12月 2024
「京都カミセヤ・冬景色」
2024年12月29日 in 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
時は昭和のはじめのドラマ、季節は冬、
どこかないか、冬景色のええとこ!
監督、ここはどうでしょう!
うむ、
絵になる!
ここはどこだ?
京都の北の果ての山村です、
どこにある?
宮津市にございます
里の名は?
カミセヤと呼ばれております
よし、決めた、タイトルは「京都カミセヤ・冬景色」だ
監督、そこ、宮津ですよ、丹後、というところ、ですが、、丹後かみせや冬景色、とか、みやず上世屋ふゆげしき、じゃないですか
ウム考えてみろ、、すばらしいここの冬景色はメジャーだ、メジャーにはメジャーの言葉を組み合わせるのだ、京都の何かに指定されていないか!
ちょっとまってください、、京都府景観資産、ですね、それと、「日本の里100」
ですか!
だろう、、その100の選考委員長を私がつとめた!
そうでしたか、「京都カミセヤ・冬景色」いいタイトリングです。
、、、、
2024年、年の暮れ。
この椅子に座って指示をだしてらっしゃる山田監督が見えました、、、
椅子、二つ?
そうです二つ!
遊びの後は丹後上世屋聴き耳頭巾館へ!
2024年12月29日 in トピックス, 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
「上世屋」を見る子どもたち!
「これは、歴史のドラマを連結する景観だ、文化文明の連続はドラマ、令和のいま、平成、昭和 大正 明治 江戸からの連続のドラマ よく見ておいてくれ!」
、、、、、、、、、、さて、景観とは何者、、、
「景観」とは、地形や植生などの自然と、建物や道路などの人工物が織りなす眺めや風景のことです。長い歴史により育まれてきた地域の文化や、人々の生活、生業、祭事などから醸し出される地域の息づかいや温もりを、私たちは魅力ある景観として五感で受け止め、安らぎ、楽しさ、荘厳さなどを感じます。
制度とは、こういった地域固有の歴史や文化に裏打ちされた府内各地の身近な景観とその景観を支えている地域の活動を合わせて、景観資産として登録することによって
景観資産としての価値をみんなで共有
情報発信による地域の魅力向上
地域の景観づくり活動やまちづくり活動の促進
を図り、府内の景観づくりを進めるものです。
以上、「京都府建設交通部都市計画課HP」
、、、、、、、、そう、君たちが眼下にしているのは、「京都府景観資産登録の景観」なのだ。
「このドラマの主人公は、君たちだ。」と語りながらの写真。
この子供たち、冬休みを利用し丹後へ。
アスペン・泣いた赤鬼の森併設「ハギワラゲレンデ」で、たっぷり雪ん子になって遊んだ帰り道。
さて、『「景観」とは、地形や植生などの自然と、建物や道路などの人工物が織りなす眺めや風景のことです。長い歴史により育まれてきた地域の文化や、人々の生活、生業、祭事などから醸し出される地域の息づかいや温もりを、私たちは魅力ある景観として五感で受け止め、安らぎ、楽しさ、荘厳さなどを感じます。』
そうした目で上世屋の冬景色を覧ると、、、!
木や稲木立たちが、いたるところで何やら語り始めます、、、
その語り、聞くのには聴き耳頭巾がいります!
聴き耳頭巾!
