どうにもできない不幸と苦しみの末、いっそ親子心中しようかと、踏切の前に立って、
いやいや、死ぬのはいつでもできる
精いっぱい、生き抜く努力をしないと、子供たちに申し訳ないと、思って、後ろを振り返った...その時期に、高校時代の友人から密教教団だけど、最高の教えなの・・・と、言う話を聞きました。
彼女は、それが何なのか、ちっとも説明しないで、あなたもどお?とは言わないで
「私はいいのよ。最高のものに出会ったから。究極の教えに」と、言ったのね。
自信満々だった。その自信が羨ましかった。
2週間後に、主人の態度に追い詰められ、逃げ場を失った私は、「あなたの宗教の話を聞きたい」と、電話しました。
集会に行くと私の前に座っていた人が「私の入信動機も、あなたと同じ、息子の引きこもりだったけど、入信用紙を出して家に帰ると、24時間布団の中で過ごしていた息子が、起き上がっていたんです。あなたも、きっとよくなるから、ぜひ」と、勧められ、
すでに5年間、引きこもって、夜も昼も寝ている弟が、立つかもしれない・・・と、言う言葉にひかれて、入信用紙を書きました。
でも、弟に変化は何もおきませんでした。
そのかわり、ふだん夢なんかみないのに、夢を見ました。
私は、宗教に入ることに、強い抵抗を感じていたし、これで何とかなると、考えたわけではありません。ただ、藁にも縋る思いで、溺れながら藁をつかんだ。
なのに、私は、意識の上で何も信じてないのに、その夜、床に入って、横になろうとした瞬間、
「ああ、これで安心して眠れる」という声がした気がした。私の中のずっと深いところで。
先祖の苦しみが現世に現れると考えていた私は「供養してほしいひとがいたら、夢に出てください」と、言って眠った。
そしたら、16歳ぐらいの女の子が「私が、他家に行かされている間に、大切にしていたクリームを誰かが、持って行った。ここに隠していたのに」と、訴えてくる夢を見た。
次の瞬間シーンが変わって、大きな雛壇に、豪華なおひなさまが飾られ、その前に座布団を敷いて座らされているタラちゃんみたいなエプロンの着物姿の女の子が、げぼっと吐いて、前向きに倒れた。3歳ぐらいに見えた。
最初の夢の女の子が、母方の祖母だとすぐわかった。祖母のシカは、継母にいじめられ、15才ごろに、当時「塩ふみ」と言われた、嫁入り前の修行に、よそのいえにいかされ、その家で、いろいろ仕込まれた。
昔の娘は、本当に三界に家なく、生涯、苦労した。
でも、三歳で亡くなったという子供の話は聞いたことが無かった。(でも、数年後、この子が、誰か、示された。お施餓鬼をすることで、娘の様子が変化した。)
けれど、弟を何とかしてほしい(弟さえ、治れば、誰が宗教なんかするものか、すぐやめるわ・・・と、実は考えていた。)と、訴える私には「運命を変えるのは、並大抵のことではない、生涯、真剣白羽の修行が必要です。この問題の解決には、長い年月がかかります。あせっても駄目です」と言われた。
昨日、久しぶりに用事のない日曜日、私は、この教えに導いた人から「私が死んだら、この子の母親代わりになって」と、託されたーもうお母さんの亡くなった年齢になる女性をともなって摩耶山に登った。
重い因縁を背負うこの人は、虚弱児で生まれ、知的障害の烙印を押された。けれど、お寺が好きで、通いつめ、見違えるように変貌した。
摩耶山天上寺は、真言宗で、開山は、仏教伝来のころ7世紀、孝徳天皇の勅願により、法道仙人によってだ。
裏六甲の寺はたいてい、同じ法道仙人と、孝徳天皇の名前が記されている。
前に来たのは数十年前だから、記憶と全然違っていた。
摩耶夫人は、お釈迦様の母堂だから、安産の守り神だ。
本堂に上がると、安産祈願の一家が、座っていた。
けっこう長いお経を聞きながら、お線香の香りの中に座っていた。
コロナ以来、なかなかお寺にも行けないので、
お線香の香りも久しぶり(もしかしたら、むせるので、教団はお線香をたかなくなったかもしれない)
お線香の香りって、落ち着くね・・・
境内でお弁当を食べて、1時間ぐらいそこにいて、戻ってきた。
お山の上の空気は澄んで冷えていた。階段を降りると、少しのことなのに、もう、空気に雑味がまざった。
くねくねとしたドライブウェイを転がしながら、私は、この前、この道を走った時の話をした。
平成6年7月2日、教団のご縁日だった。
土曜の早朝、早朝奉仕活動のあと、駅前から家に帰ろうとした私は、物陰の階段に座り込む中学生を数人見つけた。中に知っている顔があった。
「どうしたの?」と尋ねると
「夜じゅう遊んでたら、朝になった。腹減った」という。その間も、全員がのべつ、唾を吐く・・・これは、シンナー中毒のしるしだということを、その時は知らなかった。
私は当時、塾をしていて、とどのつまりが、我が家は不良少年のシェルター「うちらは、ここにいる時だけが心が安らぐ」という親にはぐれた子たちをお守していた。
したしい刑事さんからは「やめなさい。僕は、あなたに5回注意しましたよ。あいつらは危険だ。家に入れてはいけません。なにをするかわかりませんよ。今は子供でも、すぐ大人になって、家の構造をしっているから強盗に入るかもしれません。やめなさい。
これが6回目ですよ、
もう言いませんよ。」と、言われていた。
けど、そんな忠告は、全然聞く耳が無かった。
「わかった。おにぎりを作ってあげるから、待ってなさい」そういいおいて家に帰ると、塩昆布と、梅干しのおにぎりを、残ったご飯全部をつかってつくった。
