おっと、もう大晦日
なんと時間のたつのは速いのでしょう。
2015年は、息つく暇も無かったですが、2016年も、ひどかった。
2015年は肉体的にきつかったけど、
今年は精神的にきつかった。
もう、今日で今年が終わるなんて、思えません。
だって、課題をかかえたままなんだもの。
神戸市の各小学校区に、一個づつ建設された「地域福祉センター」これがね・・・私の大きな課題。
あんなに大勢の人たちが集まって、大勢で歌ったり、踊ったりしていた君影地域福祉センターが、いまや、使用するときしか鍵も開けないと聞いて、ショックを受けた。
あのころ、あそこを仕切っていたのはテキヤの親玉だった。
右翼でね。
中に入ると広い和室には床の間があって、掛け軸がかかっていた。
書かれていたのは「神武 すいぜい あんねい ・・・」歴代天皇の名前だった。
そして今上天皇皇后の御真影が、額縁にはいってかけられていた。
会長、副委員長、会計の三人の男たちがロビーに陣取って、その土地の顔役であるのが丸わかりだった。
それも、どうよ?と思ったけど、周囲には、明るいにぎやかな雰囲気がたちこめ、舞踊の音楽やカラオケの声が聞こえてきた。
福祉?といえるのか、単なる娯楽?かとは思ったけど、十二分に使用されていた。いつもいつも人でいっぱいだった。
それなのに、今は、めったに鍵も開けない。
お世話をする大将が亡くなったことは大きかっただろう。
彼が総元締めだったのだから、痛手には違いない。
でも、それだけじゃない。
あのころ、子供の数もたくさんだったはず。
いまや、君影小学校の生徒数は300人に満たない。
地域福祉センターという2億円のハコモノを残されても、住民数が激減し、高齢化が進めば「踊る人も、歌う人も、集う人も」いなくなる。
無理やり駅から遠い、丘陵地帯を開発した住宅街は、戸建てだけでなく集合住宅もたくさんあるのだけど、少子高齢化してしまった。
これは、決して他人事ではない。
私の町だって、ちっとも変わらない。少しあとを歩いているだけのこと。
私は、運営委員の高齢化を憂えているが、周辺地域も同時に老いている。
ということは、よしんば、運営委員が若返って「どうぞ、みなさん集まってください」と言っても、周辺の老人たちには、歩いて集まる力も無いということになりかねない。
こういうありさまは、日本が初めて体験する。
こんなに年寄りが長生きした時代も無い。
100歳以上が3000人いるって、たしか兵庫県だけでも。
そして、こんなに子供が生まれないことも無かった。
10年後を想定するのがおそろしい。
どこのだれがこの状況に対応できるだろう?
年内に、地域福祉センターの事務処理を研究して、合理化するつもりだったのに、毎日、なにか用事が立て込んで、どうにもこうにもできなかった。
年が変われば、みんな1歳ずつ年をとる。
時間は待ってくれない。
未来を見晴るかすとき、楽観的な素材はなにもないんだよ。
若いもんがいないから、年寄りの元気なもんがカバーする・・・しばらくは、それで持つだろう。でも、やがて、こらえきれなくなる。
5年先は、もう、今の顔ぶれで押し進むのは不可能だ。
まったなしの大変なことだらけなのに、誰も、真正面から見ようとしない。
テレビをかけても、どうでもいいことでただ、わあわあさわぐばかり。
だめでしょう?
ニュースは嘘ばっかり流しているし。
だめだよ。まじめに考えないと
人もし遠き慮りなくんば、必ず近き憂いありってことわざ、知らないの?知らないんだよね。
今、町の人口がどれだけで、人口動態がどうなっていて・・・子供の数がどのように変化し、幼稚園や小学校の存続がいつごろ危なくなるのか・・・
高齢者はいつごろ、限界集落に近づくのか・・・全部知っておかないとだめでしょう?
今年も、もちつきをやろうか?とか、のんきに言ってる場合じゃないと私は思うよ。
でも、それを話し合う相手さえ、私にはいない。
途方にくれて迎える年の暮れ。
昨年より、もっと深刻だ。
たとえば、神戸電鉄の交通費の高さから、必ず北区の人口は減る。
それを、どのあたりを適正人口として、どうやって、減り方を食い止めるのか、あるいは、もう、あきらめるのか?
誰も考えていないって・・・だめでしょう?
