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2017年12月

孫に、先駆けてお年玉を渡しました。
兄妹で、性格が違うので、お金のつかいかたも違いました。

小学生の兄は、あっという間に全額をカードに投入し、 箱買い。
幼稚園児の妹は、握りしめたまま。財布の紐は堅い。

今日になって、お兄ちゃんがコンビニに、欲しいものがあるので、買いにいきたいというので、二人をつれてでかけました。

妹の方は、小さなお菓子の袋を買うといいました。お兄ちゃんが色違いのを、欲しがると妹がお兄ちゃんのも自分が出すと言いました。

私は、少し離れて見ていました。

カウンターに首だけ出して、お菓子と500円玉を置くふたりに、レジのおばさんが念を押しました。
「自分のお金で買うのね? どれを誰が買うの?」
二人が、答えて、お金を差し出し、お兄ちゃんは、レジの奥におかれたカードをほしいといいました。

すると、レジのおばさんが、私の方をチラチラ見ながら

「こんなに沢山買っていいの?」と、念をおしました。
「500円で3枚よ。」

「うん。全部使う。」

私はレジに近づいて言い訳しました。

「遣うとは、どういうことか、 お金が無くなるとは、どういうことか、自分でしってほしいので。」


呆れたように、その人は、「こういうものを 沢山欲しがる時期もありますもんね。」

確かに、大人の目から見たら、何の値打ちもない馬鹿な散財だ。

でも、やがて、そのことに自分で気付いて欲しい。
そして、お金は、遣えば無くなると、思い知らせてやりたい。

知人に、大阪梅田の一等地に先祖代々の家屋敷があったという人がいるのだけど。
彼は、その土地を売却して四億円を手にしたそうだ。

それなのに、今は、経済的にしんどいという。
勤めも、早期退職して、年間収入が、たった120万円の年金だけ。

「嘘でしょ。四億円は、どうしたの?」
「遣うてしもた。もうない。」

「四億円も?」
「ワシはな、知らんかったんや。」

「何を?」
「金は遣えば無くなることや。知らなんでん。」


そんな馬鹿な。
当たり前やん。そんなこと。

けど、お金なんて、有るのが当たり前という育ち方をすると本当に、そうらしい。

だから、小さい時から、自分なりに考えてお金をつかうことを、知って欲しい。そして、お金は、遣えば無くなると、肌で覚えてほしいの、私は。

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宮崎市長はワンマンでした。

王子動物園にはライオンと、虎がいたらよろしいと、言いきられて、「珍しいサル」なんかは、買わせてもらえなかった。
すべてが市長の言うとおりでした。

今とは時代が違います。

婦人会の幹部が「妾同然」と知れ渡っていても、びくともしない。
神戸市の不祥事は新聞は書かないことになっていました。

新聞はスポンサーで持っています。
神戸で派手に商売をしようと思えば、神戸市の御用業者になるのが一番手っ取り早い。
神戸市の予算規模は兵庫県の予算規模と同じぐらいですから、
大変お金持ちの市でした。

それをじゃぶじゃぶ使って公共事業をやるのですから、神戸市は上得意様です。
機嫌を損ねたら大変。

新聞が、その神戸市の悪口を書こうものなら、スポンサーが離れる。
それを忖度して、新聞は神戸市、そして、市長の愛妾の悪口は書こうとはしなかったのです。

これら市の御用業者は、市のOBを雇用したがりました。
神戸市の天下り先になることでなお密着し、神戸市から受託しやすくなる。

これら御用業者は、現職市長に投票しました。
せっかく市長と繋がっているのに、人が変わったらえらいことです。

さらに、市議会議員はオール与党でした。
そもそも宮崎市長が左翼運動を学生時代にやった人ですから、神戸市議会では、社会党とか民社党が強かった。必ずしも中央で強力な自民党が市議会でつよかったわけではなかったのです。
共産党まで含めて市長の市政に賛同していました。

そして、この市議全体が市長の票田でした。
だいたい国会議員の票も、実は、地元の市会議員の後援会名簿を頼るわけで、実は市会議員の力は馬鹿になりません。

このように、市議会まで全部味方につけた陰に動いたのは市長の選挙資金、ポケットマネーだと噂されていました。

表向き、市長には選挙資金なんかありません。
年間一回、参加費1万円で、パーティをやっても数千万しか集まりませんよね。

では、宮崎市長の選挙資金は、どこから出ていたのでしょう?

