ネベリスクのN.V.ルダノフスキー記念碑(2017年05月06日)
ネベリスクでは「1854年」を「建都」と位置付けています。
実際、現在在る都市に関して、人がその辺りに住むようになったのは何時頃なのか、交易等の経済活動が盛んに行われたのは何時頃なのか、農業や漁業等がその地域で営まれ始めたのは何時頃なのか、場所を特定する最も古い記録がどこに在って何時頃の時代かというような「人々の営みの始まりの根源」のようなことを精確に特定することは、国や地域を問わずに困難と見受けられます。多くの都市で、「記録が伝えられている様々な故事」の中から「最も古そうな出来事」、同時に「判り易い事例」を選び、「○しろまる○しろまるの故事を以て"建都"とする」というように決めているように見受けられます。
↓ネベリスクで「1854年」を「建都」と位置付けることにした故事を伝えているのが、この記念碑です。
ネベリスクのN.V.ルダノフスキー記念碑.jpg
↑ニコライ・ワシリエヴィチ・ルダノフスキーという人物の事績を伝えているものです。
ロシアでは、1853年にネヴェリスコイの率いる一隊がサハリンに入り、現在のコルサコフの辺りにムラヴィヨフスキー砦という拠点を設け、そこを足掛かりに色々な活動を展開したという故事を以て「サハリンが拓かれた」というように考えられています。
ルダノフスキーはそのネヴェリスコイの率いる一隊に参加していた人物で、ネヴェリスコイの指示を受けて南サハリン各地を踏査して測量等を行い、詳しい地図の作成を行ったそうです。
ルダノフスキーはその南サハリン踏査の中、1854年に現在のネベリスクの辺りに到達しています。
「現場の責任者」であったネヴェリスコイがよく知られているのに対し、ルダノフスキーは少し知名度が低めかもしれません。海軍での彼らの階級ですが、ネヴェリスコイの最終階級は現在で言う大将や中将に相当するもので、ルダノフスキーは少将や准将に相当するものであったようです。そういうことはあるにせよ、「かなり困難であったのでは?」と想像出来る、南サハリン踏査に挑んだルダノフスキーに関しては「もう少し知られても?」というような気がします。
ネベリスクでは、或る種のユーモアとして「街の命名由来になったネヴェリスコイはネベリスクには多分来ていない。ルダノフスキーは間違いなくやって来ている...」と囁かれるそうです。では街の名が"ルダノフスク"でも善かったような気がするのは「後知恵」というものでしょう。樺太のソ連化で街の名が与えられる場面で、「ロシア史に在って、サハリンを拓いた功労者は何と言ってもネヴェリスコイ」という話しになってネベリスクという街の名が登場したものと見受けられます。
実際、現在在る都市に関して、人がその辺りに住むようになったのは何時頃なのか、交易等の経済活動が盛んに行われたのは何時頃なのか、農業や漁業等がその地域で営まれ始めたのは何時頃なのか、場所を特定する最も古い記録がどこに在って何時頃の時代かというような「人々の営みの始まりの根源」のようなことを精確に特定することは、国や地域を問わずに困難と見受けられます。多くの都市で、「記録が伝えられている様々な故事」の中から「最も古そうな出来事」、同時に「判り易い事例」を選び、「○しろまる○しろまるの故事を以て"建都"とする」というように決めているように見受けられます。
↓ネベリスクで「1854年」を「建都」と位置付けることにした故事を伝えているのが、この記念碑です。
ネベリスクのN.V.ルダノフスキー記念碑.jpg
↑ニコライ・ワシリエヴィチ・ルダノフスキーという人物の事績を伝えているものです。
ロシアでは、1853年にネヴェリスコイの率いる一隊がサハリンに入り、現在のコルサコフの辺りにムラヴィヨフスキー砦という拠点を設け、そこを足掛かりに色々な活動を展開したという故事を以て「サハリンが拓かれた」というように考えられています。
ルダノフスキーはそのネヴェリスコイの率いる一隊に参加していた人物で、ネヴェリスコイの指示を受けて南サハリン各地を踏査して測量等を行い、詳しい地図の作成を行ったそうです。
ルダノフスキーはその南サハリン踏査の中、1854年に現在のネベリスクの辺りに到達しています。
「現場の責任者」であったネヴェリスコイがよく知られているのに対し、ルダノフスキーは少し知名度が低めかもしれません。海軍での彼らの階級ですが、ネヴェリスコイの最終階級は現在で言う大将や中将に相当するもので、ルダノフスキーは少将や准将に相当するものであったようです。そういうことはあるにせよ、「かなり困難であったのでは?」と想像出来る、南サハリン踏査に挑んだルダノフスキーに関しては「もう少し知られても?」というような気がします。
ネベリスクでは、或る種のユーモアとして「街の命名由来になったネヴェリスコイはネベリスクには多分来ていない。ルダノフスキーは間違いなくやって来ている...」と囁かれるそうです。では街の名が"ルダノフスク"でも善かったような気がするのは「後知恵」というものでしょう。樺太のソ連化で街の名が与えられる場面で、「ロシア史に在って、サハリンを拓いた功労者は何と言ってもネヴェリスコイ」という話しになってネベリスクという街の名が登場したものと見受けられます。
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