2010年01月
2010年01月31日
木戸川-桑納川ルートを開拓しました
最近は土日のどちらかが仕事になることが多いのですが、今週末は二日とも休みとなりました(喜)。で、この土曜日ですが、以前から行きたいと思っていた木戸川-桑納川のルートを走ってみました。
木戸川-桑納川と言っても多くの方はピンと来ないと思いますが、船橋と八千代の両市を流れ、印旛沼へ注ぐ新川に合流する小さな川です。
最近、東葛地域の南方の船橋、習志野、八千代方面のルート開拓がマイブームです。最近、船橋や習志野に残る下野牧の野馬土手を探しに行くうちに、この辺りに自転車で走って楽しいルートが結構あることに気づきました。今回走ってきたのは、そんなルートの第一弾です(笑)
この日は、ロードレーサーでこんなふうに走ってみました。まず住処の近く、流山の免許センターそばの富士見橋から富士川沿いに南下し、五香へ出て、陸上自衛隊松戸駐屯地の南側を走って、鎌ケ谷へ向かいます。そうして、二和・三咲の野馬土手の脇を通って目的地へ、というのが、最近の私の定番コースです。
二和・三咲の野馬土手というのは、このルート地図では最南端、ちょど滝不動あたりです。立派な野馬土手ですが、最近はここを起点にさらに南下することが多く、最近行った旧鴇田家住宅と最南端の野馬土手もここを通りました。
まあ超ローカルネタですので、ほとんど方は興味が無いと思います(苦笑)。ただ私は面白いことに気づきました。二和・三咲は、東の新川や北の神崎川から谷津が切れ込んできており、その谷津の川沿いにいかにも私が好きそうな斜面林の道が続いています。
例えば、今回走った木戸川-桑納川がまさにそれで、二和・三咲の野馬土手から東へ走ると新川へ簡単に出れそうです。また、北側の二重川が流れる谷津はそのまま行くと神崎川へとつながります。うーん、こりゃ、自転車で走るのに適したルートがいろいろとありそうです。
[画像:DSC04898]
で、今回の最初の一枚は二和・三咲の野馬土手です。この写真を撮っていたら、自転車に乗った年配のオジサンに声を掛けられました。なんでも、この辺りにお住まいで古木の写真を撮ってらっしゃるとのこと。今まで、この野馬土手に全く気づかなかったそうで、初めて見て驚いてらっしゃいました。
このオジサン「立派な土手だねぇ。いやぁ、全く知らなかったよ」。私はすっかり嬉しくなって、小金牧のことや野馬のこと、それに野馬土手の話をしました。オジサンも感心した様子で、別れ際に「これから木だけでなく、野馬土手も撮影するよ」とおっしゃっていただきました。
DSC04899 DSC04905
さて、木戸川-桑納川沿いの道です。期待にたがわず、素晴らしい斜面林の道です。鎌ケ谷や船橋の市街地の雑踏から突然、田舎道になりましたので、ちょっとしたサプライズで楽しかったです。
[画像:DSC04907]
ちなみに上流が木戸川で、下流が桑納川という名前になります、写真は下流の桑納川です。桑納川はやがて新川に合流し、印旛沼へと注ぎます。それにしても、なかなかの田舎ぶり。ここは私の定番ルートになりそうな予感です。
DSC04911 DSC04914
私はこの後、新川の合流地点まで行かず、道なりに北へ走り神崎川に向かいました。途中、道に迷い、写真のような凄い上り坂に出くわしたりしましたが、ちょっとした探検気分でかなり楽しかったです。
最近は東葛地域のルート開拓がほぼ終わり、若干マンネリ気味でしたが、この新川、神崎川の支流のルートは開拓する価値がありそうですね。当分、東葛人的南下が続きそうです(笑)
木戸川-桑納川と言っても多くの方はピンと来ないと思いますが、船橋と八千代の両市を流れ、印旛沼へ注ぐ新川に合流する小さな川です。
最近、東葛地域の南方の船橋、習志野、八千代方面のルート開拓がマイブームです。最近、船橋や習志野に残る下野牧の野馬土手を探しに行くうちに、この辺りに自転車で走って楽しいルートが結構あることに気づきました。今回走ってきたのは、そんなルートの第一弾です(笑)
この日は、ロードレーサーでこんなふうに走ってみました。まず住処の近く、流山の免許センターそばの富士見橋から富士川沿いに南下し、五香へ出て、陸上自衛隊松戸駐屯地の南側を走って、鎌ケ谷へ向かいます。そうして、二和・三咲の野馬土手の脇を通って目的地へ、というのが、最近の私の定番コースです。
二和・三咲の野馬土手というのは、このルート地図では最南端、ちょど滝不動あたりです。立派な野馬土手ですが、最近はここを起点にさらに南下することが多く、最近行った旧鴇田家住宅と最南端の野馬土手もここを通りました。
まあ超ローカルネタですので、ほとんど方は興味が無いと思います(苦笑)。ただ私は面白いことに気づきました。二和・三咲は、東の新川や北の神崎川から谷津が切れ込んできており、その谷津の川沿いにいかにも私が好きそうな斜面林の道が続いています。
例えば、今回走った木戸川-桑納川がまさにそれで、二和・三咲の野馬土手から東へ走ると新川へ簡単に出れそうです。また、北側の二重川が流れる谷津はそのまま行くと神崎川へとつながります。うーん、こりゃ、自転車で走るのに適したルートがいろいろとありそうです。
[画像:DSC04898]
で、今回の最初の一枚は二和・三咲の野馬土手です。この写真を撮っていたら、自転車に乗った年配のオジサンに声を掛けられました。なんでも、この辺りにお住まいで古木の写真を撮ってらっしゃるとのこと。今まで、この野馬土手に全く気づかなかったそうで、初めて見て驚いてらっしゃいました。
