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社説

2025年11月26日 (水)

次期指導要領「専門部会等」(3) 道徳科の根本的見直しを

中央教育審議会の教育課程部会「道徳ワーキンググループ(WG)」が25日、初会合を開催した。18ある「各教科等の専門部会等」では、最後の発足となった。最初の外国語WGから2カ月、17番目の幼児教育WGからも1カ月遅れたのはなぜか。文部科学省事務局からの説明は、果たして一切なかった。その間、3回目に入ったWGも少なくない。

10年前の「考える道徳への転換に向けたWG」が7カ月も遅れたことを考えれば、むしろ早いと言えるかもしれない。ただ前回は小・中学校の指導要領一部改訂で「特別の教科 道徳(道徳科)」が設置されたばかりで全面実施もされていない、という特殊事情があった。

委員は11人で「特異な才能」WGの10人より多いものの、「不登校」WGと同数。「考える道徳」が16人だったのと比べても、明らかに少ない。前回は14回の会合を重ねたWGがあった一方、たった4回の会合で報告をまとめた。

事務局資料では、道徳教育の課題を▽読み物教材の登場人物の心情理解に偏った授業になりがちで、多面的・多角的に考え、自己の生き方についての考えを深めるために考え、議論することが十分にできていない▽教科書の発問例に頼った授業など、型にはまった予定調和的な授業になりがちなど、「考え、議論する道徳」への質的転換が道半ばであるとの指摘がある――としている。委員からも、教師が求める正解を子どもが察知して本音を言わないといった実態が挙げられた。

改革の方向性としては「考え、議論する道徳」への転換から「実装」のフェーズに移行することが提案された。しかし、教科化の眼目だった「考え、議論する道徳」ができていなかったのだとしたら致命的ではないか。

これに先立つ17日の特別活動WGでは、八並光俊・東京理科大学名誉教授(日本生徒指導学会会長)が道徳に関して「いじめ防止で教科化したが、総括的な評価もないことに違和感を持っている」と述べていた。けだし正論だ。しかし一部改訂してまでも教科化を急いだ政治的思惑に、正論は通らない。

教科化には授業時間の確保だけでなく、教科書を使わせるという意図もあった。しかし似たり寄ったりの教材になったばかりでなく、検定を経てパン屋が和菓子屋に替えられるという滑稽な事態も起こっている。

内容を構造化して軽重を付けるのが、今次改訂の大方針だ。内容項目を網羅的に並べては、筋が通らない。初会合では論点が示されただけだが、「複数の内容項目を関連付けた学び」だけでは話にならない。次回は1カ月後の予定だというが、どんな案が出ることだろう。

社会との関連付けを強化するのも、既定路線となっている。道徳教育を「真正の学び」にするためにも、旧態依然の読み物教材では改善は見込めまい。国内外で「対立や葛藤」(事務局資料)が激しくなっている中、むしろ現実に即したリアルな学びこそ求められる。

事務局は道徳・特活・総合の関係性を整理することも提案しているが、いっそ調整授業時数制度を使って道徳科の時間を他領域に溶け込ませた方が効果的ではないか。やはり小中でも教育活動全体で行うよう戻すべきだ......と言ったところでむなしいが、根本的な見直しが不可欠であることは間違いない。

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2025年11月24日 (月)

次期指導要領「専門部会等」(2) デジタル表形式を使い誤るな

12日に開催された中央教育審議会の教育課程部会「総則・評価特別部会」第3回会合で、文部科学省事務局(教育課程課)が「デジタル学習指導要領」のイメージを提示した。教育課程企画特別部会(企特部会)の論点整理(9月25日)が提案した構造化・表形式化・デジタル化を具現化して「分かりやすく使いやすい指導要領」を目指す一環だ。

それ自体に異論はない、というより遅すぎたぐらいだ。ウェブベースでナショナル・カリキュラムを提供しているオーストラリアの例が紹介されたのは2013年6月、前回改訂(現行指導要領)の準備作業を担った「育成すべき資質・能力を踏まえた教育目標・内容と評価の在り方に関する検討会(安彦検討会)」の第6回会合だった。

中堅以上の教員なら現行指導要領の告示後、隣接校種も含め分厚い指導要領と解説の冊子がどさっと渡されてうんざりした覚えがあろう。学習内容を削減せず資質・能力の三つの柱を半ば機械的に当てはめたこともあって、カリキュラム・オーバーロード(教育課程の過積載)と現場の多忙化に拍車を掛けた側面も否めない。

