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2019年01月

今でも、責任を感じるけど・・・とりかえしもつかないこと。


私のところに来る子は、たいていが市営住宅の子どもたちだったけど、なかに、新興住宅地の一戸建ての子もいた。


そのなかのひとり、いかにも、おとなしそうな顔立ちも整った女の子がいたのだけど、ある月はじめ「月謝をもってくるのを忘れました」という。


そもそも、私に、ちゃんと教えたり、成績を上げたりする能力がるのだろうかと、情けなく思う毎日・・・「そこにいるときだけ、万引きしてない」って・・・それ、自慢になる?


そういうことだから

「今度持ってきてね」と、深く追求しなかった。


そしたら、次の月も「忘れました」と、礼儀正しく言う。


おかしいなあ、お母さんもきっちりした方なのに・・・そう思いながら、家に電話しなかった。

とても、良い子に見えていたから。


けれど、さすがに3回目「忘れました」と言われた時には、とまどった。


しかも、彼女は、「あれ、ポケットにこんなものが」と言って、ポケットから男性名義の銀行預金のカードを出してきてテーブルに置いた。

「勝手にポケットに入ってた。」


そんなもの置いて行かれても、困るよ。

私が盗んだみたいじゃないの。


翌日、交番に持って行った。

「持ち主に返したいけど、どうしたらいいの?」

お巡りさんの目が、きらっと光って
「そんなら、こうしょう。

僕が、どこかで拾ったことにして返してやるわ。

あんたは、もう、心配せんでええで」


私は、安心して、交番を後にした。


それから、2週間以上して、中学校にパトカーがやってきて、その女の子を連れて行った・・・と、子供たちが教えてくれた。


え?なんで?


援助交際してたんやって!


どうして、私は、警察沙汰になる前に気付いてやれなかったんだろう!


その後、まもなく彼女の両親が離婚したと聞いた。


私が、きちんとした人で、最初にあの子が「月謝を忘れました」と言った時に、すぐにお母さんに連絡しておけば・・・あの子が、6000円を中抜きしたことが、すぐわかったろうに。


その6000円がなかったら、あの子は、繁華街に行く交通費がなかったのに・・・

このことは、思い出すのも苦しい。情けない。自分を責めるばかりだ。


でも、普通の子は、わざわざ大阪の街に出歩かない・・・

あの子が、親を裏切るなんらかの理由があったんだと思う。


あの子の事件が家族をバラバラにしたのではなく、

もともと、冷たい家族関係が、あの子を追い詰めたのかもしれない。


いかにも、悪さをしそうな雰囲気どころか、こんないい子が、なんで、不良少年の中に混じっているんだろう。
この子がいるのが、救いだ・・・と、思うような、おとなしい清楚な子供だったので


言い訳になるけど、私は、まったく気づかなかった。


親御さんは、もっとショックが大きかったでしょう。


ことばが無い

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警察の人がうちに来てね
「僕は、あなたに二度も三度も、5度も6度も言いましたよ。

もう、やめなさい。あいつらを家に入れるのは。
危険です。

今は、まだ、子どもだけど、そのうち大人になる。

その時、家の間取りを知られているのは危険なんですよ。

即刻やめなさい。」


うちに、不良少年たちが集まって、塾とは名ばかり、たむろしていることを、彼は懸念して、私を説得してくれました。


「でも、あの子たちが、かわいそう・・・」
「何を言うんですか!やつらは、自分のことを可哀想だなんて思っていませんよ。
あの生活しか知らないんだから。
あれが、やつらの当たり前なんですよ。

あいつらは、ほっといても、橋の下で1か月半でも、万引きしながら、生きられますよ。


可哀想なのは、貴方の方だ。

ね、あなたは自分が可哀想だって気付いていないでしょ?

