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2022年12月

私にとって、2022年は、ある意味、ものすごい素晴らしい年でした。

長年、地域で、いろんなことをしてきたけど、「子供食堂のひと」になって、街の人の認知度が、飛躍的に高まりました。

また、センターに集まる「カラオケグループ」と「麻雀グループ」を、合体させて、大きな人の輪にできました。

今まで、培ってきたものが、嘘ではなかったと実感できた一年でした。
ほんと、ありがたい一年でした。

この一年、もっと続いてほしかった、別れるのが寂しい2022年。

でも、時間は、刻々と流れ去ります。


私には、今、やりとげたいことが3つあります。

人生最後の戦いです。

その新しい扉を開いていくことに気持ちを切り替えましょう。

しかしね・・・コロナ戦争は、読者さんや、コメンテーターさんとの、絆を深めてくれた反面、意見の相違で去って行く人もでてしまいました。

ワクチン反対では一致しても、Qアノン、や、イチベエ、政治の面では、対立するということがありました。

それも、仕方がないですね。

いろいろ勉強になります。

いろいろありますが、年を重ねるごと、ブログを書いていてよかったという思いが深くなっていきます。

みなさん、今年も、ありがとうございました。

みなさまにとって、来年が、いい年になりますように。

いろいろあるでしょうが、乗り越えていきましょう・・・私は、つくづく、ワクチンを5回も打った夫が、後、一年無事でいるかなあ?と心配しています。
神戸生まれさんと同じです。

明日の扉を開くのは、恐い。こわいけど、勝手に時間が流れるから、恐くないふりして、作り笑顔で、飛び込みます。

では、また、来年!!


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中国はなぜゼロコロナ政策を「大転換」したのか。習近平政権を揺るがす「Z世代の反乱」その実態 | Business Insider Japan

鉄腕アトムが、アニメになって動き出したとき、ものすごい人気で、中国でも、放映したいと言ってきた。

その時、手塚治虫さんは、「版権なんかいらない。著作権料は取らないから、どうぞ、楽しんでください」と、ただで提供しました。


それを、いいことに、どらえもんや、ありとあらゆる日本の漫画の海賊本が、中国、そして東南アジアに流れていきました。


それは「日本の文化そのもの」でした。

中国で、どんなに売れても、著作権料をとれないのだから、日本には、何の影響もありませんでした。

ところが、1970年代、80年代に生まれた子供たちは、幼いころから、日本アニメに、浸って大きくなりました。

この子たちが、大人になった頃、

中国共産党は、はっと、気づきます。


こどもたちが、どらえもんや、セーラームーンに感化されて「日本化」してしまったことに。


「押し入れで寝たい。どらえもんみたいに」と言って、日本に留学してきます。日本アニメ育ちの中国人は、おとなしくて、日本の若者より、よほど、仕事ができます。

日本でも、重宝していました。お寿司屋さんが代々中国娘を雇うので「なんで、和食なのに、中国人を?」と聞くと、「日本の子より、よっぽどいい」と言っていました。


クレヨンしんちゃんが、おお流行りになった時、あまりの品の悪さに、中国共産党も、かちんときて、ゴールデンタイムの放映を禁止したそうです。


かわりに、見た目は「しんちゃんそっくり」な、なんとかガオガオというキャラクターをつくり、共産党教育を始めたけど、誰も見ません。


中国共産党は「日本は、なんと腹黒いのか?!漫画やアニメをただで見せたのは、これで中国を乗っ取ろうという長期計画だったのか?と、地団駄踏んだのですが・・・もう手遅れでした。


日本アニメで、中国人の子供たちが変質してしまっていたのです。

そして、Z世代。

ついに、70年代、80年代を越えてでてきたZ世代が、正面切って「中国共産党にNO!を、突きつけた」

偉大なるかな、手塚治虫、トキワ荘の面々!!