これは、私が老市民オンブズマンから聞いた話です。・・・この市長のポケットマネーを管理していたのが、かの愛妾だった。というのです。
婦人会と言う組織は、市長の選挙資金作りの隠れ蓑だったらしい。

婦人会は、最盛期7万人の会員を抱えていました。
しかも、PTAを終えた世代=おおむね40歳代が、メインでしたから、たいへん馬力がありました。

なにより数の力を持っていました。
鶴の一声で文化ホール(定員2000人)を、通路にまで人を立たせて、消防法違反の集客を平気でしていました。
しかも、右肩上がりの社会で子育て世代は購買力もありました。

この数の力を頼んで企業に圧力をかけることができました。
不買運動をしようと思えば、出来るんだけど・・・

こうして、その不買運動をできる数を掲げて、消費者運動をしました。
もちろん、それは表向きであって、実態は、大企業よいしょ!
実態は、消費者を束ねて、けっして大企業には盾突かさないための監視機関でありました。

一番力を発揮したのは大店法が実施された時で、各婦人会は地元に大型スーパーが進出する時、市民代表として賛同の票を入れるのでした。

神戸市、市長の思い通りに市政を運べる強力な助っ人が婦人会でした。
そこで、神戸市は婦人会に次々、事業委託をしました。随意契約というやつです。
消費者相談員の仕事。
婦人会館の運営。
婦人大学の運営。
それぞれが3000万円規模で、つまり1億円規模の公金を毎年流し込んでいたのです。

ところが、この委託事業の特徴は「監査なし」というところでした。
そもそも予算請求さえ、市職員が代わりに作成し、婦人会は、そういうややこしい事務手続きなしで市から、法外なお金を受け取る。

内部では、専務理事が目を光らせ、一円に至るまで監視します。
支出伺をだし、承認されなければお金は出ません。
領収書とともに厳格に管理されていますが、
これは、神戸市には提出しませんでした。

提出されるのは事業実施報告書だけです。お金の監査はなく、事業を実施した証拠書類さえ出れば、満額使ったものとされました。(H15年度まで)

ところが、それぞれ1000万円程度は、余剰金があったらしい。
年間3000万円の使途不明金・・・として、週刊宝石?そういうエロっぽい週刊誌に大きく出ました。平成13年ごろかな?


このたちまち何億にもふくれあがる余剰金は、当然妹尾氏の管理の下にありましたから。
私は、妹尾さん個人が自由にしているものとばかり思っていました。

平成15年度、このことを、村岡市議を中心に市議会が騒ぎたて、ついに、「監査制度」が導入され、あまったお金は市に返還することになりました。

市議たちは、老オンブズマンたちに傍聴に来るようにと言う案内を出しました。

婦人会への使途不明金を不快に思っていたオンブズマンは感動して、私に電話をくれました。
「まさか、自民党がやってくれるとは!共産党でさえ手を付けてくれなかったのに」

「あのお金はどうなったのですか?
私は、一番知りたかったことを尋ねました。

「あれは市長にキックバックされてね。市長のポケットマネーとして、選挙に使われていたのよ。」

「え〜!そんな恐ろしいこと。知らなかった・・・」

二年後の17年だったと思う。
4月か5月の初め、村岡逮捕・・・・仕返しでした。

第三の助役とまで言われる人にとれば、そんな委託金詐欺なんかしなくても、いくらでも儲け口はありました。

インサイダーです。

「土地転がしよ〜」
すました顔をして前の協議会長が、教えてくれました。

「神戸市営地下鉄の延伸工事・・・そこの土地転がし。
兵庫県が整備した淡路島の東浦の公園の土地も転がしたらしいわよ。」

そして、手にしたお金を元手に相場で荒稼ぎしたのでしょう。

私の地獄耳に市民オンブズマン氏が囁きました。
「篠原の山口組の近くの豪邸・・・2億で売りに出ていたのよ」

しかも、そこは空き家のままほっておかれていました。
垂水の幼稚園の先生というのが、表向きの収入源でしたから。そこで、生活していたのです。

空き家のままほっておく家に2億もかけるなんて、いったい何億遊んでいるんだ?と聞きたくなりますよね。
ちなみに6期目の選挙に出ると言い張った宮崎市長を押しとどめた理由は、それ以上出ると、インサイダー他の悪事を表ざたのするぞと言う脅しだったらしい。

