価値の転換ということ〜花村周寛氏
古民家生かしアート活動...大阪府立大准教授ら「ワンパーミル オオサカ」
草間彌生さんの作品を展示する「カルペディエム」を訪れた「ワンパーミル オオサカ クリエイティブツアー」の参加者ら(山崎成葉撮影)
「ヒガシ」を中心にめぐったコースには、学生や市民ら17人が参加。アートの企画展やイベントも開催する異文化交流のゲストハウス「カルペディエム」(城東区)や、活版印刷工場を改装した花村さんのアトリエ「♭(フラット)」(東成区)など4カ所を訪問。それぞれの建築物の特徴や芸術家、草間彌生さんのインスタレーションなどこれまで行われた活動のエピソードなどが披露され、参加者たちは熱心に耳を傾けていた。
花村さんは「互いの感性や創造性の違いを楽しむことで、一人では生み出せないものが生まれる。『クリエーティブシェア』について大阪全体で考えていければ」と話している。
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このたび花村周寛氏の講演を聞く機会をえた。
この新聞記事にある「花村さん」だ。
プロフィールを見ると「日本生まれの父、ソウル生まれの母」というから半島の血統のひとですね。アメリカ育ちらしいから、コスモポリタンか・・・
今の関西では、ひそかにもっとも恵まれたステータスにあると思う。
けれど、この人の感性は地に足がついていると私は思った。
36歳、デザイナーで、大阪府大の准教授。
ちなみに、大学教授というものには教職に就くための資格は不要、大学がほしい人材を採りに行く。
正直に言うよ。
朝鮮人に偏見をもっている私、いっつも被害にあっている私としては、彼の話しをいきなり素直に聞けるはずがないでしょ。
いっぱいフィルターがある。
在日朝鮮韓国人の悪癖リストを持っているから、嗅ぎ分けて、ひかかったらもうダメ。
ところが、この人は、最初から違う世界をひっさげて現れた。
コスモポリタンとしての価値観なのかな?
遊び心といえばいいのか?
「まなざしのデザイン」というのが彼の造語だそうだけれど、「視点を変えれば見えてくる世界が変化する」、つまり、自分の見方(まなざし)を違う位置、角度に移していけば、いつも見ている、あたりまえの風景が違うものになる。
なぜなら、人間は、いつだって「その時、その場の自分を演じている存在」だから。
ユニフォームを着れば、その職業人の顔になる。
反対に仮面をとっぱらえば、世界が変わって見える。
そういう基本を押さえながら、ダイナミックに変化を与えると世界観が変わっていく・・・芸術=アートが、世界を変えるという主張。
ちなみに、朝鮮が嫌いなぐらい、私は「アート」が嫌い。
あの嘘くささがだいきらい。
絵の具を投げつけたり、その中で転がりまわって、紙に塗りたくった」ものが私の「アート」のイメージだ。自己満足だけ。迷惑なんだよと思ってきた。
ところが花村氏の言うアートは違った。
彼は「病院」におけるアートを、紹介してくれた。
病院のアート?
絵でも飾るのかと思ったよ。
うん・・・絵だった。でも、違う。
小児科の待合室の改造のために囲いができた・・・殺風景な工事現場の囲いをデザインしてほしいという依頼が来たのだそうだ。
その場を調査することから彼の仕事は始まる。
2時間も待って5分の診察。
親も子も疲れ果てる。こどもはぐずる。走り回る。
その退屈で耐えがたい空間を、彼がデザインすると・・・
囲いに地面のみどりと、池の青と、空の水色をぬって単純な背景をつくり、
待合室にいる子供たちにシール(三角形や四角)をわたし、シールの組み合わせで太陽だとか、花だとか、動物だとか、家だとかをはりつける。
いくらでも貼っていい。
子供たちは夢中になって、待合室が楽しい場所に変わった。
これが「空間をデザインする」ってことだと彼は言う。
まいったなあ・・・こりゃあすごいや。
病児をつれて待合室で、苦労した経験のあるものとしては、本当にすごいと思った。しかも、大学病院に来る子は、熱があるとか、そういう簡単な病気ではないから、一見、どうもなさそうで深刻
な病気を抱えている。
気のめいる空間なのだ、その重苦しい空間を、歓声をあげて子供が嬉々として夢中になる、親も一時、重苦しさを忘れるだろう。
アートとは、空間を変えてしまうものだったのか・・う〜む、すごい。
やがて、工事期間が終わり囲いが無くなった・・・子供の楽しい空間が失われた・・・そしたら、看護婦さんが、同じようにシールを貼れるパネルを工夫しておくようになったんだって。
その実績を買われてか、また別の病院に呼ばれた。
病院をデザインしてほしい。