遠藤 誉さんの、本で読みました。

「たかがマンガ、たかがアニメ」が中国の若者たちを変え、民主化を促す--? 日本製の動漫(アニメ・漫画)が中国で大流行。その影響力は中国青少年の生き方を変え、中国政府もあわてて自国動漫産業を確立しようとやっきになっているほど。もはや世界を変えるのは、政治的革命ではなく、大衆の意識や行動を生活レベルで動かすアニメや漫画のようなサブカルチャーなのだ!しかも、日本動漫が中国で大人気となったのは、「悪名高き」海賊版DVDやコミックのおかげ。「ただ同然」のコンテンツがあったからこそ、日本の動漫は中国の貧しい若者や子どもたちに消費してもらえ、知名度を確立できた。日経ビジネスオンラインでの連載中から大反響の本企画がいよいよ単行本化。現代中国論としても、日中関係論としても、サブカルチャー論としても、比較文化論としても、これまでにない論点を提示し、かつ、膨大な取材に基づき驚くべき事実を掘り起こした中国ノンフィクションの決定版!




中国の青少年に大きな影響、「日本のアニメや漫画に警戒せよ」=中国メディア (2019年3月20日) - エキサイトニュース (excite.co.jp)



中国の若者文化を育んだ日本の漫画・アニメ――中国動漫産業の実態と動向(前編) | HON.jp News Blog

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人間ていうのも、やっぱり、あれだよね、故郷が恋しくなるんだよね、年を取ると。

でもね、おなじ駅に行っても、もう、そこは、昔のあの町ではないのよね。

平成時代と言われるのも、いやだったんだけど、先日、来年のことを「平成5年」と、言って、わかいもんに笑われた。

「もう、令和ですよ。」
「ああ、そうか、平成でさえなかったんだー」

若いころ、この世界が誰かによって、設計されているなんて、知らなかった。

最初の疑問は「流行」だった。
「今年の流行色は、イエローです。」とか、
「今年は、水玉模様がはやります」

なんで、冬の間に「この夏の流行は、トルコブルーの水玉です」なんて、わかるの?

今は、こういうの無いよね、「今年のトレンドは・・」という言い方はあるけど、
昭和30年代みたいに、みんなが、ストライプ、みんなが、水玉、みんなが、黄色というのは、無くなったわ。

何故、無くなったのかな?

実は、流行はパリで作られていたそうよ。
パリの主だったデザイナーが「今年の流行色は紫。柄は花がら」とか、冬のうちに、決めてね、」一斉に同じ色調の布を発注する。

だから、流行もなにも、世のなかに、そういう色柄の布しか存在しないことになった。

これはね。
今の、トレンドと似てるよね。

どこかの誰かさんが「今年の流行はコロナにしよう」そういって、ウィルスとか、新薬とか、ワクチンを世界に発注して、売りつける。

なあんだ、同じ構造じゃん。あいつらのすることと言ったら。

なぜ、流行色という概念が、無くなったんだろう?
今の流行の服って、どんなの?

前と比べたら、みんなが、てんでに、好きなものを着ている気がするけど。

まあ、売ってるものしか買えないけどね。

たしかに、昭和みたいに、この夏は黄色と言われれば、全員が黄色を着ているという感じはしないよ。
そして、個人ブランドみたいに、服を自分のデザインで、染色から注文して、好みに作る作家も、増えている。

代わりに、カルダンや、森英恵や、ああいう超ビッグなデザイナーがいない。
いないよね?山本寛斎、あと、三宅一生、何人か凄い人がいたけど、最近、そういうの居ないよね?


おそらく、パリコレにも、いないんじゃない?

そのかわり、一般人が、自分の好みを主張し始め、ほかの人と同じスタイルを嫌うようになってる。

集団で動かなくなっているのよね。だから、今度のワクチンに集団で動いたとき驚いた。

本当に、最近、マスで、人を動かすのが難しくなっている。歌をはやらすのも、映画をはやらすのも、簡単ではない。

ところが、「行列のできる店」が、あるし、大ヒット映画もある。
町の遊園地は、つぶれていくのに、USJとかは、人だらけ。二極化している。
昭和と違うのは、普通の人が「情報発信」できる手段を持ったこと。

