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2011年07月

ポートアイランドのネックになる大橋の途中に、第5突堤がある。

右側が外国船のつく波止場で、左側が国内線の波止場だ。



「神戸に居ながら、外国に行きませんか?」

不思議な勧誘をして来たのは、もと、王子動物園の園長だったG氏。


彼は、ポートピア81の目玉「パンダ」を借り出すための決め手

「無農薬の笹」を、発見した功労者だ。


大阪万博に次いで、大成功したポートピア81の

成功の決め手は「パンダ」


パンダこそが、ポートピア81の「月の石」だった。


G氏は、中国側が納得する笹を求めて、

休日ごとに、リュックを背負って、兵庫県内の

笹を軒並み、検査して歩いた。



そして、ついに「淡河(おうご)」-神戸市北区ーで、

無農薬の竹林を発見した!



灯台もと暗しとはこのことだ!


こうして、無事、半年の開会期間「パンダ」を、守り通し、

神戸市に未曾有の高収益をもたらした。



こういう中国との交流から、彼は日中友好協会の会員になった。



「木曜日ごとに、第5突堤につく"燕京号"(エンキン号)のレストランで

宴会ができますよ。


飲み放題食べ放題で4000円。

ウェイトレスは皆、中国人だけ。

日本語は通じません。




しかも、燕京号の上は"治外法権"つまり、

"法律的には外国"なんです。



どうですか?

神戸に居ながらの外国旅行気分は?



ただし、夜の8時になると船の入り口が閉じられて

日本に還れなくなります。


ぜったいに、8時までに船を降りること」




友達を、たくさんさそって、結局60人で大宴会をしたよ。

醤油がまずかった。


なんと、飲み放題のビールや、ネクターが冷えてなかった。



でも、それはそれなりに、面白い夜だった。


時間は、すぐに過ぎて、



ギリギリセーフで"日本"に還った。

ガラスの靴が脱げそうな勢いで走ったよ。





神戸ポートアイランドと神戸大橋・ポーアイ北公園

神戸ポートアイランドと神戸大橋・ポーアイ北公園 / 神戸貿易センタービルから撮影

ポートアイランド(人工島)抜きで、神戸は語れない。

中央の赤い「大橋」が、船に乗せられて、ゆっくりゆっくり移動するのを、

私、20歳。 神戸市役所の港湾局(アルバイト先)で、見た記憶がある。

1970年ごろの日本は上向き、右肩上がり。


人口も、世界的に増え続けると、みんな思っていた。

・・・困った。

神戸市は、海と山とが迫っていて、土地が無い・・・


「そうだ!」海を埋め立てたら、神戸市が広くなる!!


これは、狭い神戸市の念願だった。


原口忠次郎市長から、助役上がりの宮崎市長に受け継がれた夢。


「山、海へ行く」


山を削って、広大な用地を創生。

その土で、海を埋め立てて、人工島を創る。


一挙両得!とは、このことだ。


山にできた土地には「市営地下鉄」を敷設し、

広大な住宅地を造成する。

さまざまな企業を誘致する。

グリコ、ヤクルトなど公害の出ない業種だ。


長大重厚?の重工業には出て行ってもらう。

川崎、住友、神戸製鋼など、もくもくと「赤い煙」を吐く煙突を駆逐。


私企業ではできない「商売」を「市当局」がやるのだから、

成功間違いなし。


奇跡のようなできごとだった。



ところが、「時代が裏切った」


1970年、社会に出たての私は、自分の未来は、

日本の繁栄の時代だと信じていた・・・


赤い大橋が、ゆっくりゆっくり定位置に近づくのを、目にしながら

そう、思っていた。


人口が減る時代が来るなど・・・まったく、想定できなかった。



1981年大々的に開かれた港島は、


30年を経て、緑が濃くなった。

昔は海だったなんて、全然思えない。


けれど、さびれ始めて、久しい。


ダイエーが撤退した。

大遊園地ポートピアランドの閉鎖(現・イケア)


店舗が減って行き、生活がしにくくなったと聞く。


島への出入りは「橋」と「トンネル」

やっぱり不便だ。

わざわざ決心しないと訪れない。

人の足が遠のく。


空港を造っても、足元の土地が売れない。

これは、リーマンショックの後遺症。


あてにしていた国際金融資本が、不景気に見舞われた。


世界に開けた街は、世界の大波を正面からかぶって立ち往生。


暗闇を赤い大橋が、夢のようにゆるゆると移動する光景を、

40年後、こういう気持ちで思い出すとは・・・。



そういえば、あのとき、夢見ていた自分の人生も、

ことごとく思い通りにならなかった・・・

思い通りではなかったけど・・・後悔してない。


でも、ポートアイランドは、どうだろう?