ひっこむなら、検察も動かない、と。



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昨日から娘の家に来ています。
東京に向かう新幹線は、たいして混雑していなかったけど、東京に近づくと、電光掲示板に「到着ホームは、西日本へ向かうお客様で一杯です。
列車から、ホームに出るのに時間がかかります。品川駅で降りても大丈夫のお客様は、品川駅で降りて下さい。」
大東京の猛烈な混雑は、想像するのも恐ろしくて、品川駅で降りました。

東京都と、神奈川県に、日本の人口の四割が住んでいると、きいたことがあるので、ビビったわ。

最寄りの駅に着くとお婿さんが、買ったばかりの車で迎えに来てくれた。
そして、これは、家族に駅までむかえにきてもらう!人生三度目の体験なんです。

後二回は息子の家に新幹線で行ったとき。

普通は自宅に誰か運転できる家族がいて、遅くに帰宅するとき迎えにきてもらえるでしょ。

私の場合、それがなかった。
55才にもなって、主人が自動車学校に通い始めた1999年冬。
それも、老父が、運転免許も無くては、定年後の働き口がない、何故免許をとらないんや?金がないのか?送ってやる。翌日40万入りの現金書留が送られてきて、
嫌々自動車学校に行った主人は、

明日、仮免許試験というストレスに、耐えかねて、脳卒中でたおれたのだから。

私は一度も主人の車に乗せてもらえず終いでした。

あり得ないよね。たかが自動車学校に倒れるなんて。

私と主人の神経を足して、ようやく1になる感じね。

ったく、このひと私と結婚していなかったら、生きて行けてないよね。と、思った何回かの一回でした。

だから、娘婿に乗せてもらうなんて感慨無量。

ついつい、甘えて、夕飯もステーキハウスにつれていってもらって、娘の家も、安心になったなあと、おもったのですが。
そうは、甘くなかった。

年末に来て育児疲れと仕事疲れで、娘がグロッキー。

これは、駄目だと気が付いて、得意の手のひら療治で、治しにかかるけど、はかばかしくない。

そこで、翌朝、早く起きて、朝食を作る。
風邪が長引いて食欲がないらしい。

大掃除どころじゃないというから、我が家もほったらかしで、こっちにきてるのだけど、窓拭きと庭掃除。門の前ぐらいきれいにしないと、近隣にも、迷惑でしょう。

まだ、親の助けが必要だと痛感する。
私も、公園掃除で、先輩たちの作業ぶりから、学んだし。
デイサービスの講義で、栄養バランスのとりかたも習った。
ありがたいことに全部役に立ちました。

それと、皆様から頂いた健康情報のお陰で、五年前よりはるかに元気です。



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神戸の戦後の歩みを刻んだ市長は全部で16人です。
その最初の人は、弁護士の中井一夫市長。
二代目は小寺謙吉市長。
三代目が原口忠次郎市長。

小寺さんは剛毅な人で、長田区で朝鮮人の暴動が起こった後、「警察官に拳銃をもたせろ」と、GHQに談判に乗り込んだ逸話があります。

次の原口市長は中央から神戸市に飛び降りてきた人。
中央の人脈を駆使したのでしょうか。

建設省の役人でしたから、神戸に土木事業を引っぱりこんで、橋をかける、道路をつくる、神戸市は砂埃の町になりました。ポートアイランド構想も原口市長時代。
明石海峡大橋も同じです。空港の構想もすでにあったんではないでしょうか。

