どうやって取得しているのかさっぱりわからないけど砂箱の更新状況
ページ名 | 編集者 | 編集日時 | リビジョン |
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y33r41 | islandsmaster | 21 Oct 2024 14:10 | Rev.1315 |
kuzirano | islandsmaster | 19 Oct 2024 02:03 | Rev.223 |
Kata_Men のサンドボックス | kata_men | 09 Jul 2024 17:47 | Rev.873 |
Amplifier | (account deleted) | 12 Jun 2024 11:39 | Rev.472 |
七町砂箱 | nanamati | 25 May 2024 11:25 | Rev.497 |
rararain | rararain | 14 May 2024 14:52 | Rev.721 |
キコの砂箱 | kikospaghetti | 11 May 2024 16:35 | Rev.158 |
SCP-3991-JP | Serisawanatu | 28 Apr 2024 09:52 | Rev.51 |
nooooon | nooooon | 18 Apr 2024 11:44 | Rev.96 |
fullfool578 | fullfool578 | 04 Apr 2024 15:56 | Rev.827 |
Ki Ki Ki | ki!ki!ki! | 18 Mar 2024 13:12 | Rev.8 |
MONO | VideoGameMonkeyMONO | 13 Mar 2024 15:35 | Rev.2371 |
SCP-YR/Parody | keicheureka | 10 Mar 2024 21:56 | Rev.306 |
ハニー | Kusahune | 08 Mar 2024 19:59 | Rev.7 |
SCP-3954-JP | eiopiwa | 02 Feb 2024 07:43 | Rev.13 |
我らの美しき指月の城 | ashiddo | 21 Jan 2024 05:51 | Rev.120 |
SCP-下書き-JP | ma_ink_ra1731MR | 20 Jan 2024 04:44 | Rev.35 |
碁盤目サンドニウムボックス | Iotsu3124 | 13 Jan 2024 11:18 | Rev.38 |
5g Gagagigo | 5G-gagagigo | 06 Jan 2024 04:01 | Rev.11 |
Tokotoko7 | tokotoko7 | 23 Dec 2023 05:26 | Rev.94 |
SCP-xxxx-JP | mutsuraHR31 | 17 Dec 2023 08:36 | Rev.5 |
224p | 224P | 17 Dec 2023 03:33 | Rev.12 |
Nanoskalig | Nanoskalig | 16 Dec 2023 03:28 | Rev.2 |
Mistertako SB2 | Mistertako | 07 Dec 2023 14:45 | Rev.734 |
Isozinの砂箱 | isozin | 03 Dec 2023 01:35 | Rev.165 |
lockerのロッカーの奥 | locker | 27 Nov 2023 02:21 | Rev.103 |
Tsunasinh | tsunasinh | 08 Nov 2023 15:14 | Rev.15 |
犬養の情報保管庫 | 1NuK4i | 08 Nov 2023 10:00 | Rev.77 |
えらい上司 | roica_necuro | 01 Nov 2023 16:16 | Rev.48 |
Yakisakeonigiri | (account deleted) | 10 Oct 2023 11:46 | Rev.88 |
「おまえは実在していない」
唐突な女の発言に、男は書きものの手を一度中断して、顔を上げた。乾燥しきっている鮮やかな七色の髪と、ひどく落ちくぼんだ目、ぱりぱりとひび割れた唇から漏れ出てくる言葉はか細く、だが劇薬のような音階を持っている。兎歌八千代と自称しているこの女は、健全で文化的な生活からは程遠い次元で生命活動を行っていた。元サイト管理官で、いくつかの機動部隊で幕僚を兼任し、しかも医療部門にも籍を置いている。経歴は輝かしいエリートのそれだが、この容貌を見てその内容を信じる気になれる人間は一握りとて存在しないだろう。
「すみません、もう一度よろしいですか」
「0か」
「あの、申し訳ないのですが」
白い取調室の中には、この兎歌という女と男の二人きりだった。女の情報はどれもこれもが欺瞞で満ちており、したがって男は目の前の狂人に、自らのことを語らせねばならないのだった。それは困難を極める作業であり、ゆえに、この取り調べ中に彼の手にあったペンの動きは、紙面に何も刻んではいなかった。
真っ白の紙タブラ・ラーサ。男はいま女が発した数字を書き取ろうと、左手で線を引いた。白い紙は依然として、その純粋性を誇るばかりであり、しかしたしかに、ペン先は紙の感覚を捉えていた。
「なんだ」
「ようこそ」
紙の上に、虹色の毛が落ちていた。身を乗り出していた女は、白目のほとんどなくなった瞳で男の姿を映しこんでいる。身を仰け反らせた男は、そこにしていたはずの、女がしていた香水の匂いが消えていることに気が付く。いや、あるいは、そんなものは初めからなかったのだろうが。
「わたしの名前は」
「名前......」
男は手元のブリーフケースを取り寄せる。眼前の狂人について事細かに──しかし欺瞞である──記された情報が載っていたページなどは存在せず、ただ空欄の人事ファイルだけがそこに綴じこまれていた。しかし、そもそもここにあったのは空のページだけだったはずだ。なぜ、そこに情報が載っているなどと勘違いしていたのかが、男にはわからなかった。
「思い出せ」女、だったかもしれないし男だったかもしれない相手は、男に向かってそう言った。青い色をした錠剤を取り出して、女男は、もう一度同じ言葉を発する。「思い出せ」
なにを、と問い返す男を見て、人間は笑っていたかもしれないし、あるいは怒っていたかもしれない。白い髪と白い目、白い錠剤。なにを忘れているというのか、と男は目の前を睨み付けた。
そこには空の椅子があった。
午前七時。汗臭くなってきた布団の中で、海野一三は目を覚ます。睡眠周期を感知して優しい音楽を流してくれるアプリケーションが、彼の見ていた悪夢を優しくせき止めていた。一度固めた決意が腐らないうちに、男は掛布団を脚で下へ追いやった。暖房を切っていたため、部屋はひどく冷却されている。
「..................」
両足を順にベッドから滑り落とし、絨毯の柔らかい感触をよく確かめる。まだよく目が開かないが、秒速五センチメートルほどの速さで前進を始める。電子ポットに水を適当に入れてスイッチを押し、テレビをつけて女子アナウンサーのうるさい高音を脳に取り込む。
椅子に座ると、背もたれが少し不気味な音を立てた。そろそろ買い替え時だが、はたしてどこで買ったものか、そもそも時間は、と出不精特有の言い訳探しをしているうちに、電子ポットが声高に湯が沸いたことを主張し始める。
「..................」
ティーパックをカップへ適当に放り込み、角砂糖を四つほど落とす。コーヒーフレッシュを切らしていたことに気が付き、眉をしかめる。パックを上下に揺らしながら撹拌し、そのまま口に運ぶ。熱すぎて味がわからないが、だんだんと意識がはっきりしてくる。
意識とともに、空腹感も形を帯びてくる。額に皺を寄せながら立ち上がり、冷蔵庫の中から結露した食パンの袋を取り出す。適当に二枚取って、オーブンの中へ置き去りにする。六分ぐらいにセットし、今度はマーガリンとつぶあんを取り出した。当然まだ焼けていないので、塗るために用意したスプーンをティーカップの中に突っ込んでかき回し始める。透明な砂糖の粒子が徐々に溶けて消え、満足したところでオーブンを止めに行く。
「......あむ」
海野には最近ひとつの発見があった。歯ブラシはテーブルに置いておくとよい。歯磨きをするタイミングを早めれば早めるほど、歯を磨き忘れる確率が減る。歯に引っかかっていたつぶあんの皮を吐き捨てて、彼は三日前と同じネクタイを首に巻いた。
チェスターコートのボタンが外れかかっていることに気が付き、どうするか数瞬思案して、結局どうもせずに仕事鞄を取り上げる。オートロックの玄関は指紋認証や静脈認証を必要とするため、両手首をどこかに置いてこない限り家から閉め出される心配はない。
施錠を確認して、海野は振り返る。そこには灰色の壁が迫っており、似たような玄関のドアが延々と左右に続いていた。サイト-████職員居住区第一レベルの東Aブロック九〇九号室。地下一階に存在する居住区から、さらにその十数メートル地下に潜った場所に彼の職場は存在していた。普通のペースで向かえば一五分ほどだが、途中で昼食を買うために遠回りをする必要がある。
歩き出してから三分ほどで、忘れ物をしていることに気が付いた。
朝の一錠を服用すると、ようやく彼の一日は始まる。腕時計を見て、次に足元を見た。壁と同じ色をしていたはずの床は、幾多の人間に踏みつけられたことによって黒く変色している。海野は走ることにした。昼食を買う時間を四分と仮定しても、歩いていては遅刻だった。
居住区からは何本ものエレベーターが出ており、ほとんどの職員が列をなしてそこに並ぶ。抱えている案件によっては、緊急性が認められて待ち時間ゼロの直通軌道に乗ることができるというが、海野はついぞそのようなものを目にしたことがなかった。五分ほどで自分の番が来て、床に引かれた線の通りに並ばされる。一度に百人を運べるというエレベーターは、大型機械の搬入などにも供されることがあった。
だれかがずっとくしゃみをしていた。知り合いらしい女子職員たちがひそひそと言葉を交わす以外、誰も口を利こうとはしない。地下で人工太陽光を浴びながら一年中生活する内勤職員たちにとってみれば、いまが冬かどうかなどはどうでもよさそうなことだった。三六五日つねに摂氏二四度、湿度五五パーセントに保たれているサイトでは、季節風邪もインフルエンザもあまり目にすることがない。
女子職員のひそやかな話題の対象は、エレベーター内に紛れ込んでいた特異性のある職員のようだった。居並ぶ職員たちの間からのぞいている白いくちばしは、二一世紀に生きる人間がするにはいささか時代錯誤な格好だった。この職員が目立つのはそのペストマスクだけでなく、このエレベーターで唯一白衣を着用しているということもあった。管理部門フロア行きのエレベーターに、白衣を着た科学者が乗り込むことはほとんどない。財団は職員個人の服装などにいちいち注文を付けるような組織ではなく、単に彼──彼女──の趣味という可能性もあった。だがこの職員が注目を浴びている最大の理由は、服装などではない。職員全員が首から提げ、左胸に留めているIDタグ。普通の職員のものは白地に黒、顔写真という構成だが、特定雇用職員──特異性を持つ職員をオブラートに包んだ呼称──のそれは違う。一目でそれとわかるように、目立つ赤が地色に使われている。
地下八階に着くと、一斉に職員たちがエレベーターを降りだした。このフロアにかぎらず、大規模サイトのオフィスというのは、ひとつの街のような様相を呈していることが多い。フロア間もセキュリティ・クリアランスの関係で移動が困難な場合があるため、各フロアに必ず購買部や医局が存在するのだ。海野は小走りに、その中のひとつに入る。
コンビニのような店舗でオールドファッションのドーナツを買い込んで、海野はふたたび走り出した。管理部門の一角、誰も関心を払わない総務部署の中に彼のオフィスはある。横幅二〇メートルほどの目抜き通りになっている一直線の通路に沿って、管理部門の主要オフィスが立ち並んでいる。出勤する職員の群れは、左右へ別れて徐々に数が減っていく。コンビニに入っていた数分のうちに、あの特異性職員の姿は見えなくなっていた。
会計部門の角を通ろうとしたとき、わずかな匂いが彼の足を止めた。脳髄のどこかを、的確に刺激してくる錆びた匂いだった。左胸の重い感触を思い出しながら、オフィスの間にある狭い通路へ足を踏み入れる。
それが人であるということはすぐにわかった。海野が先ほどから気になっていた水音も、そしてなんの悲鳴もしなかった理由も、すべては床に転がる遺体が雄弁に語っている。白かったペストマスクは、切り裂かれた喉から漏れた血液で真っ赤に染め上げられている。仰向けに倒れている姿は、抵抗する暇もなく迅速に殺されてしまったことを示している。だがその仕事ぶりはプロというには程遠かった。
血だまりが版図を拡げていく中、点々と続く小さな斑点の先に凶器のカッターナイフが落ちている。そしてその横に、へたりこんで遺体を見つめている犯人の姿があった。海野は警戒を解かずに、血と同じ色をしたIDタグの名前を調べる。黒埼 蛇。会計部門の主任とある。生体情報をつねにモニタリングしているタグは、すでにこの職員に起こった悲劇についても把握しているだろう。あと数十秒のうちに、ここには保安部門の職員たちがやってくる。
