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2023年12月

毎年見ないけど、だいたいテレビ自体も見ない。
けれど、今年は、消極的に「見ない」のでなく、積極的に拒否、テレビ東京の懐かしの昭和歌謡みたいなのを、見て過ごした。

気持ちが安らいだわ。

いい大晦日だった。


電通が、NHKを侵略したんだって。そっか!だから、変な匂いがするんだ〜
だから、オラ、紅白は見ね〜んだ
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一日、パソコンに向かって、伝統文化親子教室の事業報告書を書いていました。
私は、北区と西区に教室を持っていて、それぞれ二〇人ぐらいの子供がいます。

どちらの教室も、発表会もいれて五月〜翌一月まで22回開催しています。

名簿と、出席簿、毎回の記録、写真を1枚ずつつける。

合間に、子ども食堂の来年度の申請書を書きました。

伝統文化親子教室は、年間40万円の予算をつけてくれましたが、領収書を完備して、立て替えないといけません。それぞれに収支報告書、それを、「謝金」や「会場借料」などの細目に従って処理します。

まだ、お金の処理ができていません。2月初めに提出します。

三が日あれば完成すると思う。

一番の難物は、防災福祉コミュニティで、引き継いだ時には、予算が14万ついていたけど、前の人が手放したのは、もう、事業そのものを続けていけない状況があるからで、私だって、


まずは、地域福祉センター本体の処理をしてからしか、防災なんかやってられない。お金はあっても、使いたいところには、使えないのが、世の常だから。


こういう難物が終わると、公園管理の報告書を、これも写真付きで。これは10万程度だから、まあ、楽です。お金だけくれて人件費をくれないんだからね。

参りますよ、お金を使うには、諸経費が必要なんだから。

最後に、自治会の会計処理をしたら終わり。

その前に、子供食堂の報告書を完成しないと、

いやいや、これまで任せておいた若い人が引っ越したので、月報も私が、出さないと行けなくなった。

そういえば、青少協のお金もあったわ。


誰か、かわってくれ〜〜〜

7つの役職をもって、それぞれの企画目標を立てて、人を配置して、しかも、申請書から報告書まで7通も書いて、頑張っているのに、県外で「高齢者対策をして、ぼけ老人ばっかり見て来た息子が」頭ごなしに、私をボケ老人扱いするのもしゃくにさわる。

そのうえ、来年からは、押しも押されもしない「介護者」の仲間入りだし。ぼけてられるか!!

あ〜疲れた

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「大みそかのご馳走」という言葉が、主人の家にはあって、「ご馳走だというから」どんなに豪華かと思ったら、

「こいも、にんじん、しいたけ、レンコン、などの根菜を煮しめて、そこに、細切りの昆布が、混ざっただけのもの。

関西の彩り豊かな食卓を思えば、まるっきり田舎の普通のおかずだと思うんだけど、舅には「ごちそう」だったのね、それはね、大みそかの夜だけ「白米のご飯」が、出たから。

「銀シャリ」がご馳走だった。

お父さんにしてみれば、死ぬまで、一番のご馳走は「白ご飯」だったと思う。子供のころは雑穀しか食べられなかったから。

お父さんは、頭のいい仕事のできる人だったけど、ここぞという時に、肺結核をしたり、肝臓を壊したり、不運が重なって、会社では成功できなかった。

苦労の多い人生だった。

それだけに、85歳を過ぎても、町内会で愛され「カラオケ」や「太極拳」のお世話をして、自衛隊主催の旅行にも行っていた。みごとな人生だったと思う。

でも、そのつれあいの姑は、一生、専業主婦だから、世間も知らないし、親が「男というものは浮気をするのが当たり前」と、言い聞かせて育てたので、

何かにつけ、夫には「女がいる」と、思い込んでいた。そこだけ、頭がおかしかった。

そんなことを、言うのも寂しかったのだと思う。男の子二人を育てて、子供が大学生時代には友達がたくさん来て、みんなで麻雀してたらしいから、そのころは楽しかっただろうね。