今後は準法令文書である指導要領本体よりも、デジタル指導要領を見ながら校内や教員個人でカリキュラム・マネジメント(カリマネ)を行うことが主流となろう。記述の簡素化も含め、表形式で視覚的に一覧できるメリットは紙をしのぐ。

ダウンロードして「マイ指導要領」(事務局)にカスタマイズしたり、コピペして指導案などの作成に生かしたりできるのも省力化につながると言えば言える。デジタル教科書もそうだが、やはりPDF化には限界があると言わねばならない。

関連する他校種や他教科の表が並べられる機能も、教科等横断を進めたい向きには便利だ。教科書の教師用指導書にQRコードがあればデジタル指導要領の該当部分に飛ぶことができるのも、教科書「を」ではなく教科書「で」教える転換に役立とう。何より「2階建て」で教室にも個人にも多様性を包摂する柔軟なカリキュラム編成に、効果を発揮することが期待される。

ただ、注意しておきたい。参照できる部分が多すぎて、それに振り回されることだ。特に学級担任制を基本とする小学校は、今でさえ大変な指導案づくりに追われる恐れもある。マイ指導要領から学校・学年でデジタル指導案のひな型を作って共有し、個々の教員が少々手を加える格好でもいいではないか。それよりも、多様な児童生徒一人一人の理解に時間を掛ける方が重要だ。

何より確認しておきたいのは、次期指導要領の下では学校や教員に自律性・創造性の発揮が今以上に求められているということである。というより「上から降ってくる改革」をこなすのが精いっぱいで判断停止に陥っている学校現場に、自律性・創造性を回復する契機としたい。

大胆な提案も付け加えておこう。学習内容を「高次の資質・能力」(中核的概念)で構造化するなら、細かい知識は解説に移すくらいの大胆なスリム化を求めたい。そもそも、こんなに精緻なナショナル・カリキュラムを持つ国はないと言われている。デジタル指導要領なら、本体も解説もシームレスだから大して問題はなかろう。

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2025年11月22日 (土)

次期指導要領「専門部会等」(1) 「民主」育成に総動員で貢献を

本社は以前「次期指導要領の論点整理 今後『太い骨』通せ」と題する社説を掲げた。大きな論議もなく中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)論点整理案(当時)に「民主的で持続可能な社会の創り手」という言葉を盛り込んだのが、いかにもお行儀よく見えたからだ。

議論の場が「専門部会等」の場に移って約2カ月、そうした主張を修正しなければならない。文部科学省事務局(初等中等教育局教育課程課)が、案外本気で方針を教科等ワーキンググループ(WG)に徹底しようとしていると気付いたからだ。各WGでも、提起を前向きに受け止めようと発言が相次いでいる。

「持続可能な社会の創り手」は、第4期教育振興基本計画の二つのコンセプトの一つでもある。実はそれも軽く感じた理由だったが、そこに「民主的な」を付けたとことで今日的な意義を増した。民主主義の危機は、国際秩序を無視した一部の国や元首の振る舞いはもとより国内外での排外主義の広がりにみられる通りだ。デジタル技術の進展が、それに拍車を掛けている。

その前にある「自らの人生を舵(かじ)取りする力」も、そう考えると自己実現以上の意義を帯びてくる。予測不能で変化の激しい時代への対応というだけでなくフェイクニュース(偽情報)や切り取り情報に振り回されず自ら考え情報を集めて判断し行動することが、ますます求められるからだ。

情報活用能力の育成強化も、そうした文脈でこそ意味を持つ。決して生成AI(人工知能)やイノベーション(革新)にさおさす政府方針に追従するだけではいけない。

論点整理では見方・考え方を、より良い社会や幸福な人生につなげることを視野に入れて教科を学ぶ本質的意義とした。旧来の見方・考え方が教科内容を学ばせるにとどまっていたとするなら、「シン見方・考え方」とでも呼ぶべきものだ。気候変動や原発再稼働など複雑な問題にしても、あらゆる教科等のシン見方・考え方を総動員して教科等横断に働かせてこそ納得解が得られよう。

前回改訂時のように言語能力のWGが設けられたわけではないが、ますます重要性を帯びる異質な他者とのコミュニケーションと合意形成のためにも国語や外国語を学ぶ現代的意義がある。社会参画に関わる教育も、「中心」とされた特別活動や社会科系教科だけが担うものではない。