もちろん、ツィッターや、グーグル、フェイスブックは、あぶない代物かもしれない。でもね、これまで全くできなかったことが、できるようになったのも、本当のこと。

ワクチンの裏話も、昭和なら、まったく、知られなかったよ。

だから、もしかしたら、この大混乱が落ち着くころには、個々の人々が、それぞれ好きな世界に暮らしているかもしれない。


昭和村にいる人もおれば、宇宙時代にいる人もいて。

しっかりとした自分の生き方や、好みを確立できる人には、素晴らしい世界が待っているかもよ。

そのかわり、流される人は、もっと、無個性になって、ただ、流される。生きてたらの話だけどね。


でも、もともと生命は生きとおしだから、死んだからって、大騒ぎしなくても。

次のステージに行くだけだから。

もう、戻らない時代を嘆く代わりに、私は、私の周りに、私の好きな世界を取り戻すのよ。

私の村を、自分のカラーに染める。

みんなが、にこにこ、楽しく、助け合って生きる。いい村にする。

この前、白波五人男を、教えたよ。
私の昭和村では、下手な素人芝居をはやらせる。

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母が70歳になったころ
「私が、正しいと思うことは、みんなが同じように正しいと思うと思っていたけど・・・ちがうんやね」と言った。

世間知らずの母は、何かというと「あの人が、おかしい。この人は間違っている。」と、誰かれかまわず批判する人でした。

実の姉たちのことも、あの姉さんは、非常識だという風に。

そんなもの、人それぞれ違うんやから、ほっときなさいよ。角を立てずに。と、私は、思っていました。

母は、しょっちゅう、姉たちと衝突するので、なんで、仲良くできないかなあと、思っていました。

それぞれ、別々の個人だということ、別々の考えがあると言うことを、70歳過ぎないと、わからなかったの?

私は、あきれたのです。

母が何かを送ってくれたら、間髪入れずに、お礼の電話を入れなければ、ひどく怒ってくるので、非常に面倒くさかったし。

誰でもが、自分が正しいということを、正しいと思うわけじゃないのよ・・・と、考えていたのです。

わかっているつもりでした。

ところが、コロナ戦争が、私のものの見方を180度変えてしまいました。

全く、違う次元で、本当に、人はさまざまで、私は、自分が思う以上にマイノリティだと気づきました。

さっきね、元看護師の友人と、話していたんだけど、彼女は、あっさりと「そりゃあ、コロナもワクチンも年寄りに死んでもらうために政府が考えたんだから」というのよ。

「やっぱり、そう思う?」私は、驚いて聞き返した。

「けど、こんなこと、よそでは、しゃべらんよ。あなただから、言うんだから」と、声を潜める。

「そうよね、私も、こんなこと、主人に話したら、基地外扱いされる。で、あなたの場合、3人の子供さんは、おなじ意見なの?」

「なんの、なんの、私は、我が子にも、こんなことはいわんよ」

「やっぱり〜」

コロナ政策、ないし対策について、「マスクなんか、ほぼ効果が無い」とか、「三密なんか言ってみても、意味ない」と、言う意見の人は、いるけど、

また、ワクチンは、怪しい、という人はいるけど、そもそも、最初から自分の頭で考えて、そういう結論に至っているのであって、誰かに説得されたのではないよ。

また、誰かを説得できた人も、まあ、きいたことが無い。

つまり、言わなくても、わかっている人は、わかっているけど、言わなければわからない人は、言ってもわからない。

ところが、この3年間で、私が、経験したところによると、

単純にワクチン嫌いの人だからといって、なんでもかんでも、同じではない。

その中には、イベルメクチンがいいというひともいれば、あれは怖いという人もいる。

細かく分類すると、安心して、語り合える人は、この世界70億の中に、数えるほどしかいないことになる。

総論賛成、各論反対・・・かな?

かくて「私とあなたは、同じね」と、うっとり目と目を見つめあう関係なんか、この世には無いということになる。


まあ、そういうもんだよ、世のなかは、

だから、反対意見の人でも、それはそれ、これはこれということで、仲良くするのがいいね。

100%一致する人なんかいないんだから。

それにしても、そもそも「自分の頭で考えない人」の多さに、まいったよね。7割ぐらいは、自分の頭を置き忘れてるんじゃないの?