でも、子供たちが、順調に独立して家庭を構えると、もう、いつまでもおじいちゃん、おばあちゃんとは言ってくれない。

そんなある日、盆暮れだけは郷里に帰っていたんだけど、居間の天井から、「オウム」のぬいぐるみがつってあった。

話しかけるとおうむ返しに、しゃべるんだって。

そういって、お母さんは「おはよー」とか、いろいろオウムにむかってしゃべっていた。ちゃんと、返事することもあったけど、たいていは、わけがわからなかった。

お母さんは、よっぽど寂しいんだろうなと思った。
同じ年齢になって思うよ。

もう、子供たちも、忙しいし、孫たちは、青春時代だし、誰も、おじいちゃん、おばあちゃんとは言ってくれない。

あの、薄汚れたちっともかわいくない、ろくにおうむ返しもできなかった「おもちゃのオウム」のことは、私の心に、いつまでも重いよ。

お母さんが、亡くなった日は、とても、寒くて、駐車場の表面が凍ってた。私たちは、死に目に15分間に合わなかった。

おかあさんは、本当に寂しかったんだと、もう一度思ったのは、それから10年たって、私に初孫が生まれたのだけど、それが、母の命日だった。

しかも、なぜか、お医者さんが「まだ、出したらいけない。まだまだ」といって、出口を押さえて出てくる赤ちゃんを押し返させたんだって・・・そんな話は聞いたことがないけど。

その結果、孫は、日にちどころか時刻まで、母の死亡時刻に出てくることになった。

生まれ変わりだとは思わないけど、父や、母や、いくつもの命日を覚えるのも、なかなか大変で、思い出せなくなったりするんだけど、

姑だけは、絶対に忘れない。「私を忘れないで」と、よっぽど言いたいんだと思うから。

病院にいながら、絶対に夫には彼女がいるという妄想に、とらわれ続けた姑は、付き添いの父が、「ちょっと風呂に入りに帰る」と言おうものなら、じっと時計を見て、必要な時間を算定して、それより、少しでも、遅いと、「女の家にいったな」と、怒るので、舅は、おちおちしていられなかった。

ほんとうに、私の周辺には、なんという変なひとばかりいたんだろう。

姑は、亡くなる瞬間、上の方をじっと見つめたらしい。

舅はその顔が、あまりにも怖くて、きっと自分恨んで睨んだろうと思って、それっきり、お通夜の間も、寄り付かなかった。

伯母から「あんたのお父さんは、ひどい男だで」と言われていたので、そのことを、お父さんに耳打ちしておいた。

そしたら、お通夜の夜、自宅で「みんな集まってくれ」と、弟妹7人ぐらいを自分の周りに、呼び集めた。そこは部屋の隅っこだったから、半分以上が台所にこぼれていた。

「みなも、知っているように、亡くなった女房は、本当にできた嫁やった。家のこともきっちりしてくれたし。しかし、ひとつだけ、困ったことがあった。

それは、わしに女がいると思い込んでいたことや。
わしは、天に誓って、潔白や!!」

舅は82歳だった。

82の老人なのに「女がいるのいないの」現役の男の話じゃないの。82歳で一人前の男扱いされるって、むしろ幸運だわ・・・・と思った。

伯母たちは、みんな、お父さんに女がいて、しかも、現在中学生の隠し子がいる。自宅から自転車で15分の所に住んでいるという「妄想」を、何度も聞かされていたので、見てきたように、姑の話を信じていたんだけど、