彼は、あやしまれないように百衣を着てドクターになりすまし聴診器を下げて、病院中を歩き回った。
5階に屋上庭園があり、歩ける入院患者のオアシスになっている。
彼は銀色に輝くUFO風船を500個赤いリボンで庭園のいたるところに浮かべた。
「殺風景な屋上庭園でも"風"が、表情を与える」ことに着目した。
風船の動きで「風」が視覚化される。
風船はいっせいに同じ方向に流れ、凪の時間帯は、まっすぐ立ちならぶ。
雨にぬれると、地面に沈み、まるで生き物のよう。
ひとつひとつの赤いリボンには看護師さんたちの患者さんへの励ましが書かれている。
だから、患者さんは気に入ったメッセージを風船ごと自分のベッドに連れて帰っていい。ベッドの枠に結び付けてベッドの上で揺れている。
動きの面白さ・・・それが、都会の病院という無機質な場所で大自然を体感させてくれる。
しかも、そこには人の心の温かさが隠されている
これがアートなんです。これがデザインするってことなんです。
そういわれると、アートという言葉がいやでなくなった。
もうひとつの病院の依頼にこたえて歩き回った彼は、病棟が回廊になっていて中央が四角い吹き抜けになっていることに気付いた。
病院を歩き回って、患者さんが、病だけと向き合って押し黙って、不安に耐えていることを感じた。
天井のシミを数えるだけの寝たきりの毎日。死を待つ子供。救いようのない悲しみを切り裂く方法はないものか・・・
その日、中央の四角い大きなデッドスペースから、スモークが立ち上がり、徐々に視界が霧に包まれまっしろになった。
その霧が晴れていくに従い・・・天から無数のシャボン玉がきらめくように降り注いできて、病院中にオルゴールのキラキラした音が響いた。
まるで、天国から声がして「恐れなくていいよ」死ぬのは、空にのぼっていくこと、そう神様の声を聴くような演出。
寝たきりの人も、患者も医師も看護師も、窓から天をみあげる・・・みんなが同じシャボン玉にくぎ付けになり、空間を共感する。
これがデザインなんです・・・って、これはすごいよね。
「これは、むしろ医療行為の一環として認められたい」と、花村氏は主張した。
あまりの荘厳さに、感動して涙をこぼす人々・・・
無味乾燥の病室で、心を閉じたままの病人を見送らなければならなかった人なら、このシャボン玉を、見せてあげたかったと思うだろう。
音と映像を終えると彼は、結びにこんなことを言った。
「人は、法律による規制、人の道としての道徳、そして、神様の目から見ての規範」こういう3方向からの規律でしばられて、まっとうな暮らしをするものです。
ところが、昨今"お金"の価値が増大し、お金をたくさん持つ方が偉い、お金さえ持てば、そして法律にさえ触れなければ、なにをしてもいいという風潮が広がっています。
これが現在の社会の姿です。
資本主義がいくところまでいったというのは、こういうことです。
これから、何十年かかっても、全うな姿を取り返して行かなければなりません。
しかし、オウム真理教事件が決定的な出来事となって、宗教はうさんくさいものと思われるようになり力を失いました。倫理・道徳も軽んじられています。
その状況下で、人の心を、取り戻していく力はアートではないかと、僕は考えています。」
食うや食わずの祖父母世代を越えて、食えるのが当たり前になった30歳代の彼らは、直近のバブル世代の金銭感覚を反面教師として「真実」を求めてきたように思う。
「私たち団塊の世代は、親から受け継いできたものを、きちんと子供たちに伝えないで、当たり前だと油断したことで、社会の悪化を止められなかった。我々の責任です。」
そう話しかけると、彼は「道徳教育のやり直しが必要だと思います。」と、ずいぶん古風な言葉を残した。
その辺が儒教の国を標榜する民族かなと思ったよ。
そういえば、花村氏を検索したとき、樫野さんの「リメイクなんとか」に出会っていたっけ。
これからの社会を変えていくのは、こういうソフトパワーだと思うのよね、私。
神戸市も、原口市長以来の橋と道路の土木都市から、完全に脱皮して、宮崎市政で掲げた市民目線にもどり、幸福とはなにかを、問うところから哲学から始めてほしい。
医療産業都市構想というけど、命を扱うことの理念もなくて、人体をものにしてしまうのは、恐ろしいこと。
それを言うなら、まずは、市民病院にシャボン玉のシャワーを降らせることからやりなおしてほしいな。
樫野さんは、そうしようとしているのでしょう?
花村さんを招いたぐらいだから?
それとも、血のつながりだけ?もしかしたら
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