「何にも触れないでください。そこから動かないで」
海野は、犯人に対してできるだけ事務的な発音を心掛けた。小さくうなずいた職員の左胸には、彼と同じ白いIDタグが付けられている。
「わたしは内部保安部門の監察官です。あなたを逮捕します」
ぼうっとした様子で手錠をかけられた犯人は、保安部門に引っ立てられるまで、ずっと遺体を見つめていた。いったい何を熱心に見つめているのか、その時の海野にはわからなかった。
だが、のちにふと理解した。あれはIDタグを見ていたのだ。
「イヤな事件やなあ」
「殺人にイヤじゃない事件がありましたか」
水槽に飼われている爬虫類と、妙齢の女性が会話している。サイト-████の医局は、解剖される遺体のための霊安室を持っていた。殺された黒埼という事務官の遺体の検分のため、サイト管理官のエージェント・カナヘビと、内部保安部門副管理官の串間小豆が揃って現れたのだ。
「出会い頭に殺されたようです。犯人は黙秘を続けており、動機はわかっていません」
内部保安部門の制服に身を包んだ海野は、最近になって官僚的発音がようやくその咽頭になじんできていた。三日に一度は着ている灰色のシャツは、彼の実年齢を多少若く見せることに成功していたが、しかしそれは必ずしもプラスに働く要素は考えられない。
すくなくとも内部保安部門ではそうだった。ここにいる職員には──少なくとも彼が認識している限りにおいて──三〇歳以下の者はいない。合理性を重んじる財団組織は有史以来年功序列を採用したことなど一度もなく、信用を判断するのに最も有用なのは時間なのだということを理解しているに過ぎない。だから職員たちは、若作りをする必要を認めてはいなかった。この部門で年を重ねていくということは、つまりは財団からの長年の信頼を意味しているのだから。
「反人型異常実体主義者アンチ・メアリニストという線はないのかしら」
串間小豆 内部保安部門副管理官においては、そうした職員たちの風潮に対して抵抗を見せている数少ない人間の一人だった。部下からの報告を聞いている最中、目は手元のマニキュアへと向けられている。目の覚めるような赤い口紅と、扇情的なオレンジのアイシャドウは、彼女の加齢に対する挑戦の表れだった。
「特異性を持つ職員の周辺はあらかた調査されていますが、そういった報告はありません」
「見逃してたとちゃうん」
喉を裂かれた遺体は、口が二つあるかのようにぱっくりと傷口が開かれていた。エンバーミングの処置はまだかなり先のことで、あと数日はこのままにされている。カナヘビはちろちろと舌を出したり引っこめたりしていたが、やがて背を向けてしまった。遺体を下げさせたサイト管理官は、強い口調で海野と串間に告げる。
「動機の解明、それから再発防止を徹底してや。今回の件は徹底的に隠す。諸知に頼んで、管理部門全体に記憶処理を頼むわ」
「了解しました」
自律走行式の水槽がふわふわと浮かびながら、部屋を後にした。その後ろ姿を見送っていた女は、礼の姿勢を緩慢に崩して保管庫へ寄りかかる。懈怠さを鼻から吐き出し、年上の部下の方をちらと見やる。
「なんでしょうか」
「あんた、第一発見者だったね」
「はい」
「まあ、いいわ。この件はわたしとあんたでやる。いい」
「はい」
内部保安部門の女王陛下は、たばこが吸いたいと言い残すとさっそく部下を置いてどこかへ出て行ってしまう。一人残された海野は、検視官にもう一度いいですかと遺体を見せてもらうように頼むことにした。鷹揚に答えた検視官は、金属製の引き出しに手をかけた。黒い死体袋は、成人男性のものにしては小さかった。ジッパーが下ろされると、死臭が一気に漏れ出てくる。
気道に風穴を開け、あわや頸動脈に達しようというかという深さの裂傷には、見るからに怨嗟が込められている。呆然としていた犯人の様子から察するに、衝動的な犯行である可能性は十分にあった。だが、あのタイミングで人気のない角に陣取り、カッターナイフを準備していたとなるとそれは計画的殺人である。妙な事件だった。状況はちぐはぐで、なにひとつとして一貫性がないように思えた。
左胸からは、もうIDタグは取り外されていた。検視官は黙って海野の観察を見守っていたが、聞かれると流れるように説明を始めた。黒埼 蛇の特異性は周囲に被害をもたらす自身の声であるという。咽頭部が狙われたのはそれが理由なのでは、と検視官は自分の意見を最後に添えた。その仮説は非常に説得力があったが、海野にはどうにもこの遺体そのもの、事件そのものに違和感が付きまとっていた。
「ありがとうございます。おそらく次会うときには顔を覚えておいででないでしょうから、このIDタグで覚えておいてください」
「はあ......」
困惑している様子だったが、検視官は海野のIDを覚えるように顔を近づける。そこには目立たない男の肖像と、管理部門総務部という仮の所属が書かれている。海野は不意に、このタグは何色に見えますか、という質問をしたくなった。実際に口に出す前に検視官は顔を離し、男はおかしな考えを振り払うことに成功した。
「変わったお名前ですね。海野一三いつみさん」
「つぎは諜報機関のエージェントですか」
血液は大体拭き取られた後だった。エージェント・ユーリィは逆上した同僚によって、頭蓋に巨大な穴を穿たれた。数回殴打された痕跡が残されており、相当の殺意をもって襲撃を受けたことがうかがえる。殺害時の映像が残されており、海野たちはすでにそれを確認していた。
「犯人は同僚といいますが、正確には収容スペシャリストですね。工具を持っていたのは収容房に使う装置を自作していたとかで......」
「つまり今回も衝動殺人ということですね」
「にしては殺意が高すぎるようにも思えるけれど」
串間はちょっと値引きされているブランドでも見るかのようなフランクさで、惨殺死体に顔を近づける。エンバーミングはまだ終わっておらず、遺体の持つ臭気は防腐剤のそれよりも死臭が上回っていた。つぶさに亡骸を確認し終えると、続いて検視官が持っていた資料に目を通す。
「とりあえず昨日の事件とはさほど関連はなさそうね」
「昨日の今日で二人も......本当に偶然ですかね」
「なにかとストレスの多い職場じゃない」
遺体を前に実りの少ない会話をしている監察官たちは、背後から運ばれてきた銀の台車に気付くと眉目を曇らせた。現場の遺留品ということだったが、その数が想定よりも大量だったためである。犯行現場がオフィスだったと説明を受けたが、諜報機関出身の海野からしても、この量は多過ぎだった。
「帽子ですか」
「本人の趣味のようで」
「現場保存の基本からやり直して来いと保安部門に注文を付けてきて」
ジップロックで封されている袋をいくつか取り上げると、ふいに海野の手が止まった。ゆっくりとそれを台車に戻すと、「......串間さん」と静かに振り返った。「共通点があったかもしれません」
赤いIDタグが、彼の目の前に安置されていた。副管理官は小さくうなずき返して、携帯を取り出す。この事件が反人型異常実体主義者によるものとして、本格的に扱われ始めた瞬間だった。
「凶器はペンでした」
ジップロックに入れられたペンを掲げた後、海野はトレイの上にあった遺留品を次々と説明し始める。黙って聞いていた串間とカナヘビは、最後のひとつが終わるころには苦虫をかみつぶしたような表情に変わっていた。今回の事件もまた、目撃者多数の衝動殺人ということですぐに犯人が捕まった。
そして被害者もまた、特異性職員である。針山栄治は氏名を覚えてもらえないという特異性を持ち、これが原因で厚生部門の職員と口論になった。ヒートアップした職員は手近にあったペンを眼球に突き刺し、両手で押し込んだ。ペンの形をした強い殺意は前頭葉を破壊し、瞬く間に針山は絶命した。
「事件の隠蔽については、すでに記憶処理部の諸知博士に依頼しました。三時間後には厚生部も通常の職務に戻ります」
「背後関係は洗ったんか」
サイト管理官はほとんど被害者に対して無関心な風を装っていた。いま彼の小さな頭の中にあるのは、この件による上からの追及への懸念がほとんどだった。海野はそのことについて、いまさら批判的にはなりえなかったが、しかし自分が殉職した時の反応を想像しないではなかった。
「AICによる映像監視・分析ではやはり衝動殺人という以外に言いようがありません」
下からまぶたが上がってくるのは爬虫類の特徴である。視線は海野から横にいる串間へと向けられ、当の彼女は小刻みに首を横に振る。そこにはしばらくの沈黙があり、やがてドアが開かれる音によって打ち破られた。長い長い三つ編みの女は、沈痛な面持ちでうつむいている海野たちを見て、思わず立ち止まる。
「諸知です、あの、よろしいですか」
「ああ、ボクが呼んだんや」
いかにもうさんくさいものを見る串間の目つきに、カナヘビがフォローを入れる。サイト-████医療部門記憶処理部長──つまり立派なサイト幹部の一人である。サイト内での記憶処理活動のほぼすべてを統括する医官は、柔和な微笑みでもってカナヘビに挨拶をした。中性的な顔には丸渕眼鏡がかかっており、人によっては一種ひょうきんな印象さえ抱かせる。年齢も詳しくは知られておらず、とにかく三〇は行っていないだろうというのが大多数の見解だった。
徹頭徹尾、人に警戒感を抱かせない。これが諸知博士から受ける印象としてはもっとも大きいものである。ゆえに串間は、この医官に生理的な嫌悪感を感じていた。職業病と換言することもできる、その程度のものにすぎないが。
「テンプレートー9447というミーム・テンプレートが最近アメリカ支部の科学部門の治験を通過したのですが、今回の案件にこれが役立つのではないかと思いまして」
「どういうものなの、それ」
腕組みをしている内部保安部門副管理官は、新技術に対する懐疑論者のような態度でいる。諸知博士はそれを一ミリたりとも気にすることなく、こんこんと説明を始める。テンプレート-9447に付された推奨される使用目的は「職員間の信頼感向上」であり、すでにアメリカ支部のいくつかのサイトで効果が実証済みであるという。
「いくつかのメディアでミームを展開しますが、特に外科的な施術や投薬は必要としません。管理部門と内部保安部門の認可さえいただければ一両日中に準備を整えます」
「どうやろ、キミらが根本的な解決をするまでのつなぎとしては悪くないと思うんやけど、ボク」
「われわれから反対することは一つもありません」
女はそう言うと、内ポケットの煙草をまさぐり始めた。海野は上司が苛立ちを抑えようと努めていることに気が付き、自然にドアの方へ足が向いた。カナヘビはそういうことなら、とただちに取り掛かる旨を諸知に伝え、その場で解散を宣言する。
忠実なる部下は串間のためにドアを先に開けようとしたが、爬虫類は思い出したように彼だけを呼び止めた。その場の視線が彼に集められたが、数秒としないうちに部屋には二人だけが残された。カナヘビは水槽を彼の目の前まで移動させると、その胸のIDタグを検分するように見つめていた。
「本物そっくりに見えますか」
「冗談ヘタクソやな自分」
マニピュレーターがIDタグから離れ、サイト管理官の視線は海野の顔に向けられた。印象が極めて薄く、たとえ数年来の知己でも写真を見なければ思い出せないほどの顔。それは立派に特異性として処理されるべきはずのものだったが、彼のIDタグは通常のそれと同じく、白いものだった。
「諜報機関から移ったのが何年前や」
「もう五年になります。監察官になったのは三年前からです」
そうか、とカナヘビは驚くふうもなくうなずいた。爬虫類が人間のリアクションをまねている様子は、はた目から見るとどこか微笑ましいものだった。だが中身が老獪な官僚と知っていれば、単に不気味さの方が先立つ。
「もう慣れてもええ頃やろ。その白いID」
「ええ......」
海野の前職は諜報機関のケース・オフィサーだった。その顔の双眸失認を惹起する特異性を見込まれ、内部保安部門へ籍を移したのが五年前。そしてそのとき、彼はそれまでの経歴の一部を捨てることになった。人事ファイルに登録されている名前を変え、特異性に関する情報もさらに機密の奥深くへとしまいこまれた。彼のIDタグからは赤色が抜け、正常を表す白色になった。
それだけで人からの扱いがかなり変わることを、海野は知っている。
「どう思うね。今回の事件。ボクなんかいまさら命を狙ってくるやつが一人二人増えたところでかまへんけど、こうも無軌道に続くとちょこっと肝が冷えてくるな」
「とても違和感があります。財団日本支部の長い歴史を見ても、三日間連続で殺人が、しかもすべて別々の犯人によって特異性職員が殺されるというのは、珍しい類なのでは」
「キミも狙われると思うか」
「......わかりません。監察官になった後のわたしの特異性を知る人間はごくわずかですし。ここまでの犯行の様子を見るに、もしかするとこの胸の」
「赤いIDタグが殺人の原因と言いたいんか。特異性職員と普通の人間の区別がつかなければ、事件は起こらなかったと」
「可能性は、否定できないのではないかと」