方法論として「『好き』(興味・関心)を育み、『得意』を伸ばす」「当事者意識を持って、自分の意見を形成し、対話や合意ができる」を両輪で掲げているのも最初は平板な表現に感じたが、これからの子どもたちが生き抜かなくてはならない社会を念頭に置けば有効性は大きい。

問題はそうした時代への危機意識を全国100万の教職員が共有し、授業実践に落とし込めるかだ。単に担当教科や学校の課題だけ見ていては、子どもたちに「武器」を持たせず対立と分断の新自由主義社会に放り出すことになりかねない。教室や職員室を眺めるだけでも、社会や世界とつながる課題の本質が見えてくるはずだ。

現行指導要領もそうだったが、2040年ごろまで実施される次期指導要領はそれほど重い意義を持つ。改めて各教科等や個々の授業で何が貢献できるかを考え、真に平和で民主的な社会・世界の担い手を育成するために総動員しなければならない。

9月24日から始まった特別部会・WGの動向を受け、連続で論じていく。なお本社ではこれまで前回改訂を踏襲して「教科等WG」と総称してきたが、今後は総則・評価特別部会の役割が突出していることを受けて文科省表記に倣い「専門部会等」を原則とする。

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2025年10月 9日 (木)

TALIS結果 指導要領改訂にも本気の条件整備を

経済協力開発機構(OECD)が7日、第4回となる国際教員指導環境調査(TALIS)の2024年結果を公表した。折しも中央教育審議会の下で、学習指導要領の改訂論議が具体的に進んでいる。結果を基に、教職員定数改善を含めた条件整備を本気で検討すべきだ。

どうしても日刊紙報道で注目されるのは「世界一忙しい」教員の実態だが、これについては既に詳細な国内調査がある。22年度の教員勤務実態調査結果をもって「全ての教育委員会が総合的に取り組む段階から、解像度を上げて、具体的な取組に向けた支援と助言を行っていく段階に移行」(24年8月の中教審答申)すると宣言しているのだから、今後も大きく改善することは期待できない。

人工知能(AI)活用も多くが取り上げていたが、これも文部科学省が小学校で慎重な取り扱いをしている段階だから驚くに当たらない。むしろ情報通信技術(ICT)の活用に、国際平均より積極的であることを評価すべきだろう。

危機感を持って受け止めるべきは「主体的・対話的で深い学び、探究的な学習等の視点から授業ができていると感じている教員」(文科省発表資料)の割合だ。現行指導要領の改訂ポイントである「知識が役立つことを示すため、日常生活等での問題を引き合いに出す」教員の割合は小、中学校とも64%台と前回(18年=現行指導要領の移行措置初年度)に比べ10ポイントほど増えたものの、国際平均には10〜15ポイントほど及ばない。

「批判的に考える必要がある課題を提示する」教員は20%前後で、60%前後の国際平均からは程遠い。「明らかな解決法が存在しない課題を提示する」は国際平均自体が40%を割っているが、日本はそれより10ポイント前後も低い。いずれも前回に比べれば改善しているものの、次期改訂を展望するには課題が残ったと言わねばならない。

というのも中教審の教育課程企画特別部会(企特部会)「論点整理」は予測困難な時代に「自らの人生を舵(かじ)取りする力と、内なる国際化やデジタル時代に「民主的な社会の創り手」の育成が喫緊の課題だとしているからだ。論点整理の正式決定さえ待たずに次々と発足している教育課程部会の「専門部会等」(教科等ワーキンググループ)でも、これらを「改訂論議を貫く三つの方向性」(「主対深」、多様性の包摂、実現可能性)とともに徹底させようとしている。

OECDの「ラーニング・コンパス(学びの羅針盤)2030」でも、変革をもたらすコンピテンシー(資質・能力)として1新たな価値を創造する力2対立やジレンマに対処する力3責任ある行動をとる力――を位置付けている。現行指導要領も、OECDのEducation2030プロジェクトと「同期」して改訂したはずだった。

10年前に比べ、世界のみならず国内でも分断が深刻化しつつある。今こそ課題を発見して対立を乗り越え合意を得て実行に挑戦する力が不可欠となっており、それに貢献する指導要領が待ち望まれる。今回のTALIS結果を真摯に受け止め、改革を進めてほしい。ラーニング・コンパスに対応して策定が進む「ティーチング・コンパス」も、ぜひ参照すべきだ。