街づくりのハード面は大きく進んだのですが「暮らしはよくならない」という不満がたまり始めます。

その空気を受けて、助役から跳ね上がったのが宮崎市長でした。

宮崎辰雄氏は、なんでも、長田あたりのマッチ工場のせがれだったらしい。
大学時代に学生運動に身を投じた・・・ということは、反戦運動かしら。

この宮崎市と婦人会の二大巨頭、土井、妹尾氏...この3人がそろった時から、神戸市は長足の進歩を遂げ始めます。

宮崎市長は「神戸は恋人」と言うのが口癖でしたが

神戸が恋人だったのではなく、妹尾美智子氏が恋人だったようです。

毎週のように、新幹線のビュッフェで、おそろいの二人の姿が目撃されています。
宮崎市は東京に行くたびに妹尾氏を伴ったようです。

一目でただならぬ仲に見えた二人でしたが・・・

後日、妹尾氏に宮崎市長はどんな人でしたか?と質問すると「冷たい人やった」と、答えました。女を利用した、と。

二人の仲は、公然の秘密で、妹尾氏は「第三の助役」と、呼ばれていました。
助役以上の力を持っていたはずです。

寝物語に「あいつは、嫌い」とでも、囁かれようものなら、たちまち左遷。
神戸市の市役所内は恐怖政治になりました。

口さがない連中は、土井さんも未亡人だから、市長との間に特別な関係があったんじゃないかと言うし、土井さんと妹尾さんは特別な関係だ同衾しているといううわさもあって、あやしさこの上ないことでした。



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私は、泊りがけで家をあけるときも、ブログは更新しているんです。ただし、予約投稿が多いです。持ち歩けるのはタブレットだから、うまく書けません。


だから、留守中の予約投稿に当てるとして、一度、神戸市の婦人会のことを、書いておきましょうか。


もう、過去のものではありますが。


神戸市婦人団体協議会が成立したのは昭和23年ごろでした。

ということは占領軍が滞留している時代です。


そのとおり、占領軍の指図でできた組織です。

スペンサーだか、スチュワートだか、頭文字Sの女性中尉の仕事で、神戸に「婦人会組織」を作らせました。

日本を二度と戦争のできない国にするための政策の一つでした。

女性は母親ですから、子供を戦場に送りたくない。
だから、女性の力が強くなると戦争に反対し、戦争ができなくなる。

戦前は、大同団結という事で婦人会も「愛国婦人会」として統一されていました。

その戦時下の婦人会ではないものを、目指して、
垂水区にあった「女性の参政権運動」体と、灘生協の運動母体を統一して最初の組織づくりができました。

初代会長は、生協運動の闘士であった神戸の婦人会初代会長

小泉ハツセさんですね。
顔中柔和なしわだらけの、温厚そうな理知的な方です。
二代目は灘区の人でしたが、半年で退場しています。
写真で見ると、小泉さんとは全く違い、強引そうな印象があるから、なにか問題があったのかもですね。

三代目は、誰だか、忘れちゃいました。4代目がたしか、土井芳子会長で、おおよそ50年半世紀の長きにわたり会長でした。

土井さんは戦争未亡人で男女二人ずつの4人の子持ちでした。
幼稚園の園長でもありました。

身長は昔の人だけに低かった、150センチになりません。

小柄だけど、顔は大きくて、昭和天皇の良子皇后の雰囲気に似ていました。

私が、直接目にしたのは平成4年でしたが、82歳ぐらいでしたが、もう、無表情で、声も発さない感じでした。たしか、この年、会長をやめて名誉会長に就任されたと記憶しています。

廊下を歩くあしどりもぎごちなくて、若い人に両手をあずけて「いちに!いちに!」という感じで歩いておられましたが、まもなく車いすになりました。

けれど、この方の全盛期は、すごかったそうです。
いかにも、ふとっぱらで。
よっしゃと胸を叩けば、なんでもやってくれる頼もしさがあったとか。

しかも、昔気質の世代ですから、昔風の教訓話が特異でした。

「ご主人を立てなさい。亭主の好きな赤烏帽子というでしょう。
ご主人がカラスは白いといえば、あなたもカラスは白いと言うのです」といった訓話をやっていたとか。

この会長に、当時の教育委員会社会教育課課長が、妹尾美智子氏を紹介しました。
妹尾氏は、当時、20代、離婚して娘を育てていました。
けど、娘の養育は全部実家の母親に任せて、当時まだ若い新野幸次郎(のちの神戸大学学長)氏なんかと、交流していたそうです。

妹尾美智子氏は、中曽根美樹にそっくりな目の大きな黒目がちの美人でした。

生まれは朝鮮半島の光州だとか、父親は地方の検事のような仕事だったと聞きました。
戦争が終わったので、日本に引き揚げ。

母方の実家である神戸に身を寄せ、母の姉にあたる人の息子と結婚して、1年あまりで離婚。

神戸の婦人会の特徴ある歴史は、名物会長土井芳子氏と、専務理事妹尾美智子氏の出会いから始まりました。

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