このオジサン「立派な土手だねぇ。いやぁ、全く知らなかったよ」。私はすっかり嬉しくなって、小金牧のことや野馬のこと、それに野馬土手の話をしました。オジサンも感心した様子で、別れ際に「これから木だけでなく、野馬土手も撮影するよ」とおっしゃっていただきました。
DSC04899 DSC04905
さて、木戸川-桑納川沿いの道です。期待にたがわず、素晴らしい斜面林の道です。鎌ケ谷や船橋の市街地の雑踏から突然、田舎道になりましたので、ちょっとしたサプライズで楽しかったです。
[画像:DSC04907]
ちなみに上流が木戸川で、下流が桑納川という名前になります、写真は下流の桑納川です。桑納川はやがて新川に合流し、印旛沼へと注ぎます。それにしても、なかなかの田舎ぶり。ここは私の定番ルートになりそうな予感です。
DSC04911 DSC04914
私はこの後、新川の合流地点まで行かず、道なりに北へ走り神崎川に向かいました。途中、道に迷い、写真のような凄い上り坂に出くわしたりしましたが、ちょっとした探検気分でかなり楽しかったです。
最近は東葛地域のルート開拓がほぼ終わり、若干マンネリ気味でしたが、この新川、神崎川の支流のルートは開拓する価値がありそうですね。当分、東葛人的南下が続きそうです(笑)
2010年01月24日
一筆啓上、取手に「鬼作左」ゆかりの地を訪ねました
突然ですが、皆さんは戦国武将の本多重次(ほんだしげつぐ)をご存知でしょうか。「あっ、鬼作左(おにさくざ)でしょ」と即答できる方は、かなりの歴史好きです(笑)。全く知らないという方でも「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一短い手紙の作者というと、ピンと来るかもしれませんね。
徳川家康には多数の本多一族が仕えますが、重次はその中でも3番目に著名なオッサンです。一番有名なのは、生涯57回に及ぶ合戦で暴れまわって、かすり傷一つ負わなかった化け物のようなオッサンの本多忠勝。人間離れした強さゆえに、最近の某ゲームでは遂にロボットにされてしまった例の人です(笑)。二番目が家康の謀臣として活躍した陰険オヤジの本多正信ですね。
そして、鬼作左こと重次は三河三奉行と呼ばれ、主に家康がまだ三河の一大名だった頃に大活躍したオッサンです。若き家康の最大の危機、三河一向一揆の鎮圧で活躍し、武田信玄に攻められた際には、事前の兵糧の準備で徳川家滅亡を回避しました。
さて、前置きが長くなりましたが、その歴史上の有名人の縁の地が、東葛地域の隣にあります。昔の下総国相馬郡、今の取手市に鬼作左の墓所があるのです。今回はそこを訪ねてみました。
[画像:DSC01505]
実は、鬼作左の墓所を訪れたのは今日ではありません。この前の17日の日曜日の話です。相変わらずの遅アップですみません(苦笑)。場所は取手本陣のすぐ近くの高台にあります。折り畳み自転車のPacific-18で出かけました。
なんで、ここに鬼作左の墓所があるのかというと、晩年この地に蟄居を命じられていたからです。家康のためにあれほど活躍したのに、そんなことになった理由ですが、実はこのオッサン、とんでもないことをやらかしたのです。
織田信長亡き後、天下人の地位を狙う豊臣秀吉の前に立ちはだかったのが家康です。小牧長久手の戦いで両雄が激突しますが、勝負がつかない。そこで政治交渉に。秀吉「ここはひとつ、俺に頭を下げてくれない」、いろいろ計算した家康「仕方無いな。わかったよ」。というわけで、家康が臣下の礼をとりに秀吉の下に行くことになりました。
その際、秀吉から徳川方に人質として差し出されたのが、秀吉の母親です。その世話役を務めたのが鬼作左なんですが、鬼作左はこのおっかさんを震え上がらせてしまいます。なんと逗留している屋敷の周りに薪を積み上げて、いつでも火を付けて焼き殺せるのだからな、と脅したのです。
決して粗略に扱ってはならない人質に対して、逆のことをしてしまったのです。後に秀吉がその話をおっかさんから聞き大激怒(そりゃ、誰だって怒るでしょう)。秀吉から大クレームをつけられた家康も怒り、鬼作左は蟄居の身となってしまいました。
[画像:DSC01501]
案内の看板には「3000石を領していた」と書かれていますが、いわゆる捨扶持です。それにしても、何でそんなことをしたのか。家康の無事を図るための示威行動なのか、「秀吉ごときに、殿が何で頭を下げるのか」という怒りの表れなのか、武家の出ではない秀吉のおっかさんを侮ってのことなのか。今となって分かりませんね。
まあ無分別な行為であることは確かなのですが、気性の激しい鬼作左らしいと言えば、らしいです。そう言えば、この人、蟄居の身になってからも、決しておとなしくしておらず、周りを困らせたようです(笑)
[画像:DSC01508]
さて、この鬼作左の墳墓ですが、こんな坂の上にあります。鬼作左に何の興味も無くても、坂上りが好きな方でしたら、上ってみると楽しいでしょう(笑)。そんな激坂でした。ちなみに墳墓の周りは全くの住宅街。あまりのミスマッチにちょっと驚かされます。
DSC01514 DSC01510