ふむ、そうかね、とサイト管理官は会話を一旦打ち切った。素直に引き下がった海野は、カナヘビの様子をうかがっている。カナヘビの水槽にはIDタグが印刷されており、その色はやはり赤色のそれであった。
「そういえば、反ミームというらしいな」
「......はい?」
「海野クンの顔のような特異性を、そう呼ぶんやと。覚えられない、忘れられるもの」
「初めて聞く言葉ですね。それを専門に研究している科学者が、このサイトにもいるんですか」
「いや、冗談みたいな話やけど、反ミームを研究してるやつは大抵キミみたいなやつらしいね」
「というと、誰の記憶に残らないような人間ということですか」
「そういうことになるんやろうな」
諸知が言うとった、と付け加えると、サイト管理官は尻尾を振った。もう行け、という意味と受け取った海野は、会釈をしてその場を去る。廊下に出ると、串間が壁に寄り掛かって待っていた。
「行きましょう、聴取まだ続いてるらしいから」
「はい」
翌日。いつものように午前七時に覚醒した海野は、目覚ましを鳴る前に止めることに成功していた。天井のスピーカーから、急にペール・ギュントの『朝』が流れ出している。全サイト的な放送のようだが、にしても急だった。音量をゼロにはできないので、海野はしばらくベッドにこしかけて放送が終わるのを待っていた。
「こちらはサイト-████厚生部門です。本日より、職員同士の信頼感向上を図る『信頼週間』が始まります。......」
なるほどな、と監察官は納得して立ち上がった。諸知が何重にも仕掛けた信頼感を増幅させるミームの投与には、このぐらい露骨で強制性のあるものもあるということだ。紅茶のパックを落とす頃には、放送は終わっていた。もうミームの接種は済んだはずだが、海野にはなんの実感も湧かなかった。白い錠剤を飲み、水色のネクタイを締める。
その日、サイト-████で発生した死者は一六名。うちDクラス職員の消耗が一五、実験中の不慮の事故(検証済) による研究員の死亡が一人。殺人は起こらなかった。
「不気味なぐらい効いたわね」
「効果を評価できるようになるまでには、少なくとも数日を要するそうですが」
廊下中に張り出されたポスターの縮刷版を手にする指には、久方ぶりに塗りなおしたと思しき新しいマニキュアが塗られている。これでしばらく煙い思いをしないで済むだろうと安心した海野は、諸知博士からの伝言があると言った。
「今回の効果を測定するために、職員のミーム受容体を一度検査したい、とのことなんですが」
「ミーム受容体って要するに脳よね? それうちじゃ許可出せないわ、医療部門と管理部門の所掌になるんじゃないの」
「どうも、捜査目的となるとうちの判子がいるそうで」
「なるほどね......どれどれ」
洒落たデザインの赤い眼鏡が実は老眼鏡だということは、串間本人のみが知っているつもりの公然の秘密だった。諸知博士が提出した書面は、大体一目でほかのものと区別をつけることができた。気味の悪い犬のロゴマークを透かしに使っているのは、サイト-████広しといえども記憶処理部門だけだろう。
「わかった。来週までには結論出すから、先に倫理委員会にも話を通してもらっておいて」
「了解しました」
首をさすりながら出ていこうとする男は、「ちょっと」という上司の呼び声に歩を止める。あからさまに気後れした様子で振り向いた部下は、赤い口紅が弓張月に歪んでいるのを見て悟る。
「結局ここなんですか」
サイト内のバーは残業終わりの職員でにぎわっている。朝五時まで営業ということで、酒癖の悪い職員が部下を朝まで付き合わせて酔いつぶれている光景を大変な頻度で目にすることができた。そして今回それに該当するのは、おそらく彼ら内部保安部門の二人組だった。
「どうかしてるわ、ここじゃ隠れられないのに」
高級職員専用の個室という串間の選択からは、今夜は守秘も自制もするものかという強い決意が現れていた。個室は完全遮音の複合素材でできた壁に囲まれ、大声でわいせつな語を叫んだとしても外に漏れないが、まれに人事部から戒告が届くと言われる。
「監視カメラのない空間なんてありませんしね」
「......この歳になると徹夜がきつくて」
酒が入ると始まる串間の弱音は、海野が最も苦手とするものの一つだった。話を聞けば婚約者がいたそうなのだが、勤めている仕事もあって未だに独り身でいる。
「これで無事に解決すればいいんですけどね」
「いずれにせよ原因究明はしなくちゃならないわ」
明日から、また通常勤務のローテーションに戻れるかはだいぶ怪しいところだった。内部保安部門の人手不足は今に始まったことではないが、だからといって雇用条件の緩和を行えば組織そのものを崩壊させかねない。しかし、このままでは職員たちの方が音を上げるというジレンマを持つ。
「お前──」
するどく突き刺さるような怒号のあと、机の上をすべてひっくり返したかのような音が続く。声は防音壁のせいでくぐもって聞こえ、言葉の内容までは聞き取れない。
「待っていてください」
立ち上がりかけた串間を制止した男は、コンシールドキャリーの自動拳銃に手をかける。彼はしかし、すぐにベルトのホルスターから手を離していた。仮にこれが必要な状況であったとして、銃口を向ける役目は駆けつけた警備員が果たすだろう。内部保安部門においてコンシールドキャリーの必要性は、度々議論の俎上に上げられるテーマだった。激務の内部保安職員たちには十分な射撃訓練の時間が与えられず、結果として射撃による不慮の事態を招く恐れから銃の使用は嫌われる傾向にあった。海野の場合もそれに漏れず、形だけ携行義務を果たしておきながら、これまで滅多に使用することはなかった。
怒号はなおも続いており、すぐにそれが二人の人間による言い争いであることに男は気づく。酒類提供の店である以上、多少のいざこざが偶発的に発生することは防ぐことのできない事象なのだ。人だかりからは制止に入る声も聞こえていたが、どうやらなかなか当人たちは鉾を収めないらしく、応酬は続く。
射撃下手の監察官は歩を速めて、通路を埋め尽くしている人垣に手を差し込むと、無理矢理身体を間にねじ込む。痩身の若い研究員が、気に入らない上司に馬乗りになってあらん限りに叫び続けていた。
「いつもいつも滅茶苦茶なこと命令しやがって、お前、本当はオブジェクトのくせに」
酔った勢いといえども取り返しの付かない暴言が、まるでブレーキを失ったままカーブに突っ込む列車のように繰り出され続ける。
「気持ち悪いんだよ、絵の具ばっか食いやがってよ。お前が近くにいると食欲が失せるんだ」
すでに気を失っていると見える上司の顔は腫れ上がっていて、識別がかなり難しい。研究員のタグが芸術研究部門のものであると断定されると、監察官は即座に行動を起こそうと決断した。テーパードパンツの裾を少しまくり上げ、気づかれる間もなく一歩を踏み出し上段めがけてストレートキックを打ち当てる。
「この──あゔっ」
男の硬い靴底は顎を捉え、衝撃が頭蓋骨を貫通して飛んでいく。蹴りの勢いのまま、仰向けに倒れた研究員の両肩を左手右足で押さえつけた彼は、ここぞとばかりに銃を抜いた。
「止まれ。内部保安部門だ」
事態を飲み込めずに騒ぎ立てる暴れ馬は、やがて口腔内に侵入した異物の正体を悟ると大人しくなっていった。抱き起こされた上司は失神しているかと思われたが、部下が手錠をかけられ無抵抗と見るやすぐに逆襲を図ろうとした。警備員に羽交い締めにされてようやく反撃を諦めると、今度は口汚く部下の失態をなじり始める。うつむいて慚愧の念に駆られていた研究員は目を剥いたが、すぐに警備員に連行されていった
その目は義憤に燃えるというよりは、明らかに私怨と憤怒にまみれている。上司は上司で、唐突な部下の発狂に全く心当たりのないといった様子のように見受けられた。顔中を赤く腫らした色敷研究員は、血で汚れたジャケットを払って吐き捨てる。
「ぼくが修士しか持ってないのに上なのが気に食わないんだ」きっとそうに違いない、と見当違いなものなのかも判然としない憶測を並べ立てて、海野の方に詰め寄った。「彼をしっかりと処分してくれ。二度とぼくの目の前に現れないように」
「ご心配には及びません。色敷研究員」
背後から監察部門の副管理官が現れると、その場の職員たちは天敵を見つけた群れのように散っていく。
「これは......」
この研究員とて、部下の不祥事に関する苦情を彼らに言う愚に思い至らぬほど鈍くはなく、早々にその場を後にする。結局バーに残されたのは満身創痍の監察官二名と、騒ぎの後始末を引き受ける哀れな清掃員だけだった。串間は断る清掃員に酒をおごると、ラウンジのソファーに倒れ込む。
酒でこの場に残された陰惨を拭い取るには、それなりの量を必要とした。バーテンダーの諫言を全く聞き入れようとしない女性幹部は、こぼれたブラッディマリーをぬぐった唇で言う。
「あのヤブ医者を信用するべきじゃなかったのよ」
「まだ警戒配置は解けませんね。......分かってるなら飲まないでください」
あまり人に自慢できない類の友人という者が、誰しもに存在する。八家十次という人間は、海野にとってのそういった存在だった。歯並びと勤務態度以外は最悪という人物評は、たいていの知己が太鼓判を押す内容となっている。だが、生きている被害者と殺すまでに行かなかった加害者を手に入れたという事実は、内部保安部門にとって千載一遇の機会であったことは紛れもない事実であったし、そのために最適な人材を配置するのはもはや義務とすら言えた。
あれから三日が経過した。継続的に発生し続ける衝動殺人事件だが、海野たち内部保安部門は未だその抑止に有効な施策を取れずにいた。テンプレート-9447は結局、なんの効用ももたらすことなくただ毎日ペール・ギュントを流し続けているありさまである。
「お名前は」
「黒田といいます」
「被害者の色敷研究員とはどういったご関係で」
「つい最近、配属された先にいた上司です。もともと折り合いがそんなに良かったわけではありませんし、ずっと我慢していたんです。......」
被害者の言い分を聞きながら、八家は長く息を吐いていた。一見すると完全に話に飽きているようだが、あの尋問官はあれでしっかりと依頼した情報はとってくる職業人であった。
マジックミラー越しに聴取の様子を見守っていた海野は、ときおり手元の資料と照らし合わせている。わかりきっていたこととはいえ、いっさい有益そうな情報は得られそうになかった。八家のそれに比べると、だいぶ疲労と悲嘆の含有量が多い息を吐く。これまでの六件と同様、七件目も大して事件の性質に差はない。
別室で待機していた串間は、尋問の状況について伝えられると、
「あと一〇分で切り上げろ」
ついに耐え切れずにそんな指示を下した。二日酔いというほどではないものの、昨晩の深酒がよほど効いているらしく、少々今朝は機嫌が悪い。ここのところ中間管理職としての苦しみを存分に味わっている副管理官は、眉間に寄った皺の形を常に変えながら過ごしている。
「やっぱりこんな感じでしたね」
「最悪」
赤い爪が掌に食い込んでいる。そのまま貫通してしまうのではと危惧されるほどに強く握られた拳は、しかし何にも振り下ろされることなく解かれる。苛立ちをポケットの中のライターを探すモチベーションへと昇華し、それらは今無事に有毒な煙となって部下の鼻腔に届いていた。
「これからどうされますか」
「どうしましょうかねえ」
海野は仰け反りながら大きな白煙の塊を避け、横目で緑色のアイシャドーを覗き見る。すでに手元の資料に対して興味を失っている女は、いまはただその一本のフレーバーを吟味することに集中しているようだった。一二ミリの先端がもう一度赤熱したのを確認すると、海野はまた息を吐かれる前に行動を起こした。
「では、開頭手術の結果を受け取ってきます」
「..................」
女は何も言わずにうなずいた。これ以上密室で煙を浴びることは、部下にとっては耐え難い苦痛であった。加えて、たばこ以上に彼女の態度自体が精神衛生に悪影響を及ぼすものに感ぜられたのである。海野はラフに敬礼すると、最短距離で部屋を出て行く。
「どこへ行くんだ」
サイト-████の尋問室から記憶処理部門までの道すがら、海野はできれば会いたくない友人にふたたび出くわすこととなった。八家は今日すでに三人の尋問を終えており、串間とは対照的に幾分機嫌が良い。
「たばこの匂いがついたから、浄化されてくる」
「わたしに会うときはラベンダーの匂いも浄化してから来てくれ」
諸知博士のオフィスに行くという目的はすでに割れているようだった。それは、あるいは無駄骨を折らされたことに対する嫌味の類かもしれなかった。黒いスーツはそのままどこかへ消えていき、海野はまた歩き出す。
「禁煙のための薬も処方しましょうか......」
三つ編みが小刻みに揺れて、そのたびに鎮静作用をもたらす香水の匂いが場にふりまかれていた。ゴム底の靴がぺたんぺたんと間の抜けた音で近づいてきて、海野がオフィスのドアを閉めるころには目前に立っている。諸知博士が差し出してきた資料は、フルカラーでみる人間の頭部大図解といった風情の紙束だった。
「......結果から言うと彼らは全員、なんら強制されることなく自発的に殺人をやってのけています」
「頭を開くとそんなことまでわかるんですね」
「ええ......いかがですか」