父が、きっぱり、そんなことを言うものだから。

「ほやほや、兄さんは潔白や。わしら、ちぃっとも、兄さんのことをうたがって〜へんよ」

「ほやほや」「ほやほや」と、東濃弁で囁き返した。

なんちゅう、葬式やろ、遠くから見たら、面白過ぎる。

葬儀が終わると、舅は、「これから、羽をのばすぞ」と、両腕を大きく広げて羽ばたいて見せた。よっぽど、負担になっていたんだと思う。

でも、その晩、ストレスからか、大吐血ををして、救急車で運ばれた。

姑がやきもちをやいて、連れていくつもりかと思った。

でも、舅は、2か月後に元気に帰ってきた。

病院では、胃潰瘍の手術のあと、ねたきりの舅を、若い看護婦さんが、ケアしてくれて、カラダを吹いてくれたり、マッサージしてくれたり、天国だったらしい。

退院後も、リハビリに通って、近所の人と交流して楽しく余生の6年を終えた。

父は、意識不明でたおれているところを、毎週見に来ている弟に発見された。脳卒中で、6日間意識不明の後、亡くなった。

主人の従兄弟が「おじさんは、子ども孝行や。俺は、親孝行したくても、嫁が先に亡くなって、男手一つでは何もしてやれんかった。3か月ごとに、施設をたらいまわしにされたけど、どうしてやりようも無かった。」と、涙ぐんでいた。

しんちゃん元気かな・・・もう、親戚づきあいも親の葬儀で終わってしまった。

一生で親しみあえる人数って、思いのほか少ないのよね・・・大事にしないとね。

最近、主人の弟と電話で、よく話をする。彼は、彼の陰謀論「中国は、もうだめ。「これからはインド」「アラビアの連中がガザのパレスチナ人を助けるべきや」とか言っていたけど、私と同じように、そんなこと、話し合える相手がないんだと思う。

義妹は、宗教活動に忙しくて、週のうち半分は、布教に歩いているらしい。
「いいやん、これから、年をとるとさびしくなる一方だから、何の関係でも仲間は大事だよ。よっぽど非常識なことさえしなければ、掘っといた方がいいよ」と、私は言った。

本当に、あれこれ入れ込んでおかないと、人貧乏になってしまう。

「しかし、宗教に入れ込んでいる人らは、みんな、おかしいぞ」と弟が言った。「私も、それを否定しない」と、私も言った。「私自身宗教は持っているけど、否定しない。」

でもね、なにか、古巣のようなものは、持ってる方がいいのよ。

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誰かのために、誰かを喜ばせるために、何をしたらいいか、いつもいろんな企画を考えているのだけど、

最近、しみじみ思う。

私の立ち位置が変化して、現場でこまごま動くのでなく、全体がうまく回っているかを統括しなければならなくなった。

たとえば、子供食堂でも、ご飯をもって、おかずを乗せて、子供たちの表情を見ながら、接待するのが、一番たのしいよ。

でも、私は、結局その現場から離れて「必要書類」を書いたり、報告書を書いたり、お金の管理をすることになった。でも、それって、つまらない仕事なのよね。

今も、伝統文化親子教室の報告書をまとめているんだけど、パソコンの前で、ぼそぼそやっているより、生身の子供たちと、わいわいやる方が楽しい。

一人一人の子供には、それぞれの気遣いが必要で、自信をもたせて、次のステージにあげてやる作業は、ものすごく手ごたえがある。

でもねえ、自分の周辺に人がいないとねえ。私は、つくづくだめだと思う。

別に、あたしなんかいなくていいし〜と、思うよ。

こういうのも、カタチを変えた「依存症」だと思う。
つまり、他人に頼られて、その理不尽な重みと、戦う時、自分の存在感を感じるのね。

孫たちが、ちょうど学齢期にいるので、毎日、にぎやかにやっているみたいだけど、あの時代が、本当は人生の華だと思うよ。

すごくしんどくて、経済的にも大変だけど。その大変さが生きてる手ごたえなのよね。

し〜んと、家にこもって、テレビだけ見ている夫は、毎日何が楽しくて生きてるんだろうと思ってた。

けど、たぶん、彼は、毎朝洗濯して、トイレットペーパーなどが、途切れない様に、注文して、家の中を回していることで、私の手助けをしているつもりだったのだと思う。

実は、私が何のために何に尽力しているのか、一番知っているのが、やっぱり、身近にいる夫だった。お互い口に出して言わないけどね。

いろんなことを考えるのよ。
彼は、これから、何を生きがいにするんだろう。

単純に、居心地のよい施設で、天国のように、いろんな人と楽しく交流して、本当に、それでいいのだろうか?

