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2011年06月

2011年06月25日

松戸方面からの南下ルート、突然現れた谷津に感動しました

また恒例の遅アップです(苦笑)。この前の日曜日、久しぶりのルート探しのポタをしてきました。


ご存知の通り、自動車の交通量の多い道路が大嫌いな私は、これまで鎌ケ谷市と松戸市を走るのは極力避けていました。ところが、鎌ケ谷はあの谷津の道を見つけてからは、大好きな場所となりました(笑)

で、問題は松戸です。千駄堀の里山をうろうろするか、新坂川沿いの道を走って江戸川に出る以外は、積極的に走りたいと思えるルートが見つかりませんでした。そんなわけで、今回はポタで使えるルートを探してやろうと、折り畳み自転車のPacific-18に乗り、出かけてみました。

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まずは私のポタの起点、流山市の運転免許センター近くの富士見橋からスタートです。途中、少し寄り道して、前ヶ崎のあじさい通りを訪ねてみました。

いつもながらの梅雨時の風物詩です。ただ、今年はあじさいの開花が遅れているのか、それとも花が少なめなのか、少しボリューム感に乏しい印象です。そうは言っても、もちろん例年通り、圧倒的なあじさいの壁は感動モノです。

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さて、あじさいを堪能した後は、以前、21世紀の森と広場へ向かうルートとして発見した道路を南下、21世紀の森と広場の西側を走って千駄堀へと向かいました。

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その後は、 あの千駄堀の里山を通って南下してもよかったのですが、その南に広がる住宅街が迷宮状態なので、千駄堀から松戸運動公園の南の道を使って西に向かい、松戸の稔台工業団地のこの道を南下しました。

この道は工業団地の中を通り抜けるわりには、緑が多く、なかなか素敵な道です。あとで地図を良く見ると、この道はその南の和名ヶ谷小学校の脇の道へとつながる谷津の道だったのですね。下総台地に切れ込む谷沿いに造られた谷津の道は、開発が進んだところでも、自転車で走りやすい道が多いようです。

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和名ヶ谷小学校を過ぎ、春木川を渡ったところで、JR武蔵野線東松戸駅に向かう道に入りました。最初は田舎の小道がどんどん幅広くなり、東松戸駅あたりでは巨大道路に。その変化が面白いです。

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そして東松戸駅から再び里山の道を走ります。写真は上手く撮れていませんが、この丘の畑をぬう道もなかなかいけてます。

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で、この道が今回のメインイベントでした。松戸と市川の市境のこの道は、素晴らしい谷津の景観が残っていました。当初、あまり期待していなかったのですが、住宅街が迫るこんな処にこんな谷津が残っているんだ、とちょっと感動しました。この前に走った鎌ケ谷の谷津の道と同じようなサプライズがありました。

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この谷津の道はそのまま住宅街の道路に変わります。ただ、この道路の東側は斜面林が残っているため、爽やかな緑の道の印象で気持ち良く走れます。

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でその後、南下を続け、今回のポタの目的地に選んだ法華経寺に到着しました。この法華経寺を訪ねるのは、本当に久しぶりです。何度訪ねても、この寺は良くも悪くも、華やかで派手ですね(笑)

さて、せっかく法華経寺まで来たのだから、あのおみあげを買わなきゃということで、老舗の佃煮屋はまやへ。おみあげとはふきのとうの佃煮です。苦味ある風味でそのままで酒が進むのはもちろん、豆腐に載せて食べるとゲキウマ。いやぁ、夜のビールが楽しみです。

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でも、ガーン。休みでした(涙)。なかなか上手く行かないですね。

それはともかく、このルート、市街地と谷津・里山が交互に現れる感じで、変化があってなかなか面白かったです。中山競馬場の角を東に行けば、「東葛人的南下ルート」に接続できますので、三番瀬方面に行く時などにまた使ってみようと思います。

toukatsujin at 08:50|PermalinkComments(8)TrackBack(0)│ [フレーム]

2011年06月18日

遂に禁断の「デジスコ」へ(笑)、素晴らしい写真が撮れました

まずは5枚の写真を見てやってください。流山市の運転免許センターの裏手、富士川沿いの畑にいたキジを撮った写真です。サムネールをクリックすると、大きな写真を見ることができます。

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どうです。なかなかでしょう! 特に1枚目の写真はジャストピン。5枚目の写真は「ケーン」と鳴いた瞬間の写真です。私、最近、写真の腕を上げました。

・・・というのは嘘です(笑)。実は、遂に禁断の世界に足を踏み入れてしまったのです。それは「デジスコ」です。

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デジスコとは「デジタルカメラ&フィールドスコープ」のことで、要は望遠鏡をカメラに覗かせて超望遠写真を撮ろうというものです。ちなみにフィールドスコープは、バードウオッチングなどで使う望遠鏡です。超望遠なので、三脚とレリーズの使用が必須です。

