ジョンキェル岬の灯台を望む(2017年09月23日)

外国の世界地図帳で、稚内の眼前に広がる「宗谷海峡」の名を頼りに、馴染んでいる北海道辺りの記述を視てみようというようなことを考えて索引に目を通すと、「宗谷海峡」という名が見付からない場合が殆どです。「宗谷海峡」は、欧州諸国等では「ラ・ペルーズ海峡」として知られているからです。

ラ・ペルーズはフランスの海軍士官で、世界周航を目指した人物です。1787年に日本海を北上してサハリン周辺からカムチャッカに至っていて、その時に幾つかの場所にフランスの人名に由来する地名を与えています。そうした情報は、カムチャッカ寄港時に下船した人物が陸路でフランスに帰国して伝えています。その地名が、現在でも受け継がれている例が幾つも在ります。

↓そういうことも在って、サハリンでもラ・ペルーズは「サハリンの様子を広く伝える活躍をした人達の一人」と認識されているようで、恐らくフランスの人達から贈られたモノと見受けられますが、ユジノサハリンスクのサハリン州郷土博物館にもプレートが飾られています。
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↑稚内の宗谷岬にも、宗谷海峡を欧州諸国等に紹介することとなったラ・ペルーズの事績を伝える記念碑が設けられており、これと同様なプレートが使用されています。

サハリン近海では、ラ・ペルーズ海峡の他にも、宗谷岬の対岸でサハリン島南端のクリリオン岬、ネベリスクの沖に浮かぶモネロン島、大陸側になりますが、現在ではサハリンからパイプラインで送り出されている石油を積出す港が設けられていることで知られているデ・カストリが、「1787年にラ・ペルーズが航海した際に与えた地名」として知られています。

が、アレクサンドロフスク・サハリンスキーにも「1787年にラ・ペルーズが航海した際に与えた地名」が在ります。それが「ジョンキェル岬」です。「ジョンキェル」は"Жонкиер"とか"Жонкьер"というような、「どういうように読む?」と思えるような綴り方になっています。

ジョンキェルという人物はラ・ペルーズよりも前の世代の人物ですが、ラ・ペルーズの同郷人でフランス南西部のアルビ出身です。海軍士官出身で<ヌーヴェル・フランス>と呼ばれていた北米植民地―現在のカナダのケベック州から米国のルイジアナ州にまで至る広範な地域でした。―の総督と務めていた人物です。因みにラ・ペルーズの経歴を視ると、彼は1754年から1763年の<7年戦争>に従軍し、北米で活動を行った経過も在ります。

このジョンキェルの名を冠した岬は、アレクサンドロフスク・サハリンスキーと南隣のドゥエという集落との間に在り、往来の利便性を向上させるために流刑囚が工事に従事してトンネルを掘った経過が在ります。アレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在したチェーホフも通っているという場所です。

ジョンキェル岬は、<三兄弟>の岩が視える海岸を南側に少し進んだ辺りで、流刑囚が掘ったというトンネルの入口も海岸に佇めば視えます。が、訪ねたタイミングが満潮かそれに近い状態であったようで、途中の海岸が海面下となって訪ねることが出来ませんでした。

訪ねられなかったのが非常に残念でしたが、とりあえずその日の夜を明かすために押さえた宿に引揚げ、タクシーをお願いして夕刻の暗くなってしまう前に訪ねてみることにしたのでした。

宿の人がタクシーの受付―何人かのドライバーの携帯電話であるようでした。2回か3回電話を架けて、応答が在った箇所と話しを始めていました。―に電話連絡を取ってくれました。電話をした際に「"ホテル"ですが...」と言って、それで話しが通じてしまう状況でした。宿には<ホテル トリ・ブラター>と景勝地の<三兄弟>を意味する立派な名前も在るのですが、街に「ホテル」と名が付く場所は結局そこだけであるようでした。

とりあえず「午後5時に...」ということにしていて、多少遅れましたがタクシーは現れました。ドゥエという南隣の集落を訪ねる場合の片道が500ルーブルだというので、それに準じる型の往復1000ルーブルということでお話しが纏まりました。

「灯台を視に行って、写真を撮りたい」と言えば、タクシーの運転手さんは説明してくれました。「車で本当に灯台の間近に行くことは困難だ。灯台そのものの場所に上がる、車が上がる道路は無い。が、灯台と海を見渡す高台であれば行くことが出来る。但し、一般車輛が通行可能な道路の端に車は停めて、特殊な車輛でもなければ入り悪い脇道を少々歩かなければならない。歩くのは100mとか200mという次元だと思う」ということでした。「それは大変に結構!行こう!!」とアレクサンドロフスク・サハリンスキーの街中から発車しました。

傾いた陽からの独特な光線を受ける中、街の西寄りから山道に入り、ループを描くように上下しながら、また車は砂埃を巻き上げながら進み、脇に入る小路が在る場所まで進みました。30分弱は乗車していたような気がします。

運転手さんは一緒に車を下りて、「灯台と海を見渡す高台」へ案内してくれました。少し風が強く、それがやや冷たい、西日に光る海が視える、足元が悪い辺りに至りました。「ここだね...こっちに多少進めるが、行き過ぎない方が好い...自分は車で待つから...お気を付けて...」と運転手さんは引揚げ「かたじけない...」と彼の背中を見送りました。

↓その風にも負けず、足元がやや悪いとも思える中で眼下に視た光景です。
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↑断崖と、断崖に貼り付くような草や木と、砂浜に岩や海と、空や流れる雲が独特な傾く陽が放つ光線の中に浮かび上がる様です。画の中に、現場で感じた風が流れているような気さえします。

↓ジョンキェル岬の灯台は1864年―日本史では幕末の頃でかの<池田屋事件>や<蛤御門の変>が在った頃。世界史では米国の南北戦争の時期。―創建で、2013年に自然災害で壊れてしまった後に再建されたのだといいます。
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↑創建年次を想うと、チェーホフがアレクサンドロフスク・サハリンスキーに滞在した1890年には、既に灯台が在ったということになります。実はユジノサハリンスクの<A.P.チェーホフ 『サハリン島』 文学記念館>でも、灯台のことは紹介されています。往時は完全に木造の建物だったようですが。

↓或いは、間近に寄る以上に「うゎっ!」と驚きの声が上がってしまうような雰囲気が在る風景だったかもしれません。
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暫らく写真を撮った後、運転手さんが待つ道路の端に引揚げ、アレクサンドロフスク・サハリンスキーの街へ戻りました。

今般のアレクサンドロフスク・サハリンスキー訪問では、とにかく天候には恵まれました。「海岸を歩いて灯台へ」というのは、在るのか無いのか判らない"次"への課題ということで、とにかく「観られて善かったぁ!」という光景に出くわすことが叶ったのは大変に幸いでした。

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