それにつけても異様なのは企特部会と両輪を成すはずの教員養成部会「論点整理」が、いまだに成案を得ていないことだ。9月19日の会合で、メールのやり取りを経る条件付きながら部会長一任を取り付けたはずだった。この日に設置を決めた二つのワーキンググループも当然、始まっていない。このままでは指導改善も、片輪とまでは言わずともバランスの悪いものになりかねない。片側の車底を擦りながらの運転を、現場に強いるつもりなのか。

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2025年9月30日 (火)

次期指導要領の論点整理 「個別最適」上書きの違和感

中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)は25日、論点整理を正式決定した。総論として意義を唱えるものではない。むしろ前回改訂時(現行学習指導要領)に済ませておくべきだった「宿題」を10年後やっと行っている、とみている。今回の改訂論議は現行指導要領を「熟成」(石井英真・京都大学大学院准教授)させるものだというが、図らずも現行指導要領が「未成熟」だということを示していよう。

ただし、細かい点では異論がある。その最たるものが、総則の「個に応じた指導」を「個別最適な学び」に置き換えようとしていることだ。

文部科学省が「個別最適」という用語を公式に使ったのは2018年6月、林芳正・文部科学相の下に設置された懇談会の省内タスクフォース(特別作業班、TF)報告書「Society 5.0 に向けた人材育成〜社会が変わる、学びが変わる〜」が初めてだった。しかも「公正に個別最適化された学び」という、微妙な言い回しをしていた。

というのも「個別最適」の出どころが、経済産業省の「『未来の教室』とEdTech研究会」だったからだ。文科省TF報告書の20日後に出た第1次提言では「個別最適化学習」という形で登場している。当時は「安倍一強」の下、政権の威を借りた経産官僚が幅を利かせていた。他省庁の政策に手を突っ込むことをいとわないのは、旧通産省以来のDNAである。

新型コロナウイルス禍を経て出された21年1月の中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜」(令和答申)は、「個に応じた指導」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」だと整理した。それ以来、個別最適な学びと協働的な学びは授業改善の基調となっている。

ただ、学校現場には「現行指導要領は『主体的・対話的で深い学び』を目指すはずではなかったのか。別のものを提起するのか」という戸惑いもあったのも事実だ。そうした用語をどう整理するかが、改訂論議の一つの注目点だった。

論点整理は改訂論議を貫く三つの方向性の筆頭に「『主体的・対話的で深い学び』の実装」を掲げる一方、「『個に応じた指導』を発展的に置き換える形で」個別最適な学びに整理するよう提言した。前回改訂後に浮上した令和答申の基調を指導要領上も正式に位置付けるという意味では、無理がないと言えるかもしれない。とりわけ教育心理学や教育工学の研究者にとって「個別最適」という用語には、抵抗感がないようだ。

後に企特部会委員となる溝上慎一・桐蔭横浜大学教授は20年10月の教育課程部会ヒアリングで、個別最適化学習とは人工知能(AI)のアルゴリズム(処理手順)のことで「学習」は教育での「学び」ではないと指摘していた。要するに、「教育の言葉」ではない。

これまで教育現場は、長く「上から降ってくる」教育改革に悩まされ続けてきた。現場発の教育改革では、必ずしもなかったからだ。今回も「個に応じた指導」という現場にもなじんできた言葉を、教育界以外から出てきた「個別最適な学び」に上書きするということになる。なぜ「個に応じた学び」ではいけないのか。

企特部会主査の貞広斎子・千葉大学副学長は1月29日の教育課程部会で、今回の改訂論議では現場教員の「共感と納得」を意識したいと表明していた。企特部会にはほぼ毎回1000人以上のオンライン傍聴があり、論点整理素案が示された第12回(9月5日)に至っては1779人に及んだ。論点整理を了承した25日の同部会でも、貞広主査は「WGもぜひ現場の先生は視聴して(改訂論議に)間接的に参画してほしい」と呼び掛けている。

一方で、会合に興味があっても多忙で視聴できないのが現場実態である。文科省から文書で視聴を要請された都道府県・指定都市教委の指導主事から次々と降ってくる改訂関係の資料を、依然として受け身で眺める教員が多数派ではないか。しかもそれが現場にとってピンと来ない用語で語られては、そう簡単に「記号接地」(企特部会委員の今井むつみ・慶應義塾大学名誉教授)するとは思えない。