フィールドスコープはビクセンの「ジオマII ED67-S」です。フィールドスコープの世界は、ニコンとコーワが二大ブランドらしいのですが、とにかく財布に厳しい。それに引き換え、ビクセン製品は、価格がリーズナブルです。実は今回、そのリーズナブルな価格のさらに半額以下で入手したのですが、その話は後ほど。

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で、どれくらい超望遠かと言いますと、こんな感じです。写真では遠くにビルが写っていますが、その手前に黒いしみのようなものがありますが、それがデジスコでとらえたキジです。

冒頭の5枚の写真はトリミングしていません。この距離でキジがこの大きさに写るのはすごいです。35mmフィルム換算で2800mmの超望遠です。私が持っているデジイチの望遠レンズは、同じく35mmフィルム換算でMAX750mmなので、その違いは歴然です。

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一番上のが、私が購入したデジスコの機材です。デジスコは機材を一通り揃えると、普通10万円以上、場合によっては20万〜40万円の世界ですが、私の場合7万円以下に抑えることができました。

左がフィールドスコープのジオマII ED67-Sですが、実はヤフオクで中古・未使用品を2万5000円で落札しました。新品なら価格.COMの最安値でも5万円台半ばです。届いた品はどう見ても新品でしたので、かなり良い買い物でした。

デジスコのもう一つの重要な構成要素であるコンパクトデジカメですが、これはニコンのS5100を購入しました。S5100はフィールドスコープに取り付けるためのアダプターが用意されており、しかも型落ちしたために価格が1万円を切っていました。

そんなわけで、その他のパーツの価格を含めても6万円台に収まりました。6万円台ならデジイチの交換レンズの料金と大差ありません。その出費で冒頭のような写真が撮れるのですから、嬉しい限りです。

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キジ以外の被写体も探しましたが、結局カルガモしか見つかりませんでした。そのカルガモを撮ったのが上掲の写真です。

それにしても、デジスコの超望遠の世界は素晴らしい。良い写真が撮れるだけでなく、野鳥が無警戒な場所からじっくりと野鳥観察&撮影ができるのが楽しいです。さらなる深みにはまりそうです(笑)

2011年06月12日

いにしえの光堂と現代のデータセンターの街をうろうろ

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この土曜日は午前中が雨で、昼からは休日出勤。結局自転車に乗れませんでしたので、1週間前の土曜日のネタを書きます。

この日、久しぶりに印旛の至宝「光堂」をロードバイクで訪ねました。そして、あるものを探した後、北総線千葉ニュータウン中央駅周辺の"データセンターの街"をうろうろ。実はここ、東葛飾と印旛の両地域の中で最も安全な街の一つなのです。

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この光堂、印旛随一の美堂と讃えられる宝珠院観音堂は、何度見ても本当に美しく、心が安らぎます。印旛地域には、同じく国の重要文化財である茅葺のお堂が他に二つありますが、やはり光堂は別格ですね。

・・・と分かったようなことを書いていますが、実は私、この光堂に自分だけで来たことは一度もないのです。いつも誰かに連れてきてもらっていたので、この日は辿り着くまでに相当迷いました(恥)

いやぁ、それにしても光堂と周りの森は別天地です。私以外誰もあらず、外界の喧騒も全く聞こえてきませんので、心がどんどん静まっていきます・・・と言いたいところですが、今年初の蚊柱の来襲。ぼーっとしていたので思い切り刺されて、あえなくの退散でした(苦笑)

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光堂を後にして、あるものを探しました。あるものとは、私のことですから、あれに決まっています。そうです。野馬土手です(笑)。江戸時代の小金牧の一つ、印西牧の野馬土手はわずかしか残っておらず、この印西市泉の野馬土手(泉新田大木戸野馬堀遺跡)は貴重なものです・・・。

でも、行ってみてビックリ。野馬土手は工事の柵に囲まれており、近づくことができません。なんでも道路拡張工事のため立ち入り禁止だそうです。うーん、この野馬土手は存続できるのでしょうか。野馬土手を紹介する看板も残っていますから、おそらく大丈夫だと思いますが、かなり不安です。

ところで、この野馬土手には以前連れてきてもらったことがあり、既に東葛人的サイトの「野馬土手〜小金牧の残光」に収録済みです。でも「あるものを探して」と書いたように、なかなか辿り着けず探し回りました。光堂もそうですが、やはり人に連れて来てもらうと場所を覚えませんね(苦笑)

