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2025年9月

2025年9月30日 (火)

次期指導要領の論点整理 「個別最適」上書きの違和感

中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)は25日、論点整理を正式決定した。総論として意義を唱えるものではない。むしろ前回改訂時(現行学習指導要領)に済ませておくべきだった「宿題」を10年後やっと行っている、とみている。今回の改訂論議は現行指導要領を「熟成」(石井英真・京都大学大学院准教授)させるものだというが、図らずも現行指導要領が「未成熟」だということを示していよう。

ただし、細かい点では異論がある。その最たるものが、総則の「個に応じた指導」を「個別最適な学び」に置き換えようとしていることだ。

文部科学省が「個別最適」という用語を公式に使ったのは2018年6月、林芳正・文部科学相の下に設置された懇談会の省内タスクフォース(特別作業班、TF)報告書「Society 5.0 に向けた人材育成〜社会が変わる、学びが変わる〜」が初めてだった。しかも「公正に個別最適化された学び」という、微妙な言い回しをしていた。

というのも「個別最適」の出どころが、経済産業省の「『未来の教室』とEdTech研究会」だったからだ。文科省TF報告書の20日後に出た第1次提言では「個別最適化学習」という形で登場している。当時は「安倍一強」の下、政権の威を借りた経産官僚が幅を利かせていた。他省庁の政策に手を突っ込むことをいとわないのは、旧通産省以来のDNAである。

新型コロナウイルス禍を経て出された21年1月の中教審答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現〜」(令和答申)は、「個に応じた指導」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」だと整理した。それ以来、個別最適な学びと協働的な学びは授業改善の基調となっている。

ただ、学校現場には「現行指導要領は『主体的・対話的で深い学び』を目指すはずではなかったのか。別のものを提起するのか」という戸惑いもあったのも事実だ。そうした用語をどう整理するかが、改訂論議の一つの注目点だった。

論点整理は改訂論議を貫く三つの方向性の筆頭に「『主体的・対話的で深い学び』の実装」を掲げる一方、「『個に応じた指導』を発展的に置き換える形で」個別最適な学びに整理するよう提言した。前回改訂後に浮上した令和答申の基調を指導要領上も正式に位置付けるという意味では、無理がないと言えるかもしれない。とりわけ教育心理学や教育工学の研究者にとって「個別最適」という用語には、抵抗感がないようだ。

後に企特部会委員となる溝上慎一・桐蔭横浜大学教授は20年10月の教育課程部会ヒアリングで、個別最適化学習とは人工知能(AI)のアルゴリズム(処理手順)のことで「学習」は教育での「学び」ではないと指摘していた。要するに、「教育の言葉」ではない。

これまで教育現場は、長く「上から降ってくる」教育改革に悩まされ続けてきた。現場発の教育改革では、必ずしもなかったからだ。今回も「個に応じた指導」という現場にもなじんできた言葉を、教育界以外から出てきた「個別最適な学び」に上書きするということになる。なぜ「個に応じた学び」ではいけないのか。

企特部会主査の貞広斎子・千葉大学副学長は1月29日の教育課程部会で、今回の改訂論議では現場教員の「共感と納得」を意識したいと表明していた。企特部会にはほぼ毎回1000人以上のオンライン傍聴があり、論点整理素案が示された第12回(9月5日)に至っては1779人に及んだ。論点整理を了承した25日の同部会でも、貞広主査は「WGもぜひ現場の先生は視聴して(改訂論議に)間接的に参画してほしい」と呼び掛けている。

一方で、会合に興味があっても多忙で視聴できないのが現場実態である。文科省から文書で視聴を要請された都道府県・指定都市教委の指導主事から次々と降ってくる改訂関係の資料を、依然として受け身で眺める教員が多数派ではないか。しかもそれが現場にとってピンと来ない用語で語られては、そう簡単に「記号接地」(企特部会委員の今井むつみ・慶應義塾大学名誉教授)するとは思えない。

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2025年9月11日 (木)

次期指導要領の「論点」 研究・研修は国の責任で保障を

次期学習指導要領を巡る中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)「論点整理」素案は、義務教育段階での柔軟な教育課程編成を目指して「調整授業時数制度」の創設を打ち出した。

教育課程の柔軟化自体に、異を唱えるものではない。最も気になるのは、生み出した調整時数を「授業や指導の改善に直結する組織的な研究・研修等に充てることも可能とする方向で、その上限と類型についても具体的に検討すべき」だとしている点だ。

「中核的な概念」を基に構造化された指導要領で資質・能力を育むには、今以上にカリキュラム・マネジメント(カリマネ)と校内研究・研修が欠かせない。次期指導要領の成否を左右する、と言ってもいいだろう。