、、、日本の民話や童話に登場する伝説的なアイテムです。この頭巾をかぶると、通常は聞こえない音や会話が聞こえるようになる魔法の力を持っています。多くの物語で、主人公がこの頭巾を使って動物たちの声を聞いたり、隠れた情報を知ったりするエピソードが描かれています。
聞き耳頭巾に関する特徴
- 魔法のアイテム: 頭巾をかぶることで通常の人間の耳では聞こえない音を聞くことができる。
- 民話・童話での役割: 主に子供向けの物語で登場し、動物たちの秘密を知る手段として使われます。
- 物語の教訓: 聞き耳頭巾の話は、秘密を知ることの重要性や、他人の話を聞くことの大切さを教える寓話的な要素が含まれています。
有名な物語
- グリム童話: 一部のグリム童話でも聞き耳頭巾が登場します。
- 日本の民話: 各地に伝わる民話でも聞き耳頭巾は登場し、それぞれ異なる物語が展開されます。
このような魔法のアイテムを通じて、子供たちは想像力を広げ、物語の中での冒険を楽しむことができます。他にも知りたいことがあれば教えてくださいね。」
近くに開設されている聴き耳頭巾館、
立ち寄られるのも一興、有象無象がにぎやかにしゃべりあっていますよ。
雪の高原に子供の歓声
2024年12月26日 in 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
三重谷側からの丹後の山にかかる積乱雲。
[画像:20241226_163316赤雲2000mくらいかな]
この積乱雲の高さ2000m弱くらいでしょうか、最高標高の高山が702mですから。さて、この高山の向こうに、冬は京都の北海道と化す世屋高原。
アスペン農林園付属のプライベートゲレンデで、雪を楽しむ子供たちの歓声。
子どものころに、体と心をのびのびと自然に解き放つ体験は一生ものです。
明日も雪の予報。
今冬の雪遊びの条件はますますよくなるようです。お問い合わせは、『生物多様性世屋川流域センター』まで。
明日に走り出す瞬間!
2024年12月26日 in 世屋・高山ガイド部会, 未分類 by yasuda | No comments
雪のまたの日。
ぽつんと雪の一軒家。
20241223_154144美しい景観には、生態系が豊かに息づいているのです
生態系における人間の役割
- 消費者
- 人間は一次消費者(草食動物)や二次消費者(肉食動物)として、生態系の食物連鎖に組み込まれています。
- 農業や漁業を通じて食物資源を得ています。
- 生産者
- 人間は農業や森林管理を通じて植物を栽培し、食料を生産しています。
- 持続可能なエネルギー資源(例:太陽光発電、風力発電)を生産する役割も持ちます。
- 変革者
- 都市化、工業化、農業開発などを通じて自然環境を大きく変える力を持っています。
- 生態系に影響を与えることで、時には環境破壊を招くこともあります。
- 保護者
- 環境保護活動や保全プロジェクトを通じて、生態系を守り、再生する取り組みを行っています。
- 生物多様性の維持や絶滅危惧種の保護にも尽力しています。
生態系における人間の位置
「人間は生態系の一部として、多くの生物と相互関係を持っています。また、生態系の健康と持続可能性に深く関わっており、その影響力は大きいです。人間が持続可能な方法で自然と共存し、環境保護を実践することが、長期的な視点で見たときに重要です。」
だから、頑張れ!ということにいきます。しかし、この環境の維持、言うに易し行うに難しとはこのこと。
持ちこたえているのが、奇跡。この景観も、話を聞くと、たいへんその困難なことに直面しているとか。!
が、道がないことはないで、と青馬の快老人。
道は拓くのだと。
「御意!」と見ておる若者。
さて、次の写真、
里山で経済する!アスペン快老人のチャレンジのバトン、彼らが持って明日に走り出す瞬間、とキャプションをつけましょう!
大江山雪景色に、八木康敞氏の『大江山風土記』を想う!
2024年12月24日 in 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
大江氏とはなにもの!与謝野町だけの問題ではないので、確認しなおしておくのも意味があると思いましたので、以下、その源流からをWikipediaでおさらい。
、、、、、、、、、、、、、、
日本の古代から近世の貴族。「大江」は姓(本姓)であり、苗字ではない(源、平、藤原、橘と同じ)。姓(カバネ)は朝臣。
◇奈良時代 〜源流は古代氏族土師氏〜
古代の氏族である土師氏が源流とされる。桓武天皇が即位10年となった延暦9年(791年)に、縁戚関係にある土師諸上らに大枝の姓を与えた。
◇平安時代 〜大枝から大江へ〜