のんきに「来年もよろしく」なんて私は言う気になれません。
でもまもなく除夜の鐘だ。
大晦日なのに、注連飾りがたくさん売れ残っていた。
31日の夜に注連飾りを飾るとか、だめなんだよ。
一夜飾りは、嫌われる。30日には飾らないといけないの。
今、売れ残っているってことは、もうだめってことだよ。
なぜ、一夜飾りが嫌われるか知ってる?
葬式にダブルからなんだよ。
葬式は通夜から葬儀まで一晩だけ飾るでしょ。
だから、葬儀じゃあるまいし、正月飾りは31日に飾っちゃいけないって言う。
売れ残った注連縄を尻目に、私は、ため息をついたわ。
こんな話をしても、誰も「ふ〜ん、そうだったんだ」とは言わないだろう。
斎場が満員で、なくなっても、幾夜も待たせなければ葬儀もできない。
あるいは、通夜もなしにいきなり斎場に持ち込む直葬・・・一夜も、飾らない。そもそも飾らない。
現実が大きく変わっているのだから、言葉は死語になる。
そんな、一語一語が死語になるなんて、簡単なこっちゃない。
大きく消滅している。
もう、こうなったら、500年前の文化になんかしがみつかないで、違う世紀に移行するしかないのかな。
この間、23歳の若者と話したとき、彼は、「これからは、SIRIという人工頭脳が動き出して、僕ら人間といっしょにやるようになる。そしたら、僕らは人工頭脳を機械だと思わないで、それもひとつの人格だと認めなければならないんじゃないか、それも"あり"じゃないかと思うんだ」って言った。
そういえば30歳の男の子と話したとき、彼は「今の時代はおかしいよ。」といった。
今のままでは破綻するだけじゃないか。
もっと完全にすべてを機械化してしまうのか、それをしないなら、もう一度江戸時代に戻してしまうみたいに、全部、自然のままにする。いまのままじゃ、中途半端なんだよ。これじゃ、もたないんだ。
私たちの世代とは違うことを言うと思った。
彼らは人間関係が破綻しているといおうとしていた、人間が人間らしくないんだって。
考えてもどうにもならない気もするけど、こんな時代にしたの、私たちだからね。責任があるんだよ。未必の故意にせよ。
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2015年は、息つく暇も無かったですが、2016年も、ひどかった。
2015年は肉体的にきつかったけど、
今年は精神的にきつかった。
もう、今日で今年が終わるなんて、思えません。
だって、課題をかかえたままなんだもの。
神戸市の各小学校区に、一個づつ建設された「地域福祉センター」これがね・・・私の大きな課題。
あんなに大勢の人たちが集まって、大勢で歌ったり、踊ったりしていた君影地域福祉センターが、いまや、使用するときしか鍵も開けないと聞いて、ショックを受けた。
あのころ、あそこを仕切っていたのはテキヤの親玉だった。
右翼でね。
中に入ると広い和室には床の間があって、掛け軸がかかっていた。
書かれていたのは「神武 すいぜい あんねい ・・・」歴代天皇の名前だった。
そして今上天皇皇后の御真影が、額縁にはいってかけられていた。
会長、副委員長、会計の三人の男たちがロビーに陣取って、その土地の顔役であるのが丸わかりだった。
それも、どうよ?と思ったけど、周囲には、明るいにぎやかな雰囲気がたちこめ、舞踊の音楽やカラオケの声が聞こえてきた。
福祉?といえるのか、単なる娯楽?かとは思ったけど、十二分に使用されていた。いつもいつも人でいっぱいだった。
それなのに、今は、めったに鍵も開けない。
お世話をする大将が亡くなったことは大きかっただろう。
彼が総元締めだったのだから、痛手には違いない。
でも、それだけじゃない。
あのころ、子供の数もたくさんだったはず。
いまや、君影小学校の生徒数は300人に満たない。
地域福祉センターという2億円のハコモノを残されても、住民数が激減し、高齢化が進めば「踊る人も、歌う人も、集う人も」いなくなる。
無理やり駅から遠い、丘陵地帯を開発した住宅街は、戸建てだけでなく集合住宅もたくさんあるのだけど、少子高齢化してしまった。
これは、決して他人事ではない。
私の町だって、ちっとも変わらない。少しあとを歩いているだけのこと。
私は、運営委員の高齢化を憂えているが、周辺地域も同時に老いている。
ということは、よしんば、運営委員が若返って「どうぞ、みなさん集まってください」と言っても、周辺の老人たちには、歩いて集まる力も無いということになりかねない。
こういうありさまは、日本が初めて体験する。
こんなに年寄りが長生きした時代も無い。
100歳以上が3000人いるって、たしか兵庫県だけでも。
そして、こんなに子供が生まれないことも無かった。
10年後を想定するのがおそろしい。
どこのだれがこの状況に対応できるだろう?