おんなじことですよ。
あなたは、自分のやっていることが、どんなに苦しいことか、わかっていないんです。

いいですか、僕は5回も6回も同じことを、言いましたよ。

もうやめなさい。

もう、これ以上は言いませんよ。」

けど、

ある子は、担任の先生と合わないから、なにか、嫌なかかわりがあると、花が咲いたように顔中のアトピーを真っ赤にして、私のところにやってくる。

親とそりの合わない、女の子もだ。

そして、私の家の居間の大きなテーブルを囲んで、のびのびと手足を伸ばし

「ここは、うちらのシェルターや!」と、叫ぶ。


中には、父親は岡山の刑務所に入っている小さな暴力団組長で、自分の母親は「暴力団の姐さん」だという。

警察官の言うことは正しい、

この世界で、どこの誰が、こういう子たちを、家に招き入れて、夕飯を食べさせ、勉強を見てくれるだろう。

一か月6000円で、ほぼ毎日入りびたり。

でも、私は、追い出すことができなかったのよ。

どのこも6000円持ってくるわけじゃなかった。

便乗してついてくるのがいる。

でも、私は、追い出せなかった。

もちろん、外では悪い子だと言うことは知っている。

学校中の鼻つまみで、教室に来ると、勉強の邪魔だから、別の部屋にしか入れてもらえない。
すると、彼らは途中、脱走する。

脱走するのだけど、遠くには行かない。
体育館倉庫なんかに隠れて、探してもらうのを待っている。

私から見たら、かわいげのある子たち。

追い出せないよ、

この子たちから、シェルターを奪ったら、この子たちは、どこに行くのだろう・・・

「成績もあげて、やれないのに...ごめんね」と子どもの母親に言うと
「いいねん、そこにいるときだけは、うちの子は万引きしていないと、安心していられるから」

私は、何も、してやれなかったと、思っている。

仕方がないので、その子たちのご先祖さんのお施餓鬼だけしていた。

でも、後日、私は、お寺で
「あなた、何か、人に出来ないことをしましたね?」
「塾ですか?」

「そう、それです」
「でも、お勉強なんか全然教えてやれなかった・・・」

「ご先祖様が、あなたに大変感謝されています。」

いずれにせよ、私には、精いっぱいだったけど、どれも、悲しい思い出ばかりだった。

私が塾をやっていたのは39歳から52歳の13年間でした。
主人が脳卒中でたおれ、私はフルタイム職員になったので、やめました。
そのころは、燃盛るような状況でもなかったので・・・

一番大変だったころ、鈴蘭台高校2年生だった娘が「自宅を不良少年たちに占拠されて、家に帰ってもくつろげない。お風呂に入るのも、たいへん。私は、迷惑している」と、作文に書いてクラス全員の前で読んだそうです。

するとクラス全員が、もれなく「私は、お母さんの味方です」「お母さんは、素晴らしい」と、ほめたたえるコメントをくれたと言って、紙の束を、渡してくれました。
「私は。別に、立派じゃないって」

気恥ずかしくて、じっくり目を通さないで、引出しにしまいました。

立派じゃないって・・・

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最近、忘れられているけど、昭和の戦後あたりでは「中国の文化」にあこがれがあって「論語・孟子」が、最高峰だった。