与えられる一方の暮らしに満足できるのだろうか。

自分がいてやらないと、あいつが困る・・・そういう張り合い無しで、本当にいいのだろうか。

いずれ別れていくことは、承知だし、それがいつくるのかわからないのも承知だけど、

最後の最後まで、生き甲斐は必要だと思う。

これだけは、自分がやってやらないと・・・という張り合いが。

あれやこれや考えてしまう。

年の瀬は、たださえ、去りにし過去と、迫りくる未来に心がざわざわするし。

そうね「一人」でいいのよ、私がいないと困る、いてほしいと思ってくれる人が一人いるのと、いないのでは、違うのよ。

一人の人の目線が強く注がれているだけで、人は元気になる。

それも、カラダがちゃんと動ける間だけだものね。

沢山の人が、かさなりあって、ささえあって暮らしている。
この地域に、なんとか20人ほどの高齢者の輪を作り上げたけど。

みんな80歳以上だから、あと、何年持ちこたえられるかと思う。

少子高齢化も、仕組まれたと、思うのだけど・・・制度やプロパガンダで、人の生き方なんて簡単に変わるものね。よくないよね、子供が減っていくのは。

さりとて、際限なく増えるのも不可能だしね。

明日から2024年だけど、先が全然見えない。

切り立った崖から、どさんと落っこちるみたいなことが起こりそうな気がする。
アメリカ文化は、もう持たないし、中国の成長も限界に来てるでしょ。
日本政府のでたらめさには、開いた口がふさがらない、もっとも危険な道を歩いて、国民を殺そうとしているみたいだ。

けれど、社会のタブーで、たとえば、こんなブログにさえかけなかった「シオニストの悪らつさ」「創価学会の悪口」「統一教会の悪口」などは、束縛が解けた気がする。

そのかわり「ワクチン被害」「ジェンダーフリー」「各種ハラスメント」は、制限される。

ますます社会はおかしな方向へ行っているのだけど、

少しの隙間から「本音」が、染み出してきている気もする。

「怒る先生、こわい先生はどうですか?」と、マイクを向けられた子供たちが、「ちゃんと叱ってくれる先生の方がいい」と、言っていたけど、今までならこれは、タブーで、

子供におもねる教師ばかりで、まともな教育ができていない。

その壮大な社会実験のすえ、本気で、このままじゃあ、日本はどうなる?と、考える人が増えてきているのかもしれない。

暗い事ばかり考えたくないけど、現実は、首相がアメリカDSにくびねっこを引き回され、カネも命も日本を危険にさらしているんだから、希望なんて持てない。

しかも、じゃあ、もっと力のある実力者がでてくれるかというと、いないからね。
世の中って、もっとしっかりしていると思っていたけど、今や、世界中がたがたよね。

大阪万博のころ、自分の一生で、こんな日本に出会うとは思っていなかった。

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昨日かな、太陽がまぶしすぎて、運転を誤って、歩道に乗り上げた事故があった。けが人は軽症だったらしいので、ほっとしたけど、

本当に、最近の太陽には泣かされるよ。

かつて、10年前には、斜めの陽光が、たまらなかったのは冬の4時ごろだった。
今は、2時が一番まぶしい。

主人の病院の面会に西を向いて走るのだけど、面会時間が14時なので、そのころ運転している、すると、太陽が、ひどくまぶしい。

本当にきついときには、スピードも緩めるし、可能なら一旦停止する。見えないんだもの。

年を取ったせいかと思うけど、今回の事故の運転者は50代だからね。

年令関係なく、まぶしいのだと思う。


それと、この強烈な温暖化は、連動しているに決まってうよ。


反対に太陽を背にして走っているとき、向こうから来る車が、困っているのが、ありありとわかるので、私は、なるべく、端に、よけて、やり過ごしたりするよ。こっちもだけど、向こうから来る車がまぶしさで、戸惑っているのがわかるから。

しかも、それが14時という、以前では、そんなに斜めではなかった太陽の光なのよね。低いのかな。

何も、アナウンスしないけど、相当な「異変」は、起こっているはずだと思う。


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