ついでに鬼作左の菩提寺の本願寺にも立ち寄ってみました。そうしたら、当然お約束の碑がありました。この日本一短い手紙は、織田・徳川の連合軍が武田騎馬軍団を壊滅させた長篠の戦いの際に、陣中から妻に宛てたものだそうです。
ちなみに「お仙」とは嫡子の仙千代のことで、後の本多成重のことです。鬼作左は晩年不遇でしたが、この息子は出世し、越前丸岡藩4万3000石のお殿様となります。そのつながりで、福井県坂井市(旧・丸岡町)では「新一筆啓上賞」なるイベントを毎年行っているようですね。
ところで東葛地域のお殿様と言えば、田中藩の本多家がありますが、こちらは陰険オヤジの正信の弟、本多正重の家系です。鬼作左が亡くなってちょうど20年後に、東葛地域を中心に1万石の領地をもらい、大名になりました。このオッサンも気性の激しい人だったようです。
徳川家康には多数の本多一族が仕えますが、重次はその中でも3番目に著名なオッサンです。一番有名なのは、生涯57回に及ぶ合戦で暴れまわって、かすり傷一つ負わなかった化け物のようなオッサンの本多忠勝。人間離れした強さゆえに、最近の某ゲームでは遂にロボットにされてしまった例の人です(笑)。二番目が家康の謀臣として活躍した陰険オヤジの本多正信ですね。
そして、鬼作左こと重次は三河三奉行と呼ばれ、主に家康がまだ三河の一大名だった頃に大活躍したオッサンです。若き家康の最大の危機、三河一向一揆の鎮圧で活躍し、武田信玄に攻められた際には、事前の兵糧の準備で徳川家滅亡を回避しました。
さて、前置きが長くなりましたが、その歴史上の有名人の縁の地が、東葛地域の隣にあります。昔の下総国相馬郡、今の取手市に鬼作左の墓所があるのです。今回はそこを訪ねてみました。
[画像:DSC01505]
実は、鬼作左の墓所を訪れたのは今日ではありません。この前の17日の日曜日の話です。相変わらずの遅アップですみません(苦笑)。場所は取手本陣のすぐ近くの高台にあります。折り畳み自転車のPacific-18で出かけました。
なんで、ここに鬼作左の墓所があるのかというと、晩年この地に蟄居を命じられていたからです。家康のためにあれほど活躍したのに、そんなことになった理由ですが、実はこのオッサン、とんでもないことをやらかしたのです。
織田信長亡き後、天下人の地位を狙う豊臣秀吉の前に立ちはだかったのが家康です。小牧長久手の戦いで両雄が激突しますが、勝負がつかない。そこで政治交渉に。秀吉「ここはひとつ、俺に頭を下げてくれない」、いろいろ計算した家康「仕方無いな。わかったよ」。というわけで、家康が臣下の礼をとりに秀吉の下に行くことになりました。
その際、秀吉から徳川方に人質として差し出されたのが、秀吉の母親です。その世話役を務めたのが鬼作左なんですが、鬼作左はこのおっかさんを震え上がらせてしまいます。なんと逗留している屋敷の周りに薪を積み上げて、いつでも火を付けて焼き殺せるのだからな、と脅したのです。
決して粗略に扱ってはならない人質に対して、逆のことをしてしまったのです。後に秀吉がその話をおっかさんから聞き大激怒(そりゃ、誰だって怒るでしょう)。秀吉から大クレームをつけられた家康も怒り、鬼作左は蟄居の身となってしまいました。
[画像:DSC01501]
案内の看板には「3000石を領していた」と書かれていますが、いわゆる捨扶持です。それにしても、何でそんなことをしたのか。家康の無事を図るための示威行動なのか、「秀吉ごときに、殿が何で頭を下げるのか」という怒りの表れなのか、武家の出ではない秀吉のおっかさんを侮ってのことなのか。今となって分かりませんね。
まあ無分別な行為であることは確かなのですが、気性の激しい鬼作左らしいと言えば、らしいです。そう言えば、この人、蟄居の身になってからも、決しておとなしくしておらず、周りを困らせたようです(笑)
[画像:DSC01508]
さて、この鬼作左の墳墓ですが、こんな坂の上にあります。鬼作左に何の興味も無くても、坂上りが好きな方でしたら、上ってみると楽しいでしょう(笑)。そんな激坂でした。ちなみに墳墓の周りは全くの住宅街。あまりのミスマッチにちょっと驚かされます。
DSC01514 DSC01510
ついでに鬼作左の菩提寺の本願寺にも立ち寄ってみました。そうしたら、当然お約束の碑がありました。この日本一短い手紙は、織田・徳川の連合軍が武田騎馬軍団を壊滅させた長篠の戦いの際に、陣中から妻に宛てたものだそうです。
ちなみに「お仙」とは嫡子の仙千代のことで、後の本多成重のことです。鬼作左は晩年不遇でしたが、この息子は出世し、越前丸岡藩4万3000石のお殿様となります。そのつながりで、福井県坂井市(旧・丸岡町)では「新一筆啓上賞」なるイベントを毎年行っているようですね。
ところで東葛地域のお殿様と言えば、田中藩の本多家がありますが、こちらは陰険オヤジの正信の弟、本多正重の家系です。鬼作左が亡くなってちょうど20年後に、東葛地域を中心に1万石の領地をもらい、大名になりました。このオッサンも気性の激しい人だったようです。
2010年01月17日
土曜日は習志野へ、曲屋と最南端の野馬土手を訪ねました
昨日の土曜日は習志野市まで、ロードレーサーで走ってきました。昨年の10月に野馬土手ベスト10の四つを訪ねた時と同じルートを辿り、さらに陸上自衛隊の習志野駐屯地の脇を南下して、習志野の実籾(みもみ)へ。この日の目標は二つです。
[画像:DSC01477]
