広場に残る「シベリア出兵」の経過を伝えるプレート:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017年09月23日)
全く速いもので、アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねて非常に興味深かったという出来事が在ってから、もう直ぐ1ヶ月です。この間、「寒くなる方」へ着実に季節は進みました。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねた経過と彼の地での見聞に関しては、このブログでも御紹介していますが、一つ補っておきたい事項が在ります。
↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも、例によってレーニン像が在ります。
23-09-2017 広場 (1).jpg
↑像のレーニンが着ているコートに関して、立体的に視えるように工夫された表現が行われていると、少し興味深く像を観ました。
このレーニン像が在る広場は、「中央広場」ということで、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの都心部の真中と考えられています。「都心部の真中」とは言っても小さな街のことで、少し広い場所を囲むように2階建て程度の建物が幾分見受けられ、レーニン像の向こうが街の文化センターで、後は若干のベンチが並ぶばかりです。広場を囲む建物の一つに、何やら鳩の群れが棲んでいるようで、時々群れが一斉に飛んでいて壮観でした。そういう鳩に餌を与えるような人達も見受けられましたが、訪ねた日は好天であったことから、広場では子ども達からその保護者、若者からお年寄りまで思い思いに寛いでいました。
小さな街であるアレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、動き回っている中で一息入れるのに好適な喫茶店的な場所が見当たるでもありませんでした。そこで、近くの店でミネラルウォーターのボトルでも求めて、この広場のベンチに腰を下ろして休んだり、広場の様子を視て一息入れていました。
↓そういう中でこういうプレートを見付けました。
23-09-2017 広場 (2).jpg
プレートを見付けて、最初は「1925」という数字が眼に留まり、「1925年に何か出来事?」と思い、プレートを注視しました。
プレートには「1925年5月15日 日本による北部サハリン占領からの解放を祝う催事がここで行われた」と在ります。
この「日本による北部サハリン占領」というのが、日本国内では然程知られていないのかもしれません。
ロシア革命の後の混迷の中、日本を含む各国がロシアに軍を派遣した「シベリア出兵」という出来事が在りました。そうした経過の中、サハリンの対岸に在るニコラエフスク・ナ・アムーレで、共産主義系の勢力が多数の在留日本人を含む住民を虐殺して街を破壊してしまうという「尼港事件」が発生します。日本は"保障占領"としてサハリン北部に軍を進め、1925年に日ソ国交が樹立されるまでの約5年間の占領を続けていました。
プレートに在る「日本による北部サハリン占領からの解放」というのは、この1920年から1925年の占領が終わったということを指し示す訳です。
現在は<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の一部となっている、「サハリン初の電信局」の開設に尽力して革命後は推されて街の指導者になっていたツァプコが住んでいたという家は、この占領の時期に日本軍関係者が利用していた経過が在ると聞きました。
↓「シベリア出兵」の頃の1925年までの日本の動きに関しては、2016年に出ている下記の本に詳しく紹介されています。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、北緯51度の景勝地も見受けられるような中に在る、古くからの経過を伝える独特な雰囲気を有する街でした。19世紀の帝政ロシアの下での色々な事、揺れ動いた20世紀の色々な事が伝わる地域です。他方、「やや不便...」な場所であることも否定出来ませんが、それでも何時か再訪してみたいと思わせてくれる、何か名状し悪いものが在ります。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーを訪ねた経過と彼の地での見聞に関しては、このブログでも御紹介していますが、一つ補っておきたい事項が在ります。
↓アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも、例によってレーニン像が在ります。
23-09-2017 広場 (1).jpg
↑像のレーニンが着ているコートに関して、立体的に視えるように工夫された表現が行われていると、少し興味深く像を観ました。
このレーニン像が在る広場は、「中央広場」ということで、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの都心部の真中と考えられています。「都心部の真中」とは言っても小さな街のことで、少し広い場所を囲むように2階建て程度の建物が幾分見受けられ、レーニン像の向こうが街の文化センターで、後は若干のベンチが並ぶばかりです。広場を囲む建物の一つに、何やら鳩の群れが棲んでいるようで、時々群れが一斉に飛んでいて壮観でした。そういう鳩に餌を与えるような人達も見受けられましたが、訪ねた日は好天であったことから、広場では子ども達からその保護者、若者からお年寄りまで思い思いに寛いでいました。
小さな街であるアレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、動き回っている中で一息入れるのに好適な喫茶店的な場所が見当たるでもありませんでした。そこで、近くの店でミネラルウォーターのボトルでも求めて、この広場のベンチに腰を下ろして休んだり、広場の様子を視て一息入れていました。
↓そういう中でこういうプレートを見付けました。
23-09-2017 広場 (2).jpg
プレートを見付けて、最初は「1925」という数字が眼に留まり、「1925年に何か出来事?」と思い、プレートを注視しました。
プレートには「1925年5月15日 日本による北部サハリン占領からの解放を祝う催事がここで行われた」と在ります。
この「日本による北部サハリン占領」というのが、日本国内では然程知られていないのかもしれません。
ロシア革命の後の混迷の中、日本を含む各国がロシアに軍を派遣した「シベリア出兵」という出来事が在りました。そうした経過の中、サハリンの対岸に在るニコラエフスク・ナ・アムーレで、共産主義系の勢力が多数の在留日本人を含む住民を虐殺して街を破壊してしまうという「尼港事件」が発生します。日本は"保障占領"としてサハリン北部に軍を進め、1925年に日ソ国交が樹立されるまでの約5年間の占領を続けていました。
プレートに在る「日本による北部サハリン占領からの解放」というのは、この1920年から1925年の占領が終わったということを指し示す訳です。
現在は<歴史・文学博物館『A.P.チェーホフとサハリン』>の一部となっている、「サハリン初の電信局」の開設に尽力して革命後は推されて街の指導者になっていたツァプコが住んでいたという家は、この占領の時期に日本軍関係者が利用していた経過が在ると聞きました。
↓「シベリア出兵」の頃の1925年までの日本の動きに関しては、2016年に出ている下記の本に詳しく紹介されています。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーは、北緯51度の景勝地も見受けられるような中に在る、古くからの経過を伝える独特な雰囲気を有する街でした。19世紀の帝政ロシアの下での色々な事、揺れ動いた20世紀の色々な事が伝わる地域です。他方、「やや不便...」な場所であることも否定出来ませんが、それでも何時か再訪してみたいと思わせてくれる、何か名状し悪いものが在ります。
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