顔の下半分だけが笑っている記憶処理医は、紫色の液体をティーカップに注いだ。花の色素が出たものだという説明があったが、海野はいったん固辞した。少し残念そうな諸知は、カップと脳髄の模型を持ち替えた。
「ここの神経を調べれば、その人間の情動というものがわかります」
「ああ、あの、飲み合わせがあるかもしれないので」
説明を一時取りやめた諸知は、なるほど、と納得して見せた。職務上種々の服薬を求められる財団職員は、意外に摂取が禁じられる食物の種類が多い。オリエンテーションでベーグルが出されるのが好まれるのは、大体このあたりの事情が起因している。
「細かい説明はあとにしましょう。ともかく、彼らはわたしが検出できないほど、巧妙になにか仕込まれたか、あるいは本当に殺したかったかです」
「六人──いや七人か、が偶然にも一日ごとに同僚を殺そうと思い立ったと。......博士が先日投与したミームはどうなんです? なにか仕込めましたか」
「さっぱり効果が上がっていない、というわけではないのです。今日入っていた職場の人間関係に悩む職員のカウンセリングがもう十件ちかくキャンセルされていますし。でも、それ以外になにか、原因があるとしか考えられませんね、殺人が止まないというのであれば」
「ふむ......そうですか」
「調査に当たっている方にこんなことを言うのは少々気が引けますが」諸知は一切本心にないことを隠そうともしない発音で、正確に監察官の不興を買い上げた。「むしろ、加害者よりも被害者にこそ着目された方が、今回はいいのかもしれません」
黒埼 蛇、部下にカッターナイフで咽頭部を切りつけられ、窒息死。出会い頭の犯行だった。
コード・ネーム ユーリィ、本名██ ██。同僚にネイルハンマーで殴打され出血多量により死亡。
針山 栄治、休暇のための氏名登録の誤りを巡って口論となり、厚生部門の職員にボールペンを眼球に突き刺され絶命。ペン先は脳まで達していた。
般若 瞳、実地調査中の部下に至近距離で散弾銃を発砲され即死。頭部の四割近くが飛散し、顔による個人の特定が困難な状態だった。
日野 千春、自室に火を放たれ焼死。犯人は同僚だった。
魚住 映司、行方不明だったがサイト内の浄化水槽から遺体が発見された。遺体は大部分が溶解していたが、現場には眼鏡が遺留品として残されており、指紋から上司が犯人と特定された。
年齢、職掌、階級、性別、年収、家族構成、交友関係そのすべてにおいて共通性が見いだされない被害者たち。
「彼らには特異性があった以外の共通点はありません」
「ええ、ですから、それゆえに一つ気になる点がある」海野のために入れたカップをふたたび取り上げて、諸知はシンクへと向かう。監察官が止める暇もなく透き通ったラベンダーティーは排水管の中に吸い込まれていく。「彼らは全員、特異性のために内部保安部門の監視下にあったはずでは」
廃棄された茶のことはすぐに、海野の頭の外へと放り出されている。疲れた官僚にもわかる程度の誘導でもって、諸知の会話は成立されている。
「本来交友関係上の問題が発生していれば、とうぜん内部保安部門で検知している。だが、今回はそれが、いずれの場合にもない。いや、なかったのではなく、できなかった」
「ええ、初めからわたしもその点を聞きたかったのです。ですが」言葉を切った記憶処理医の双眸は、藤色の鈍い光を帯びていた。「このことを聞くのはとてもためらわれました。できれば、限られた人間だけがこのことに気が付いているべきです」
「つまり、諸知博士。あなたが言わんとしているのは」
「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」
内部保安部門のなかに、裏切り者がいる。医師はとても遠回りに、そのことを伝えようとしている。だが確たる証拠もないままに、いたずらに組織の内部をかき回すような真似をすれば、待っているのはジーザス・アングルトンに率いられたCIAと同じ末路である。
「誰がテイラーなんです」
「特異性職員の監視は代々部門管理官クラスの職掌でしょう。わたしも長いので、そのぐらいのことは知っています。そしてそこの情報を偽装できるとすれば、あなたの周囲には一人しかいない」
鍵のついた引き出しを開けた記憶処理医は、慎重な手つきで海野にそれを手渡した。ごく薄いフォルダーに綴じられている書類は、数年ほど前の内部保安部門が解決した事件に関する情報だった。諸知のセキュリティ・クリアランスでは、紙面のほぼすべてが黒く塗りつぶされている。しかしこの医師が当該人物の主治医であったことが、幸運かつ決定的なはたらきをした。
「過去の類似事例です。取り逃がしたとはいえ主犯格は特定されていますし、些細な事件でしたから、おそらくご覧になってはいらっしゃらないでしょうが」
サイト-8120での連続特異性職員殺害事件。実際のところ、この手の類似事例は、海野たちも腐るほど調べて尽くしてきたものの一つに過ぎない。反人型異常実体主義アンチ・メアリニズムなどという言葉もあるほど、人間は何かにつけて同類を区分し迫害するものである。監察官を驚かせるに足るのは、その報告書の主任調査官の氏名だった。
串間小豆。現・内部保安部門副管理官。
「本当に主犯格は取り逃がしたんでしょうか。誰かに罪を着せて、今日まで素知らぬ顔であなたのとなりにいたのでは」
翌日、海野の姿はサイト内の大資料室にあった。諸知の推理を受けてから、彼はすぐにその事件に関連する資料の閲覧請求を出した。SCL4の記憶処理医でさえ手に入らない資料も、監察官ならば手に入れることができる。
資料検索を担当したAICによれば、その事件の機密指定は最近解かれたものだという。諸知は一時期串間の主治医を務めていたことがあり、それがきっかけで担当していた事件についても内容を知っていたらしい。職権乱用とも取れる話だ。
「それで、どうしてわたしなんだ」
「お前ヒマだろ。今日の尋問は別のやつが担当するし」
「イヤだねえ。毎日誰か犠牲者が出る前提で生活してるのか」
八家は憎まれ口を叩かないと酸素を取り込めない体質であるため、海野はこれをいっさい聞き流すほかないと知っている。彼のような主流に身を置かず、かつ親しい人間はこの調査に適任だった。海野の狭い交友関係では、彼以外にそういった存在を見つけることはできない。
「これハズレだったらどうするんだ?」
「ぼくが副管理官と気まずくなってクビになる」
「じゃあ大したことないな」
これか、と言って八家はひとつの報告書を持ってきた。内容は、サイト-8120事件での犯人についての詳細だった。犯人の名前は香楽から 東儀とうぎ、フィールドエージェントとある。香楽は同僚のエージェント三名を殺害し、最後の犯行から一週間後に逮捕された。
人間関係のトラブルがあったことが判明しており、任務中の事故に見せかけた犯行と結論付けられている。この事件をきっかけに香楽はDクラス降格が決定し、その後についてはまた別の機密接触資格が必要になっていた。
「まあ、普通といえば普通の事件だろう」
「この香楽という女についてもっと知りたいな。8120の記録に残ってればいいんだが」
海野は立ち上がって、また新しい閲覧請求を書き始めた。書架を管理するAICは、たった数秒のうちに膨大な検索能力を駆使して彼の求める資料をリストアップしてくる。少なくとも所属サイトの管理部門の資料を当たれば、この犯人の人事情報については判明するはず──という彼の目論見は、〈該当資料なし〉という表示の前にもろくも崩れ去った。
「どういうことだ、これ」
「なんだ」
端末の前で慌てている同僚に、八家が吸い寄せられてくる。肩越しに画面をのぞいた尋問官は、ほう、となにか驚いたような様子を見せる。ほとんど道楽でついてきている男は、となりの端末でDクラス降格処分時の資料から死亡者リストを検索し始めた。
「......香楽がDクラスに落とされたのはもう五年前なんだよな」
「ああ」
載ってないぞ、と八家は言った。隣に首を伸ばすと、やはりAICが該当なしという表示を出している。香楽東儀という女はわずかな事件記録にのみ名前が残され、詳細な人事情報がすべて削除されている。これが単なる秘密部局への栄転などであれば、わざわざ内部保安部門の捜査資料という微妙な代物に名前を残しておくはずはない。
「Dクラス降格後に高度機密の実験に関与しただけなら人事情報まで削除はしないだろう」
「単に、問題を起こして降格になったからということはないのか」
「いや、規定なら10年は解雇後も人事情報をキープするはずだ」
「偶然にもDクラスになって五年間生きてるってこともなさそうだな。そもそも、香楽東儀という人間なんていなかったみたいな扱いだぞ、これ」
なんでここまで隠されてるんだ、と海野は手で顔を覆う。彼の脳内にはすでにそれに対するひとつの結論が出ていたが、それと真正面から向き合うには多少の時間を必要としていた。そもそも、諸知の推理にはいくつかの問題点がある。
誰かが八人の殺人未遂・既遂を教唆したとして、その方法は今もって謎である。それはほかならぬ記憶処理と情報災害の専門家たる諸知がそう述べている。そしてもうひとつ、その動機もまた不明である。衝動殺人を連続して起こさせたとしても、串間はみずからの職権でそれらの事件を一般に伏せている。これがサイト内での騒擾を狙ったものであるならば、いずれかの時点で事件を明らかにしサイト内の政情を不安にする必要がある。だが、それが実施される前に諸知とカナヘビはテンプレート-9447を散布してしまった。殺人は止まる気配がないが、サイト内で騒乱を起こすには確実に不利である。
だが、香楽東儀の実在性はきわめて怪しいこともまた事実だった。財団組織内でそれほど大規模な書類の改竄ができるとは到底考えられないが、香楽東儀が実在していたという証拠はもはや内部保安部門の内部にしか存在していない。
「なんのために殺してたんだ」
「」
統合航空宇宙軍 空中艦隊司令部直卒 いせ型反重力推進式超弩級空中戦艦 1番艦 "いせ"
諸元
• 全長2.8km
• 全幅880m
• 最大高446m
• 基準排水量10833810t
動力
• エンディミオン社製ダリウス-スミ型縮退炉 2機
• エンディミオン社製対消滅炉 2機
• エンディミオン社製粒子推進機関イオンエンジン
• エンディミオン社製反重力推進機関
主兵装
• 12.7cm多連装光学熱線砲
• 7.62cm フェーザー砲
• 10cm広角多目的速射砲
• ダリウス-スミ縮退グレーザー砲
• Mk.VI 航空爆雷
• 566mm 58式全領域光子魚雷
• 多用途耐爆電磁界発生装置
搭載機
• SF-67 ファランクス(制空) 40機
• SF/A-66 ストライカー(爆撃)20機
• SF/R-70 ラングラー(偵察)4機
説明: 閉鎖されていたプロメテウス研究所防衛部門から発掘されたデータをもとに、財団・世界オカルト連合共同開発チームによって建造された人類最後の希望──万能空中戦艦・いせ型シリーズのネームシップ。
乗員は約7200名。これは月面へ脱出した人類の1%に上る人数であり、この艦を使って太陽系外へ脱出する計画も唱えられていた。しかし主戦派のO5ならびに最高司令部による決定で、地球奪還作戦の旗艦として供されることとなる。
建造途中で放棄されていた恒星間航行型巨大宇宙船に使用されていた縮退炉を財団とGOCの技術で再現し、人工ブラックホールを圧縮・内蔵した高性能な動力としている。
1番艦は世界オカルト連合中心に建造され、事務総長代行の"龍笛"による命名で"いせ"という日本名がつけられている。対して財団中心に建造された2番艦は"サンティアゴ・デ・コンポステーラ (Santiago de Compostela) "と命名されている。いずれも地球の聖地になぞらえられ、とくにレコンキスタに関係の深い2番艦の名称は地球奪還への強い意思が表れともいうべきものとなった。
【再征服計画プロジェクト・レコンギスタ - 巡礼作戦ピルグリム・プロシージャ】
ガニメデ・プロトコルとピチカート・プロシージャの失敗後、構成員を中心とした地球脱出を主導した財団と世界オカルト連合は、月面へ保安施設を大量にアポーテーションさせるという強引な方法で資産を移設し、10年に渡るテラフォーミングを開始した。
一方、放棄された地球では大量のオブジェクトが外界へ収容違反したことで環境が急速に悪化し、地球脱出計画グレート・トレック・プロトコル完了後から4年と4ヶ月後、地球における人類の滅亡が宣言された。月面へのグレート・トレック直後から太陽系外脱出や月面の全球緑化などが議論されてきたが、いずれも実現可能性にとぼしい上、複数の計画を並行して進行するには資産が不足していた。そんな中、月面に残されていた遺構から、プロメテウス研究所の残した巨大造船ドックが発見される。反撃の端緒を掴んだ人類は、O5と最高司令部の合意を経て地球への帰還を決意する。
【共同管理機構(Joint Administration Organization)】
グレート・トレック後、世界オカルト連合臨時最高司令部と財団O5評議会の合意によって設立された月面人類を管理・統治する行政機関。本部は"静かの海"南部に存在し、旧世界オカルト連合最高司令部施設内に置かれている。約10年に渡る月面統治はこの組織によって直接的に行われてきた。しかしその最初期は苦難に満ちており、連合は事務総長以下司令部付事務次長の数名が行方不明、財団O5評議会も2名を残して全員が行方不明という状態であった。両組織は独力での再建を断念し、事務総長代行"龍笛"と日本支部から選出されたO5-2の間で締結された共同管理協定によって月面人類に対する管理権の共同保有を確認し、両組織の指導部を残して全面的にその実務組織を統合することで合意した。これが共同管理機構として発展し、今日に至る。