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さて、野馬土手を後にして、その西に大開発されたデータセンターの街をうろうろと走ってみました。データセンターというのは、コンピュータを収容するビルのことです。話には聞いていましたが、金融機関の施設など巨大なデータセンターが建ち並んでいました。

その数は驚きです。こんなふうにデータセンターが集まっているところは、地盤が固く活断層もありません。つまり、地震に最も強い場所なのです。コンピュータを置くわけですから、当たり前と言えば当たり前なのですが、このデータセンターの街の周辺の家々も地震の際には比較的安心です。

実は、東日本大震災の際に液状化して百数十棟が全壊状態になった我孫子市布佐は、ここから北へわずか4kmほどの距離なのです。データセンターの街の周辺に家を買った人も、液状化した場所に家を建てた人も、その時は地盤の固さなんか分からなかったはずです。でも、「これも運だ」とかたずけられないですね。

そう言えば、光堂には震災の影響はあったのでしょうか。光堂はやはり固い岩盤の上に建っています。見た目では何の影響もなかったような印象でしたが・・・。

2011年06月06日

利根運河交流館の野鳥観察会に参加、いやぁ楽しかったです!

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この日曜日、利根運河交流館主催の「初夏の利根運河めぐり 見つけよう!運河の夏鳥」に参加してきました。この可愛いカルガモの親子は、訪れた理窓会記念自然公園で撮ったものです。

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この会で、野鳥観察をご指導いただいたのは、紺野竹夫さんと柳沢朝江さんで野鳥の専門家のお二人です。

紺野さんは以前、交流館で野鳥の写真展を開かれていて、東葛地域で姿を消したシラコバトや、数を減らしつつあるサシバなどの話をお聞きしたことがあります。紺野さんのお話を実際の野鳥を観察しながら、またお聞きしたいと思い参加しました。

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今回、幸先がとてもよかったです。写真には撮れませんでしたが、カワセミの素晴らしいダイブを見ることができたからです。場所は交流館の目の前の利根運河水辺公園です。

三角屋根の鉄塔の白い欄干のところにとまっていたカワセミが3メートルほど下の水面にダイブし、魚を捕まえて飛び去りました。あの高さでよく魚を捕まえられるものです。

実はこの後もカワセミに会いました。カワセミって、至る所にいるんですね。うーん、ますますカワセミのありがたみが薄れます(苦笑)

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今回のコースは利根運河を東に歩き、理窓会記念自然公園に行って戻ってくるというもの。当然、野鳥観察のメインは理窓会記念自然公園だと思っていたのですが、利根運河にも野鳥がいっぱいいます(当たり前か、苦笑)

というか、普段自転車で走っているときは、カラスやツバメぐらいしか見つけられないので、今までいかに野鳥を見ていなかったかということですね。やはり、見る気がないと見えない、ですね。

例えば、キジは利根運河の土手に多数居ます。ご一緒させていただいた方の話によると、100メートルごとに見かけるとのことです。実際、この日は3羽のキジを見かけました。

そのほか、よく見かけるヒヨドリやムクドリはもちろん、下の写真のホオジロをはじめ、声だけですがオオヨシキリ、セッカ、コジュケイなどに出会うことができました。残念ながら私は見落としたのですが、ホトトギスも居たそうです。

それにしても紺野さん、さすがにすごいです。「あれは何の鳴き声ですか」と聞けば、たちどころに答えてくれます。それに遠くの空を飛ぶ鳥を指差して、「あれはしろまるしろまる×ばつが飛んでいます」とおっしゃいます。どうして分かるのだろ。

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見慣れた鳥たちも、楽しい姿を見せてくれました。上の写真は水浴びするスズメ。実に気持ち良さげに水を浴びていました。そして下の写真は巣の補強のため土を持ち帰るツバメです。

そう言えば、鳥の鳴き声などを言葉で表現するのを「聞きなし」というそうです。ウグイスなら「ホーホケキョ」ですね。そしてツバメは「土食ってしぶーい」だそうです(笑)

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理窓会記念自然公園では、野田の観察会の皆さんと鉢合わせ。それで、こんな大人数になり眺めているのは、カイツブリの親子です。

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上の写真がカイツブリの親子。幼鳥は顔の模様が面白いです。柳沢さんによると、カイツブリは生まれたばかりの雛を背中に乗せて、子育てするそうです。

そう言えば、今回は幼鳥や若鳥によく出会えました。真ん中の写真が冒頭と同じカルガモの親子。下の写真がモズの若鳥です。

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このほか珍しいものを、紺野さんに教えていただきました。上の写真はウグイスの巣だそうです。おそらく昨年使ったものだろうとのことです。そして下の写真は、コゲラが木に穴をあける時に落とした木屑とのこと。これは観察会に参加しないと、絶対に分かりませんね。

