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フィギュアスケート界の"レジェンド"山下艶子さん 天国から見守る北京五輪

[ 2022年2月9日 10:00 ]

数々の選手を育て上げた山下艶子さん
Photo By スポニチ

【五輪企画コラム「オリンピアンロードの歩き方】五輪を目指すアスリートに影響を与えた恩師、愛情をたっぷりそそぐ両親らを取材するコラムの第2回。フィギュアスケートに情熱を傾けた、亡き指導者を紹介する。

長くフィギュアスケート界を支えてきたレジェンドも、天国から北京で活躍する日本の選手たちを見守っている。多くの選手を育て、80歳を超えても指導を続けたのが山下艶子さん。現役時代は全日本選手権で2連覇を果たし、指導者に転じてからは佐藤信夫、久美子夫妻、長女の一美らを五輪へと送り出した。昨年2月12日の午後6時41分、心不全で息を引き取った。92歳だった。

92年アルベールビル五輪銀の伊藤みどりを週末などに指導し、紀平梨花は小1から小5まで難波のリンクで毎日のように基礎から教え込んだ。「おばあちゃんが教えた生徒の数は、分からないぐらいの多さです。リンクに行くと、今でも"私も山下先生に教えてもらっていたんです"と声を掛けられることがあります」。そう語るのは、自身も教え子で、現在は指導にあたっている孫の大西三美さん。何度こけても平然と立ち上がる紀平について「あの子は強い。面白い子や」と話していたことを懐かしそうに振り返る。
情熱はすさまじかった。指導のために70歳頃までスケート靴を履き、その後はソリ型の歩行補助器具などを使って氷の上に立った。15年にリンク脇の段差で転び、首の骨を折るなどの大ケガを負ってレッスン業からは退いた。それでも、集中治療室(ICU)での日々などを経て再び歩けるようになった。

亡くなってから半年以上が経過し、三美さんが学生時代にテレビで取り上げられた映像が出てきた。そこには、コーチを務めていた生前の山下艶子さんのインタビューが収められていた。

「この時代に、一つのことに打ち込んでいける人間にしたい。一番や二番という順位も大事ですけど、厳しさを乗り越えて、一つの道に突き進んでいける子どもになってほしい。そういう風に育てています。ジャンプ力やスピード、優雅さ。フィギュアはエレガントさが大事。日常生活もきっちりしないと、氷の上に出てくる。生活態度をきっちりすること。それから、スケートに必要なバレエや音楽やトレーニングも。一番大事なのは、練習の虫になること」

その言葉は「おばあちゃんが指導する時にいつも言っていたことがほとんど入っていた」(三美さん)という。「継続は力なり」が座右の銘だった山下艶子さんが亡くなってから、もうすぐ1年。教え子たちが指導者らになり、思いは枝葉のように広がり現在のフィギュアスケート界にも受け継がれている。(西海 康平)

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