866年(貞観8年)10月、大枝音人が姓を改め、大枝から大江へと改姓した。その理由は、枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である、とのことであった。しかし、大枝姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。また、大江には、大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように、との意味があるという[3]。
大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里、大江匡衡、大江嘉言、女性では和泉式部、赤染衛門(匡衡の妻)らが選出されている。大江匡衡の曾孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏の源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。
11世紀には、摂関家の藤原氏を頂点とした家柄の序列が固定されており、大江氏は五位で地方の国司、中級ないし下級貴族であった。その一方、家学の学者でもあったので、文人貴族を輩出する事になる[4]。
◇鎌倉時代 〜頼朝政権のもと武家の道を開いた〜
1184年(元暦元年)に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元は大江匡房の曾孫であり、頼朝の覇業を内政面で支えた。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得た。広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となった。
1221年(承久3年)承久の乱において京都守護の広元嫡男の大江親広が失脚し、また1247年(宝治元年)に広元四男の毛利季光が、宝治合戦で三浦泰村に味方したために討たれるが、広元次男の長井時広の子孫(長井氏)は鎌倉幕府の評定衆、引付衆などの要職を務め、鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏側近として室町幕府中枢にあり、14世紀に伊達氏に出羽国置賜郡長井荘を奪われるまで勢力を保った。
その後
一文字三星(長門星)
大江広元の後裔は各地方で武家として活躍した。その末裔に以下が挙げられる。また、季光の四男・毛利経光の子孫(毛利氏)は安芸国吉田荘に定着し、その血統から戦国時代に中国地方の覇者となった戦国大名・毛利元就や、豊臣政権の五大老・毛利輝元が出た。「一文字に三つ星」を家紋として、「広」「元」を通字(とおりじ)とする家が多い。
三つ星に一文字 – 家紋DB
また、広元の兄・匡範の子孫は宮廷官人として残り、室町時代後半からは北小路を称し、江戸時代は地下家として3家(蔵人2家、近衛家諸大夫1家)を出した。このうち、代々蔵人を務めた2家は江戸時代後期の弘化4年12月17日(1848年1月22日)堂上家(半家)に列せられた(最後の堂上家昇格)。
、、、、こういう方向の見当が適切なようです。
- さて、その2
- [画像:20241224_111809大江山]
- ほう!「安田氏」は、大江氏に連なる、その可能性があるようですな、が感想。mまた、「866年(貞観8年)10月、大枝音人が姓を改め、大枝から大江へと改姓した。その理由は、枝(分家)が大きいと、本体である木の幹(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である、とのことであった。しかし、大枝姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。また、大江には、大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように、との意味があるという」。これも、なるほど。しかしこの「大江山」が、誰に由来する名か、改字の経緯い、その知識はそれほど、たいしたものではなかろうとおもう。「ふるさとの山」大江山は、この地に生きる人たちの生業をどう見守ってきたのか、が、本題だろう。この山とこの地の人との関係を探りまとめた書がある。20241224_222604
- 八木康敞氏の労作にして快作『大江山風土記』
- 20241224_222630大江山
- 、、、「大江山ーこの豊かな情熱の鉱脈に、これから何度でも挑んでみる。今から100年前、丹後を揺り動かし礎石をきずいた人々を歴史の地下水から掘り起こし、うらにしの若い皆さんに学んでいただきたい」とは、著者の弁。F探、走れ、図書館に!。
受験生諸君、『北越雪譜』を読んでおくべし!
2024年12月22日 in トピックス, 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
[金さん なに読んどんなる?]
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なかたにういちろうさんのほくえつせっぷ のかがく!