まず一つ目は、この旧鴇田(ときた)家住宅。なんでも280年前に建てられたそうで、千葉県指定の有形文化財です。この辺りでは珍しい見事な曲屋(まがりや)で、実籾の名主の家だったそうです。
この茅葺の旧家があるのは実籾本郷公園です。実は、昨年末に風邪で行きそびれた「わがまち たてもの自慢」で、旧鴇田家住宅に関する講演があったのです。一番聞きたかったのですが、残念無念。ということで、今回はその無念を晴らすべく(笑)、実物を見に行きました。
DSC01476 DSC01478
DSC01481 DSC01487
DSC01483 DSC01489
中を拝見すると、実に風格のある家屋であることが分かります。この前行った柏の旧吉田家住宅のような華やかさはないですが、質実剛健さが感じられる佇まいです。
・・・と、偉そうなことを書いていますが、実はほとんど中を見る時間はありませんでした。実は住処を出た時間が遅かったものですから、このとき既に4時前です。夕暮れが近づいていたため、すぐにもう一つの目的地に行かなければなりません。
ということで、後ろ髪を引かれる思いを残しながら、旧鴇田家住宅を後にしました。もう一度改めて来なきゃです。近くには、同じく茅葺の文化財、旧大沢家住宅もあるそうですから、今度は合わせて訪ねてみたいです。
DSC01493 DSC01494
で、もう一つの目標、小金牧最南端の野馬土手です。いつもながら青木更吉先生の著書『野馬土手は泣いている』で確認して、探してみました。
小金牧の南端の下野牧の野馬土手はどんどん消滅してますので、まだあるのか不安でした。で、たどり着いてみると、なんか土手のような、そうでないような風情。野馬の水呑み場の看板があったので、おそらく間違いないと思いましたが、イマイチ確信が持てませんでした。
[画像:DSC01490]
で、中を覗いてみると・・・おおっ、まごうことなき二重土手、間違いなく野馬土手です。最南端の野馬土手、遂にゲットです(笑)。ところで、野馬の水呑み場ですが、『野馬土手は泣いている』によると、小金牧最大の水呑み場だったそうです。
ところで、ここにたどり着いた時、もう4時近くになっていました。日没間近、もう全力で帰りました。住処に帰って、行った場所を確認してみて、少し驚きました。すぐ南がもう花見川なんです。工夫すれば、新川や神崎川を結ぶ面白いルートができそうです。
[画像:DSC01477]
まず一つ目は、この旧鴇田(ときた)家住宅。なんでも280年前に建てられたそうで、千葉県指定の有形文化財です。この辺りでは珍しい見事な曲屋(まがりや)で、実籾の名主の家だったそうです。
この茅葺の旧家があるのは実籾本郷公園です。実は、昨年末に風邪で行きそびれた「わがまち たてもの自慢」で、旧鴇田家住宅に関する講演があったのです。一番聞きたかったのですが、残念無念。ということで、今回はその無念を晴らすべく(笑)、実物を見に行きました。
DSC01476 DSC01478
DSC01481 DSC01487
DSC01483 DSC01489
中を拝見すると、実に風格のある家屋であることが分かります。この前行った柏の旧吉田家住宅のような華やかさはないですが、質実剛健さが感じられる佇まいです。
・・・と、偉そうなことを書いていますが、実はほとんど中を見る時間はありませんでした。実は住処を出た時間が遅かったものですから、このとき既に4時前です。夕暮れが近づいていたため、すぐにもう一つの目的地に行かなければなりません。
ということで、後ろ髪を引かれる思いを残しながら、旧鴇田家住宅を後にしました。もう一度改めて来なきゃです。近くには、同じく茅葺の文化財、旧大沢家住宅もあるそうですから、今度は合わせて訪ねてみたいです。
DSC01493 DSC01494
で、もう一つの目標、小金牧最南端の野馬土手です。いつもながら青木更吉先生の著書『野馬土手は泣いている』で確認して、探してみました。
小金牧の南端の下野牧の野馬土手はどんどん消滅してますので、まだあるのか不安でした。で、たどり着いてみると、なんか土手のような、そうでないような風情。野馬の水呑み場の看板があったので、おそらく間違いないと思いましたが、イマイチ確信が持てませんでした。
[画像:DSC01490]
で、中を覗いてみると・・・おおっ、まごうことなき二重土手、間違いなく野馬土手です。最南端の野馬土手、遂にゲットです(笑)。ところで、野馬の水呑み場ですが、『野馬土手は泣いている』によると、小金牧最大の水呑み場だったそうです。
ところで、ここにたどり着いた時、もう4時近くになっていました。日没間近、もう全力で帰りました。住処に帰って、行った場所を確認してみて、少し驚きました。すぐ南がもう花見川なんです。工夫すれば、新川や神崎川を結ぶ面白いルートができそうです。
2010年01月11日
再び関宿へ、今回は皆さんとポタです
新春のママチャリでのポタに続いて、この日曜日も関宿城に行ってきました。といっても今回はロードレーサー。はんぞうさん、わいずさん、えいじさん、ヤマグチ。さん、E-ponさん、まっちさんとご一緒です。
[画像:P1100014]
集合場所はおなじみ、江戸川と利根運河の合流地点の公園「運河河口公園」です。で、出発前に皆さんといろんな話をしましたが、ヤバイのが例の英国激安ショップ「Wiggle」の話です。皆さん、ここで買いまくっていらっしゃいます(笑)