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2025年9月11日 (木)

次期指導要領の「論点」 研究・研修は国の責任で保障を

次期学習指導要領を巡る中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)「論点整理」素案は、義務教育段階での柔軟な教育課程編成を目指して「調整授業時数制度」の創設を打ち出した。

教育課程の柔軟化自体に、異を唱えるものではない。最も気になるのは、生み出した調整時数を「授業や指導の改善に直結する組織的な研究・研修等に充てることも可能とする方向で、その上限と類型についても具体的に検討すべき」だとしている点だ。

「中核的な概念」を基に構造化された指導要領で資質・能力を育むには、今以上にカリキュラム・マネジメント(カリマネ)と校内研究・研修が欠かせない。次期指導要領の成否を左右する、と言ってもいいだろう。

そうであるならば、教育課程編成上の全国的基準である指導要領の規定で一定時数を保障すべきではないか。「可能とする」では、弱い。

そもそも教員の多忙化で今、個々人が授業研究・教材研究にかける余裕がなくなっている。その上に全校的視野からカリマネを考え、授業を改善することを「個業」に任せるのは無理がある。結果的に、同僚性の発揮どころか「孤業」化すら招いている。若手教員の早期退職も、そうした側面が否めない。

論点整理が示すような次期指導要領の方向性を実現するには、ますます教職の自主性・創造性を発揮することが求められる。「基本的な考え方」の中でも当事者意識(オーナーシップ)の必要性が指摘されているが、現行指導要領下でも「上から降ってくる」改革への「やらされ感」が強まってしまっている。それが、ますます「多忙感」に拍車をかけているのが実態ではないか。

そんな状況に歯止めをかける第一歩が、研究・研修時間の保障だ。改訂論議を貫く三つの方向性の第3に「実現可能性の確保」を掲げるなら、なおさらだろう。教員養成部会で検討しているように、「高度専門職」を担保する一策にもなる。

もっと言えば、調整授業時数で「教科標準時数を下回ることが可能な範囲」とか「裁量的な時間の上限と類型」を具体的に検討するよう求めている点も気になる。思い切って現場の裁量に任せるぐらいでないと、またぞろ「上」の顔色をうかがわないと授業改善ができない「やらされ改革」になってしまう。

もちろん、過去あったように「いいかげん」な教育実践が横行しては困る。しかし今は地方教育行政にも学校にも説明責任が求められているし、全国学力・学習状況調査(全国学調)を導入したのも国が学力向上に直接関与するためではなかったか。現場の意欲をかき立てるどころか、減退させるような指導要領であってはならない。その点は、現行指導要領でも薄かったところだ。

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2025年9月 6日 (土)

次期指導要領の論点整理 今後「太い骨」通せ

中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)第12回会合が5日に開催され、論点整理の素案を審議した。次回19日の会合で修正した論点整理案を固めた後、教育課程部会に報告して総則・評価特別部会や教科等ワーキンググループ(WG)につなげたい考えだ。

素案は前回改訂時(2015年8月)のような文章形式ではなくスライド形式を採っており、参考資料を除いても100ページを超える(前回53ページ)。過去の会合で示した「論点資料」13本のエッセンスを第2〜7章にまとめ修正を加えるとともに、第1章「次期学習指導要領に向けた基本的な考え方」と第8章「今後のスケジュールや検討の在り方等」を新たに起こした。字が多いので、ポンチ絵(概念図)と言うより「ポンチ字」とでも呼ぶべきだろうか。

「11回にわたる検討の結果を暫定的に取りまとめ、今後の本特別部会における更なる検討の深化や各WG等での検討の前提として整理した」(目次)という限界はあろう。今回の改訂が、現行指導要領の実施状況を見ながら検討を加える形で議論を進めたという性格にも左右される。緻密な論議には頭が下がりつつ、物足りなさも感じる。分厚い量に比して「太い骨」が通っていないように見えるのだ。

第1章では「生涯にわたって主体的に学び続け、多様な他者と協働しながら、自らの人生を舵取りすることができる、民主的で持続可能な社会の創り手を『みんな』で育むため」1「主体的・対話的で深い学び」の実装(Excellence)2多様性の包摂(Equity)3実現可能性の確保(Feasibility)――を三位一体で具現化するというコンセプトを打ち出している。それ自体、文句のつけようがない。しかし、どこか現状に対する危機感が薄くないだろうか。