なかたにういちろうは、中谷宇吉郎、雪氷学の世界的な研究者だ、
ほくえつせっぷは『北越雪譜』と書く
北越は 越中と越後。 富山県と新潟県の一部。
せっぷは 雪譜、現在の新潟県 南魚沼市 塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之が江戸後期における越後 魚沼の雪国の生活を活写した書籍。
つまり、中谷宇一郎氏が、江戸時代の文学作品『北越雪譜』を科学的視点から再解釈したものが『北越雪譜』の科學、、こんなことをかいている。
、、、、、、、、、、、、、、
『北越雪譜』は、越後鹽澤の人、鈴木牧之翁が雪に埋れて暮した自分の周圍の生活について、折にふれて書きためた文章を、晩年において纒めたものである。議論もなく、所謂卓見もないが、當時における雪國の庶民の生活記録の集成として、まことに珍重すべき文獻である。
本來は民族學の資料として、價値のあるものであろうが、所々に※(注記)(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)入してある「科學的記述」の中にもいろいろ面白いものがある。もちろん術語は、今日の科學の言葉とはちがうが、考え方も亦知識の方も、現代の氣象學とそっくりな議論が時々書いてあって、非常に興味が深い。
最初に『地氣雪と成る辯』があるが、その中に「太陰天と地との間に三ツの際へだてあり、天に近きを熱際といひ、中を冷際といひ、地に近ちかきを温際といふ」とあって、その三際の間に生ずる氣象現象の説明がしてある。これなども、太陰天を空間スペース、熱際を成層圈、冷際を對流圈の上層、温際を下層とすると、今日の氣象學と同じ記述になる。
20241215_153433巨大飛行船みたい
「地氣は冷際を限りとして熱際に至らず」「雲温あたたかなる氣を以て天に昇り、かの冷際にいたれば温なる氣消て雨となる。湯氣の冷て露となるが如し」「雲冷際にいたりて雨とならんとする時、天寒甚しき時は雨氷あめこおりの粒となりて降り來る。天寒の強つよきと弱よわきとによりて粒珠つぶの大小を爲す」というような記述は、術語さえ變れば、そのまま氣象學の教科書に入れられる。
「雪の形」の章では、まず初めに雪の結晶クリスタルと雪片フレーキとの區別をはっきりさせている。「人の肉眼を以もって雪をみれば一片の鵞毛のごとくなれども、數十百片の雪花=ゆき(結晶)を併合よせあわせて一片の鵞毛(雪片)を爲なすなり」と書いてある。五年くらい前に、國際雪氷委員會インターナショナル・コンミッション・オヴ・スノー・アンド・アイスで、米加瑞日の小委員會がきめた、クリスタルとフレーキとの定義は、この文章をそのまま英譯したものである。
Hokuetsu_Seppu_-_Figure_of_snow_crysta北越
雪の結晶の形が「奇々妙々」なることの説明として「其形の齊ひとしからざるは、かの冷際に於て雪となる時冷際の氣温ひとしからざるゆゑ、雪の形氣に應じて同じからざるなり」と言っている。雪の結晶の形は、氣温と過飽和度とによって決定されるという結論に達するまでに、私たちは二十年近い年月を費した。しかし牧之翁は、百數十年の昔に於て、既に「天寒の強と弱とによりて粒珠の大小を爲す」こと、及び「冷際の氣温ひとしからざるゆゑ」雪の形が「氣に應じて」いろいろに變化することを説いている。これが瀧澤馬琴の時代に、越後の田舍町で生涯を送った、一質屋の主人がもっていた科學なのである。小學校の理科教育も、もちろん受けてはいない。
日本人の科學性ということが、近年いろいろ議論されている。そういう議論の中で、とくに民族性との關連を論ずる場合などには、この牧之の本なども一つの資料とすべきであろう。
、、、、、、、、、、、、、
『北越雪譜』、その原文もあげておこう