車で駅に戻ると、少し人数が減っていたけど4人、同じ場所に座っていた。
もう、通勤の人が歩いている中で、座り込んで食べるわけにもいかないから、
4人を車に乗せた。
「六甲山に行こう。」と、私が行ったのは、きっと、山の澄んだ空気がこの子たちをいやしてくれると思ったから。
車に乗せると、テラカド兄弟の兄が、まず話し始めた。
「学校には行ってない。だって、おかんは、いつも、薬をやっていて、男をつれこんで、俺らを家から追い出す。ごはんは作ってくれないし、何もしてくれない。いつも、薬でふらふらしている。
だから、おれが食事をつくって、セイジ(弟)が、洗濯する。
そんな暮らしで、学校なんか行けると思うか?」という。
「そりゃあ、学校どころじゃないね」
やがて、道は、山の中に入って、
私は、摩耶山に、向かっていた。そこに、無料の駐車場があったから。
登っていくと、六甲山牧場があるので、朝霧の中から、夢のようにヒツジが現れて道を、横切った。
道はくねくね曲がっているので、道を折れたとたん大小のヒツジが現れた。
「先生、羊、轢くなよ。」セイジが、後ろから声をかけた。
「この先生なら、羊を轢いたら泣くやろな
ぼくわかるわ。」
私は、その時、その子の本当の顔を見た気がして、涙が出そうだった。
ちゃんとした大人が守ってやっていたら、こうはならなかったのに。
そうだ、児童相談所に連れて行こう。この子たちを親から引き離してやらないと。保護者の責任を果たさない親なんだから。
六甲山の上から下界をみたかったけど、天上寺の駐車場からは何も見えなかった。
「海が見たいわ。海に行こう。」なんで、そんなことを思いついたのか、私は、わからない。でも、
おにぎりで、おなかが膨れて、車の中で安心しきって眠ってしまった4人を乗せて、私は、今度は須磨の海岸に向かった。
駐車場で、まだ、眠りこけている4人を、ドアも窓も開け放して、風をいれて、置き去りにして、公衆電話に向かった。
児童相談所に電話する。
「助けてほしいんです。私、こういう子供たちを今、つれています。いまからそちらに行くので、この子たちを保護してやってほしいのです。」
「なんですって、子供を連れ歩いている?あなた、それ、誘拐ですよ。犯罪です。すぐに、その子たちを放しなさい。親から訴えられたら、どうするんですか?
うちでは、面倒見れません」
「でも、親が、覚せい剤で、家に入れてくれなくて...お願い、助けてやって」
「誘拐犯になっていいんですか?!すぐ放しなさい」
取りつく島がなかった。
力なく電話を切って、
誰もいない砂浜に座り込んで、風の中で大声で泣いたよ。
私には、どうしてやりようもない。救ってやる力がない。
ひとしきり泣いてから、車に戻った。まだ、みんな眠っていた。
「帰るよ」
子供たちは、満ち足りたような顔つきで目を覚ますと、車の中でわいわい騒いだ。
私は、もう何もいわないで、ひたすら山を登った。
彼らの本拠地につくと、「ここで降りなさい。あなたたち、あと5年たてば、大人になれる。大人になれば、自分の人生を切り開ける。」
涙をこらえて、わけのわからないことを言う私の車から、彼らを解放したよ。
「成人すれば、自分で生きる希望があると、私は思ったんだけど。
兄の方は、20歳になったとたん喧嘩で相手を殺した。成人してたので新聞に名前が出た。
その後、どうなったかわからない。生きているとは思うけど。
弟の方は、成人する前に重い覚せい剤中毒で医療少年院に送られた、こっちは、もう、生きてないと思う。
「私はね、どうしてやることもできなかったのよ。自分の力の無さを思い知らされた。私はね、何もできなかった。
仕方がないので、その子たちの先祖のお施餓鬼を、1年に1回だけした。大勢いるから何回もできない。
それだけしかできなかった。」
あの日が一番、心に残る日だけど、つごう13年間、そういう子供たちと過ごした。
みっちゃんは、殺人犯になり、せいじは、医療少年院、いずれ、ろくでもない人生だったと覆う。
でも、ときどき、思うことがある。
私が車で山と、海に連れて行った、あの一日だけが、あの子たちの人生で、唯一、愉しい気持ちで思い出せる日だったかもしれないと。
だったら、無かったよりあった方がよかったよね。
今、思い出しても、泣いてしまう。どうしてやることもできなかった・・・
でもね、そういうことがあってから、10年も20年もたってから
「あなた、人のできないことをしましたね」と、お寺で言われた。
「塾のことですか?」
「あなたが面倒を見た子供たちのご先祖さんが、ここにきて、ありがとうありがとうと言って、あなたを拝んでいますよ。
あなたが、頑張ったから、因縁が切れたのですよ」
こうして、私の弟は、事件を起こすことなく、ある夜、眠りのうちにこの世を去っていきました。
長い長い戦いでした。
正直に言うと、私は、教団の仲間に、こういう出来事は、全く打ち明けていません。
「誘拐犯?!」とんでもない!!と、言われたでしょう。
みんな従順なヒツジだもの。
因縁を切るなんて、簡単にはできないよ。
陰徳を積むのも、並大抵じゃない。
だから、ご利益を願って宗教をやっても、本当の答えを出すには、命がけの覚悟がいるよ。
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