過去2回の改訂を担当した合田哲雄・現文部科学省高等教育局長は前回改訂以降、事あるごとに「民主制の危機」を指摘していた。米国連邦議会襲撃やロシアのウクライナ侵攻に衝撃を受けたのが契機だったというが、その後も米大統領に返り咲いたドナルド・トランプ氏の専制的な振る舞いやイスラエルによるジェノサイド(大量殺害)など危機は深まるばかりだ。国内を見ても、SNSによるエコーチェンバー(似たような意見の反響)現象とフィルターバブル(外の情報から切り離された状態)の進行は著しい。

生成AI(人工知能)の無自覚な利用は思考力や判断力を損なわせ、フェイクニュース(偽情報)に踊らされた排外主義は「多様性の包摂」の障害ともなる。民主制の危機は「主体的・対話体で深い学び」の危機でもあることを、今こそ真剣に受け止めるべきだ。

危機感の薄さは、各論にも反映する。例えば「子供のより主体的な社会参画に関わる教育の改善」では特別活動の役割が強調されているが、情報活用能力に比べ軽すぎないか。むしろ想定外の危機にも自分で情報を集め、自分で考え判断し行動できる市民性教育こそ全面に打ち出すべきである。

そう考えると、「実現可能性の確保」も軽く思えてくる。今や子どもたちが考えなくなっているだけでなく、多くの教師が教育改革に対して判断停止状態に陥っている。論点整理の提案を実効性あるものにするには現場の裁量発揮が不可欠だが、その「体力」が現場に減退して久しい。そんな時に、標準はあくまで標準であり現場の裁量に任されるという原則論を振り回すばかりでは「オーナーシップ」(当事者意識)の持ちようもない。学校設置者や服務監督者の責務だという建前もあろうが、だからこそ教育条件を整備するのが国の役割ではないか。

もちろん論点整理はWG等につなげるのが役割だと考えれば、今後「審議まとめ」や答申までに記述を充実させればいいという考え方もできよう。しかし、今から時代の危機認識を強く持って議論すべきだ。一部委員の言うように今回の改訂が「画期的」だとしたら、なおさらである。混迷の2040年に備えた、骨太の改訂にすべきである。

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2025年9月 4日 (木)

養成・採用・研修改革 本当に「論点整理」する気か

以前の社説で、中央教育審議会の教員養成部会が論点整理の議論に入ることに懸念を表明しておいた。不安は的中した、というべきだろう。

1日に開催された会合の冒頭で部会長の秋田喜代美・学習院大学教授が、今回と次回で「論点整理」をまとめ「今後」の議論につなげたい考えを明らかにした。その後、事務局が論点整理の素案を説明。秋田部会長が「記載されていないアジェンダ(課題)」についても意見を求めると、出るわ出るわ。昨年12月末の諮問以来8回で一体、何を議論していたのかを疑わせるに十分だった。

素案は、これまでの会合で示された三つの「諮問を踏まえ議論が必要と考えられる事項と基本的な考え方(案)」を足して若干の文章を付け加えたにすぎない。過去の会合で丁寧な議論がなされていれば、若干の修正を重ねればいいはずだった。だからこそ2回の議論でまとまる、と事務局はもくろんでいたのだろう。

確かに、数人の委員から「よくまとまっている」という評価はあった。しかしそれは単に文章の形式がまとまっているという意味か、お世辞でしかないだろう。養成段階での「教師となる際に必要な最低限の基礎的・基盤的な能力」(論点整理素案)とは何かすら突っ込んだ議論はなく、教職課程の単位数減を提言するに及んだ。しかも一般大学と、教員養成大学・学部の区別なしにである。

「日本版サプライティーチャー」の議論も、そうだ。ヒアリングで紹介された英国イングランドの制度をそのまま盛り込んだだけで、質の確保も含め具体策は「今後検討すべきではないか」(同)と論点整理後のワーキンググループ(WG)に丸投げしている。教師不足に窮した末の、安直な「ではの守」論議と言っていい。

教育課程企画部会(企特部会)の主査も務める貞広斎子・千葉大学副学長の「(目的と手段の)主客が逆転している」という指摘が、象徴的だ。「制度の根本に立ち返った検討」(昨年12月の諮問理由)もなく、対症療法的なアイデアを生煮えのまま無造作に並べたにすぎない。秋田部会長でさえ論点整理の「構造化」やコンセプトのまとめ直しを要請したが、そんな手直し程度の修正で本当に「論点」が「整理」できるのか。