まあ、それも仕方がない。それはそれとして。わからない人を、「わからずや」と、責めてもしかたが無い。なんの意味もない。

だから、ああ、「わからない人なんだ」と、わからんさんの引き出しに入れて、もう、説得しようとか、教えようとはしないことね。わかる言葉で対応すること。

自分の頭で考える人の方が、面倒くさいかもしれないよ、自説を曲げないから。
まあ、そいう人は、それが正しいとおもってるんやね〜と、認めるしか仕方がないね。

だって、私たち、とにもかくにも、我が愛する祖国を守らなくっちゃならないでしょう。
日本は、本当にいい国だと思うよ。

だから、守りたい。でもね、悲しくなるほど、無防備で、他国から踏みにじられる。
小さい、弱い国だもの。

でもね、こういうことを考えるたびに、私は、40歳の時、一度だけ出た綱引き大会を思い出す。

たしか、7〜10人ぐらいで1チームになる。そして、合計体重を出して、対戦相手を決めるんだけど、40代前半の私たちの相手は、甲南大学の女子大生だった。

若いは、元気だわ、絶対に勝てないと思った。

こっちは、かなり衰えた更年期だものね。

ところが、第一回戦で、勝ってしまった。

どうみても、勝てそうにない相手に勝った。

そのとき、わかったことは、「一致団結の力」の強さだった。気をそろえる、心を一つにする。そしたら、数段上のあいてにも勝てる。

けど、2回戦は、あっさり負けたよ、例年優勝している最強チームだもの、勝てるはずない。
でも、そのチームの試合ぶりを見ると、本当に息があっていた。

これはね、日本人の強さなのよ。

年末第九の1万人コーラスがあるでしょう。1万人もが、心ひとつに合唱できるのは日本人だけなんだって。
そもそも、そんなことやろうとも思わないでしょうけどねドイツ人なら。

これが、日本人の持つ、強さなのよ。

群れで勝つ。だから、いろいろ意見の違いはあっても、それはそれとして、心をそろえて外圧に耐えていきましょう。

今頃は、政府に勝たなければいけないのが、骨が折れるけどね。

ところで、私は、まだマイナカードを作りません。
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世界は二極化した。人々はふるいにかけられた。その結果が見えてくる。

来年は、病気の人が増える。政府は、誰かに支配されている。気象兵器のことも、日本人は知らない人が多い。
分相応の世界を見ていく。
どんな状況でも、明るく倒しく生きられる人もいる。反対の人もいる。

ず〜と先の未来は、すごくよくなる、

途中は・・・何が起こるかわからないけど、平気。

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私ねえ、あえて書かなかったけど、先日、満75歳になりました。

これは、実際、感慨無量でね・・・ま、自分では、この年齢まで、活動するとは思っていなかった。

65歳で仕事をやめて、「地域活動にするわ」といったら、16歳年下のやつに「あんたが、本当に動けるんは、あと5年やで」と言われて、そうやろな〜と、思ったです。

70になった時にも、おんなじ相手に、「後、5年やで」と言われた。

なのに、その終わりの時を、目前にして(いや、そろそろ終わりだからという焦りで)子ども食堂を立ちあげた。

よそがやっていることを、ここではできないのが、悔しくて、一歩前へ出てみたんだけど。

昨日、ようやく書き上げた年賀状を出しに郵便局に行って、出てきたら、若いお母さんに「いつも、お世話になっています」と、あいさつされた。

「ごめん、誰かわからへん」

「〇〇子の母です」
「ああ、日本舞踊をやってた。」

「それは、もうやめてしまったんですけど。子供食堂でお世話になっています。」
「ああ、弟さんが来てたね」

「兄弟で行かせてもらっています。
すごく楽しいらしくて、大喜びでいっています。
大勢で、食事できることが、すごく楽しいみたいです。」


「そういえば、みんな楽しそうにしてるわ」
「親も、助かっています。働いているから、今日は、帰って夕飯を作らなくていいと思うと、本当にほっとします。」

「こっちは、これでおいしいかしら、どうかしらって心配しながら作っている」
「いつも、おいしいおいしいと言っています。本当に、ありがたいです。」

やってよかったわ。前からやりたかったけど、たぶん、タイミングだったんだと思う。なんでも、早ければいいってものでもないし。

こういう仕事は、役所相手に書類を出したり、やり取りしたり、領収書をおいておいて、収支決算報告書を書かなければならない・・・そういう仕事が、こなせないと、できない。