「経ケ島」という当時としては前代未聞の「人工島」を造った平清盛。


はかなく消えた清盛の夢が、ポートアイランドと重なって見える。





李さんは「おやじが60年前に、南京から神戸に来たのよ。」

と、流暢な神戸弁で言った。

彼は、神戸で生まれて神戸で育った。

在日中国人2世。

中国語が、あまり、わからない。

南京町(元町)

確かに、神戸には外国人が多いし、中国人も

台湾人も多い。



けれど、東京の池袋で問題になっているような

お行儀の悪い中国人を見ることはない。


李さんみたいに戦争前から、神戸にいた人、

もっと、前から神戸にいた人が、たくさんいて、

完全に神戸に同化している。



国際都市神戸と言われて久しいのに、神戸で、

新参者の外国人を見掛けることは、まれだ。


古くからいて、完璧に神戸人になってしまった中国人は、

彼ら自身が、新参者の中国人を入れたがらないのではないかと思う。


中国人の「問題」は、中国人自身が一番よく知っているから。

なんか、そんな気がする、

中国人が、昔から大勢いるから、

新参者の中国人に悩まされないで済むみたい。







郡境は、今の中央区と兵庫区の間ぐらいだったと思う。

この地図で、鵯越駅

丸山駅、長田駅を結ぶ実践(神戸電鉄)が、郡境じゃないかな。

鵯越という名称は"「ヒヨドリ」が越える"という意味ではなく

標=ひょう=標取り=標識(郡境の標識)らしい。




ここより、東が武庫郡であって、西が矢田部郡(やたべぐん)、



神戸は、武庫郡の一部と、矢田部郡、

それに「播磨の国の一部」で、構成されている。




そして、土地柄というものは、営々と受け継がれる。


神戸を東から西へ突っ切ると、

文教地区、下町へ、旧市街、新興住宅地へと、

いろいろな表情がある。

移動していて、ふと気がついた。


武庫郡と矢田部郡は、左右対称みたいに似ている。


たとえば北区と西区。

ともに広大で、農地の多い・新興住宅地。


東灘区と須磨区。

文教地区、文化程度が高い。


兵庫区と長田区。

どちらも旧い市街区。


灘区と垂水区。

庶民の町。どっちも道路が狭くて一方通行が多い。


そして、中央区は、もとは、「葺合・生田」のふたつだった。


なんか左右対称になっていると、私には見える。


しかも、これら二つずつの区は、似ている癖に、物凄く違う。

まるで、光と影のように。




たとえば、北区と西区・・・

北区の農業は、古代から米作り中心。

土と水がよいので、中世には優れた荘園だった。

米が税金代わりだった時代、米さえできれば

裕福だった。



反対に西区は、土にも水にも、恵まれず米作りには不適。

だから、仕方なく野菜と果樹に力を入れた。

けがの功名で、今では、近郊農業としてトマトや

果物で、潤っている。


米作りで何世紀も過ごした北区の人々は、横並びで田植えをする。

一緒に、草刈り、水路の手入れ。

同じ時期に、種をまく。

だから、周りへの気遣いと団結力がすごい。



西区は、「同じ作物」ではなく、それぞれが工夫して、

換金作物をつくった。

だからかな?

あんまり、周りのこと気にしない、

がちっとかたまらない、自由だ。


「農業」は、北区と西区だけなのに、

ふたつの区の気風も、景色も、全然違う。


北区は摂津の国。

西区は、播磨の国。


まるで

合わせ鏡の世界。








今日は、開設以来最高のお客様をお迎えして、とても、

嬉しいです。

みなさん、ありがとうございます。


心機一転して、最愛の故郷のまちづくりに頑張りますので、

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リンクの貼り方がわからないので、うさぎ屋さんの

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うさぎ屋の四方山話


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