だから、その名残で神戸の老人向け講座は「老眼大学」というの。
原口忠次郎市長が、年を取ると「慧眼」「智慧が備わる」ことを「老眼」と中国語で言うから、と名付けた。

今じゃあ「50歳を過ぎると老眼になるから・・・なるほど、老眼大学か・・・それにしても、自虐的じゃん?!」と思われているけど、違うのよ。

孔子の有名な言葉に、こういうのがあるのよ。
15にして志学
20にして冠をいただき
30にして立つ
40にして不惑
70にして、心のままにして規を越えず

私の小中学校は神戸大学付属住吉小学校

大空高くはれわたり
みどり清けき六甲の山
赤塚山に咲きにおう
学びの庭のわかくさよ
心正しくすこやかに
育ちゆかなん やまとなでしこ

校歌です。すこし間違っているかもしれない

中学校は、前半が出てこないけど

人となる日の知恵こやす
山ふところの学び舎の
この慈しみ、この高さ
若人われら、いまぞ醒む

こういう歌を儀式ごとに歌いながら、私は「いつか"人"になる」という希望をはぐくみました。

まだ、幼い日、祖父の家に行くと、当時としては珍しい絵本がありました。
ひとつは
韓信のまたくぐり
「ならぬ堪忍するが堪忍」とカタカナで書かれていました。

次のページは
「ひとのふり見て わがふり直せ」

別の本には
城を背景に立つ山中鹿之助
三日月の飾りの兜
「われに、艱難辛苦を与えよ」
城の上には三日月。

山中鹿之助は「我に艱難辛苦を与えよ、限りある身の力試さん」と、月に向かって祈りました。

こういうのが、私の人生の根っこのところにありました。

そして15歳「志学」己の生き方を決める年齢に
出会ったのが
アンドレ・ジッドの「狭き門」でした。

狭き門より入れ
広き門は、入るものも多く
楽な道だが、滅びに至る門
狭き門よりはいれ

私は、狭い門から入り、
艱難辛苦を受けて、「人」となる

これが15歳の志

今回、病を得て、自分の人生を次々遡るうちに、ついに幼児期までたどり着きました。

そうだった。
「我に艱難辛苦を与えよ」と、月に向かって祈ったのは、誰でもない、この私だった。

限りある身の力、ためさん!と、うそぶいたのは、この私だった。

ここんとこ、眞子様の婚約問題をみていると、胸が痛みますが、
規模は違えど、私が「生涯の恋」と錯覚したのと、
あまりにも似ている。

私に向かって愛を誓うのなら、私が、この家を出て行けるための道を付けてください。
私の両親に誠意を見せて、必ず幸せにするからと、言ってほしい。

それが、できないのなら、お父さんの借金の返済計画を教えてください。
私に働いて、返してくれと言うなら、まずは、あなたの年収を教えて下さい。

その私の訴えに、まったく耳を貸さず「俺の愛を疑うのか?」の一点張り。

愛だけでは生きていけない。
愛だけを条件にするのは、反対に「愛のない証拠」、
愛があるなら、将来図を示せるはず。

いくらいっても無駄だった。

もしも、それでも、生まれて初めての恋だからと、そっちに舵を切ったら、必ず破たんする。
だからといって「俺を裏切るのか?死ぬまで恨んでやる」という声を背中に、反対側に舵を切っても、幸せにはなれない。

私は、目の前にひとつの不幸ともう一つの不幸へ至る岐路しかないことに気づきました。

そして、より常識的な方向に舵を切った。
その時、私は、本気で彼の愛を裏切った、傷つけたと考えていました。
だから、私は生涯幸福になる資格はない。

自分の行く手を封印してしまった。
私は、ただ不幸をなめるためだけに生きていくんだ・・・

それが、その後に続く私の数々の不幸でした。
それは、彼の恨みから起こったことなのか、先祖の悪因縁なのか・・・わからない。

40数年もたって、彼の死が「自殺」だったと知った私の衝撃は大きかったです。
だから、いまさらながらに信心するお寺に行って、訴えた。

私は、人生を間違えたのでしょうか?
彼の死に責任があるのでしょうか?
このことで、私は、生涯苦しみ続けた気がします。

すると、答えは「人の死は、その人の死期なのだから、他人には何の関係もない。気にしなくていいです。たしかに、この人に呪われて、あなたの人生は苦しいことの連続だった。けど、それも、通るべき道だったのです。そのことは、忘れなさい」

正直に言うとね。
私は、お寺につながれて、もう、30年以上たっていました。でも、
その間も、さまざまな苦難は襲ってきて、実際「宗教が救ってくれるなんて嘘だ」と思っていました。

「あなた自身の努力と工夫で乗り越えてください」

私自身の力ですむなら、なんで、宗教なんか!必要なんよ!

私が布教らしいことが、出来ないのは、実は、このせいです。
私だって、神様仏様に、ちょっと、近道させてほしい。
かわいがってほしいよ。

世間の人は、宗教って「近道を金で買う」とか「苦労を神仏に預けて楽をしようとしている」と、思うから、宗教を馬鹿にするんでしょう?

とんでもないわ。

相当もがいたけど、どうすることもできないので、しまいに、自助努力一本やりになった。
そして、わずかなことだけど、自分の人生の課題を乗り越えた。
ここまで自力で歩いてきた。

それにしても、なぜ?
神仏は、私を「呪い」から守ってさえくれなかったんだろう(もちろん、大難を小難、小難を無難で、守られていたのだろうとは思うんだけど)

そのことを、考えているうちに、私は、山中鹿之助を思い出した。

そうだった!