いやぁ、充実の3時間、あっという間でした。であった野鳥は鳴き声だけのものも含め28種(!)。私だけなら3時間歩いても、片手で数えられるほどしか見つけられないです。

紺野さん、柳沢さん、交流館の皆さん、そしてご参加の皆さん、楽しかったです。ありがとうございます。これでますます野鳥観察&撮影の深みにはまりそうです。フィールドスコープを買っちゃったりして(笑)

2011年06月04日

東葛歴史オタ話の続き、忠犬小金丸と八木郷の伝説(後編)

前回のエントリーの続き、流山市思井の熊野神社にまつわる伝説の後編です。前回は忠犬小金丸の伝説について書きましたが、今回は八木郷伝説です。

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前回も少し書いたように、流山市は流山町と新川村、そして八木村が合併して誕生しました。その八木村も本来の八木郷そのものではなく、明治時代になって旧八木郷の村々をはじめ多数の村が合併してできた村です。

で、本来の八木郷は、江戸時代には思井村、中村、芝崎村、古間木村、前平井村、後平井村といった村で構成されていました。これらの村々の名は、今でも流山市の大字として住所にそのまま残されています。

さて、その八木郷の中心地が思井の熊野神社でした。この6村の総鎮守が熊野神社。そして、その6村の結束を今に伝えるのが八木郷伝説です。八木郷伝説にはいくつかのバリエーションがあるようですが、一番代表的なものを紹介すると・・・

昔、中村の人が熊野三山に参詣した時、どうしたわけか荷物の中に御幣と椎の実一粒が飛び込んできました。不思議なことに神社に返納しても、また入り込んでくるので持ち帰って御幣を祀り、中村や思井村など八村の総鎮守とすることにしました。

境内に植えた椎の実は、八本の幹となって大きく育ったので、この地を八木と呼ぶことにしたそうな。その後、氏子の八村のうち二村が事情があって抜けたため、八木郷は六村となりました。

もうめちゃくちゃ強引です。八木郷の「八」に引っ掛けたいがため、当初は8村として発足しその後6村になったと説明しています。でも普通に考えると、もともと6村だったのでしょう。

で、この熊野神社が鎮座した年代ですが、伝説上はだいたい1500年ごろとのことです。ところが、この「やぎ」の地名ははるか昔からあったのです。

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実は少なくとも1200年頃から、この地は「やぎ」と呼ばれていました。ただし「八木」ではなく、「矢木」と漢字を当てていたようです。というのも、その頃のこの地の支配者として、矢木胤家という人物がいたからです。

この矢木胤家は相馬一族にして、今は市川市の法華経寺が所蔵する国宝・日蓮真筆『立正安国論』を日蓮から受け取った人です。その屋敷跡と言われる遺構は、熊野神社のすぐそばで発掘されています。武家は土地にこだわり、発祥の地や土着した地を自らの名としますから、矢木胤家の支配地を漢字で書けば、やはり「矢木」だったと思います。

妄想するに八木郷伝説とは、江戸時代に熊野詣に行った人がその時に聞いたどこかの伝説を持ち帰り、同じ「やぎ」であることをよいことに、自らの伝説として脚色して広めたものでしょう。実は、忠犬小金丸の伝説と同様、八木郷伝説に似たような話は各地にあり、流山市内では三輪野山の茂侶神社にも同様の話が伝承されているそうです。

では、なぜ八木郷伝説と忠犬小金丸の伝説がセットで持ち込まれたのか。考えると面白いのですが、まず八木郷伝説は村同士の横連携の根拠を示す話です。そして忠犬小金丸の伝説は、忠義という縦の関係を美しさを強調する伝説です。

そうすると、この二つの伝説を流布したのは、八木郷の各村の支配者である名主たちかもしれません。なんせ東葛地域の名主の家は元を辿れば、北条氏滅亡と共に帰農した武家。そして八木郷の名主たちは、忠犬小金丸の主である高城氏の家臣の末裔です。

そして八木郷の名主たちには、各村の人心をまとめ村同士で結束する必要があった・・・。

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その訳はこの川にあるのではと思います。坂川です。八木郷6村の多くは、この坂川の上流の村々です。当時、坂川は「逆川」と言い、雨が降れば簡単に増水し水が逆流してしまう川だったそうです。

ですから、逆川の上流の村と下流の村の間では、治水や利水を巡って争いが絶えなかったことでしょう。となると、上流の村々、つまり八木郷の村々は一致団結する必要性があります。

そんなわけで、八木郷の名主は二つの伝説を持ち込むことで、熊野神社を八木郷の団結を維持するシンボルとしたのかもしれません・・・。まあ、歴史オタクの妄想レベルの説ですが(笑)。


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