ずっと前にホームページの日本語版ができたという話を聞きましたが、最近は注文のやり取りも日本語でOKだそうです。なんでもMasaeさんという日本人スタッフを雇ったそうで、もう日本のショッピングサイトと変わりません。
実は今まで、私は外国サイトというハードルの高さをよいことに、ここは敬遠していました。なんせレンズ沼にはまっていますから(苦笑)、再び自転車沼に落ちると一大事です。うーん、でもこれならWiggleで注文していまうだろうな。自転車&カメラ物欲モードだと破産するかもしれません。
さてコースですが、最初は利根川CRを走りました。ただ、かなり強い北西風です。結局、利根川CRを走るのは諦めて、関宿堀ルートへ。そして途中、県道7号から17号へハシゴして、関宿城に向かいました。
つまり、ほぼママチャリで走ったのと同じコースです。今回、向かい風の中を走った時、「本当にママチャリなんかで、よく走ったなぁ」と心から思いました(笑)
[画像:DSC01435]
かなりヒーヒー言いながら、何とか関宿城下に。でも、皆さんも私もお腹がすいたので、関宿城に目もくれず、美味い蕎麦を食べさせる蕎楽へ直行です。
蕎楽さん、久しぶりです。そしてメニューを見ると、ゆり根のかき揚げがあるじゃないですか。もう3年ぶりです。もり蕎麦でいただくのですが、ゆり根がほっこりしていて本当に美味しいです。
[画像:DSC01436]
食事の後は、皆さんをお誘いし、「鈴木貫太郎記念館」を訪ねました。実は私、この記念館の寂れ具合が大好きなのです。以前も書きましたが、失礼ながら観光地によくある忘れられたイベント施設の趣があります(笑)
そんな微妙な雰囲気の記念館ですが、鈴木貫太郎自身は関宿の三大偉人の一人とされる人物。終戦時の総理大臣ですが、なんとももの凄いオッチャンです。で、以前書いた東葛人流評伝(笑)を再掲しておきます。
幕末に関宿藩士の子として生まれ、海軍軍人の道を歩みます。当時、海軍は薩摩閥。幕末に老中を務めた久世氏の家臣の子ですから、当然昇進面などで差別を受けます。でも、日露戦争で敵艦を3隻撃沈するなど、華々しい軍功を上げ、最終的に連合艦隊司令長官にまで昇りつめたそうです。
その後、昭和天皇の信任が厚かったため侍従長に。ところが二・二六事件に遭遇し、"君側の奸"として命を狙われます。それまでに3度死にそうになったそうですが、この時は絶体絶命の危機。なんせ至近距離から左胸(!)や頭部(!!)などに4発も弾丸を受けたとのこと。でも、死ななかった。
なんちゅうオッチャンでしょう!それから時は流れ、第二次世界大戦末期。日本がにっちもさっちもいかなくなった時、「あなたしかいない」と言われ、軍人が政治に関わるべきでないとの自説を曲げて総理大臣に就任します。で、昭和天皇との阿吽の呼吸で、徹底抗戦派の軍人を押さえ込んで、終戦へと導いたそうです。
まあ、大日本帝国の軍や政治の中枢にいた人の評価は慎重でなけれはなりませんが、とにかく桁外れに肝の据わった信念の人だったことは、確かなようです。
ちなみに関宿三大偉人の他の二人は、近代将棋の祖といわれる関根金次郎名人、そして関宿堀を造った江戸時代末期の土木治水家の船橋随庵(ずいあん)だそうです。このうち、随庵さんの顕彰碑は記念館の近くにあるとのことでしたが、この日は発見できず。日ごろ関宿堀ルートでお世話になっていますので(笑)、日を改めて探してみることにします。
さて帰路は江戸川CRです。凄い追い風です。明らかに朝よりも風が強くなっています。おいしすぎる! 風に乗り、あっという間にグライダーの関宿滑空場に。ここから次の目的地の喜八堂へ。
DSC01450 DSC01443
DSC01445 DSC01447 - コピー
わいずさんは常連さんですが、私は本当に久しぶりです。レトロな雰囲気が良いですね。それに、最近「funride」に紹介されたらしく、お店の人が自転車乗りに理解があるのも嬉しいです。
DSC01472 ここでは、おしることサービスの煎餅をいただきました。とても美味しかったのですが、もう少しお腹がすいていると、もっとよかったのですが(苦笑)。
そして、以前から買いたいと思っていた「にんにく煎餅」を購入。この煎餅の強烈な香りと味はクセになりそうです。
再び江戸川CRに戻り、ひたすら南下。これほど完璧な追い風はめったにないですね。気持ちよく走り続け、朝の集合場所だった運河河口公園まで超高速でたどり着きました。
公園では、みくまさん&アシストさんご夫妻とバッタリ。さらに関宿城帰りのななすたさんも合流して、皆さんとワイワイと雑談モードに。走っていないと寒いのですが、楽しいのでしばし歓談です。
DSC01461 DSC01470
さて、皆さんとお別れして住処へ。途中、富士見橋で富士山を見ると、日没前でとても美しい風情に。日没まで少し時間がありましたが、せっかくなので日没の富士山を眺めて帰りました。それにしても、富士が見えるから富士見橋。どこにでもある、分かりやすいネーミングです(笑)
2週続けての関宿行きでしたが、皆さんと走るのは、やはり楽しいですね。それにお腹の充実感もあったし(笑)。はんぞうさん、わいずさん、ありがとうございました。皆さん、お疲れさまでした。
[画像:P1100014]