事務局が「大学における養成」と「開放制」という戦後教員養成の原則を、知らないわけはあるまい。しかし今回の経緯を見ていると、この原則を安易に考えすぎているのではと疑われてならない。そうでなければ2種免許相当の単位数を「標準」に読み替えようとしたり、教員資格認定試験の民間参入に道を開いたりするなどという発想は出てこないはずだ。

今回の顛末(てんまつ)は、とにかく事務局が月1回の会合に合わせて論点整理時期から逆算したスケジュールを淡々とこなそうとしたことに起因しよう。それも企特部会のように事務局案が練りに練ったものであれば、考えられないことではない。しかし事務局の準備も提案もおそまつであれば、委員も議論のしようがない。

事ここに至っては、仕方がない。まとめの時期を遅らせてでも、抜本的な議論をやり直すべきだ。どうせ現段階で論点整理をまとめたところで教員の質確保・向上も教員不足対策も、できるわけがない。

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2025年8月24日 (日)

学校の働き方改革 既に泥沼化している

どうしても昭和100年・戦後80年の8月は、いま起こっている事象を過去の歴史と比較してしまう。19日に開かれた中教審「教師を取り巻く環境整備特別部会」第2回会合を聞いていて学校の働き方改革が、宣戦布告もなしに泥沼化した日中戦争からずるずると太平洋戦争に突入したのと同じように思えてきた。

この日の会合では、教員給与特別措置法(給特法)改正を受けた「服務監督教委が講ずべき措置に関する指針」の見直し案が示された。法改正により、教委が業務量管理・健康確保措置実施計画を定めるとともに「学校・教師が担う業務の3分類」も位置付けることになったからだ。

実施計画には、政府が時間外在校等時間を月平均30時間程度に削減することを目標にしていることから▽月の在校等時間が40時間以下の割合を100%にする▽1年間で月平均30時間程度になることを目指す――ことを求め、内容や実施方法は「地域の実情に応じて決める」としている。

とりわけ注目されるのが、3分類の見直しだ。分類の名称も▽基本的には学校以外が担うべき業務→学校以外が担うべき業務▽学校の業務だが、必ずしも教師が担う必要のない業務→教師以外が積極的に参画すべき業務▽教師の業務だが、負担軽減が可能な業務→教師の業務だが負担軽減を促進すべき業務――に変更された。保護者や地域住民の積極的な参画や、事務職員の役割にも期待している。

会合では、3分類の改正については総論賛成が得られたものの細部では要望が相次ぎ、修正は部会長に一任された。また多くの委員が訴えたのが、財源確保の必要性だ。これに対して文部科学省事務局は「国がどこまで手取り足取り一律に言うかどうか悩ましい作業をしている」「間もなく概算要求があるので、いま取り組んでいる」などと、口調はともかく内容的には通り一遍の官僚答弁に終始した。

まず出発点から確認しておこう。働き方改革が課題となったのは、2017年6月に中教審諮問があってからである。それに先立って行われた16年度勤務実態調査では小学校教諭の3割、中学校教諭の6割が「過労死ライン」にあることも明らかになった。

19年1月の答申は、仕方のない面もあった。そもそも管理職が、教職員の勤務状況すら把握していなかったからだ。そんな状況では、財務省に予算要求のしようもない。そのため3分類を定めて業務削減に努めるとともに、その後のことは勤務実態調査を行って改善状況を見てから考えようというものだった。

当然、改善できなかった部分は新たな条件整備が必要になるということも含まれていたはずだ。しかし24年8月の答申は22年度調査に比べ「約3割減少」したことを「教育委員会や学校の尽力の成果」としながらも、取り組みに差がみられるとして「全ての教育委員会が総合的に取り組む段階」から「解像度を上げて」支援と助言を行っていく段階に移行すべきだとして済ませた。

「あいまいな戦略目的」「短期決戦の戦略思考」「主観的で『帰納的』な戦略策定」「狭くて進化のない戦略オプション」「人的ネットワーク偏重の組織構造」......。日本軍を組織論的に研究した名著『失敗の本質』(1984年、現在は中公文庫)が数多く当てはまってしまうように思えるのは、気のせいだろうか。国から地方、学校現場に至るまで「学習を軽視した組織」になっているとしたら皮肉である。