凡およそ日本国中に於て第一雪の深き国は越後なりと古昔むかしも今も人のいふ事なり。しかれども越後に於も最もつとも雪のふかきこと一丈二丈におよぶは我住わがすむ魚沼郡うをぬまごほりなり。次に古志こし郡、次に頸城くびき郡なり。其余そのよの四郡ぐんは雪のつもる※(注記)(「古/又」、第4水準2-3-61)三郡に比ひすれば浅し。是を以論ろんずれば、我住わがすむ魚沼郡は日本第一に雪の深ふかく降ふる所なり。我その魚沼郡の塩沢しほさはに生うまれ、毎年十月の頃ころより翌年よくとしの三四月のころまで雪を視みる事已すでに六十余年、近日このごろ此雪譜せつふを作るも雪に籠居こもりをるのすさみなり。
雪の正月
初編にもいへる如く我国の雪は鵞毛がまうをなすは稀まれなり、大かたは白砂しらすなを降ふらすが如し。冬の雪はさらに凝凍こほることなく、春にいたればこほること鉄石てつせきのごとし。冬の雪のこほらざるは湿気しめりけなく乾かわきたる沙すなのごとくなるゆゑなり。是これ暖国だんこくの雪に異処ことなるところなり。
しかれどもこほりてかたくなるは雪解とけんとするのはじめなり。春にいたりても年としによりては雪の降ふること冬にかはらざれども、積つもること五六尺に過すぎず。天地に※(注記)(「こざとへん+日」、第4水準2-91-63)気やうき有あるを以なるべし。されば春の雪は解とくるもはやし、しかれども雪のふかき年は春も屋上やねのうへの雪を掘ほることあり。掘ほるとは椈ぶなの木にて作りたる木鋤こすきにて土つちを掘ほるごとくして取捨とりすつるを里言りげんに雪を掘といふ、已すでに初編にもいへり。かやうにせざれば雪の重おもきに屋いへを潰つぶすゆゑなり。されば旧冬きうとうの家毎いへごとに掘除ほりのけたる雪と春降積ふりつもりたる雪と道路みちに山をなすこと下にあらはす図づを見てもしるべし。いづれの家にても雪は家よりも高たかきゆゑ、春を迎むかふる時にいたればこゝろよく日光ひのひかりを引んために、明あかしをとる処の窗まどに遮さへぎる雪を他処へ取除とりのくるなり。然しかるに時としては一夜の間あひだに三四尺の雪に降うづめられて家内薄暗うすくらく、心も朦々まう/\として雑煮ざふにを祝いはふことあり。越後はさら也、北国の人はすべて雪の中に正月をするは毎年の事也。かゝる正月は暖国だんこくの人に見せたくぞおもはるゝ。
、、、、、
「冬の雪のこほらざるは湿気しめりけなく乾かわきたる沙すなのごとく」など、上世屋と同じだな、ここでは、灰のように吹けば飛ぶので『ひゃあひゃあ雪』とよんだが。
他のところも面白い、いま話題の『シカ』の話もある。
○しろまる 雪中鹿を追ふ
他国の人、越後はすべて大雪の国とおもふめれどさにあらず。まへにもいへる如ごとく海浜かいひんに近き所は雪浅し。雪ふかきは魚沼うをぬま・頸城くびき・古志こしの三郡ぐん、或あるひは苅羽かりは・三嶋みしまの二郡、(所によりて深浅あり)蒲原かんばらは大郡にて雪薄うすき所なれども東南は奥羽あううに隣となりて高嶺かうれいつらなるゆゑ、地勢によりては雪深き所あり。雪深き所は雪中牛馬を駆つかはず、いかんとなれば人は雪に便利べんりのはきものを用ふれども牛馬にはこれをほどこす事あたはず、もし雪中にこれを追おはば首くびのあたりまで雪にうづまらん、さればつかふ事ならざる也。およそ十月より歳としを越こえて四月のはじめまでは、むなしくやしなひおくのみ也。これ暖国だんこくにはなき難儀なんぎの一ツ也。さて獣けものはまへにもいへるごとく、初雪しよせつを見て山つたひに雪浅き国へ去さる、しかれども行后ゆきおくれて雪になやむもあればこれを狩かる事あり。(熊の事は上巻にいへり)野猪ゐのしゝは猛たけきゆゑ雪ふかくとも得えやすからず、鹿しか・羚羊くらしゝなどは弱よわきものゆゑ雪には得えやすし。鹿はことさら高脛たかはぎなるゆゑ雪にはしる事人よりおそきに似にたり。鹿は深山みやまをこのまず、おほかたは端山はやまに居をるもの也。すべて物に慣なるればその妙あり、山猟さんれふに慣なれたる者は雪の足跡あしあとを見てその獣けものをしり、またこれは今朝のあしあと、こは今ゆきしあとゝその時をもしる也。三国嶺みくにたふげより北へつゞく二居ふたゐの人(たふげあるところ也)の鹿おひしたるをきゝしに、いざ鹿おひにゆかんとてかたらひあはせ、おの/\雪を漕こぐべき(ふかき雪をゆくを里ことばにこぐといふ)ほどに、身をかため山刀をさし、銕炮てつはう手鎗てやり又棒ぼうなど持もちて山に入り、かの足跡あしあとをたづねあとに随したがへばかならず鹿を見る。かれ人を見て逃にげんとすれども人のはしるにおよばず、鹿は深田ふかたをゆくがごとく終つひには追おひつめられてころさる。あるひは剛勇がういゆうの人などは角つのをとりてねぢふせ、山刀にて剌殺さしころすもありとぞ。これらは暖国だんこくにはなき事ならめ。