そして同機構発足とともに策定された"月の新綱領コード・オブ・ムーン"によって連合の五大任務と財団の三原則は解消され、機構内部に新設された倫理審議会が異常存在の管理方針を決定した。基本的には既知の異常存在に対する財団の収容・保護方針は継続され、新たに発見される異常存在については倫理審議会の定める基準にしたがって原則粛清の方針が認められた。
旧連合事務次長7名と旧財団O5評議員7名の計14名が共同管理機構最高理事会を構成し、うち2人が代表理事として統治の最高責任を負っている。また旧来の内部部門が機構に引き継がれ、加えて人類社会維持のために政治部門や行政政策部門が増設されたことで組織は肥大化している。共同管理機構"防衛省"には統合航空宇宙軍が存在し、同軍に空中艦隊司令部が設置されている。
伊号第404潜水艦
帝都を離れてから三日。これほど長く東京にいたのは、特務機関員として活動を始めてからは恐らく一度もなかったことではないかと思う。窓を開いてみると、夏の熱気とともに、海辺の心地よい潮風が吹き込んでくる。七月の呉の風は思いのほか、私たちを涼ませていたのである。揺られているバスはもう間もなく、呉鎮守府へと到着する途上にあった。
何人かは鉄道を使おうと考えていたようだが、呉駅は今月の上旬にあった夜間空襲で全焼していた。駅舎だけでなく、呉の中心部はその空襲でほぼ更地となるまでに破壊し尽くされ、未だ再建の目処も立っていない。
「少佐、少しよろしいでしょうか」
副官である太田中尉が周囲を憚るようにして、私の席にやってきた。周囲と言っても、同乗しているのは皆三千機関の人間ばかりで、いわば身内なのだが。
「なんだ」
「作戦の後のことなのです」
作戦の後のこと──太田だけではあるまい。機関員の誰もがそのことを知りたがっているだろう。太田のとても軍人とは思えぬ童顔には、言いようのない不安の翳が落ちていた。海軍の惨状が明らかになって数ヶ月、趨勢は最早決したかのような観がある。本土決戦を謳う大本営は御座所を帝都から遷すのではないかという、単なる憶測では片づけられない噂さえもあった。
「大陸には"負号部隊"の連中がいる。そこへ届けたら、あとは」耳を傾ける太田の表情は惨憺なものだった。「私にも分からん。活動の軸足を大陸へ移すのかもな」
「そうですか」
予想の範囲を超えない受け答えに、年上の部下の顔には落胆の色が現れていた。太田は、予備士の衛生部でも優秀な成績を収める予備士官候補生だった。東部第33部隊の噂をかねがね聞きつけていた太田は、教官の薦めを断って中野学校へ入校し、そこでも優秀な生徒として頭角を現していた。
「母には、身寄りがありませんので。それだけが心配だったのです」
「そうか。呼ぶのは難しいだろうが」
日本の周辺には、今や米軍の敷設した機雷が五万とあった。そう遠くない未来、本土は朝鮮との通航路すらも遮断される運命にあるのだ。特にここ、呉を中心とした瀬戸内は機雷による海上封鎖が最も激しい海域であった。殆どの大型艦船は擱座を恐れて瀬戸内を航行しようとはしない。そのためか、呉に係留されている海軍の残存艦艇は身動きが殆どとれない状況だという。
「みなさん、もうまもなく到着です」
運転手の酒焼けした声が、静かな車内に響いた。窓外に視線を送れば、そこには赤茶けたレンガ造りの荘厳な庁舎が屹立している。度重なる空襲にもその威容を保っていた鎮守府庁舎であったが、空襲の猛威はその背後の海軍工廠を廃墟へと変えていた。
「お待ちしておりました。三川少佐。いえ、お久しぶりですと言うべきか」
バスを降りるなり、海軍士官にしては色白な男たちの出迎えがあった。蘆原と名乗った少佐の男は、軍人とは思えぬほど細く白い腕を上げて小さな敬礼をした。その姿を陸軍の将兵が見たら、思わず眉をひそめるだろう。肘が脇に付いてしまいそうなほど閉められ、小さくまとまった挙手の敬礼だった。私は微笑みながらその真似をして返礼し、機関員たちもそれに倣った。
「海軍の敬礼にはもう慣れましたか」
「小官よりは、他の者たちの方が慣れているでしょう」
数か月前、副官の太田を含めた数名の機関員たちは彼らとともにUボートに乗り、ドイツからある"積荷"を持ち帰っていた。
「実は、昨日艤装員長から艦長になったばかりなのです」
中佐になったのも先日のことでして、と笑う男の背後には、過酷な作業を全うしてきた工員と乗組員らの姿がある。辛うじて生き残った設備を稼働させて、我々の乗る潜水艦・伊号第404潜水艦が竣工したのは数日前のことなのだという。伊404の扱いは書類上未だ艤装作業中ということになっており、そのドックには持ち帰られたUボートが浮かんでいる。
「会議の前に、一度御覧に入れましょう」
昼下がりの海上に、鯨のような巨体が半身を見せていた。桟橋に並んだ機関員たちは一様に驚愕の表情を顔面に張り付け、その尋常ならざる雄大な姿にしばし我を忘れさせられた。帝国海軍最大、いや世界最大の潜水艦という触れ込みは以前から耳にしていたが、まさか、これほどのものを海軍がまだ隠し持っていたとは。
「すごい......俺たちの乗ってきたUボートの何倍あるんだ......」
「基準排水量だけで言えばほぼ二倍、水中なら三倍近い。それほどの巨艦です」
「居住性はどうなりましたか」
秘密兵器に感動した太田が、乗組員の水兵の一人に聞いていた。そういえば、太田の語る日独往復作戦の思い出の殆ど半分は、「いかに潜水艦という代物が人の住むべき場所として不適当か」だったことを考えれば、到着前の暗い表情についても、少々考えを改めねばならない。
「まあ、Uボートよりは圧倒的に良いです。水洗便所も使えます」
「そんなことを聞きたいんじゃないんだ」
太田は持っていたトランクを地面に落として、拳を握っている。居住性について、よほど大事なこだわりが彼にはあるらしかった。見たところ他の数名──いずれも往復作戦に参加していた者たち──も、太田の会話に聞き耳を立てており、潜水艦経験者たちにとって相当な関心事なのだと一目で知れた。
「"ホットバンク"は──"ホットバンク"は、伊号にはないと聞いたのですが」
「とんでもない。ありませんよ、この艦には」
「本当ですか!」
こんなに喜々とした機関員たちの様子を見るのは、かなり久しぶりのことかもしれない。私を含め数名の機関員たちは何のことだか分からず、ただその感激する同僚を見守るしかない。だが、少なくとも出撃前の不安要素が一つ払われたのだということは分かった。
征號作戰。
このごく小規模な陸海軍共同任務は、実のところ参謀本部やGF、軍令部すらも殆ど関知していない、秘密作戦としての性格を有していた。作戦終了後には関連する全ての書類を破棄する手筈になっており、徹底した機密保全体制が敷かれている。海軍には三千機関のような蒐集組織や、負号部隊のような研究機関もなく、この手の任務には陸軍の協力を不可欠としていた。
蒐集院、負号部隊、そしてドイツ政府から委託された特別資産の計121個は、ほとんどすべて三千機関が過去に収集してきた代物である。大東亜戦争開戦とともにアジア広域での活動を開始した三千機関は、負号部隊の忠実な下僕というよりは、ほとんど純粋な陸軍の組織として振る舞っていた。
「この作戦で重要なのは、とにかく機雷と空襲です。米軍機に発見されればその時点でこの艦は終わりです」
「航路や艦艇の技術的な問題に関しては、基本的にはそちらにお任せします。小官らも"積荷"なのですからな」
「その件ですが」
「なんです?」
「いえ、色々と艦内でも噂になっておりまして」
機雷封鎖を破り、連合国軍の哨戒網を潜り抜けて大陸へ至らなければならない伊404には、あらゆる処置が施された。我々が着く前に運び込まれた異常存在のいくつかが、既に潜水艦の随所に配備されている。
「完全封鎖された晴嵐格納庫。乗組員の間でも気味悪がる者が多いもので」
「それは軍機に当たる事項です。我々だって詳しいことは分からない」
姿勢のよい海軍士官は、ふう、とため息を吐いた。生白い顔が猜疑の色をごく薄く帯びて、電灯の下で死者のように浮かび上がる。Uボートにも同乗していた蘆原といえども、積荷について知られるわけにはいかない。
「老婆心とは思いますが、改めて水兵に格納庫へ近づかないよう厳命していただけると助かります」
「承りました。必ず」蘆原は瞑目して頷くと、机上の海図へ手を伸ばした。「では、再度航路の簡単な説明をさせていただきます」
三千機関とその特別資産121個を載せた伊404潜は、明後日の7月24日深夜に呉を出港する。征號作戰の秘匿のため、海軍の"嵐作戦"が利用されたのだ。
「呉を出た当艦は瀬戸内海を抜け、関門海峡へと向かいます。......」
関門海峡と言えば、機雷封鎖が最も激しい海域の一つであった。そこを操舵技術によってのみ抜けるというのは至難と言うよりほぼ不可能に近い。しかし、日程短縮のため、紀伊水道を通って日本列島を半周するという海軍の提案は押し切られた。
蘆原は策定された航路を指でなぞりながら、説明を続ける。
「関門海峡を無事抜けた後は日本海を通り、永興に到着。当艦は別命あるまで待機。そちらはそのまま外地へ行かれると」
「はい。そこで作戦終了ということになります。蘆原艦長、我々の命はあなたに預ける。よろしく頼みます」
私は席を立ち、握手を求める。蘆原もすっくと立ち上がり、細い腕で私の手を取った。
「私たちは運命共同体です。必ず大陸へお運びします」
「あの陸軍のやつら、何者なんだろうな」
伊形上等水兵は、同僚の宇城の背中に語りかける。水雷科の面々は兵装の最終点検を終え、それぞれの配置で待機となっていた。宇城は陸上での休暇がよほど名残惜しいのか、郵便で届いた絵葉書をずっと見つめている。
「おい、宇城?」
「ああ、なんだ」
肩を叩かれてようやく気が付いた同僚は、慌てて絵葉書をズボンの中に突っ込んだ。大切なものを入れておくのにポケットとはあまり感心できないが、伊形はあえて気付かないふりをした。この男がやけにそわそわしだしたのは、ちょうどあの絵葉書を受け取ってからのことだった。
「陸軍の連中だよ。あいつら只者じゃないだろう」
「ああ、その話か。なんでも、参謀本部の部隊らしいが」
水雷長の永長大尉のお気に入りである宇城は、艦内のちょっとした噂話などがすぐに手に入る位置にあった。潮っ気の少ない永長大尉は、とにかく部下に好かれようと自腹で饅頭を配るような人だった。部下たちも饅頭は欲しいから表面上は取り繕うものの、やはりあの先任士官の勇壮さに比べると、情けなさが先立つ。
「参謀本部? じゃあ軍事探偵とかか」
「さあな。本当にそうだとしたら教えてもらえんだろう」
あの宇城でさえこの程度しか知らないというのなら、おそらく艦内の誰に聞いても同じようなものだ。伊形はそうか、と返すと伸びをする。主機もジャイロコンパスもそろそろ出航の準備を整える頃である。航海が始まれば、あの嗅覚を麻痺させる強烈な匂いと、そして猛烈な暑さが襲ってくるのだ。
「にしたって、晴嵐なしの潜特型なんてなあ」
「全くだ。俺たちも米英の空母にドカンと一発くれてやりたいのに」
伊400型の上部構造体には、特殊攻撃機・晴嵐のために特設された格納筒がある。他の伊号潜にも小型水偵用の格納筒が据え付けられているが、伊400型のそれは艦体に見合った巨大なものとなっている。翼を折りたためば二機がそのまま、そして分解状態で三機目まで積むことができた。
が、今回の作戦に当たって自慢の格納筒は閉鎖されたのだ。格納筒は優先的に整備が進められ、知らないうちに荷物が運び込まれると、あとは軍機ということで近づくことさえかなわない。今回の陸軍と格納筒の積荷には、何かのっぴきならない関係があるのだ、ともっぱらの噂であった。
「おい、また訓示があるそうだ。伝声管の前へ集まれ」
掌水雷長の加原少尉の顔が、魚雷の後ろから現れた。はい、とすぐに返事をした二人は、そこで顔を見合わせる。
「訓示ですか。どちらの」
「例の陸軍の少佐だそうだ。──かなわねえよなあ」
噂をすれば何とやら、だと伊形は思った。艦内の話題を持ちきりにしておきながら、いまだかつて誰も容貌を見たことがないという謎の客人。まるで江戸川乱歩か、海野十三ではなかろうか。伊形は、そう思ったことを目の前の宇城の背中に伝える気にはなれなかった。この歳で海野十三が好きなどと言ったら、どのような顔をされるか分かったものではない。
伝声管の前には、既に残りの水雷科員たちが集まり終えている。掌長が姿を現すと、場の空気が少し張り詰めたように変わった。
『総員傾注。これより、本艦にご乗艦なさる大日本帝国陸軍、三川十七少佐より訓辞を賜る』
伝声管のわんわん反響する声は、恐らくは艦長のものであろうと知れた。発射管近くは発令所から最も遠い場所にあり、その分声も歪曲されて届く。しかし蘆原艦長の、あの低く腹底に響いてくるような、それでいて繊細な声音は忘れがたいものであった。兵員たちは無言のまま、次に聞こえてくるであろう例の陸軍軍人の声を待つ。