これはもう、改革を一からやり直さないと無理ではないか。戦前に例えれば官・軍・民の若手による内閣総力戦研究所のシミュレーションで必敗が明らかになったのに、データより「空気」で開戦に突入し想定通りに展開した愚を繰り返すようなものである。挙げ句の果てには非科学的な「特攻」を経て「本土決戦」を竹やりで準備しろ、と言われても困る。

今こそ教職員定数を算定基礎から見直すなど、財源も含めた抜本的な条件整備の戦略を描くことが不可欠である。ここで立ち止まる勇気を持たないと、取り返しがつかなくなるかもしれない。既に現場には、あちこちに危機の兆しが噴出しているとみた方がいい。

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2025年8月24日 (日) 社説 | 固定リンク | コメント (0)
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2025年8月15日 (金)

戦後80年 二度と戦争をしない教育課程に

戦後80年を迎えた。昭和史研究家の保阪正康氏は今年の「昭和の日」に北海道大学で行った講演の中で、江戸時代の265年間ただ一度も戦争をしなかった日本が明治維新後から敗戦までの近代史77年間のうち50年間「戦争ばっかりやってい」たと指摘。近代史に戦後の現代史を合わせても157年間と、江戸時代に100年以上も足りないと注意を促している(『保阪正康と昭和史を学ぼう』文春新書)。

「戦を避けるための知恵」(同)があった国が、なぜ無謀な戦争に突き進んだのか。学校教育や社会教育も、責任を逃れ得ない。教育勅語の発布(1890年)は日清戦争、文部省編『国体の本義』も太平洋戦争の、いずれも開戦4年前だ。

25年を1世代とすれば、既に3世代分から5年が経過している。保阪氏も言うように「戦争はいわゆる『同時代』の枠の中から、『歴史』へと移り、戦争というものを皮膚感覚で知る社会ではなくなった」(NHK、14日電子版)。

もっとも「歴史」は、知識として教える・覚えるものにとどまらない。例えば現行学習指導要領の中学校社会科歴史的分野も、知識・技能のねらいを「我が国の歴史の大きな流れを、世界の歴史を背景に、各時代の特色を踏まえて理解するとともに、諸資料から歴史に関する様々な情報を効果的に調べまとめる技能を身に付けるようにする」としている。

一方で某与党政治家のように、歴史は「書き換え」たり「作る」ことが可能だという認識が依然としてはびこっている。議席を伸ばした新興政党の歴史修正主義的発言がネットで拡散している状況も、気に掛かる。またぞろ検定教科書の細かい記述が政争化されては、たまらない。

以前も論じたが、太平洋戦争末期の航空機による「特攻」は人道にも物理法則にも反した戦術である。希望的主観から人命無視の非合理な作戦を立案・指揮した者の責任をこそ問うべきで、決して兵員の「心情」に帰着させてはならない。

現行指導要領は、予測困難な時代に一人一人が未来の造り手となるべく「社会に開かれた教育課程」を打ち出した。現在その延長線とも言うべき改訂論議が進んでいるが、今のところ各論が精緻過ぎて「骨」が見えていない。超大国の専制化をはじめ国内外の価値観が揺らぐ中、再び戦争を行わないための教育を隠れたテーマとすべきだろう。それだけ今は民主主義が危機に瀕しているのであり、戦争に巻き込まれれば「失敗の本質」(戸部良一ら著の同名書、中公文庫)を繰り返すことは必定だ。

「(日本国憲法の)理念の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」――戦後に制定された教育基本法は、前文でこう高らかに宣言した。2006年の「改正」でこの一文は消えてしまったが、「平和で民主的な国家及び社会の形成者」(1条)を育成するという趣旨は継続されている。危機の時代に備える市民性教育こそ、憲法・教基法に基づく戦後教育を現代的によみがえらせる道だ。

保阪氏は出身地の地元紙・北海道新聞のインタビュー企画で、小学校高学年のころ「陸軍大将になりたい」と作文に書いた同級生を何度も平手打ちした男性教諭が後年「戦死した仲間を思い出して耐えられなくなったんだ」と打ち明けたことを振り返っている(「保阪正康が見た戦争」上、11日付)。「教え子を再び戦場に送るな」という戦後教職員組合のスローガンは、敗戦前の教育を反省しただけではない。現場教員はもとより師範学校生も出征し、傷を負った心からの叫びだったのだ。

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