、、、、、、、、、、、、
今の話題といえば、熊。「(苦情電話が)きたら、完全に相手を威嚇する。"お前のところにクマ送るから住所を送ってくれ"と。こうすると、相手は電話を切ります」と言い切る秋田県知事。
スーパーマーケットに侵入熊の駆除について、県に56件の電話、うち24件は駆除に反対する内容だったという、その反対電話への対応のついての発言。
『北越雪譜』には、その熊に関する記述もある。
熊捕り
越後の西北は大洋おほうみに対たいして高山かうざんなし。東南は連山れんざん巍々ぎゝとして越中上信奥羽の五か国に跨またがり、重岳ちようがく高嶺かうれい肩かたを並ならべて数す十里をなすゆゑ大小の獣けもの甚はなはだ多おほし。此獣けもの雪を避さけて他国へ去るもありさらざるもあり、動うごかずして雪中に穴居けつきよするは熊くまのみ也。熊胆くまのいは越後を上品ひんとす、雪中の熊胆はことさらに価あたひ貴たつとし。其重価ちようくわを得えんと欲ほつして春暖しゆんだんを得えて雪の降止ふりやみたるころ、出羽ではあたりの猟師れふしども五七人心を合せ、三四疋の猛犬まうけんを牽ひき米と塩しほと鍋なべを貯たくはへ、水と薪たきゞは山中在あるに随したがつて用をなし、山より山を越こえ、昼ひるは猟かりして獣けものを食しよくとし、夜は樹根きのね岩窟がんくつを寝所ねどころとなし、生木なまきを焼たいて寒さむさを凌しのぎ且かつ明あかしとなし、着きたまゝにて寝臥ねふしをなす。頭かしらより足あしにいたるまで身みに着きる物もの悉こと/′′\く獣けものの皮かはをもつてこれを作る。遠とほく視みれば猿さるにして顔かほは人也。金革きんかくを衽しきねにすとはかゝる人をやいふべき。此者ものらが志こゝろざす所は我国の熊にあり。さて我山中に入り場所ばしよよきを見立みたて、木の枝えだ藤蔓ふぢつるを以て仮かりに小屋こやを作りこれを居所ゐどころとなし、おの/\犬を牽ひき四方に別わかれて熊を窺うかゞふ。熊の穴居こもりたる所を認みつくれば目幟めじるしをのこして小屋にかへり、一連れんの力を併あはせてこれを捕とる。その道具だうぐは柄えの長さ四尺斗りの手槍てやり、或あるひは山刀やまがたなを薙刀なぎなたのごとくに作りたるもの、銕炮てつはう山刀斧をのの類るゐ也。刃は鈍にぶる時は貯たくはへたる砥とをもつて自みづから研とぐ。此道具だうぐも獣けものの皮かはを以て鞘さやとなす。此者ら春にもかぎらず冬より山に入るをりもあり。
そも/\熊くまは和獣わじうの王、猛たけくして義ぎを知しる。菓木このみの皮虫かはむしのるゐを食しよくとして同類どうるゐの獣けものを喰くらはず、田圃たはたを荒あらさず、稀まれに荒あらすは食しよくの尽つきたる時也。詩経しきやうには男子だんしの祥しやうとし、或は六雄将軍りくゆうしやうぐんの名を得えたるも義獣ぎじうなればなるべし。
夏なつは食しよくをもとむるの外ほか山蟻やまありを掌中てのひらに擦着すりつけ、冬ふゆの蔵蟄あなごもりにはこれを※(注記)なめ[#「舌+蝶のつくり」、U+445C、38-11]て飢うゑを凌しのぐ。牝牡めすをす同おなじく穴あなに蟄こもらず、牝めすの子あるは子とおなじくこもる。其蔵蟄あなごもりする所は大木の雪頽なだれに倒たふれて朽くちたる洞うろ(なだれの事下にしるす)又は岩間いはのあひ土穴つちあな、かれが心に随したがつて居をる処さだめがたし。雪中の熊は右のごとく他食たしよくを求もとめざるゆゑ、その胆きもの良功りやうこうある事夏の胆に比くらぶれば百倍ばい也。我国にては、●くろまる飴胆あめい●くろまる琥珀胆こはくい●くろまる黒胆くろいと唱となへ色をもつてこれをいふ。琥珀こはくを上品ひんとし、黒胆を下品とす。偽物ぎぶつは黒胆に多し。