集合場所はおなじみ、江戸川と利根運河の合流地点の公園「運河河口公園」です。で、出発前に皆さんといろんな話をしましたが、ヤバイのが例の英国激安ショップ「Wiggle」の話です。皆さん、ここで買いまくっていらっしゃいます(笑)
ずっと前にホームページの日本語版ができたという話を聞きましたが、最近は注文のやり取りも日本語でOKだそうです。なんでもMasaeさんという日本人スタッフを雇ったそうで、もう日本のショッピングサイトと変わりません。
実は今まで、私は外国サイトというハードルの高さをよいことに、ここは敬遠していました。なんせレンズ沼にはまっていますから(苦笑)、再び自転車沼に落ちると一大事です。うーん、でもこれならWiggleで注文していまうだろうな。自転車&カメラ物欲モードだと破産するかもしれません。
さてコースですが、最初は利根川CRを走りました。ただ、かなり強い北西風です。結局、利根川CRを走るのは諦めて、関宿堀ルートへ。そして途中、県道7号から17号へハシゴして、関宿城に向かいました。
つまり、ほぼママチャリで走ったのと同じコースです。今回、向かい風の中を走った時、「本当にママチャリなんかで、よく走ったなぁ」と心から思いました(笑)
[画像:DSC01435]
かなりヒーヒー言いながら、何とか関宿城下に。でも、皆さんも私もお腹がすいたので、関宿城に目もくれず、美味い蕎麦を食べさせる蕎楽へ直行です。
蕎楽さん、久しぶりです。そしてメニューを見ると、ゆり根のかき揚げがあるじゃないですか。もう3年ぶりです。もり蕎麦でいただくのですが、ゆり根がほっこりしていて本当に美味しいです。
[画像:DSC01436]
食事の後は、皆さんをお誘いし、「鈴木貫太郎記念館」を訪ねました。実は私、この記念館の寂れ具合が大好きなのです。以前も書きましたが、失礼ながら観光地によくある忘れられたイベント施設の趣があります(笑)
そんな微妙な雰囲気の記念館ですが、鈴木貫太郎自身は関宿の三大偉人の一人とされる人物。終戦時の総理大臣ですが、なんとももの凄いオッチャンです。で、以前書いた東葛人流評伝(笑)を再掲しておきます。
幕末に関宿藩士の子として生まれ、海軍軍人の道を歩みます。当時、海軍は薩摩閥。幕末に老中を務めた久世氏の家臣の子ですから、当然昇進面などで差別を受けます。でも、日露戦争で敵艦を3隻撃沈するなど、華々しい軍功を上げ、最終的に連合艦隊司令長官にまで昇りつめたそうです。
その後、昭和天皇の信任が厚かったため侍従長に。ところが二・二六事件に遭遇し、"君側の奸"として命を狙われます。それまでに3度死にそうになったそうですが、この時は絶体絶命の危機。なんせ至近距離から左胸(!)や頭部(!!)などに4発も弾丸を受けたとのこと。でも、死ななかった。
なんちゅうオッチャンでしょう!それから時は流れ、第二次世界大戦末期。日本がにっちもさっちもいかなくなった時、「あなたしかいない」と言われ、軍人が政治に関わるべきでないとの自説を曲げて総理大臣に就任します。で、昭和天皇との阿吽の呼吸で、徹底抗戦派の軍人を押さえ込んで、終戦へと導いたそうです。
まあ、大日本帝国の軍や政治の中枢にいた人の評価は慎重でなけれはなりませんが、とにかく桁外れに肝の据わった信念の人だったことは、確かなようです。
ちなみに関宿三大偉人の他の二人は、近代将棋の祖といわれる関根金次郎名人、そして関宿堀を造った江戸時代末期の土木治水家の船橋随庵(ずいあん)だそうです。このうち、随庵さんの顕彰碑は記念館の近くにあるとのことでしたが、この日は発見できず。日ごろ関宿堀ルートでお世話になっていますので(笑)、日を改めて探してみることにします。
さて帰路は江戸川CRです。凄い追い風です。明らかに朝よりも風が強くなっています。おいしすぎる! 風に乗り、あっという間にグライダーの関宿滑空場に。ここから次の目的地の喜八堂へ。
DSC01450 DSC01443
DSC01445 DSC01447 - コピー
わいずさんは常連さんですが、私は本当に久しぶりです。レトロな雰囲気が良いですね。それに、最近「funride」に紹介されたらしく、お店の人が自転車乗りに理解があるのも嬉しいです。
DSC01472 ここでは、おしることサービスの煎餅をいただきました。とても美味しかったのですが、もう少しお腹がすいていると、もっとよかったのですが(苦笑)。
そして、以前から買いたいと思っていた「にんにく煎餅」を購入。この煎餅の強烈な香りと味はクセになりそうです。
再び江戸川CRに戻り、ひたすら南下。これほど完璧な追い風はめったにないですね。気持ちよく走り続け、朝の集合場所だった運河河口公園まで超高速でたどり着きました。
公園では、みくまさん&アシストさんご夫妻とバッタリ。さらに関宿城帰りのななすたさんも合流して、皆さんとワイワイと雑談モードに。走っていないと寒いのですが、楽しいのでしばし歓談です。
DSC01461 DSC01470
さて、皆さんとお別れして住処へ。途中、富士見橋で富士山を見ると、日没前でとても美しい風情に。日没まで少し時間がありましたが、せっかくなので日没の富士山を眺めて帰りました。それにしても、富士が見えるから富士見橋。どこにでもある、分かりやすいネーミングです(笑)
2週続けての関宿行きでしたが、皆さんと走るのは、やはり楽しいですね。それにお腹の充実感もあったし(笑)。はんぞうさん、わいずさん、ありがとうございました。皆さん、お疲れさまでした。
2010年01月03日