『......ご紹介に与かりました、三川十七であります。伊404乗員の諸君、初めまして』
数秒の間、兵員たちの間にざわめきが巻き起こった。まるで女子のような声音だ──口々にそういう密やかな声が漏れてくる。掌長にひと睨みされてすぐにその動揺は静まった。だが、その加原少尉とて、声を聴いた途端ぎょっとした表情を作っていた。少佐と言うからには、きっと口髭のたくましいさぞ精悍な軍人なんであろう──そういう偏見が、既に噂の段階ではびこっていたのだ。
『驚かせてしまって失礼。小官は、これでも三十手前なんだがね』
向こうで起きたらしい笑声が、伝声管から聞こえてくる。柔らかな声質といい物言いと言い、およそ帝国軍人には似つかわしくない要素にあふれていた。軽く自己紹介をした三川は、いよいよ荘厳な訓示を述べようという段になって、不意に黙した。その場に再び先ほどのような緊張が訪れる。伊形は休めの姿勢を取りながら、なんとなく次の言葉が分かるような気がしていた。
『......格納筒の件を、ご存知の方も多いと思うが』誰かが唾を呑みこむ。その場の全員の意識が、これでもかというほど伝声管の方へ注がれた。一秒もない間隙が数瞬にも感じられ、そして再び言葉が継がれる。『一切の接近を禁ずる。どうかこの任務の間は、あの格納筒のことは忘れ、職務に奮励してもらいたい』
皆表立って態度には出さないものの、脱力感がその場に漂う。退屈な潜水艦暮らしに現れた摩訶不思議は、そう易々と全容を明かしたりはしてくれない。伊形は何か知っているのではないかと掌長の横顔を見たが、特段変わるところもなく訓示を聞いているのみであった。
『──帝国の誇る大潜水艦の一員となって、本任務に当たることが出来るのはまことに幸甚である。陸軍を代表し、小官はこの場で謝意を示したい。──征號作戰は、今後の聖戦完遂に不可欠な任務である。残念ながら第六艦隊司令官閣下の訓示はいただけなかったようだが、これは本作戦が軽視されているからではない。秘密作戦だからである』
緩んだ頬を突然叩かれたかのように、全員の意識が再び伝声管へ向く。秘密作戦という言葉の響きに驚いている暇もなく、参謀本部からの客人は訓示を結ぼうとする。
『大日本帝国海軍軍人たる諸君らの奮闘努力に、小官はより一層の期待を寄せるものである。これより二週間余りの航海の前途に、幸多からんことを祈る。以上』
『敬礼』
伊404艦内の全員が、一様にこぢんまりとしたあの敬礼をとる。機関の稼働音だけが艦内で唯一の音となり、乗組員たちは出航が間もなくであることを悟った。
空白
二四〇〇。伊404は誰にも見送られることなく呉を出た。
そしてそれから五分と経たないうちに、機関室を中心に騒ぎは起こった。
──機関音がしない。代わりにクラシックの音が聞こえてくる。
むろん艦内の全員が気付いている。機関音は艦の壁を伝って全体に行き渡る音だからだ。それがないままでは、まるで航走している実感もないというものであった。
「......なんだってんだよ」
大半の人間が部屋で横になっていた水雷科を代表して、伊形は機関部へ様子を見に行くことになった。狭い通路には、所狭しというほどではないにせよ食料の袋が並べられている。余分な客人を乗せているせいで、普段以上に食料を積む空間が狭くなってしまっているのだ。心中舌打ちしつつ、艦体前部の兵員室から後部の主機室へと向かう途中、
「おう、お前もか。伊形」
航海科の岸部水兵長が──おそらくは伊形と同じ使命を背負って──通路に出てきたところであった。階級は伊形と一つしか違わなかったが、何分年季がちがう。善行章も一本しか入っていない──という噂の──恐るべき古参兵であった。幸いなことには、まだ伊404に来てから何の面倒も起こしていない。
「は、はい。岸部水兵長も主機に?」
「おうよ。まさかこんなに早くこういうことが起きるとはな」
「こういうこと?」
まるで主機の異常を予見していたかのような口振りに、伊形は思わず驚きを露わにした。艤装作業中、岸部は当然操舵関連の艤装を担当していたはずであるから、主機の事情など知りようはずがない。
「ああ。なんでも、あの陸軍の連中が乗り込んでくる前に色々艦内をいじくりまわしたらしいんだよ」
「そうだったんですか」
来野──伊404の衛兵隊長──に見つからないうちに早く行こうぜ、という古参水兵の言葉に「はい!」と威勢よく答えた伊形は、
「でも」とふと湧き上がってきた疑問にぶつかる。「一体誰がそんな工事をやったんですか。陸軍が艤装に手を加えるなんて艦政が許さないんじゃ」
「知るかよ」
自分の知らない部分を突かれて、岸部は少し機嫌を悪くしたようだった。首をひっこめて「すみません」と上等水兵は弱々しく言い、再び主機への前進が始まる。発令所を何食わぬ顔で通り過ぎていく岸部の度胸に舌を巻きつつ、米袋を踏み越えて行くと、ようやく問題の主機にたどり着く。
「......おいおい、本当かよこれ」
いっそう狭い機関部では、既に上半身裸で計器を睨み、バルブを調節している機関科員たちでごった返していた。だが、そこにはあの馴染み深いタービンの騒音も、蒸気の音もない。
その代わりに、どこかで聞いたことのある文化的な調べがむさい機関室に充満している。異様な光景を目にした伊形は、恐れるでもなくまず笑ってしまった。だが、あまりにも場違いな超常現象に一番辟易しているのはほかでもない機関科員たちだった。
「邪魔だ。見世物じゃねえ」
「まあいいじゃねえか。ずいぶん高尚な機関音が鳴るもんだな」
「──あれだよ」
計器から目を離した機関長が、天井に掛けられた布を指差す。よくよく耳を澄ましてみれば、クラシック音楽の重厚な調べは天井から放たれているものだと知れる。難しい顔をして布袋の形を見定めていた岸部は、やがて正体が分かったのか、得意げな顔で「ありゃ蓄音機ですな」と機関長に向かって言った。
「そうだ。曲名、知ってるか」
「さあ......?」
「バッハの、G線上のアリアですよね」
ほう、と機関長は言った。なんでも、伝声管を通じて発令所に聞いてみたところ、唯一来野大尉だけが曲名を覚えていたのだという。洋楽好きな父親を持っていたことは、意外なところで役に立っていた。
「中々教養のあるやつだな。水雷科か」
岸部水兵長がにやつきながら肘で突いてくるのをかわしながら、伊形は「どうも」と帽子を取る。これが主計長ならな、と伊形が一瞬考えたその時、
「盛り上がっておられるようで」
例の、女声が聞こえてきた。
少々露骨すぎたのでは、とは太田の言である。
蓄音機を潜水艦に載せるよう助言したのも、太田である。Uボートでの数ヶ月に及ぶ滞在で、潜水艦にとっての音の重要性を痛いほど学んできた男ならではの提案であったろう。多少の衝突はあったが、負号部隊の口添えで伊404の艤装に手を加えることができたのはまことに幸運だったと思う。
蓄音機は、もともとマレー半島のイギリス軍から奪取したものだった。三千機関が大東亜戦争の緒戦、陸軍の電撃的な侵攻に随伴していた頃のものだ。向こうの異常存在ブローカーをスパイ容疑で逮捕すると、最も上等な商品だと言って差し出して来た。欧州の異常存在取引会社の末端構成員らしいイギリス人は、オランダ植民地軍やフランス植民地軍相手にも異常存在の類を売りつけていたらしい。
一人を血祭りにあげると、芋づる式に東亜の異常存在販路が見えてくる。その中には、吐き気を催すような実態もあった。臓物の木のプランテーションを作る白人農園や、万病を直すという赤子の遺骸の山。呪われた多頭多脚の牛の一頭は、もともととある村の祭殿の神体であったらしい。その上にまたがった者をたちどころに感染症に罹らせるというから、懲罰のために利用されていた。
血なまぐさいそれらの品と比べると、蓄音機と言うのはいかにも大人しく、そして文明的な代物に思える。
レコード以外に針を落とすと、刺された物体から音を奪う。潜水艦の機関部に針を落とすのは、考え得る限り有用な使い方ではないか。もちろんそれが潜水艦の運用へ与える影響というものは考慮に値したが、しかし実行を取りやめるほどの事由にはならない。
「しかし、訓示は騒ぎになったようですよ。少佐」
「まあ、下手に興味をあおったかもしれんな」
「煽るも何も、僕らは目立ちますよ」
私は眉をくいと上げて、寝台に横になる。全員軍装は既に脱いで、兵用襦袢姿でトランプやらなにやらに興じている。記録映画で見た潜水艦乗組員も、大体そんな感じで毎日を過ごしていたのだから、これが"正しい"どん亀暮らしというわけなのだろう。カーテンを無理やり付けたという急造の士官室は、元々は最後部に位置する兵員室であった。今でこそ壁一枚隔てた隣の兵員室は静かだが、ひょっとすると耳をつけてこちらの会話を窺っているかもしれない。
「衛兵を私たちから出すという提案、やっぱり却下されてしまいましたね」
「そりゃ、不興を買うだろうからな」
枕の位置を調整しながら潜水艦での洗濯──士官であろうと自分でしなくてはならないらしい──に思いを馳せていると、突然ドアが開いた。艦内トイレを確かめてくると言って出て行った剣持曹長だった。
「どうも騒ぎになってるようですな、蓄音機も」
「評判かい?」
「まさか。幽霊船だと」
「進水からまだほんの少しなのにな」私は起き上がって、防暑服の上着を掴んだ。「どれ、私が見てきます」
「G線上のアリアは、もともとヴァイオリンとピアノによる独奏のものではないそうですよ」
「よせよせ、こんなところでクラシック談義なんて。──どうだい、前部兵員室に来ませんか」
水兵長と見える古参兵の笑顔には、明らかに後ろ暗いものがあった。なるほど、後腐れのない陸軍の士官どのをちょいと小突いたぐらいなら、きっと問題にはなるまいという考えなのだろう。私は首を振って爽やかに笑顔を作る。
「航海でどうにも耐えられなくなったら、バッハのお話を聞かせに参りましょう。名前は?」
「航海科の岸部、水兵長です。じゃあ、楽しみにしてますよ」
去っていく古参兵の後ろでは、最近上等水兵になったと思しき青年がいる。先ほども敬礼を最も遅く緩めたところを見るに、まだ日が浅いのは丸わかりであった。そちらにも誰何すると、「水雷科のい、伊形です」というぎこちない返事が返ってきた。
「あんまり知識をひけらかすと、君みたいな水兵に足元をすくわれそうだ」
「いえ、とんでもございません」
失礼します、と敬礼とともに去って行った背中は、いやに湿っているように見て取れた。緊張を強いられる上官に囲まれれば、無理からぬことやもしれぬ。私は踵を巡らそうかと一度考えたが、結局近くの通路にとどまった。蓄音機の音に耳を傾けていると、艦内の蒸し暑さにも多少は風流さを覚えられる。冷房が本調子になれば、たぶんこの艦内温度も多少はマシになるのだ。第三番が終わると、私は再び歩き出した。
潜水艦を二文字で表すなら、異臭、だろう。そのうち鼻が曲がって平気になるという話であったが、そのころにはきっと人間として大切なものを失っているのだ。風呂にも入れず、水上艦以上に貴重な真水は身体を洗うなんてとんでもない。垢をタオルでこそぎ落とすのがせいぜいだという。乗り込んだその日のうちに、内地とは思えぬ湿気と高温が艦内に充満しているのだから始末が悪い。
潜水艦という名称ではあるが、実際に潜航している時間はかなり短い。発見の危険性が低い夜間には浮上し、昼間は可能な限り潜航を続ける。それでも半日続けて潜るような真似は出来ない。潜水艦にとって、潜るというのはかなり最終的な手段なのだ。航続距離が長大な潜特型と言えど、その点は変わらない。無論艦体の巨大化に伴って酸素量や設備の充実は図られたようだが──問題は機械的な部分ではない。乗っている人間が、耐えられないのだ。
「三川少佐。こんなところで何を」
「これは、児玉副長。ちょっとした散策です。お邪魔なようでしたらとっとと部屋に戻ります」
潜水艦に似合わぬ日焼けした大きな体躯が、せまっくるしい艦内通路いっぱいに立っている。音に聞こえた伊404副長(児玉少佐は先任士官であると訂正しなかった)兼航海長の児玉少佐は、恐らくこの艦で最も"潮っ気"なるものを体現した人間だ。伊号乗組経験者をかき集めた伊404クルーの中でも、蘆原艦長と張り合えるほどの猛者は彼一人なのだ。
「いえいえ、これから長く暮らす我が家を、もっとよく知っておくべきです」本当にそう思っているのか、という硬い笑顔を向けてきた副長は、私の身なりを一瞥すると、「潜水艦乗りらしくなってきたじゃありませんか」と今度は本心からの言葉を述べる。
「日本の夏は暑い。日本海に出ればマシになりますか」
「そうでもないですね。潜水艦に乗っている限りは」
思わず辟易した表情が出ると、副長は意外そうな顔をした。
「あなたがたもそんな顔をするんですね」
「人間なので」
ひとしきり笑いあうと、児玉副長は道を空けた。また後で、と敬礼をしてその場を去る。潜水艦とは狭いものだな、とまたしても同じような感慨が湧いてきた。ハッチを開けるたびに人と出くわし、米袋は本当に所狭しと置かれている。発令所まで戻った私は蘆原艦長の死人顔に挨拶をして、甲板へ出ることが出来るかどうか問うた。
「構いませんよ。足元は何も見えませんから、注意してください」
「ありがとうございます」