●くろまるさて熊を捕とるに種々しゆ/′′\の術じゆつあり。かれが居をる所の地理ちりにしたがつて捕得とりえやすき術をほどこす。熊は秋の土用より穴あなに入り、春の土用に穴より出いづるといふ。又一説せつに、穴に入りてより穴を出るまで一睡ひとねむりにねむるといふ、人の視みざるところなれば信しんじがたし。
沫雪あわゆきの条くだりにいへるごとく、冬の雪は軟やはらにして足場あしばあしきゆゑ、熊を捕とるは雪の凍こほりたる春の土用まへ、かれが穴よりいでんとする頃ころを程ほどよき時節じせつとする也。岩壁がんへきの裾すそ又は大樹たいじゆの根ねなどに蔵蟄あなごもりたるを捕とるには圧おしといふ術じゆつを用もちふ、天井釣てんじやうづりともいふ。その制作しかたは木の枝えだ藤ふぢの蔓つるにて穴に倚掛よせかけて棚たなを作つくり、たなの端はしは地ちに付て杭くひを以てこれを縛しばり、たなの横木に柱はしらありて棚たなの上に大石を積つみならべ、横木より縄なはを下し縄に輪わを結むすびて穴あなに臨のぞます、これを蹴綱けづなといふ。此蹴綱に転機しかけあり、全まつたく作つくりをはりてのち、穴にのぞんで玉蜀烟艸たうがらしたばこの茎くきのるゐ熊くまの悪にくむ物を焚たき、しきりに扇あふぎて烟けふりを穴に入るれば熊烟りに噎むせて大に怒いかり、穴を飛出る時かならずかの蹴綱けづなに触ふるれば転機しかけにて棚たな落おちて熊大石の下に死しす。手を下くださずして熊を捕とるの上術じゆつ也。是は熊の居所ゐどころによる也。これらは樵夫せうふも折をりによりてはする事也。
又熊捕くまとりの場数ばかずを蹈ふみたる剛勇がうゆうの者は一連れんの猟師れふしを熊の居をる穴の前に待またせ、己おのれ一人ひろゝ簑みのを頭かしらより被かぶりり(ひろゝは山にある艸の名也、みのに作れば稿よりかろし、猟師常にこれを用ふ)穴にそろ/\と這はひ入り、熊に簑みのの毛を触ふるれば熊はみのゝ毛を嫌きらふものゆゑ除よけて前にすゝむ。又後しりへよりみの毛を障さはらす、熊又まへにすゝむ。又さはり又すゝんで熊終つひには穴の口にいたる。これを視みて待まちかまへたる猟師れふしども手練しゆれんの槍尖やりさきにかけて突留つきとむる。一槍ひとやり失あやまつときは熊の一掻ひとかきに一命めいを失うしなふ。その危あやふきを蹈ふんで熊を捕は僅わづかの黄金かねの為ため也。金慾きんよくの人を過あやまつ事色慾しきよくよりも甚はなはだし。されば黄金わうごんは道みちを以て得うべし、不道をもつて得うべからず。
又上に覆おほふ所ありてその下には雪のつもらざるを知り土穴を掘ほりて蟄こもるもあり。然しかれどもこゝにも雪三五尺は吹積ふきつもる也。熊の穴ある所の雪にはかならず細孔ほそきあなありて管くだのごとし。これ熊の気息いきにて雪の解とけたる孔あな也。猟師れふしこれを見れば雪を掘て穴をあらはし、木の枝えだ柴しばのるゐを穴に挿さし入れば熊これを掻かきとりて穴に入るゝ、かくする事しば/\なれば穴逼つまりて熊穴の口にいづる時槍にかくる。突つきたりと見れば数疋すひきの猛犬つよいぬいちどに飛かゝりて囓かみつく。犬は人を力とし、人は犬を力として殺ころすもあり。此術は椌うつほ木にこもりたるにもする事也。
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[そも/\熊は和獣の王、猛くして義を知る。菓木の皮、虫のるゐを食として同類の獣を喰らはず、田圃を荒あらさず、稀に荒すは食の尽きたる時也。詩経には男子の祥とし、或は六雄将軍の名を得たるも義獣なればなるべし。]当時の認識は、熊は、和獣の王、義獣だった、と。