そうであるならば、教育課程編成上の全国的基準である指導要領の規定で一定時数を保障すべきではないか。「可能とする」では、弱い。

そもそも教員の多忙化で今、個々人が授業研究・教材研究にかける余裕がなくなっている。その上に全校的視野からカリマネを考え、授業を改善することを「個業」に任せるのは無理がある。結果的に、同僚性の発揮どころか「孤業」化すら招いている。若手教員の早期退職も、そうした側面が否めない。

論点整理が示すような次期指導要領の方向性を実現するには、ますます教職の自主性・創造性を発揮することが求められる。「基本的な考え方」の中でも当事者意識(オーナーシップ)の必要性が指摘されているが、現行指導要領下でも「上から降ってくる」改革への「やらされ感」が強まってしまっている。それが、ますます「多忙感」に拍車をかけているのが実態ではないか。

そんな状況に歯止めをかける第一歩が、研究・研修時間の保障だ。改訂論議を貫く三つの方向性の第3に「実現可能性の確保」を掲げるなら、なおさらだろう。教員養成部会で検討しているように、「高度専門職」を担保する一策にもなる。

もっと言えば、調整授業時数で「教科標準時数を下回ることが可能な範囲」とか「裁量的な時間の上限と類型」を具体的に検討するよう求めている点も気になる。思い切って現場の裁量に任せるぐらいでないと、またぞろ「上」の顔色をうかがわないと授業改善ができない「やらされ改革」になってしまう。

もちろん、過去あったように「いいかげん」な教育実践が横行しては困る。しかし今は地方教育行政にも学校にも説明責任が求められているし、全国学力・学習状況調査(全国学調)を導入したのも国が学力向上に直接関与するためではなかったか。現場の意欲をかき立てるどころか、減退させるような指導要領であってはならない。その点は、現行指導要領でも薄かったところだ。

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2025年9月 6日 (土)

次期指導要領の論点整理 今後「太い骨」通せ

中央教育審議会の教育課程企画特別部会(企特部会)第12回会合が5日に開催され、論点整理の素案を審議した。次回19日の会合で修正した論点整理案を固めた後、教育課程部会に報告して総則・評価特別部会や教科等ワーキンググループ(WG)につなげたい考えだ。

素案は前回改訂時(2015年8月)のような文章形式ではなくスライド形式を採っており、参考資料を除いても100ページを超える(前回53ページ)。過去の会合で示した「論点資料」13本のエッセンスを第2〜7章にまとめ修正を加えるとともに、第1章「次期学習指導要領に向けた基本的な考え方」と第8章「今後のスケジュールや検討の在り方等」を新たに起こした。字が多いので、ポンチ絵(概念図)と言うより「ポンチ字」とでも呼ぶべきだろうか。

「11回にわたる検討の結果を暫定的に取りまとめ、今後の本特別部会における更なる検討の深化や各WG等での検討の前提として整理した」(目次)という限界はあろう。今回の改訂が、現行指導要領の実施状況を見ながら検討を加える形で議論を進めたという性格にも左右される。緻密な論議には頭が下がりつつ、物足りなさも感じる。分厚い量に比して「太い骨」が通っていないように見えるのだ。

第1章では「生涯にわたって主体的に学び続け、多様な他者と協働しながら、自らの人生を舵取りすることができる、民主的で持続可能な社会の創り手を『みんな』で育むため」1「主体的・対話的で深い学び」の実装(Excellence)2多様性の包摂(Equity)3実現可能性の確保(Feasibility)――を三位一体で具現化するというコンセプトを打ち出している。それ自体、文句のつけようがない。しかし、どこか現状に対する危機感が薄くないだろうか。

過去2回の改訂を担当した合田哲雄・現文部科学省高等教育局長は前回改訂以降、事あるごとに「民主制の危機」を指摘していた。米国連邦議会襲撃やロシアのウクライナ侵攻に衝撃を受けたのが契機だったというが、その後も米大統領に返り咲いたドナルド・トランプ氏の専制的な振る舞いやイスラエルによるジェノサイド(大量殺害)など危機は深まるばかりだ。国内を見ても、SNSによるエコーチェンバー(似たような意見の反響)現象とフィルターバブル(外の情報から切り離された状態)の進行は著しい。

生成AI(人工知能)の無自覚な利用は思考力や判断力を損なわせ、フェイクニュース(偽情報)に踊らされた排外主義は「多様性の包摂」の障害ともなる。民主制の危機は「主体的・対話体で深い学び」の危機でもあることを、今こそ真剣に受け止めるべきだ。