私に衛兵が一人ついて、出航前にぴかぴかに磨かれた梯子に手を掛ける。それなりに長い梯子を上っていくと、丸いハッチが頭上に現れる。衛兵は私よりもさっさと登って行ってしまって、その重そうなハッチをぐいと持ち上げた。途端に、馴染み深い波音と潮の匂いが強くなる。「気を付けてください」と言われて甲板に顔を出すと、頬を海風が叩いた。
「......で、いつやるんですか」
「あいつらが飽きてきた頃を狙おう。もう艦長から許可が出てる」
前部兵員室に出来た臨時ガン・ルームには、数人の非番士官が集まっていた。中でも最先任の児玉は、先ほどから腕組みをしたまま黙している。左目だけで集まった顔ぶれを見回した児玉は、なんとまあ変わったメンツが揃ったものだと内心考えた。
「来野大尉、本当にいいんですか。こんなこと」
かつては法学を志していたという衛兵大尉は眼鏡を拭いて「......艦内で警察権を持っているのは艦長ですから」と答えた。
「乗組員の安全確保と、航海における支障の排除は幹部の責務なんですよ。陸軍の連中がなにを隠しているかは知らないが、主機の異常といい──」
と、白熱した永長大尉がそこまで言ったところで、児玉が腕を解いた。両手を振り回して舌をふるっていた永長は、最先任の動きにぎょっとした。児玉はもったいつけるように雑嚢からサイダーを取り出すと、それを一口あおった。
「......やるにしても、誰がやるんだ。航海科から出してもいいが、口の堅いやつを選ばんとな」
「うちの宇城なんかはどうです。優秀だし、頃合いを見て従兵かなにかとして発令所に置いておけば」
永長の細い顔が得意げにゆがんだ。児玉は額に皺を寄せて、異論のある人間を探した。来野がなにか言いたそうにしているのを見て、「その時の衛兵からで、いいんじゃないか?」とつぶやいた。話を振られた衛兵大尉は、手帳を取り出した。
「甲板見張りにその宇城上等水兵が出ているときに、うちの運用科の衛兵も行かせましょうか」
「まあこんな航路じゃ、航海科は大変ですね」
全くだ、と返した児玉はサイダーをまたあおる。陸軍の奴らめ、と続けた児玉は、先ほど行き会った三川の顔を思い出していた。永長とは比べ物にならない美しい細面で──間近で見るのは決して初めてではなかったが──思わずどぎまぎさせられた。ありゃあきっと、お偉いさんに色仕掛けでもしてるんだな......と勝手に脳内で決めつけた児玉は身震いする。また会ったときは、もう少し込み入った話をしてみよう。
「明後日には関門海峡ですか」
「ああ、運悪きゃ──いや、十中八九だが──機雷でボカチンだ」
誰ともなく、ため息がもれた。誰も「死にたくない」などとは言い出さないが、この作戦の意義については誰もが共通の疑問を抱いていた。必死の作戦と言うからには、てっきり他の伊号に連なって敵機動部隊への最後の一矢を放つものだとばかり考えていた者ばかりであった。何も言わずに死ねというのなら、それなりの説明が伴って然るべきではないか。
「俺がそれとなくあの三川って奴を見張る。お前たちも何かあったらすぐ俺か蘆原艦長に知らせてくれ」
「そっちの岸部って奴、気を付けろよ」機関長の佐鹿少佐が、髭面からまだ白い歯をのぞかせる。「さっきも三川少佐を連れ込んでどうにかしようとしてたらしいからな」
「そうか。見張っておく」
うなずいた児玉がもう一度サイダーを煽ろうとすると、からん、というビードロ玉の音がする。瓶はもう空になっていた。
新居浜港へ到着した伊404は、食料の補給を済ませると一〇三〇から潜航を始めた。潜航前に乗組員全員で、一度外の空気を吸う機会が設けられた。そこから九時間半にわたる潜航をし、そして由利島の近海まで来ると再び浮上して、7月29日の昼頃徳山港へ到着した。伊404はそれを最後の寄港として、問題の関門海峡へと向かう。
艦内にいまだ流れ続ける"G線上のアリア"は、蓄音機に布切れを押し込むという形で一応の解決が見られた。とはいえ、機関科員たちの表情が晴れることはなかった。まったくの無音のうちに動作する主機は気味悪いといって仕方なく、そして状態もわかり辛い。乗組員の四分の一が、潜水学校で圧縮教育を受けた人間たちだ。懸念は尽きない。
いつも以上に静まり返った発令所に、一人の来客の姿があった。
「どうなさったんです? 三川少佐」
「いえ、お構いなく。ここで見ているだけですので」
忘れがたいあの声に、従兵として来ていた兵士の顔が上がった。宇城上等水兵は、件の美青年の顔をまだ拝んでいない数多くの乗組員の一人であった。陸軍将校と結婚したという妹からの絵葉書を受け取って以来、何故だか三川少佐の存在が気にかかってしょうがなく、こうしてとうとうその機会を得た。
「気合いを入れろ、もうすぐ機雷原だ」
航海長の児玉少佐が、決して大きくはない声量で檄を飛ばす。発令所の空気が引き絞った弦のごとく張り詰めて、宇城は潜望鏡のハンドルを握る手に汗がにじむ。これまでの航海を経て既に、艦内の各所が汗でぬめりを帯び始めている。それはこのハンドルも例外でなく、宇城はしきりに掌をこすり合わせていた。浮上前にはこうして必ず全周警戒をしなければならないが、実は搭載されている潜望鏡は仰角を取ることもできるのだ。内海を行く潜水艦にとって最も恐ろしいのは、敵航空機を置いて他にはない。
「敵影確認できません」
「よし、浮上用意。ベント閉め」
蘆原艦長が、珍しく表に緊張の色を見せていた。普段以上に白い顔から血の気が引けているようにさえ思われ、宇城は多少不安に思った。関門海峡を抜けるという航路が示された時、幾人かの内航事情を知る者が口々に噂をしたのだ。"この艦は沈みに行くようなものだ"と。その噂に触れた児玉航海長が「心配するな」の一点張りであったことは、かえって乗組員たちの不安をあおっていた。
「ベントよし」
「メインタンク・ブロー」
圧搾空気が、バラストに溜まった海水を猛烈な勢いで排出していく。船殻の内部に響き渡る気流の奏でるオーケストラが、この艦が今水圧の呪縛から解き放たれつつあることを証明する。
「上げ舵いっぱい」
操舵長の号令が操舵員へ伝わって、山彦のように数度反復しながら、やがて艦体が傾き始める。陸軍からのお客の様子はどうだと、宇城が振り返ってみると、慣れたもので手近なものに捕まっていた。浮上までの秒読みを、哨戒員の一人が淡々と行う。すでにこの海域には、五万と機雷が遊弋しているのだ。この浮上の衝撃で一体どの型式の機雷が誘爆するか、分かったものではなかった。
幸いなことに、伊404は無事に海面への帰還を果たした。浮上航走中の宇城の任務は甲板見張りであった。仲間たちとともに猛烈な勢いでラッタルを駆け上り、外界へと飛び出す。露天艦橋、艦首、艦尾とそれぞれ持ち場へ散開し、直ちに水平線と上空の監視配置についた。今司令塔では、艦長あたりが三川少佐を足止めしているはずだ。その間に、晴嵐格納庫を開いて──。
その時であった。艦内に、猛獣のうなり声がごとき悲鳴が轟く。
艦長とのしばしの相談を見事打ち切らせた悲鳴は、確かに艦体の後部から聞こえてきた。不意に厭な予感が心中を支配した。三千機関で貸し切っている兵科第二倉庫。あそこに何事かあったのではあるまいか。
「少佐」
太田がやってきて、私の耳元に唇を寄せる。
「兵科第二倉庫か」
「はい」
艦長に言って厳重な封鎖を図っていたはずだが、こうも早く問題になるとは思っても見なかったことだった。あるいは、艦長たちの手引きであるかもしれない。現場を訪れると、すでにほかの機関員と乗組員たちの間で押し問答が起きていた。
「止まれ。軍機違反で重営倉に行きたいのか」
「ここは俺たちの艦だ、そんなことに構ってられるか」
倉庫を管轄していた機関士たちといがみ合う剣持曹長は、私の姿を認めると、はっとして敬礼した。周囲の乗組員たちも私の到来に気づき、ぶっきらぼうな小さい敬礼をする。階級章を見る限り、この中の最先任は私で間違いない。
すると、分隊下士の一人が「陸軍さんよお」と野太い声を上げた。
「この部屋の中で、うちの岸部が悲鳴上げてぶっ倒れちまったんだ。いったいどうなってるんですかね」
「さあな。私たちも知りたいところだ。岸辺水兵長はどこだ?」
「今、前部兵員室の医務スペースにおります」
剣持曹長が答え、脇の下をすり抜けて部屋に入ろうとする水兵を押しとどめる。私は太田にこの場を手伝うように伝え、岸部の同僚であったらしい分隊下士を連れて全部兵員室へ行くことにした。
「よろしいんですか、少佐」
「不信感を払拭する必要がある」
岸部水兵長が、いったい"どこまで"見たのか、それを見定めなければならない。あの部屋には、比較的安全な代物を置いていた。悲鳴を上げて卒倒したとなると、例の棺を開けてしまったのだろう。これで正気に戻られては少々厄介だ。
艦内の各部屋には、ほとんどの場合ドアは存在しない。医務スペースには二床だけ寝台があり、それ以上の患者は自分の寝台で眠ることになる。一応カーテンで区切られていたが、これでは防音効果は期待できない。
軍医長は、私を待ち受けていた。部屋の入り口に姿を現した私を見て、開口一番「何をしたんだ、彼は」と言い放つ。首を傾げて見せた私は、彼の不興を買った。
「どういうことです」
「どういうことですだと? 明らかにイカれてるよこいつは」
軍医長が顎でさした先には、寝台に縛り付けられている岸部水兵長の姿があった。鎮静剤で眠らされたらしいが、それまではうわごとを繰り返すばかりでとても平常ではない様子だったという。負号部隊から借りた呪符は、存分に効果を発揮していたと見える。このまま三日間は、頭の中に呪詛の声が繰り返されて正気に戻れないだろう。
「説明してもらおうじゃありませんか」
後ろについてきた機関科分隊下士が、引きつった笑みで私に言った。椅子を引き出し、改まった様子で目の前の禿げ頭に問う。
「軍医長、彼はなんと言っていましたか」
「......まともじゃないから、本当かどうかもわからないが──"女"が、死んでいたと」
私は無表情を崩さぬまま、脳裏に様々な可能性を想像していた。岸部水兵長は機密の一端を覗いてしまった。これがもし、伊404幹部たちの謀議によって成されたものであるとしたら。
「興味深いですね、それは」
いよいよ幽霊船ということか、この艦は。
軍医長の青ざめた顔に、わたしは微笑んで見せた。
艦長命令で、晴嵐格納筒への突入は中止された。原因は言うまでもなく、岸部水兵長であった。計画のことは、伊404幹部と、そして宇城たち一部の水兵たちの間で極秘とされる運びとなった。
そうした事情を知らぬ伊形は、心なしか口数の減った同僚に、少しの違和感を覚えていた。例の岸部水兵長の発狂が、なにか関係しているのではないか。いくら聞こうと、宇城は否定も肯定もしない。
「最近、軍医長がおかしな噂を流してるんだ」
「そうなのか」
興味なさげに壁のほうへ寝返りを打った同年兵は、これから四時間の休憩をすべて睡眠に使うと決めたようだった。近頃様子のおかしい親友を前に、伊形は気晴らしになるだろうと話を続ける。
「この艦の向かう先は、実は米帝の本土なんだとよ。海底のトンネルを通って、太平洋を一直線に突っ切って──」
「そんな阿呆な話があるもんか」
小さくつぶやいた宇城は、背中を丸めていよいよ寝入ってしまう。興を削がれた伊形は、しかし負けじと話を続ける。
「伊404は俺たちが知らない間に改造されて、反撃の魁になったんだ。機関音はクラシックになっちまったし、魚雷はトビウオみてえに飛んでいくんだ」
「......トビウオなら、開いて食いたいもんだな」
長期航海のきつさは、宇城と伊形もよく聞かされたものだった。乗り込んでいる乗員の中でも特に古参兵は、赤道を南下した経験を持っている。数ヶ月に及ぶ航海で新鮮な糧食が尽き、甲板に飛び込んできたトビウオを開いて食べたという話は、何度も聞かされたことがあった。
もちろん、伊形自身軍医長の話す海野十三のような話を信じているわけではない。だが、今となってはそれが真実であってくれたほうが幾分ましというものだった。撃沈必死の作戦なれば、せめて空母のひとつでも沈めてから散りたいと願うのは自然なことであった。
寝息を立てている同年兵を起こさないように、伊形は外へ出る。伊404は関門海峡を前に、前進を一時止めていた。海上には、そう長く居続けることはできない。すでに数度、米帝の哨戒機を頭上でやり過ごしている。それもこれも岸部水兵長の事件が原因であり、若い上等水兵はこの事件の背後にただならぬ気配を感じ取っていた。伊形はこれでも"帆村荘六"のファンであり、探偵は幼少のころの夢だったのだ。
しかし、と伊形は寝静まった同僚を見下ろす。岸部水兵長の発狂は、この宇城上等水兵が艦橋見張員として出て行ったときに起こった。ということは、彼の関与を疑うのはまずあり得ない。だがこの狭い艦内で、人一人を発狂せしめる何かが隠れていられる場所は少ない。そしてその場所といえば、陸軍が貸しきった晴嵐格納筒と、そして兵科第二倉庫だ。もともとあそこには飛行用品などを積んでいたから、なるほど晴嵐がないとあればその部分は空きができる。
艦橋配置がここのところ増えた宇城は、なにか知っているのではないのか──そう考えが到ったところで、伊形はため息をついた。乗組員の中でも下の下にあたる自分たちに、わかることは少ない。