私が志学の年、月に向かって祈ったんだ。

我に艱難辛苦を与えよ。限りある身の力試さん

そ・う・か・・・・
あの時、私、誓いを立てたんだ・・・

あの誓いにそって、すべての運命が構成された。

「よし、汝の志や、よし。確かに聞き届けた」と、神様は受け取ってくれたんだ。

そして、私に次々課題をくれた。

自分で決めたことだったんだ。
いかな、神仏でも、私のまっすぐな志をまげてまで救いの手は差し伸べられない。

だから、大変だったけど、全部乗り越えられたんだ。

私の一番好きな漢字は「志」です。

そして、

私は、「ふるさと」の三番は、胸が詰まって、涙で歌えないんです。

志をはたして、いつの日にか、還らむ
山は青きふるさと
水は清きふるさと

生きるって・・・いいなあぁ〜

今朝、これを書いて...それから、ずっと、考えていました。
そして、気付きました。

私は、ひとりぼっちで頑張ったと思っているけど
違うわ・・・

這えば立て、立てば歩めの親心で、大きく大きく、私は、見守られてきたってことに気づきました。

だから、落っこちないで、挫折しないで、ここまで来れました・・・自分の力では、なかった。いや、その頑張りが実を結ぶように導かれて来たことに。

一人ぼっちでは、無かった・・・同行二人

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いやね・・・もしかして、大通りに人がいっぱいいてね。


どすんと大きな音がしたとするじゃない。


ある人は、目の前で車と車がぶつかるのを見たけど、
他の人たちは、音を聞いて振り返った・・・


同じとき同じ場所にいてさえも、「同じもの」を目撃してはいない。


出来事をそのまま記録するのは、現実に不可能なんですよ。


でも、私が、本当に「記憶も記録も不確か」だと思ったのは、


当地に婦人会を作った時のこと。


うちの地域は山田町下谷上村の一部で、あとから知ったけど、かなり前には「下谷上婦人会」というものがあったらしい。

どうせ、けちなけんか別れで、下谷上婦人会は潰れてしまったの。


そうとう嫌なことがあったらしく、当地では「婦人会ネタはタブー」だった。


そんなこと知らないから、「まちづくり」を進めるために、私は16人の賛同者から始めて、婦人会を立ち上げたのよ。

旧農村部は、いきさつで婦人会を嫌っていて、
新興住宅地の人たちは「なんで、婦人会長って、あんなに威張っているの?」と言って、嫌っていたから四面楚歌だった。


そこを隙間に割って入って婦人会を作ったのは、やっぱり、環境問題道路行政、はては下水の問題、生活の問題を行政に解決してもらうには、婦人会が手っ取り早かったから。


私には、明確な目的がありました。


ところが、周囲は、ほぼ全員反対派。


私が、めくるめく速さで、規約を策定し、役員を決め、本部に登録して、婦人会を発会させたとき・・・それは、あっという間だった。


作業開始から2週間。


発会式を翌日に控えたあたりかな?

会長候補と、私(副会長)に、雁首揃えて顔を貸せ・・と言ってきた人々がいた。

私は、きっぱり「顔なんか貸さへん」と言い切ったけど、
会長候補は、どういうわけか、呼び出された自治会館に出かけて行った。

ここまでできたものを、向こうは「婦人会をつくるな」と言っている。
二人そろって、発起人が出かけて、勢いに押されて「ごめんちゃい」と言ってしまったら、もう、二度とこれは出来ない。

だから、私は行かない。

会長候補は「あんたたちが婦人会を作るから、私たちが、どんなに苦しんでいるかわかる?」と責められたんだって!
あきれた言いがかりだわ。

こっちこそ、おぬしらの妨害で、どんだけ苦しんだか。

なにもしないてめえらが苦しむも何もないもんじゃ!と、私なら、爆弾を5個ぐらい落とすのに、
会長候補は、言われるままで、最後、申し訳ないと涙を見せたらしいわ。


そのへんのことは、私は現場にいないから、わからない。

速やかに作業を完成させて発会させた。
組織は、一度できたら、そう簡単にはつぶれないものなのよ。

その後、町のうわさで、この私が、10人のおばさんたちに顔を貸せと言われて、呼び出されて、みんなの前で泣いたらしい・・・という、話が広がった。

しつこく広がったよ。

話が反対じゃないの!