これらは、事務的なこと、

さらに、料理を作るにあたって、ある程度の栄養の知識、経済観念、大赤字を出さないやり方。それと、スタッフをまとめ上げる人事能力がいる。

この事業は、義務や責任ではないからね。民生委員が、食事会を主催するのは、もう、何十年も前から行政の「お手伝い」で、なかば公務員気分

自分たちは、一般人とは違うと権威を見せびらかす。
ある年齢以上は権威に弱いから、命令に従う。

でも、子供食堂は、民間団体が、好きでやること、誰かをつなぎとめられるほどの報酬は出ないし、権威も無い。

そこで、人をつなぎとめるのには「やりがい」「楽しさ」が不可欠。
「大きすぎる苦労」は、だめね。
危機を切り抜けるリーダーの手腕は必要。

この年で、無茶なことを、というけど、
じっくり考えると、今まで、すべてにおいて、山ほど、失敗してきて、培った技能が、ようやく、納得のいく仕事をさせてもらえるところまで円熟したのだとわかる。

100歳まで生きてどうちゃらこうちゃりゃいうけど、昔の人が言ったように「亀の甲より、年の功」は、確かにある。

昔の年寄りほど苦労をしていないから、功も、薄いけど、でも、年取ってわかることはあるよ。

それでなければ、何のために年を重ねたのかわからない。

娘から誕生日お祝いメールが届いた。

娘のところの子供は、時々、感動したように「この家に生まれて、よかった!!」と叫ぶんだって。

ママが、土台を築いてくれて、私が、自分が育てられたように育てたら、子供が「この家に生まれてよかった」という子になった。

ママのおかげです。ありがとう。いつも感謝していますって。

そうよね〜私の最初の記憶は「とんでもない家に生まれてしまった。選べるものなら、選びなおしたい」と、思ったことだったものね。

わずか、三代で「この家に生まれてよかった」に、切り替えるのは、そりゃあ、言えない苦労ばっかりだったよ。


家が、没落する時、そりゃあ、大きな悪因縁を背負って倒れるのだから、子孫に因果が降りかかる。
その因果に押しつぶされて、弟は、53歳で独身のまま、他界。

精神に異常をきたし、しかも、家族が冷え冷えとした関係、不和・・・それは、もう、悪因縁が極まって、家系が、絶えるしるしだと、阿含経の桐山靖雄が、本に書いてた。

その通りだと思う。

家は、絶家になった。

そこから、身を起こして、一つ一つ積み上げ、払いのけていくのは、普通にできることではないです。

娘は「普通は、負の連鎖で、みんな潰れてしまう。ママは、よくぞ、それを建て直してくれました。ありがとう」という。

それはね・・・大変だった。
そう思い起こすとき、いつも、記憶のかなたによみがえるのは、市営住宅4号棟。
「お母さんの新しい男が、酔っ払って暴れているので、恐くて家に帰れない」と、中学生の女の子に、泣きつかれて、そのこをつれて夜の10時。

市住に、車を乗り入れたら、階段の陰にお母さんが隠れていて「様子をみてきてください。もう、酔いが醒めているかもしれない。聖教新聞の集まりがあるけど、奥さんいますか?と、ベルを鳴らして言って様子をみてください」と、言われた夜。

私は、心に、自分の教団の呪を唱えながら、ふるえながら階段を上がったよ。
男は、素直にドアを開けて「今おられません。」と、礼儀正しく答えた。

翌日、刑事さんがやってきて「お酒の臭いがしましたか?覚せい剤の売人の疑いがあるやつなんです。大丈夫でしたか?」と、きかれた。

母子は、翌日、逃げるから、隣町に乗せて行ってと言ってきて、私は、そこまで送って行った・・・

あの夜が、一番こわかった。

そんなことは、一度や二度ではなかった。
そして、そのどれも、決して実を結ばなかった。
尽しても尽くしても、結果は悲しいことばかり。

でも、後年私は、神様の言葉として告げられた。
「あなたは、人にできないことをしましたね。
あなたの優しさ、懸命さ、なろうとなるまいと最後まで尽くし切るところを、神様は大好きなんですよ」

思い出すと、涙になる、悲しいことばかり、どんなに尽くしても出ない答の連続。

けれど、節目を迎えて「孫が、この家に生まれてよかったと言ってくれる」(この子が、ばぁばが、来ないと言って泣いた)

これでよかった、私は、最低限の務めを果たして、次世代にバトンタッチしたと思える。
それはね、言葉に尽くせない、ありがたい、気持ちです。

みんな、長生きしなさいよ。

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