[フレーム]
新聞購読とバックナンバーの申込み

メダルにはないスポーツの価値の探し方 ミカエラ・シフリンに見る自分との戦い方

[ 2022年2月11日 16:00 ]

11日のスーパー大回転でフィニッシュした米国のミカエラ・シフリン(AP)
Photo By AP

【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】11日に行われたアルペン女子のスーパー大回転に出場した米国のミカエラ・シフリン(25)は9位に終わった。2014年ソチ五輪の回転と18年平昌五輪の大回転で優勝。今北京五輪で優勝すれば、米アルペン界では初となる3つ目の金メダルとなるところだったが、コース中盤でのタイムロスが響いて表彰台には立てなかった。

7日の大回転ではスタート直後にコースアウト。競技時間10秒でこの種目連覇の可能性は消滅した。9日の回転では5つ目の旗門を通過できず再び早々にリタイア。ショックのあまりコース脇のネットの近くでうずくまって動けない姿がテレビカメラにとらえられていた。

W杯では歴代2位の通算73勝。五輪のスーパー大回転に出場するのはこれが初めてだが、2019年の世界選手権では優勝しており、頂点は見えていたはずのレースだった。しかし回転と大回転での途中棄権が影響していたのか、北京の人工雪は彼女に対して試練を与え続けている。ただしこの日はフィニッシュしたあと、かずかに白い歯をのぞかせ「本当にほっとしました」と過去2種目とは違った表情を見せていた。

シフリンはスーパー大回転の競技前日となった10日「新しいレースに集中できる機会を持てたことはよかった。これは自分が愛するスポーツ。多くの人たちから激励されたので本当に感謝したい」と語っていた。確かにメダルこそ獲得できなかったものの、彼女は自分の力で立ち上がってきた。それがフィニッシュ後の笑顔ににじみでていた。

"挫折"というならばもっと前にも経験していた。自身にスキーを教えてくれた元選手でもある父ジェフさんは2020年2月、頭部を強打するアクシデントに見舞われて死去。65歳だった。麻酔医としての地位を確立し、ギタリストでもあったジェフさんはスキーだけでなくいろいろなことを娘に教え、大会になるとカメラを持って会場で観戦。「父は私にとって山であり海であり心の支えのような存在でした」とシフリンは落ち込んだという。しかしジェフさんは「まず良き人間であれ」を家訓にしていた父親。2回連続でスタート直後の棄権となったあと、すべてをあきらめてしまう姿勢はシフリンにとって父を裏切る行為だったのかもしれない。17日には滑降と回転を行う複合にも出場予定。決して得意にしている種目ではないが「全部をあきらめたわけじゃない」と語った彼女は、最後まで自分なりに全力を出すことだろう。

果敢に4回転半アクセルに挑んだ羽生結弦(27)、ジャンプ混合団体の1回目の記録をスーツ規定違反で取り消されながら2回目を跳んだ高梨沙羅(25)。どちらもこの種目でメダルには手が届いていないが、見ていた人たちには何か訴えるものが大きかったと思う。

リュージュ女子1人乗りで最下位となったアイルランド代表のエルザ・デズモンド(24)は8日に競技が終わると、多くの選手に背中を叩かれてその健闘を称賛された。

英国の病院で医師になるための勉強を続けているインターン。彼女は「オリンピックで重要なことは勝つことではなく参加することである」という近代オリンピックの父と言われているクーベルタン男爵の言葉に心を揺り動かされ、リュージュ連盟が国内に存在しないアイルランドから北京五輪への"扉"をこじ開けた。

ラトビアやドイツで行われた大会では、泊まったホテルの部屋のドアに6カ国語で「勉強中なので邪魔をしないで」という紙を貼って選手仲間に"静寂"をリクエスト。競技仲間から医者が誕生するかもしれないという噂はすぐに広がり、デズモンドに薬の知識を求め、ケガの状態を見てもらった他国の選手もいたほどだった。だからこそ彼女はたとえ最下位であっても多くの選手やコーチからリスペクトされた。メダルはなくても、五輪という舞台で手にした"形なき財産"は永遠に彼女の人生の中で大切に保管されることだろう。

1984年1月。旧ユーゴスラビアで開催されたサラエボ冬季五輪の開幕直前、私は長野県諏訪市にいた。スピードスケート男子の500メートルで優勝が期待されていた黒岩彰選手(当時23歳)が履いていたシューズを作っていた工場の取材。金メダルを獲得しなくても表彰台に立てば、連載記事を3回ほど担当する予定だった。

しかし雪が舞う悪天候の中、黒岩選手は10位。社内でぼう然とする私の前で、北沢欣浩選手(当時21歳)が2位となってその驚きがさらに倍加したのだが、せっかく書き上げていた連載はボツとなった。

ただし新米記者の私にとって長い原稿を書いたのはそれが初めて。先輩記者やデスクに何度も訂正されて初めて記事らしくなったのだが、そのとき初めて原稿の書き方のコツがわかった記憶がある。

物事がすべて自分の思い描いた通りになる人は少数派。多くのアスリートは失敗から何かを学び、たとえトップレベルにいなくても、自分なりのやり方でスポーツの価値を見つけてくる。2度の途中棄権から3度目にフィニッシュしたシフリン、最下位ながら「よくやった」と称賛されて北京をあとにしたデズモンド...。私の脳裏にはサラエボ五輪から4年後のカルガリー五輪で銅メダルを獲得した黒岩選手の姿も浮かび上がっていた。

だいやまーく高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には7年連続で出場。還暦だった2018年の東京マラソンは4時間39分で完走。

続きを表示

この記事のフォト

スポーツの2022年2月11日のニュース

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /