コルサコフ・ユジノサハリンスク間の道路(2017年07月14日)

コルサコフ港まで行って、ユジノサハリンスクへ引揚げる途中、「何度往来しても思うが...」と考えながら、道路の雰囲気について、車輛が"右側通行"なことは日本国内と事情が異なるものの「凄く道北地域の海側の道路に似ている」と感じます。

↓こういうような感じです。
コルサコフ・ユジノサハリンスク間の道路.JPG
↑丘陵のなだらかな起伏のようなものに沿って、「地形の上に素直に道路を敷設」という感じです。

車の助手席で前方をぼんやりと眺めながら、7月11日、7月12日、7月14日と、短期間に3回、このコースを往復したというようなことを想っていました。

7月11日に上陸した稚内市代表団は、一定の成果や、各々の参加者の想い出やお土産を抱えて、無事に<ペンギン33>に乗船して稚内へ向かいました。

コルサコフで視掛けたШиповник(シポーヴニク)=ハマナス(2017年07月12日)

昨日までの雨や、肌寒い感じと一転し、サハリン南部は晴天で温かい感じ、場合によって「少々暑い」ような按配です。急に「夏が"復旧"」という感です。

↓コルサコフの街で、こういう花を視掛けました。
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↑大きめに育った木に、見事に花を付けていました。

昨日サハリンに入った稚内代表団は、コルサコフで活動しています。<稚内・コルサコフ定期航路利用促進合同会議>に臨みました。

花は昼食会場の傍で視掛けたものです。

高台からコルサコフ港を望む(2017年07月11日)

コルサコフ港から少し丘陵を上るように進み、地区行政府庁舎等が見受けられる側へ進み、そこから更に脇の道へ入ると「古くは灯台が在った」という高台に至ります。

↓その高台から、コルサコフ港の様子がよく視えます。海面が穏やかです。
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↑細長くのびる桟橋は1920年代の"大泊"の時代に整備されたものです。桟橋の上のクレーンは、ソ連時代からのモノです。

この穏やかなコルサコフ港に、今日は稚内からやって来た<ペンギン33>が入港しました。乗船客の中には、稚内代表団の15名も在りました。

この<ペンギン33>が着いた少し後の時間帯は曇天でしたが、午前中も雨で、夕方から夜も雨というサハリンの南側の天候でした。週末は「25°C超」で、「30°Cを伺う」ような状態だったのですが、週明けから「15°Cを挟むような感じ」が続いています。

文化センター<オケアン>(2017年05月08日)

休日の早朝、天候が好かったのでバスに乗ってコルサコフまで行ってみました。

↓コルサコフ地区行政府庁舎の傍に文化センターが在り、<オケアン>(オーシャン=大洋)と名付けられています。
文化センター「オケアン」.jpg
↑傾斜が多い地形な中で、平坦な建設用地を整えて建てられていることが判る感じです。

コルサコフの「地形の感じ」としては、筆者が訪ねた経過が在る範囲では紋別や留萌を想起する感じがします。海が見える場所が在って、段々に丘陵のようになっている場所も在り、傾斜している場所を整えて築かれた市街が拡がっている雰囲気です。

手前左側のレーニン像は、この辺りを2013年頃に整備した当時、地区行政府庁舎の真ん前から移したものです。

この文化センター<オケアン>は、来る7月に予定する『稚内・コルサコフ定期航路利用促進合同会議』の会場となる計画です。

早朝のソビエツカヤ通(2017年05月08日)

↓最初から「人が少ない休日の朝」なのは判っていましたが、何か「清々しい!」までに美しい通だとぼんやり佇んで見惚れていました。
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↑コルサコフ地区行政府の近隣です。ソビエツカヤ通と呼ばれている辺りです。

↓街路が広場の一部のようにもなっていて、「歩行者ゾーン」という指定になっているのが判ります。
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↑この場所は随分以前から「歩行者ゾーン」という指定で、原則的に車輛を入れないようにはしていましたが、何時の間にか随分と綺麗になりました。以前は「普通な道路」という感じだったのです。

↓屋根まで架かったベンチが随所に据えられています。
早朝のソビエツカヤ通 (1).jpg
↑「街の一部を公園・緑地化」という感じではあるのですが、寧ろ「公園・緑地の一部が街にまってしまっている」というようにも感じられました。

コルサコフでも「美しい都市景観の形成」というような問題意識が高まっていることが伺える感です。

「КОРСАКОВ」(コルサコフ)を手で表現?(2017年05月08日)

↓コルサコフ市内の<芸術学校>の塀に描かれていた画です。
「КОРСАКОВ」(コルサコフ) (1).jpg
↑「何やら不思議な?」と思いながら眺め入ってしまいました。

↓通の反対側に渡って、全体を眺めてみて判りました!
「КОРСАКОВ」(コルサコフ) (2).jpg
↑"手"で"К"、"О"、"Р"、"С"、"А"、"К"、"О"、"В"の各文字、街の名である「КОРСАКОВ」(コルサコフ)を表現していたのでした。

これは一寸面白いと思いました。

旧北海道拓殖銀行大泊支店(2017年05月08日)

コルサコフ市内に残る樺太時代の建築として知られる、往時の「北海道拓殖銀行大泊支店」は老朽化が目立っていました。この建物に関して「修復をして利用する」という方向で、州政府や地区行政府も関与して修復整備に着手されたと聞いていました。

↓コルサコフ市内を歩いてみて、様子を視て「あれ?!」と驚きました。遠目には「建物がピカピカに!?」と視えたのです。
大泊支店(2017年05月08日).JPG
↑これは「建物外観風」に設えられた幕のようなモノで、確りと建物を囲い込んで、その囲い込んだ中で修復整備の作業を進めているようです。

現時点では、明確に利用方法が決定した段階ではないようですが、立派に往年の雰囲気を伝えるようになってくれることが願われます。

「サハリンで最も古い街の一つ」を見詰めるネヴェリスコイ提督(2017年04月21日)

"稚泊航路"(ちはくこうろ)の経過が在り、現在でも稚内・コルサコフ航路で結ばれるコルサコフ市は、稚内とは大変に縁深い地域です。

コルサコフの皆さんが自分達の地域を紹介しようとする時、「サハリンで最も古い街の一つ」という表現を用います。

1853年―日本史では「黒船」と呼ばれた外国船が現れて"開国"という動きが見られたような時期です。―にアムール川の河口部やサハリンの調査を行っていたゲンナージー・ネヴェリスコイが、現在のコルサコフ市に相当する場所に<ムラヴィヨフスキー砦>という哨所、活動拠点を築いたという故事をもって「コルサコフの"建都"」と位置付けています。

写真は2013年に「建都160年記念」ということで街の整備が進められた時に建てられた、ネヴェリスコイ提督の銅像です。第一印象は「なかなかに経費が...」というものなのですが、頭の型を見て「レーニン像?」と言う方も時々在ります。レーニンに関しては、銅像が身に着けているような、帝政ロシアの軍服を身に着けた姿は伝わっていません。方々に在るレーニン像は、大概が「普通のコート姿」です。

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資源開発が軌道に乗った2000年代半ば以降、発展が著しい感のサハリンをロシアに紹介するような活躍が在ったというネヴェリスコイ提督は、街をどんな気分で眺めているのでしょうか?

因みに、1853年より以前から、この辺りには日本人等が足跡を多く残しているというのもよく知られている話しではあります。