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<羽生結弦を語ろう(5)>震災後交流・高原カネ子さん「私たちと同じ視点に」「私たちの元気の源」

[ 2022年2月7日 07:30 ]

19年のトリノのGPファイナルエキシビションでの羽生結弦(撮影・小海途良幹)
Photo By スポニチ

第5回は、羽生とともに東日本大震災を乗り越えてきた人たちから。福島第1原発事故の影響で避難所生活を余儀なくされた同県楢葉町の裁縫教室「ほのぼの」で代表を務める高原カネ子さん(73)。羽生自身も震災を経験しているからこそ分かる、その優しさを語った。

これまで羽生選手は2回、私たちの裁縫教室を訪れてくれました。両方とも、もちろんサプライズ。みんなビックリしていました。羽生選手はかわいくて、素直だし。本当に孫のようでした。

最初に来てくれたのは15年の夏。避難先だった福島県いわき市の仮設住宅の集会所です。仮設の子供たちに会ってもらえないか?とお願いしましたが、羽生選手はお年寄り、というか、こちらに来ることを望まれて、私たちの教室に来てくれました。

"あの当時は大変だったね"と話し合い、仮設住宅に住む方のお宅にも訪問してくださいました。あの頃はまだまだ復興途上で、話をする中でいろいろ思い出して、お互い涙目になりながら話したことを覚えています。お別れする時に"今度会う時はきっと、楢葉でね"と約束して別れました。

避難が解除された18年には、楢葉町に訪れてくれました。子供たちが通う学校も始まり、小中学校の両方回ってくれました。私たちの教室も訪れていただき、制作した布細工を差し上げました。楢葉町の公式キャラクターが偶然にも特産品から「ゆず太郎」と言うんですけど、差し上げたぬいぐるみを笑顔でいじったり、抱っこしたりしていました。

その時は2連覇を達成した後だったので、ソチ、平昌五輪で獲得した2つの金メダルを触らせていただきました。メダルも重いし、凄いことなんだよねと実感しました。羽生選手も仙台で避難生活の経験があるので"僕だけがスケートをやっていていいのか"と凄く悩みながら2つの金メダルを獲ってきたようです。私たちは"悩む必要ないよ"と伝えました。被災を経験しているからこそ、私たちと同じ視点に立てるんだと思います。羽生選手自身が楢葉町に来てくれただけで、私たちの元気の源です。

この前の全日本選手権は素晴らしかったですよね。いろんな意味で大変な中でモチベーションをきちっと上げているんだなと感じます。五輪では3つ目の金メダルとかそういうのではなく、やりきった、というか楽しんでもらったらいいと思っています。3連覇ができたら素晴らしいけど、私たちからすると孫みたいだから、ケガしないように願うだけです。頑張るだけ。それだけでいいよと思っています。

≪星の光は希望≫11年3月11日、東北高1年だった羽生は地元のアイスリンク仙台での練習中に被災。四つんばいでリンクから離れ、避難生活を送った。エキシビ曲「ノッテ・ステラータ(星降る夜)」は、その夜の満天の星から感じた希望の光を表現している。10年の節目となった21年3月11日には「あの日から、皆さんからたくさんの"頑張れ"をいただきました。本当に、ありがとうございます。僕も、頑張ります」などとコメントを発表。地元・東北に寄り添ってきた。

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スポーツの2022年2月7日のニュース

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