正月二日目、新車で関宿城に行きました(笑)
新年あけましておめでとうございます。今年も東葛人的道楽にお付き合いいただけると幸いです。
さて、年末は仕事が30日までずれ込んだのと体調もイマイチだったので、満足な走り納めが出来ず、ちょっと不本意でした。で、年始。元日にお酒で療養したこともあり(笑)、昨日、正月二日目の朝には体調も万全。それじゃということで、初走りに出かけました。
向かったのは関宿城です。実は・・・ママチャリで走ってしまいました。往復でざっと80km。いやぁ、走れるものですねぇ。我ながら驚いてしまいました(笑)
[画像:DSC01414]
本当は、この日はロードレーサーで船橋方面に走り行こうと思っていたのです。そのつもりで、ロードレーサーの準備をしていた時、ふと思い出してしまいました。以前から、「一度はママチャリで関宿城まで走ってみたい」と思っていたことを。
実は、年末にママチャリを新調しました。これまで通勤用に使っていた「鉄下駄ママチャリ」の歯飛びがひどくなり、乗れなくなったので、買い替えのです。
DSC01393 DSC01395
もちろん新車も、評判のよろしくないホームセンター仕様車です。先代の鉄下駄君は、ハンドルの握り方によってはブレーキが引けなくなるという恐るべき自転車でしたので、今回はそこを念入りにチェック。選んだのは3段の内装変速車で、1万2800円。安いだけのことはあり、これもまた20kg以上あるんじゃないかという鉄下駄君です。
で、今回、この新しい鉄下駄君で関宿城を目指すことにしました。以前、どなたかのHPでママチャリで関宿城まで走ったという記事を読み、私も是非チャレンジしてみたいと思っていたのです。ただ私の狭い住処では、ママチャリは雨ざらしにするしかなく、あっという間に錆び付いてしまいます。ですから、関宿城に行くなら、新車を購入した、このタイミングしかありません。
北風が強いのが気になりましたが、まあ無理だったら、途中で引き返せばよいのです。往きが向かい風なら、帰りは追い風で楽なはずです。「何とかなるだろう」とお気楽な気持ちでスタートしました。
DSC01391 ところが、しばらく走ったところで、早くも後悔。北風が強すぎます。この鉄下駄君、スポーツバイクと違い重いので、強風に煽られる心配はないのですが、なんせ前に進みません。
もちろん往きのルートは、強風を避けるために江戸川CRではなく、関宿堀ルートにしたのですが、それでも凄い風です。この写真、実はこの辺りで、「もう引返そう」と思い、記念写真として撮ったものです(苦笑)
それでも、「もう少し走ってみるか」と思い直し、再び走り出してみると、関宿城到着を早々と諦めたせいで気が軽くなったのか、不思議なものでさっきより走れる感じです。で、「なんだ、余裕じゃん!」と調子に乗ってしまいました。
DSC01400 すぐに調子に乗るのが私の悪いところで、「いつもの関宿堀ルートを走るんじゃ、面白くないから、別の道を走ろう」と思ってしまったのです。なんせ江戸川と利根川にはさまれた狭い地域を走るのです。まず道に迷うことはありません。
で、見つけたのが、写真のこの道です。関宿堀ルートではこの辺りは堀の東側を走るのですが、西側にこんな気持ちの良い道が続いていたのです。「わぁ、ラッキー、ひょっとしたら新ルートを発見できるかも」と喜んで走り始めたのですが・・・
DSC01401 この道、やがて広くなり、田んぼのど真ん中を貫く農道に変わりました。田んぼのど真ん中を走るわけですから、風を遮るものがありません。
もう涙目です。爆風みたいな北風に阻まれて、速度ががた落ち。それに自転車が重く、3段変速の関係で軽いギアもないので、無理にこぐと膝に痛めそうです。またもや「ここで断念しよう」と記念撮影(爆)。でも、「ここまで来たのだから」と思い直して、再び北を目指しました。
ただ、この道を走り続けるのは辛すぎるので、西側に見える斜面林の道に避難することに。ところが、その道は丘を上がって、県道7号(我孫子関宿線)に接続していました。国道や県道を走るのが嫌いな私ですが、もうジタバタする気力もなく、そのまま県道7号を北上することに。
まあ県道と言っても、関宿まで来てしまうと、自動車も少なくなり、田舎道の風情。「おっ、いいじゃん!」と気持ちよく走れました。ただ、県道7号は途中で消滅。仕方が無いので、県道17号(結城野田線)へ。こちらは交通量がそこそこあり嫌でしたが、まあ仕方がありません。
DSC01424 DSC01425
で、ようやく関宿城に到着。もう足がパンパンでした。東葛人的道楽ならぬ、東葛人的苦行になってしまいましたが、ママチャリで関宿城に到着したことで、それなりの達成感があり、かなり満足でした。関宿城も、そこから見える筑波山も、いつもより美しい気がしました(笑)
さて帰路です。今までの苦労が報われて、江戸川CRを追い風に乗って颯爽と走れます・・・のはずでしたが・・・自転車が重すぎて、風に乗れません(涙)。思いっきりこげば、それなりに加速がつくのですが、もう脚が売り切れ状態。あらゆるスポーツバイクに追い抜かれながら、ママチャリらしい速度で走るしかありませんでした。
住処にたどり着いた時には、膝はガクガク。お尻は痛いし、背中も引きつるような痛みがありました。やはりママチャリは、ママチャリとして使った方が良いようで。私の体力では若干無謀な試みでしたが、まあ達成感もあり、話のネタにもなるので、良しとしましょう(笑)