稚拙な探偵ごっこに興じている自分の姿に気がついた伊形は、急に気分が沈むのを自覚していた。前の非番に、牛殺しを連続して受けたときも、似たような気分になった。みんな、死の海と化した関門海峡を越えるにあたっておかしくなっている。急に始まった軍医長の法螺話も、自分たち若年兵を勇気付けるものなのか、はたまた軍医長もおかしくなっているのかわかったものではない。
岸部水兵長が発狂したのも、それが原因ではないのかという噂がある。前途に絶望した岸辺水兵長が、佯狂を弄していち早く艦を降りようとしている、というのだ。ここならまだ、徳山の港にカッターで戻ることも可能かもしれない。
だが古参の下士官たちはみな、それを否定していた。岸部は確かに善行章も一本しかないような乱暴者だが、逃げ出すようなやつではない。
部屋を出た伊形は、医務室へ行こうかと考えた。足が艦体後方へ向けて歩み始め、やがて止まる。
「..................」
それは、前方から件の岸部水兵長が歩いてきたからだった。
「お前の部下が見たのは、本当に死体なのか」
紫外線を発する蛍光灯の下、手狭な艦長予備室の入り口には臨時で従兵が立っていた。伊404幹部を秘密裏に呼び集めた蘆原は「なにがどうなっている」と疲れた様子で続ける。半ば叱責のような問いを受けた児玉は、蘆原以上に消耗した様子で座っている。
「軍医長は、岸部は本当に死体を見たんだろう、と言っています。ですが確認しようにも、あの陸軍の連中を説得する必要があります」
「見ればいい! 艦長には艦内の治安を預かる義務がある」
永長大尉は声を荒げたが、すぐに蘆原にひと睨みされて首をすくめた。冷徹な白皙は今までにないほど困惑と焦燥にゆがめられ、艦長職にある男は一枚の紙片を机の引き出しから取り出してきた。
「今朝方、GFから問い合わせの返答があった。征号作戦に関連する一切は、陸軍"負号部隊"に一任されている、と」
「それは統帥に対する反逆なのでは」
来野の問いに、蘆原は無言でうなずいた。
「形式上は軍令部総長からの発令になる。だが、その内容については大本営から直々に軍機の判が押されているらしい」
「そんな馬鹿な。一体全体どこの部隊がそんな大権を振りかざせるというんです?」
「通称号は"負号"らしいが、陸軍省に問い合わせてもそんな名前の部隊は存在しないらしい。よっぽどな組織なんだろう」
「陸軍の中にオカルトにかぶれた連中がいるって話なら、聞いたことがあります」
「仏教とかあの辺の?」
「いや、もっとカルト的なものだろう。いずれにしろ、三川少佐たちがそういう連中と関係がないとはいえない」
「そんじゃあなんです?」佐鹿機関長が、だんだんと憶測の色を強めていく会話に割って入る。「三川少佐たちはそのオカルティックな何かをこの艦に積み込んでいて、その一環として女の死体もあった。で、それを運悪く岸部が見つけておかしくなっちまった」
「もし軍医長や岸部の言うとおり死体があったのなら、それは衛生上看過できない問題です。作戦の是非はともかく、その点だけでもわれわれは説明を受ける権利ぐらいはある」
ずっと押し黙っていた児玉はそう言うと、立ち上がって一礼した。
「うちの岸部が大変な迷惑をおかけした。申し訳ない」
「筋が通っていないのは陸軍だ。児玉少佐が謝るようなことじゃないさ」
ただ──と蘆原は一呼吸置いて、児玉を一瞥する。
「どうして岸部水兵長は、兵科第二倉庫なんかに入れたんだ? 鍵は連中が持っていたのではないのか?」
「分かりません。鍵は内部から開錠されていたとしか」
永長大尉が気味悪そうに「うう」とうめき声を上げた。
「岸部は今でも、立ち上がってどこかに行こうとするのです。軍医長が見張っていますが、ひょっとするとあれは」
しばし、その場に無言の時間があった。話はいよいよ強く伝奇の色彩を帯び、そしてその内容は切迫していた。
「......で、どうするんです?」佐鹿が仕切りなおそうと、話を戻す。「素直に向こうがはいどうぞ、って第二倉庫を見せてくれるとは思えんね。鍵を持っているのは連中だ」
衛兵を立たせるしかありますまい、と来野が言った。一同は顔を見合わせる中、永長は「なんのために? まさか、陸軍の連中を──」
「それもありますが、第二倉庫の中を確認するための人材も必要です」
「どこが出す? 来野大尉の従兵は一人しかいないし──」
「小官と、もう一人気の強い者を寄越してください」
児玉が手を挙げたが、蘆原は首を横に振った。
「先任士官にもしものことがあったら、この艦はどうなる? ただでさえ、今は関門海峡を前にしている」
「いずれにせよ、そこを越えたらでしょうなあ」
佐鹿がそうまとめると、一同の間には確かに安堵の空気が流れた。だが、耳に遠く聞こえるG線上のアリアの音色は、無言の彼らの心中を確実に蝕んでいたのだった。
明くる日も、私は艦橋──より正確には、露天艦橋──を訪問した。残存している駆潜艇の一隻が、伊404を先導して進んでいくのが艦首方向に見て取れる。あちらにも負号部隊の息がかかっていることは明白だが、三千機関の人間は乗り込んでいない。
「..................」
関門海峡をいよいよ越えようという段になって、これまでになくぴりぴりとした空気の中、一人涼しい顔をしている陸軍軍人は歓迎されようもなかった。ましてや水兵の一人が、私たちのせいで発狂した後ときている。心なしか私を刺す視線には悪意が含まれていて、防暑服の隙間に刃物を差し込まれたかのような気分にさせられる。
「三川少佐。どうやらうちの岸部に粗相があったようだが──」上がってきて早々、蘆原艦長は私に向き直って言った。「今は後にさせてください。これから当艦は峠を越えようというところなのです」
「存じ上げております。それゆえ、小官もここまで上がってきた次第なのです。きっと上手くいきますよ」
「機関音が鳴らなくなってしまいましたからな」
「まこと不思議なこともあるものです」
海上というだけあって、風が常に吹き付けてくる。関門海峡は世界でもまれに見る狭隘な水路であり、その沿岸には数人ではきかない人影が見える。その全員の記憶に検閲をかけるというのは、陛下の股肱たる皇軍の力をもってしても不可能だ。そして眼下の青い海底には、大量の機雷が爆裂するときを待っているのだ。本土決戦を控え、米帝のみならず帝国海軍も自ら近海へ大量の機雷を敷設し続けている。
「機雷原へ入りました。駆潜艇が航路から外れます」
「ご苦労だった、と伝えておけ」
磁気式・音響式・水圧式と種々さまざまな機雷が、よもや日本の内海にまで浸透しつつある。彼らにとって、関門海峡ほど格好の餌場はなかった。日本海と太平洋を結ぶ狭い水道を往く伊404は、目には見えずとも今まさに危険な綱渡りを始めた。
もちろん、私たちもまったく無策のままではない。120と1つの特別資産を無事に運びきるのがこの任務であり、近年の皇軍に見られる特攻精神を、私たちは持ち合わせていなかった。少なくとも磁気機雷と音響機雷に対する防護処置が、この艦には施されている。
露天艦橋の雰囲気は、もはや"天佑を確信している"ように思われた。少なくともこの中に、ここを無事に切り抜けられると信じている人間は一人もいないだろう。思えば、岸部水兵長が発狂しだす前に、誰かしが先に発狂していてもおかしくない環境であったのだ。
蘆原艦長と児玉航海長、そして数名の航海士や兵員が額をつき合わせて、海図を死にそうな顔で眺めている。着底しているであろう機雷が、なるべく"薄い"部分を探そうとしているのだ。
「このまま微速を維持し、6時間後に海峡を抜ける。それまでは各員休息を返上し、不測の事態に備えよ」
伝声管の向こうから、緊張の絡みついた声音が返事をよこした。蘆原は海風を楽しんでいる私に振り返ると、深刻な面持ちを隠そうともしない。
「きっとわれわれは助からんでしょう。ダイバーズロックの場所は覚えておいでですか?」
「大丈夫ですよ。少なくとも南から蚊が飛んでくるようなことがなければ」
私が見上げた晴れ空には、一羽の鳥の影もない。天候に負けじと晴れ晴れとしている私に比べて、蘆原艦長の表情は曇ったままであった。鋭敏な船乗りとしての勘は、私と違ってこれより来る災厄を見通しているのかもしれない。
「いい天気ですからね。来ないことを祈りましょう」
「天佑を確信し、と」
「ええ」
蘆原艦長は、にこりともせずうなずいた。
そこにあったのは、女性の遺体のようだった。いや、なぜ自分は死んでいると断じたのだろう。でもそれは、生きているというにはあまりに特異すぎた。棺桶に横たわる女性はまったく一糸まとわぬ姿で、しかしそのはだえは葉緑素を持つかのごとく緑変している。整った顔立ちは、死に化粧をとうに済ませたかのように、もう二度と開かぬ瞼をぴったりと閉じていた。
そこはもう、僕たちを閉じ込める洋上の牢獄の形ではない。岸部水兵長は、彼女に自らの食事を供しに来ていた。ここは穢された祭壇であり、紫外線を発し続ける蛍光灯は罪を赦すことをよしとはしない。僕らは顔を見合わせ、そして許しを乞うた。彼女の柔肌を載せている棺は土で満たされており、そのところどころには十字架と髑髏を象った祭具が捨てられている。
彼女が言うには、僕らはこのことを漏らしてはならず、ただ少しずつ伝道しなくてはならない。焼け焦げた呪符を岸部水兵長が踏みつけ、僕の胸倉を掴んで引き倒した。いつの間にか小さなナイフを手に持っている水兵長は、彼女に言われるがまま振り下ろす。僕の胸に突き立ったそれは血を吸い、傷もなく僕の身体から出て行く──。
伊形は目を覚ました。
艦内のどこか──倉庫であろうか。蛍光灯が切れているのか、それとも今が夜だからなのか──まずいことに伊形は時間感覚を失っていた──それは分からなかった。だが、間もなく伽藍洞に思われた部屋の中に、"なにか"が落ちていることに気づく。それは、真円の手鏡だった。持ち手らしい持ち手のないそれを拾い上げると、鏡が宿していた皮膚を焦がすほどの熱に驚く。思わず取り落とした鏡は、そのまま床に直立して転がりだした。真っ暗闇の廊下へ出て行く鏡を追って、伊形は何者かとぶつかった。
「もっ、申し訳ありません」
艦内で誰にぶつかったとしても、たいていは自分の方が立場が下なのだから、とにかく平謝りするのが利口というものだ。しかしながら、その相手はなんの返答もよこさなかった。ずいぶん気の難しい相手と衝突事故を起こしてしまったようだと、伊形の額から血の気が引ける。
「あ、あの」
乾いた白い球が、床に落ちた。
「誰だ、お前......」
「ひっ......」
あってはならぬ空虚が眼窩に収まっていて、見えぬ見えぬとうわごとを繰り返す。その顔は水分をまるきり搾り取られていて、醜く収縮していた。
「あ......あなたは......」
「どけ。ったく、目の前が暗くてしょうがねえ......」
しわがれた声がそのまま人をかたどったような、細く黒ずんだ腕が伊形を押しのけて行く。言葉を失った水兵は、上官の背中が暗闇へ消えていくのをただ待っていた。
「......まさか」
不意に伊形は気づく。どこからかやってくる薄明以外には、通路に差し込んでくる明かりは全くない。潜航中ということならば納得も行くが、震動が全くないというこの状況では、とても航走状態にあるとは考えにくい。
知覚されうる情報を総合して出てくる結論は、主電源喪失という最悪の事態であった。
伊形は今頃になって、現在の潜水艦内部に立ち込める臭気が、普段のそれとは全く異なっていることに気が付いた。あの体液と食物と糞尿が混じった異臭に加えて、腐臭かあるいは屍臭とも言うべき臭いが漂流している。伊形は後ろを振り返った。今おのれが出てきたのは、おそらく兵科第二倉庫だ。後部兵員室とつながっている倉庫だが、今は陸軍の客人たちの部屋とのみ接続されている。
つまりあの男が向かっていったのは、陸軍の客室だということになる。
やめよう、と伊形は独りごちた。自分が今の今までどうなっていたのかも知れないのに、余計な詮索をしてはただ面倒を増やすのみだ。今はとにかく、自らの配置──魚雷発射管──を目指すべきであろう。掌長からの想像を絶するような制裁が待っているかもしれないが──唇が不意に緩み、ひび割れに血がにじむ。痛みに顔をしかめた伊形の脳裏には、放逐したはずの最悪の予感が舞い戻っていた。
明らかにこの艦は、すでに戦闘能力を喪失している。今のところ浸水は見られないが、早晩船殻が圧壊してもおかしくはない。
伊形は、ふらふらと薄明かりの方へと歩き出す。
「よろしいですか三川少佐。操舵に関しては操舵長がいますし、潜航に関しては潜航長がいます。そしてなにより、この艦の最終決定権は小官にあるんです」
物分りの悪い陸軍将校に対して、半ば怒鳴るように蘆原は言った。米軍機を遠方に視認した見張り員からの通報によって、艦橋は直ちに潜航を決めた。とはいえ、この海峡の水深はたった12メートル足らずにすぎない。そうなると必然的に潜望鏡深度での潜航となる。
「小官が反対しているのは潜航そのものについてではありません。機関を停止することに対して異議がある」
「何度も申し上げているじゃありませんか。われわれの艦には自動懸吊装置が付いています。機関が止まっていても深度を固定できる」
そんなことは知っている、と三川に脇侍している将校が言った。
「なぜ機関を停止する必要があるんです、別にこんな機雷原にとどまらなくなっていいでしょうに」
「不安は、よく分かります」
児玉先任士官は、きわめて冷静を保ったまま言った。見かけによらずもっとも