私は、泣くどころか行ってない。

今さっき、この町内で起こったことでさえ「伝言ゲーム」のように、違う話になって伝わる!

こりゃあね。

大極殿の中で、誰が誰の首をはねたって言う話も、あやしいもんじゃわ。

まして、その原因理由となると、絶望的に信じられない

はは〜ん。とどのつまり、事実は、きちんと伝承されないなかで、歴史は、誰かの都合で脚色されるってわけだ。

なるほどね。

歴史なんか、信用できないわ、と思ったのよ。

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2歳でした、とお書きになられたということは、あなたは2歳でお父様とお別れになったのでしょうか?


あのころは、学生運動の火が燃盛り、民青・革マル・赤軍・・・いろんなセクトに分かれていて、私が通学する神戸市外国語大学にも、その波は押し寄せてきました。


外大には、主体的に運動する学生は、いないのだけど、谷の向こうの神戸大学から、影響が押し寄せてくるのでした。


でも、私が、蔡君のうわさを聞いたのは、たぶん卒業してからだと思います。


彼は、前の記事に書いたように「生徒会長」として明朗に活躍し、学科成績も優秀で、神戸大学経済学部に合格されたはずです。


2年生の時、私は同じクラスにいたと記憶しています。


夏休みの宿題に「作文」がありました。


作文!これは、論文を書くための練習のようなもので、400字詰め原稿用紙に10枚ぐらいは書かなければならなかったです。


私はね、ギリシャ神話が好きで、ギリシャ彫刻が好きだったので、そのころ、京都美術館にミロのビーナスが来たこともあって、古代ギリシャのことを書きました。

そして、ミロのビーナスは両腕がないことで、トルソーの美しさを強調できているのだけど、本来は両手はついていたわけだから、片方の腕を高く掲げて、片方の手は、体の前にあったのでは・・・なんてこじつけました。


その時、あなたのお父様はね、どういう作文を書いたと思いますか?

「白黒黄」
これがタイトルです。

何のこと?

これはね、白人・黒人・黄色人種・・・つまり世界の人種問題を取り上げるために、端的に「白黒黄」という短い題名をつけたのです。

内容は、残念ながら、拝見していません。

なぜ、この不思議なタイトルが「人種問題だ」と、私が知ったのかは、
もしかしたら、席が隣同士で、教えてもらったのか
もしかしたら、先生が、彼の作文を取り上げて、題名の意味をただしたのか?

もう、思い出せません。

ただ、高校2年生の彼が、世界には3種類の人種がいる・・・という大きなつかみで世界全体をくくろうとしたことに、私は驚きました。

さすが!中国人!
てっきり大陸の人だと思って聞くと「台湾」だと教えてくれました。

戦後の焼け野原で元町の一等地に、いちはやく餃子屋を、親が開いたと言っていたと思います。

アルバムを見れば言い当てられると思うけど、私の記憶の中の彼は、細長い顔立ちで、身長はそんなに高くは無くて、ニキビがあった気がする。
多分眉も薄かったんじゃないかな、
くっきりした男前ではなく、全体に顔立ちはうすい感じでしたが

強いオーラがありました。活気のある人。私には、自分よりはるかに大人に見えました。

同じく中国人の「黄」君と友達でしたね。

亡くなったと聞いたとき、本当に惜しい人を亡くしたと思いました。

どれだけでも、活躍できるはずの人材を!

学生運動が憎かったです。

以来、元町に行くと「あかひょうたん」の店を確かめ・・・蔡君の妹さんの店だと確認していましたが、震災以後、ほとんど町に出ないので、今は、どうなったのでしょう?

申し訳ないけど、彼の記憶は、ここまでです。
探せば黄君とか、見つかるかもね。

けど、黄君は大陸の人だったと思います。

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