「大みそかのご馳走」という言葉が、主人の家にはあって、「ご馳走だというから」どんなに豪華かと思ったら、
「こいも、にんじん、しいたけ、レンコン、などの根菜を煮しめて、そこに、細切りの昆布が、混ざっただけのもの。
関西の彩り豊かな食卓を思えば、まるっきり田舎の普通のおかずだと思うんだけど、舅には「ごちそう」だったのね、それはね、大みそかの夜だけ「白米のご飯」が、出たから。
「銀シャリ」がご馳走だった。
お父さんにしてみれば、死ぬまで、一番のご馳走は「白ご飯」だったと思う。子供のころは雑穀しか食べられなかったから。
お父さんは、頭のいい仕事のできる人だったけど、ここぞという時に、肺結核をしたり、肝臓を壊したり、不運が重なって、会社では成功できなかった。
苦労の多い人生だった。
それだけに、85歳を過ぎても、町内会で愛され「カラオケ」や「太極拳」のお世話をして、自衛隊主催の旅行にも行っていた。みごとな人生だったと思う。
でも、そのつれあいの姑は、一生、専業主婦だから、世間も知らないし、親が「男というものは浮気をするのが当たり前」と、言い聞かせて育てたので、
何かにつけ、夫には「女がいる」と、思い込んでいた。そこだけ、頭がおかしかった。
そんなことを、言うのも寂しかったのだと思う。男の子二人を育てて、子供が大学生時代には友達がたくさん来て、みんなで麻雀してたらしいから、そのころは楽しかっただろうね。
でも、子供たちが、順調に独立して家庭を構えると、もう、いつまでもおじいちゃん、おばあちゃんとは言ってくれない。
そんなある日、盆暮れだけは郷里に帰っていたんだけど、居間の天井から、「オウム」のぬいぐるみがつってあった。
話しかけるとおうむ返しに、しゃべるんだって。
そういって、お母さんは「おはよー」とか、いろいろオウムにむかってしゃべっていた。ちゃんと、返事することもあったけど、たいていは、わけがわからなかった。
お母さんは、よっぽど寂しいんだろうなと思った。
同じ年齢になって思うよ。
もう、子供たちも、忙しいし、孫たちは、青春時代だし、誰も、おじいちゃん、おばあちゃんとは言ってくれない。
あの、薄汚れたちっともかわいくない、ろくにおうむ返しもできなかった「おもちゃのオウム」のことは、私の心に、いつまでも重いよ。
お母さんが、亡くなった日は、とても、寒くて、駐車場の表面が凍ってた。私たちは、死に目に15分間に合わなかった。
おかあさんは、本当に寂しかったんだと、もう一度思ったのは、それから10年たって、私に初孫が生まれたのだけど、それが、母の命日だった。
しかも、なぜか、お医者さんが「まだ、出したらいけない。まだまだ」といって、出口を押さえて出てくる赤ちゃんを押し返させたんだって・・・そんな話は聞いたことがないけど。
その結果、孫は、日にちどころか時刻まで、母の死亡時刻に出てくることになった。
生まれ変わりだとは思わないけど、父や、母や、いくつもの命日を覚えるのも、なかなか大変で、思い出せなくなったりするんだけど、
姑だけは、絶対に忘れない。「私を忘れないで」と、よっぽど言いたいんだと思うから。
病院にいながら、絶対に夫には彼女がいるという妄想に、とらわれ続けた姑は、付き添いの父が、「ちょっと風呂に入りに帰る」と言おうものなら、じっと時計を見て、必要な時間を算定して、それより、少しでも、遅いと、「女の家にいったな」と、怒るので、舅は、おちおちしていられなかった。
ほんとうに、私の周辺には、なんという変なひとばかりいたんだろう。
姑は、亡くなる瞬間、上の方をじっと見つめたらしい。
舅はその顔が、あまりにも怖くて、きっと自分恨んで睨んだろうと思って、それっきり、お通夜の間も、寄り付かなかった。
伯母から「あんたのお父さんは、ひどい男だで」と言われていたので、そのことを、お父さんに耳打ちしておいた。
そしたら、お通夜の夜、自宅で「みんな集まってくれ」と、弟妹7人ぐらいを自分の周りに、呼び集めた。そこは部屋の隅っこだったから、半分以上が台所にこぼれていた。
「みなも、知っているように、亡くなった女房は、本当にできた嫁やった。家のこともきっちりしてくれたし。しかし、ひとつだけ、困ったことがあった。
それは、わしに女がいると思い込んでいたことや。
わしは、天に誓って、潔白や!!」
舅は82歳だった。
82の老人なのに「女がいるのいないの」現役の男の話じゃないの。82歳で一人前の男扱いされるって、むしろ幸運だわ・・・・と思った。
伯母たちは、みんな、お父さんに女がいて、しかも、現在中学生の隠し子がいる。自宅から自転車で15分の所に住んでいるという「妄想」を、何度も聞かされていたので、見てきたように、姑の話を信じていたんだけど、
父が、きっぱり、そんなことを言うものだから。
「ほやほや、兄さんは潔白や。わしら、ちぃっとも、兄さんのことをうたがって〜へんよ」
「ほやほや」「ほやほや」と、東濃弁で囁き返した。
なんちゅう、葬式やろ、遠くから見たら、面白過ぎる。
葬儀が終わると、舅は、「これから、羽をのばすぞ」と、両腕を大きく広げて羽ばたいて見せた。よっぽど、負担になっていたんだと思う。
でも、その晩、ストレスからか、大吐血ををして、救急車で運ばれた。
姑がやきもちをやいて、連れていくつもりかと思った。
でも、舅は、2か月後に元気に帰ってきた。
病院では、胃潰瘍の手術のあと、ねたきりの舅を、若い看護婦さんが、ケアしてくれて、カラダを吹いてくれたり、マッサージしてくれたり、天国だったらしい。
退院後も、リハビリに通って、近所の人と交流して楽しく余生の6年を終えた。
父は、意識不明でたおれているところを、毎週見に来ている弟に発見された。脳卒中で、6日間意識不明の後、亡くなった。
主人の従兄弟が「おじさんは、子ども孝行や。俺は、親孝行したくても、嫁が先に亡くなって、男手一つでは何もしてやれんかった。3か月ごとに、施設をたらいまわしにされたけど、どうしてやりようも無かった。」と、涙ぐんでいた。
しんちゃん元気かな・・・もう、親戚づきあいも親の葬儀で終わってしまった。
一生で親しみあえる人数って、思いのほか少ないのよね・・・大事にしないとね。
最近、主人の弟と電話で、よく話をする。彼は、彼の陰謀論「中国は、もうだめ。「これからはインド」「アラビアの連中がガザのパレスチナ人を助けるべきや」とか言っていたけど、私と同じように、そんなこと、話し合える相手がないんだと思う。
義妹は、宗教活動に忙しくて、週のうち半分は、布教に歩いているらしい。
「いいやん、これから、年をとるとさびしくなる一方だから、何の関係でも仲間は大事だよ。よっぽど非常識なことさえしなければ、掘っといた方がいいよ」と、私は言った。
本当に、あれこれ入れ込んでおかないと、人貧乏になってしまう。
「しかし、宗教に入れ込んでいる人らは、みんな、おかしいぞ」と弟が言った。「私も、それを否定しない」と、私も言った。「私自身宗教は持っているけど、否定しない。」
でもね、なにか、古巣のようなものは、持ってる方がいいのよ。
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