危機感の薄さは、各論にも反映する。例えば「子供のより主体的な社会参画に関わる教育の改善」では特別活動の役割が強調されているが、情報活用能力に比べ軽すぎないか。むしろ想定外の危機にも自分で情報を集め、自分で考え判断し行動できる市民性教育こそ全面に打ち出すべきである。

そう考えると、「実現可能性の確保」も軽く思えてくる。今や子どもたちが考えなくなっているだけでなく、多くの教師が教育改革に対して判断停止状態に陥っている。論点整理の提案を実効性あるものにするには現場の裁量発揮が不可欠だが、その「体力」が現場に減退して久しい。そんな時に、標準はあくまで標準であり現場の裁量に任されるという原則論を振り回すばかりでは「オーナーシップ」(当事者意識)の持ちようもない。学校設置者や服務監督者の責務だという建前もあろうが、だからこそ教育条件を整備するのが国の役割ではないか。

もちろん論点整理はWG等につなげるのが役割だと考えれば、今後「審議まとめ」や答申までに記述を充実させればいいという考え方もできよう。しかし、今から時代の危機認識を強く持って議論すべきだ。一部委員の言うように今回の改訂が「画期的」だとしたら、なおさらである。混迷の2040年に備えた、骨太の改訂にすべきである。

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2025年9月 4日 (木)

養成・採用・研修改革 本当に「論点整理」する気か

以前の社説で、中央教育審議会の教員養成部会が論点整理の議論に入ることに懸念を表明しておいた。不安は的中した、というべきだろう。

1日に開催された会合の冒頭で部会長の秋田喜代美・学習院大学教授が、今回と次回で「論点整理」をまとめ「今後」の議論につなげたい考えを明らかにした。その後、事務局が論点整理の素案を説明。秋田部会長が「記載されていないアジェンダ(課題)」についても意見を求めると、出るわ出るわ。昨年12月末の諮問以来8回で一体、何を議論していたのかを疑わせるに十分だった。

素案は、これまでの会合で示された三つの「諮問を踏まえ議論が必要と考えられる事項と基本的な考え方(案)」を足して若干の文章を付け加えたにすぎない。過去の会合で丁寧な議論がなされていれば、若干の修正を重ねればいいはずだった。だからこそ2回の議論でまとまる、と事務局はもくろんでいたのだろう。

確かに、数人の委員から「よくまとまっている」という評価はあった。しかしそれは単に文章の形式がまとまっているという意味か、お世辞でしかないだろう。養成段階での「教師となる際に必要な最低限の基礎的・基盤的な能力」(論点整理素案)とは何かすら突っ込んだ議論はなく、教職課程の単位数減を提言するに及んだ。しかも一般大学と、教員養成大学・学部の区別なしにである。

「日本版サプライティーチャー」の議論も、そうだ。ヒアリングで紹介された英国イングランドの制度をそのまま盛り込んだだけで、質の確保も含め具体策は「今後検討すべきではないか」(同)と論点整理後のワーキンググループ(WG)に丸投げしている。教師不足に窮した末の、安直な「ではの守」論議と言っていい。

教育課程企画部会(企特部会)の主査も務める貞広斎子・千葉大学副学長の「(目的と手段の)主客が逆転している」という指摘が、象徴的だ。「制度の根本に立ち返った検討」(昨年12月の諮問理由)もなく、対症療法的なアイデアを生煮えのまま無造作に並べたにすぎない。秋田部会長でさえ論点整理の「構造化」やコンセプトのまとめ直しを要請したが、そんな手直し程度の修正で本当に「論点」が「整理」できるのか。

事務局が「大学における養成」と「開放制」という戦後教員養成の原則を、知らないわけはあるまい。しかし今回の経緯を見ていると、この原則を安易に考えすぎているのではと疑われてならない。そうでなければ2種免許相当の単位数を「標準」に読み替えようとしたり、教員資格認定試験の民間参入に道を開いたりするなどという発想は出てこないはずだ。

今回の顛末(てんまつ)は、とにかく事務局が月1回の会合に合わせて論点整理時期から逆算したスケジュールを淡々とこなそうとしたことに起因しよう。それも企特部会のように事務局案が練りに練ったものであれば、考えられないことではない。しかし事務局の準備も提案もおそまつであれば、委員も議論のしようがない。

事ここに至っては、仕方がない。まとめの時期を遅らせてでも、抜本的な議論をやり直すべきだ。どうせ現段階で論点整理をまとめたところで教員の質確保・向上も教員不足対策も、できるわけがない。

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