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小春日和に色づく我谷ダムから、山間の林道を抜け、九谷ダム湖を眼下に眺望する展望台に着いた。陽は西に傾き、このダムを取り巻く山々に、澄み切った空と群青色の動かない湖面の景色は一幅掛のようだった。このダム湖は、古九谷焼の「五彩色」にちなんで、「五彩湖(ごさいのうみ)」と命名されたという。

▼大聖寺川の上流には、縄文時代から存在していた江沼郡の「片谷(へぎだに)・坂下・小杉・生水(しょうず)」の4集落は、五彩湖に水没した。九谷の道を左折すると、九谷磁器窯跡に公園化?にするために建設機械が動いていた。道は「県民の森」に向かっている。

▼「県民の森」の中心地で夏のキャンプも楽しめる「杉水(すぎのみず)町」。「百笑の郷」を目指す「そば処・権兵衛」やハイキング・カフェ『マグリノ』などもあり、今年の4月に開館した「赤瓦・煙出し」の古民家資料館」に入った。

▼この村の「吉備神社」の由来を尋ねた。「天照大神に、白山の菊理媛尊(くくりひめのかみ)と吉備津神の三柱を祀っている」という。岡山県には「吉備津神社」と「桃太郎伝説」がある。何故、この山間地に吉備津神を祭る村民がいたのか。

▼小松・金平町の1682年の記録には、金山があった。金鉱脈を探すために吉備国からの「採掘集団」がいた、との由来記を見たことがある。鞍ヶ嶽金山、九谷金山、尾小屋銅山などの記録もある。

▼九谷焼は江戸前期の1655年ごろからはじめた。それまでは九谷金山で大聖寺藩の役人「後藤才次郎」が牢獄人を使って「金」を掘っていた。が、良質の陶磁器陶土を発見したことから、徳川幕府から目立たないように、偽装工作で九谷焼窯を作った。

▼金平町には、吉備?から来た「関・・・姓」が多い。小生も「関・・・」の末裔らしいから、若い頃から関心があった。古九谷磁器釜跡を訪ねて、「吉備津神」を祀る吉備国人が永住し、九谷で金山を発掘していた。そんな歴史ロマンを楽しみながらの「紅葉狩り」だった。

1962年7月1日。第6回参議院選挙が行われた。選挙権を得てはじめての投票に興奮した。地方区は林屋亀次郎に投票した。辻政信は、3年前に全国区で出馬して、第3位の得票を得た有名人だったことを、高校生の少年は知っていた。

▼昭和27年の衆議院選挙に初当選した「辻政信」。当方はまだ小学生だったが、確か7万票の最高得点だった。「作戦の神様」と言われていた。後から知ったが「潜行三千里」の著書がベストセラーだったという。それから、しばらくして国会議員の肩書きで、東南アジアを歴訪中に姿を消したというニュースを聞いた。

▼江沼郡の山奥で生まれ、「炭焼き」の子で生まれた辻政信は、「えらい者になれ」と親から言われて育ったという。昭和20年サイゴンで終戦を迎えた前線で高級参謀は、部下の青年士官と共に僧侶に化けて部隊を逃げ出した。このころ小生は、母親の実家の動橋で、富山の空襲を見ていた3歳児であった。

▼サイゴンから逃げ出し、中国大陸を戦犯として逃げ回っていた時期の真実は誰もが知らない。「潜行三千里」を読んでいないが、事実であろう。だが、所詮小説である。

▼昭和17年。日本軍はマニラ・シンガポール占領して、ミッドウエー海戦のころ。大本営派遣参謀として、辻参謀は40歳。この年に我輩は生まれた。そして、昭和36年4月。ラオス・ハノイ訪問に出発後消息を絶つ59歳。当時の池田首相はケネディと会談。小生は東京オリンピック前の東京で就職していた。

▼辻政信と、うまれ育った時間も場所も、生きた環境も違ったが、20年足らずだが、同じ時代を生きていた。戦場での生死は、何で決まるのか。戦犯裁判も逃げ、逃げた戦地で生き延び、それをネタにした本が売れ、有名人で選挙に勝ち、そして、消えた。

▼7日後に、政信を知らない若い世代が乗ったバスで、今立町の「辻政信銅像」に立ち寄る。ちょっと、聞いてみよう。「えらく(辛く)なって」、戦場に戻って死んだのか。

静かな大聖寺駅前通りに向かって、安置されている地蔵菩薩の「道祖神」は、秋の日差しで輝いていた。若手起業家の成功を祈るために設置されて、もう、5カ月も経った。スタートまもなく取り組んだ移動の「定住化促進セミナー」は、4回目を11月22日に開催する。

▼加賀市が県外から「地域おこし協力隊」を募り、定住促進を発足した。そんな加賀市の歴史文化を民間の有志らが、「見て触って学ぶ」ことで、定住化促進に役立てもらいたい。と、毎月1回、加賀市のマイクロバスで案内している。