年内に、地域福祉センターの事務処理を研究して、合理化するつもりだったのに、毎日、なにか用事が立て込んで、どうにもこうにもできなかった。
年が変われば、みんな1歳ずつ年をとる。
時間は待ってくれない。
未来を見晴るかすとき、楽観的な素材はなにもないんだよ。
若いもんがいないから、年寄りの元気なもんがカバーする・・・しばらくは、それで持つだろう。でも、やがて、こらえきれなくなる。
5年先は、もう、今の顔ぶれで押し進むのは不可能だ。
まったなしの大変なことだらけなのに、誰も、真正面から見ようとしない。
テレビをかけても、どうでもいいことでただ、わあわあさわぐばかり。
だめでしょう?
ニュースは嘘ばっかり流しているし。
だめだよ。まじめに考えないと
人もし遠き慮りなくんば、必ず近き憂いありってことわざ、知らないの?知らないんだよね。
今、町の人口がどれだけで、人口動態がどうなっていて・・・子供の数がどのように変化し、幼稚園や小学校の存続がいつごろ危なくなるのか・・・
高齢者はいつごろ、限界集落に近づくのか・・・全部知っておかないとだめでしょう?
今年も、もちつきをやろうか?とか、のんきに言ってる場合じゃないと私は思うよ。
でも、それを話し合う相手さえ、私にはいない。
途方にくれて迎える年の暮れ。
昨年より、もっと深刻だ。
たとえば、神戸電鉄の交通費の高さから、必ず北区の人口は減る。
それを、どのあたりを適正人口として、どうやって、減り方を食い止めるのか、あるいは、もう、あきらめるのか?
誰も考えていないって・・・だめでしょう?
のんきに「来年もよろしく」なんて私は言う気になれません。
でもまもなく除夜の鐘だ。
大晦日なのに、注連飾りがたくさん売れ残っていた。
31日の夜に注連飾りを飾るとか、だめなんだよ。
一夜飾りは、嫌われる。30日には飾らないといけないの。
今、売れ残っているってことは、もうだめってことだよ。
なぜ、一夜飾りが嫌われるか知ってる?
葬式にダブルからなんだよ。
葬式は通夜から葬儀まで一晩だけ飾るでしょ。
だから、葬儀じゃあるまいし、正月飾りは31日に飾っちゃいけないって言う。
売れ残った注連縄を尻目に、私は、ため息をついたわ。
こんな話をしても、誰も「ふ〜ん、そうだったんだ」とは言わないだろう。
斎場が満員で、なくなっても、幾夜も待たせなければ葬儀もできない。
あるいは、通夜もなしにいきなり斎場に持ち込む直葬・・・一夜も、飾らない。そもそも飾らない。
現実が大きく変わっているのだから、言葉は死語になる。
そんな、一語一語が死語になるなんて、簡単なこっちゃない。
大きく消滅している。
もう、こうなったら、500年前の文化になんかしがみつかないで、違う世紀に移行するしかないのかな。
この間、23歳の若者と話したとき、彼は、「これからは、SIRIという人工頭脳が動き出して、僕ら人間といっしょにやるようになる。そしたら、僕らは人工頭脳を機械だと思わないで、それもひとつの人格だと認めなければならないんじゃないか、それも"あり"じゃないかと思うんだ」って言った。
そういえば30歳の男の子と話したとき、彼は「今の時代はおかしいよ。」といった。
今のままでは破綻するだけじゃないか。
もっと完全にすべてを機械化してしまうのか、それをしないなら、もう一度江戸時代に戻してしまうみたいに、全部、自然のままにする。いまのままじゃ、中途半端なんだよ。これじゃ、もたないんだ。
私たちの世代とは違うことを言うと思った。
彼らは人間関係が破綻しているといおうとしていた、人間が人間らしくないんだって。
考えてもどうにもならない気もするけど、こんな時代にしたの、私たちだからね。責任があるんだよ。未必の故意にせよ。
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