の人達の事績も含め、サハリンがロシア等の国々に知られていくようになる経過の展示が在ります。

↓その展示の中では、敢えてニコライ・ワシーリエヴィチ・ルダノフスキーの胸像が飾られています。
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↑詳しい説明は視なかったのですが、他の場所に在る胸像のレプリカかもしれません。ルダノフスキーが南サハリン各地を踏査した中、1854年に現在のネベリスク辺りに至ったと伝えられますが、ネベリスクではその故事を以て"建都"と考えています。

↓"本斗"と呼ばれていた樺太時代に関しては、街に伝わる様々なモノを精力的に集めて展示している様子が伺えます。
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↓ネベリスクの人達が「日本の人達を御案内して、御覧頂くと口々に珍しいと言われる」としている展示品です。
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↑昭和天皇の「御一家」の写真が入った掛け軸です。昭和天皇は皇太子時代に英国を訪れた経過から「欧州の王室的な感じ」を好んだと伝えられているようですが、「御一家の写真」というのは欧州の王室に在りそうな感じです。皇太子時代の昭和天皇と言えば、"摂政宮"と呼ばれた時期が在って、その頃に樺太行啓をしています。"本斗"にも立ち寄られているようです。

↓現代のネベリスクを紹介する文脈で、「友好都市交流」の展示も在ります。
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↑稚内の写真がこんなに大きく飾られている「日本国外の場所」は、一寸珍しいかもしれません。稚内とネベリスクとの友好都市提携は1972年で、2017年で45年となります。

ネベリスクでは「稚内との御縁」を、稚内の側で思う以上に大切に考えて下さっている様子が伺えます。

↓一定世代以上の地元の皆さんが「そう言えば、こういうの在ったね...」ということで話題にしそうな、ソ連時代の様々な文物を置いたコーナーも在りました。
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↑不思議な大きな機械ですが、「コインを入れるとコップ一杯分のガス入りミネラルウォーターが出て来る」という、ソ連時代の一時期にはかなり広く普及していた機械だということでした。

この博物館の入館料は50ルーブルです。館内の写真撮影を希望する場合には、更に50ルーブルを支払います。(方式がユジノサハリンスクに在るサハリン州郷土博物館と同じです。)

↓博物館のロシア語のウェブサイトも在ります。
>>Невельский историко – краеведческий музей

こうした地域の色々なことが判る場所は興味深いものです。道路が整備され、訪ね易くなったネベリスクの「一寸寄ってみたい場所」という感じです。

旧 王子製紙眞岡工場(2017年05月21日)

樺太時代には「眞岡」(まおか)と呼ばれていたホルムスクは、海岸部に「南北」に市街が拡がっているだけではなく、丘陵の階段状の地形に街が拓かれているので、「上下」にも市街が拡がっています。

そういう「南北」に加えて「上下」にも市街が拡がっている状況なので、色々と「独特な表情の景色が視られる」街でもあります。

↓「独特な表情の景色が視られる」と言う場合に「際立って独特な」と形容したくなるのが、こんな様子です。
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↑様子を眺めていると、「SF系統の映画やコミック」のような「現実離れ?」な印象も抱いてしまいます。この写真を友人に見せた時、「"街中の巨大廃墟"?何か混沌としているのだろうか?」という感想を漏らしていました。(実際、"街中"とは言っても、中心街的な場所を僅かに外れた感じになっていました。)

朽ちているような大きなコンクリートの構造物は「旧 王子製紙眞岡工場」です。

1919年9月に「樺太工業」という会社が当地に製紙工場を起こし、1921年5月に工場が全焼してしまい、1922年3月に復旧したという経過を辿ったようです。そうした経過や、元号が"昭和"に切り替わった少し後の不況等が在って、製紙業界で企業合併等により業界再編が進められ、1933年に「樺太工業」は「王子製紙」に合併となり、眞岡工場は王子製紙の工場となったのだそうです。

((注記) 因みにこの眞岡工場を運営していた会社は1949年に解散し、1961年に清算を終えて消滅しているので、現在も存在する同名の製紙会社の"前身"的な性質は帯びるものの、関連性は弱いそうです。)

1945年に樺太が放棄されて以降、眞岡工場はソ連の工場になり、新聞印刷用の紙を製造する等、長く活動を続けていたそうです。1990年代に入って間もなく工場が操業を停止し、現在の"廃墟"状態になってしまったとのことです。

↓「工場」が「工場跡」ということになってからだけで、既に四半世紀が経っていますから、相当に傷んでしまっている様子が判ります。
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↓塔のようになっている場所の金属製と見受けられる階段は錆びてしまっていて、昇降すると壊れてしまいそうに見えます。
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「眞岡」(まおか)と呼ばれていた時代にも、街は「西海岸の海陸交通の要衝」という位置を占めていましたが、ソ連時代にも「大陸との貨物輸送の拠点」となっていて、サハリンでは最大級の港を擁する都市でした。

((注記) 近年は「日本海のハブ港」となっている釜山との間を往来する貨物船、ロシアで「極東方面の輸送の要」となっているウラジオストクとの間を往来する貨物船が多く出入りしているコルサコフ港の方が、船の出入りや扱い貨物量は多いかもしれません。)

現在もホルムスクは大きな港を擁する都市で、港の出入口と向かい合うように丘の上の中心的市街地へ続く通が在ります。その辺りから地区行政府庁舎等も在る辺りを抜けて、更に少し進んで行くと集合住宅が一群を成している場所に出ます。その集合住宅が一群を成している場所の辺りから、「旧 王子製紙眞岡工場」が好く視えます。

「旧 王子製紙眞岡工場」の直ぐ横に鉄道が通っていて、鉄道と並行して道路が設けられています。この道路の辺りから「見上げるように視る」というのが、「旧 王子製紙眞岡工場」を視る場合によく在る型だと思いますが、集合住宅が一群を成している場所の辺りからは「見下ろすように視る」ということが出来ます。

この「旧 王子製紙眞岡工場」は、「サハリン=嘗ての樺太」というイメージの中では非常に「らしい」イメージの場所なのかもしれません。この場所を「とりあえず視たい」という方も多いと想像されます。サハリンを訪れる方が滞在する場合が多いユジノサハリンスクとホルムスクとの間は、1日に14往復の路線バスが運行されていて、所要時間は片道2時間以内ですから存外に訪ねてみ易い場所です。

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