蝦夷とアイヌ、これは一体ではないとは言います。しかし、古代民族ではあるから、共通するものも多いでしょう、そのアイヌの言葉に、「ミアンゲ」という言葉がある、それは、神から人間への授かりものという意味で、具体的には、『クマ』をさし、それが「土産」の語源といいます。※(注記)梅原猛氏。北越、東北の方はその認識を今も持ち続けていらっしゃるのでしょう。批判への対応を否定はしません。が、神から人間へのミアンゲとしての熊を想う心中を察することも大切、さもなければ、おおよういうた、わしはどこそこのなにのなにお、でんわは◇◆だいやまーく、ただし、送料はそちらもちだぞ。そんなやり取りになってしまいませんか。
この本にはたくさんの絵が添えられています。
Bokushi_Snowshoe北越 おそるべし 鈴木牧之 絵も文も 観察表現
牧之さんとは別の方が描いたものだが、これらもリアル。
当時のベストセラー、今では翻訳もされ、海外でも広く読まれている。
Hokuetsu_Seppu_Part_2_volume_1北越
雪は受験シーズン開始のサインだ、全部読んでおくのもいいかもしれないぞ。ひょっとして選択地理では、北越の、ある街を舞台にした問題が出るかも。
ところで、日本海側のこの豪雪の理由、メカニズムを今は、図解して解説くれます。
鈴木牧之さん、これを見てなんとおっしゃることでしょう。
寒気と寒波
2024年12月21日 in 世屋・高山ガイド部会, 未分類 by yasuda | No comments
先の積雪後、息つく間もなくネットに出された今日からの天気予報、二つ。
まず、「明日から強い寒気が南下。」
[画像:明日から強い寒気が南下 日本海側山間部で100cm超の大雪も]
もう一つ、
同じ状況でも予報機関が変わると、言葉が変わるのがおもしろいです。
寒気と寒波!寒気は、イヤ、です、震えます!しかし、寒波はイヤではありません、波か、しばれる山が過ぎればくつろげる谷もくる、その変化は人生にもにて、むしろ好きです!
さて、寒気、その山と山の間の谷の日が今日。
その波の谷の日1
その2
その3
その4
その5
20日の京都新聞一面。
今度の寒波は、この里をどう雪化粧するのでしょう、その寒気がどんなものにしても、さあかかってこいや、谷も来るんだから!
丹の国の海
2024年12月20日 in 未分類 by yasuda | No comments
手をかざしたいほどのホカホカ色の海。
[画像:20241220_165940阿蘇海、冬至の夕暮れは夕日が浦]
阿蘇海、冬至の夕暮れは夕日が浦。
赤を丹と表しました。なので海に朝日や夕日の映えるこの国は、まさに丹の国です。
丹後源流雪景色
2024年12月19日 in 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
12月15日
竹野川源流・内山に一番雪。
12月19日
同じく、二番雪。
尾根を覆っている雪雲の中に世屋川の源流・世屋高原がある!
行ってみよう、竹ドーザー!13時38分発。男山→日置経由で世屋川流域へ。
14時10分 栗田半島に雪無し。
14時23分、下世屋を抜けて、標高200m付近。
14時34分。上世屋入口。
14時46分、岡の前棚田跡交園。標高約450m。
竹野川源流の五十河の里は正面の山の向こう、
ここまでの所要時間68分、ずいぶん道草したものです!。
除雪車が下りてきました。
20241219_153259ロータリーが出動していました。
20241219_153555木子や松尾は、さらに多いのでしょう、
おや!
[画像:20241219_153911同じ関心をお持ちのようです!]
どこかの報道関係の雪取材のようです。
そして、京都新聞が翌朝、一面のど真ん中に!
高原部では、確かに50cmぐらいになっていたようです。
風邪、ひきなるなよ!
2024年12月19日 in 世屋・高山ガイド部会 by yasuda | No comments
なあ、姐さん!
20241215_140858姉さん 冬至前の夕日を浴びる羽衣さん雪が降るメカニズム教えたゲルは雪雲をバック
初めての丹後の冬、だね!
冬は、鎮魂と祈りの季節だよ。
そこから、見えるだろ。
上常吉・平治峠のお地蔵さんが。
風邪、ひきなるなよ!