さて、年末は仕事が30日までずれ込んだのと体調もイマイチだったので、満足な走り納めが出来ず、ちょっと不本意でした。で、年始。元日にお酒で療養したこともあり(笑)、昨日、正月二日目の朝には体調も万全。それじゃということで、初走りに出かけました。
向かったのは関宿城です。実は・・・ママチャリで走ってしまいました。往復でざっと80km。いやぁ、走れるものですねぇ。我ながら驚いてしまいました(笑)
[画像:DSC01414]
本当は、この日はロードレーサーで船橋方面に走り行こうと思っていたのです。そのつもりで、ロードレーサーの準備をしていた時、ふと思い出してしまいました。以前から、「一度はママチャリで関宿城まで走ってみたい」と思っていたことを。
実は、年末にママチャリを新調しました。これまで通勤用に使っていた「鉄下駄ママチャリ」の歯飛びがひどくなり、乗れなくなったので、買い替えのです。
DSC01393 DSC01395
もちろん新車も、評判のよろしくないホームセンター仕様車です。先代の鉄下駄君は、ハンドルの握り方によってはブレーキが引けなくなるという恐るべき自転車でしたので、今回はそこを念入りにチェック。選んだのは3段の内装変速車で、1万2800円。安いだけのことはあり、これもまた20kg以上あるんじゃないかという鉄下駄君です。
で、今回、この新しい鉄下駄君で関宿城を目指すことにしました。以前、どなたかのHPでママチャリで関宿城まで走ったという記事を読み、私も是非チャレンジしてみたいと思っていたのです。ただ私の狭い住処では、ママチャリは雨ざらしにするしかなく、あっという間に錆び付いてしまいます。ですから、関宿城に行くなら、新車を購入した、このタイミングしかありません。
北風が強いのが気になりましたが、まあ無理だったら、途中で引き返せばよいのです。往きが向かい風なら、帰りは追い風で楽なはずです。「何とかなるだろう」とお気楽な気持ちでスタートしました。
DSC01391 ところが、しばらく走ったところで、早くも後悔。北風が強すぎます。この鉄下駄君、スポーツバイクと違い重いので、強風に煽られる心配はないのですが、なんせ前に進みません。
もちろん往きのルートは、強風を避けるために江戸川CRではなく、関宿堀ルートにしたのですが、それでも凄い風です。この写真、実はこの辺りで、「もう引返そう」と思い、記念写真として撮ったものです(苦笑)
それでも、「もう少し走ってみるか」と思い直し、再び走り出してみると、関宿城到着を早々と諦めたせいで気が軽くなったのか、不思議なものでさっきより走れる感じです。で、「なんだ、余裕じゃん!」と調子に乗ってしまいました。
DSC01400 すぐに調子に乗るのが私の悪いところで、「いつもの関宿堀ルートを走るんじゃ、面白くないから、別の道を走ろう」と思ってしまったのです。なんせ江戸川と利根川にはさまれた狭い地域を走るのです。まず道に迷うことはありません。
で、見つけたのが、写真のこの道です。関宿堀ルートではこの辺りは堀の東側を走るのですが、西側にこんな気持ちの良い道が続いていたのです。「わぁ、ラッキー、ひょっとしたら新ルートを発見できるかも」と喜んで走り始めたのですが・・・
DSC01401 この道、やがて広くなり、田んぼのど真ん中を貫く農道に変わりました。田んぼのど真ん中を走るわけですから、風を遮るものがありません。
もう涙目です。爆風みたいな北風に阻まれて、速度ががた落ち。それに自転車が重く、3段変速の関係で軽いギアもないので、無理にこぐと膝に痛めそうです。またもや「ここで断念しよう」と記念撮影(爆)。でも、「ここまで来たのだから」と思い直して、再び北を目指しました。
ただ、この道を走り続けるのは辛すぎるので、西側に見える斜面林の道に避難することに。ところが、その道は丘を上がって、県道7号(我孫子関宿線)に接続していました。国道や県道を走るのが嫌いな私ですが、もうジタバタする気力もなく、そのまま県道7号を北上することに。
まあ県道と言っても、関宿まで来てしまうと、自動車も少なくなり、田舎道の風情。「おっ、いいじゃん!」と気持ちよく走れました。ただ、県道7号は途中で消滅。仕方が無いので、県道17号(結城野田線)へ。こちらは交通量がそこそこあり嫌でしたが、まあ仕方がありません。
DSC01424 DSC01425
で、ようやく関宿城に到着。もう足がパンパンでした。東葛人的道楽ならぬ、東葛人的苦行になってしまいましたが、ママチャリで関宿城に到着したことで、それなりの達成感があり、かなり満足でした。関宿城も、そこから見える筑波山も、いつもより美しい気がしました(笑)
さて帰路です。今までの苦労が報われて、江戸川CRを追い風に乗って颯爽と走れます・・・のはずでしたが・・・自転車が重すぎて、風に乗れません(涙)。思いっきりこげば、それなりに加速がつくのですが、もう脚が売り切れ状態。あらゆるスポーツバイクに追い抜かれながら、ママチャリらしい速度で走るしかありませんでした。
住処にたどり着いた時には、膝はガクガク。お尻は痛いし、背中も引きつるような痛みがありました。やはりママチャリは、ママチャリとして使った方が良いようで。私の体力では若干無謀な試みでしたが、まあ達成感もあり、話のネタにもなるので、良しとしましょう(笑)