生神女寺院:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017年09月23日)
アレクサンドロフスク・サハリンスキーに到着し、押さえてあった宿に荷物を置くことを念頭に、宿の住所を探そうとする中、バスターミナルから緩やかな上り坂を進めば、直ぐに「少し凝った型?」の屋根が眼に留まりました。
↓通から視れば、こういうように視えます。
生神女寺院 (2).jpg
↑丁度、敷地への入口辺りの門が開いていたので、その辺りに佇んで「不思議な型の屋根?」と建物を眺め入ってしまいました。
これはロシア正教の寺院で、「Храм Покрова Божей Матери」(フラム ポクロワ ボージェイ マーチェリ)というそうです。"寺院"を意味する"Храм"(フラム)以下が「神の母」ということになる「生神女」という幾つか在るらしい言い方です。
「生神女」(しょうしんじょ)とは、正教で言う「神の母」という意味の用語です。カトリック等で言う「聖母マリア」というような概念とは少し定義が違うようで、日本でも活動しているロシア正教会では「生神女」と言っているようです。
↓ここに着いた時は、寺院への参拝を受け付けている土曜日の午前中だったことから、敷地に入ってみました。通に面していない側に出入口が設けられていて、寺院の正式名称のプレートも掲出されています。
生神女寺院 (1).jpg
この寺院は、1993年から建設して現在に至っているとのことです。サハリン各地で見受けられる事例ですが、"ポストソ連"とでも呼ぶべき1990年代に入って暫く経った時期に起こった「教会を!」という動きの中での建設であったと見受けられます。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、この寺院は「復興」と考えられているかもしれません。博物館等に古い写真が展示されていますが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーには1891年から1893年に建設されたという立派な寺院が在りました。これもまた<生神女寺院>と名付けられていたのだといいます。そして1930年に、用地を他用途に振り向けるべく建物は取り壊されてしまいました。
永い年月を経て、体制も変わった中で1993年に現在の建物の建設ということになって行きます。取り壊されてしまった寺院は、現在の建物が在る場所に在ったのだといいます。そういう意味で「復興」というようにも見受けられるのです。
↓それにしても、色々と組み合わさったような不思議な形状の屋根です。
生神女寺院 (4).jpg
↑往年の寺院ですが、そちらの方も不思議な形状の屋根でしたから、現在の建物を設計した際にもそのイメージを大切にしたのかもしれません。
「色々と制約も在った1993年の状況下、往年の教会を"復興"という願いを込めて、可能な範囲で往年の建物の屋根形状を再現してみようと試みた」ということのように想像しますが、当初は屋根の上に金色に輝く"クーポル"というモノが冠せられておらず、建設後に少し時日を経た2010年に登場したと聞きました。
↓屋根の外観は不思議な型ですが、屋根の下に形成されている堂内の空間は、この種のロシア正教の寺院としては普通な感じでした。
生神女寺院 (3).jpg
サハリンでのこの種のロシア正教関係の施設ですが、現在視られる建物は「1990年代以降」のモノです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの「間違いなく、嘗ても寺院が在った場所に建つ」という事例は、やや少ないように見受けられます。他方、積極的に地域で活動をしていて、一定の存在感を示しているというイメージの場所も多く見受けられます。
↓午後に至り、少し離れた場所から独特な建物外観を眺めました。
生神女寺院 (5).jpg
ソ連体制化の1930年に姿を消し、1993年に新たに登場したという経過の在る、独特な形状の建物をアレクサンドロフスク・サハリンスキー滞在の限られた時間の中で何度も眺めることになりました。
↓通から視れば、こういうように視えます。
生神女寺院 (2).jpg
↑丁度、敷地への入口辺りの門が開いていたので、その辺りに佇んで「不思議な型の屋根?」と建物を眺め入ってしまいました。
これはロシア正教の寺院で、「Храм Покрова Божей Матери」(フラム ポクロワ ボージェイ マーチェリ)というそうです。"寺院"を意味する"Храм"(フラム)以下が「神の母」ということになる「生神女」という幾つか在るらしい言い方です。
「生神女」(しょうしんじょ)とは、正教で言う「神の母」という意味の用語です。カトリック等で言う「聖母マリア」というような概念とは少し定義が違うようで、日本でも活動しているロシア正教会では「生神女」と言っているようです。
↓ここに着いた時は、寺院への参拝を受け付けている土曜日の午前中だったことから、敷地に入ってみました。通に面していない側に出入口が設けられていて、寺院の正式名称のプレートも掲出されています。
生神女寺院 (1).jpg
この寺院は、1993年から建設して現在に至っているとのことです。サハリン各地で見受けられる事例ですが、"ポストソ連"とでも呼ぶべき1990年代に入って暫く経った時期に起こった「教会を!」という動きの中での建設であったと見受けられます。
アレクサンドロフスク・サハリンスキーでは、この寺院は「復興」と考えられているかもしれません。博物館等に古い写真が展示されていますが、アレクサンドロフスク・サハリンスキーには1891年から1893年に建設されたという立派な寺院が在りました。これもまた<生神女寺院>と名付けられていたのだといいます。そして1930年に、用地を他用途に振り向けるべく建物は取り壊されてしまいました。
永い年月を経て、体制も変わった中で1993年に現在の建物の建設ということになって行きます。取り壊されてしまった寺院は、現在の建物が在る場所に在ったのだといいます。そういう意味で「復興」というようにも見受けられるのです。
↓それにしても、色々と組み合わさったような不思議な形状の屋根です。
生神女寺院 (4).jpg
↑往年の寺院ですが、そちらの方も不思議な形状の屋根でしたから、現在の建物を設計した際にもそのイメージを大切にしたのかもしれません。
「色々と制約も在った1993年の状況下、往年の教会を"復興"という願いを込めて、可能な範囲で往年の建物の屋根形状を再現してみようと試みた」ということのように想像しますが、当初は屋根の上に金色に輝く"クーポル"というモノが冠せられておらず、建設後に少し時日を経た2010年に登場したと聞きました。
↓屋根の外観は不思議な型ですが、屋根の下に形成されている堂内の空間は、この種のロシア正教の寺院としては普通な感じでした。
生神女寺院 (3).jpg
サハリンでのこの種のロシア正教関係の施設ですが、現在視られる建物は「1990年代以降」のモノです。アレクサンドロフスク・サハリンスキーの「間違いなく、嘗ても寺院が在った場所に建つ」という事例は、やや少ないように見受けられます。他方、積極的に地域で活動をしていて、一定の存在感を示しているというイメージの場所も多く見受けられます。
↓午後に至り、少し離れた場所から独特な建物外観を眺めました。
生神女寺院 (5).jpg
ソ連体制化の1930年に姿を消し、1993年に新たに登場したという経過の在る、独特な形状の建物をアレクサンドロフスク・サハリンスキー滞在の限られた時間の中で何度も眺めることになりました。
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