▼説明役の講師は、歴史に詳しい専門家がボランティアで加わり、地元で地域興しに活動する人が入れ代わって登場する。そんな中に、毎回、加賀市内で起業した「健康ストレッチジム」の新潟県出身の羽深勇基さんと、北陸で瞑想を普及させたいという小松市の岩井伸太郎さんが、スケジュールにあわせて普及活動に毎回参加している。

▼加えて、このユニークな地域活動をキャッチした、地元のケーブルテレビらのマスコミが、第1回目からマイクロバスを追っかけて取材している。今度の「ぐるっと廻る」方面は、加賀東谷重伝地区と山中温泉。

▼前回から、若い起業家メンバーの仲間から、2人の起業家が参加している。そのうちの一人が宮崎県出身の若い整体師(カイロプラクテック)のナガトモさん。仲間の羽深式トレーニングジムのスペースを間借りして、施術している話を聞いた「活性化サロン」の瀬戸事務局長は、支援を即断した。

▼「サロンの2階スペースを使ってもらう」。この会議室の使用頻度は少ない。施術台のスペースもある。サロンに集まる不特定多数の人にも宣伝できる。独り立ちできるまで支援しよう。「出世払い」という風習は死語になったが、いま時、珍しい「大聖寺の奇特な人」が目の前にいた。

3日後には、満月になる上弦の月が、秋の「釣瓶落とし」の空に見えた。気ぜわしい思いだけが先に発つが、行き当たりばったりの習慣が身についている。旬の「ズワイガニ」も店頭に並んでいたが、見て見ぬ振りして通り過ぎ、昨夜は、ポリ袋に入った「おでん」にした。

▼恒例の「忘年会」へのお知らせが、2つもあった。定年後に勤めた勤務先のOB会は、今月の24日に、金沢駅構内の飲み屋でやる。もう一つは、12月6日に山代温泉の旅館で、ボランティアのメンバーの忘年会。

▼「今年また忘年会に声掛かる 吾亦交」。いずれも、定年後に縁あった仲間が集う忘年会でもある。永年、同じ飯を食べた職場での共通話題もない、寄り集まった再就職先の仲間の会。町の活性化にボランティアとして集まった仲間たちでもある。そんな2つの会でも、最年長の方でもある。

▼毎日、「五感」の反応が衰えていることを自覚する。見かけの「五体満足」でも、反応は退化している。「あるがままの素地」を素直に出すことが、一番健康的だと、後輩に教えられた。だが、硬くなった脳みそは簡単に反応しない。「頑固」、「一徹」、「意固地」の漢字が先に出る。

▼「老いては子に従え」という格言がある。現役時代には、先輩としての職務経験が優先された立場であったが、退役後の昨今は、世相の流れが速く、時代の流れについて行けない当方は、後輩から教えられることばかりである。

上弦の月は、これから満月に向かう時の半月。基礎を固めた時期から、行動に移す時期でもある。そのため積極的に行動しやすくな。ほかの人とのコミュニケーションも円滑にいきやすく、様々なことにチャレンジし、頑張るパワーがあるときでもあるという

▼茹で上がった「おでん」には、いろんな具材に交じって、いい味に浸み込んだ二つの満月の玉子があった。晩酌の肴の一つから、柔軟な思考力を訓練する秋の夜長であった。

選挙人の過半数を取ったのはトランプ氏。総得票数ではヒラリーさんが多かったらしい。日本の戦挙とはシステムが違うので、きのうはテレビを見ているだけだった。予想外の「トランプ、トランプ・・・」で、半世紀前の青春時代に、トランプゲームで遊んだ「ババ抜き」に似た「ジョーカー抜き」や「ポーカー」を懐かしく思いだした。

▼アメリカ大統領選を予測する専門家でも意外な結果だったという。そんな選挙戦を門外漢がテレビからみた選挙戦をふり返ってみた。全国遊説で政治家としての経歴も無いトランプ氏の爆弾発言は、「切り札」の筋書きがあったようだ。政策を語らず、相手のメール事件などをネタを攻撃をして喧嘩を売る。

▼この「ポーカーフェース」の戦略に、ヒラリとかわせずに、まんまと乗ってしまったアメリカ初の女性大統領候補だった。この「トランプゲーム」は、欧州から日本に16世紀ごろ伝わったらしい。本場では「プレイング・カード」と言うが、世界で「トランプ」と言うのは日本だけらしい。欧州ではトランプを「切り札」と呼んでいた。

▼「ポーカー」の札の組み合わせで最強は、「ロイヤルストレートフラッシュ」から始まって9番目の「ワン・ヘアー」まである。「A・2・3・・・10・J・Q・K」の13枚が4組(スペード・ハート・ダイヤ・クロバー)で52枚とジョーカーを加えると53枚のカードがある。

▼トランプカードには、ランク付けがある。1のスペードは貴族、2のハートは僧侶、3のダイヤは商人、4のクロバーは農民の意味があるから、トランプ氏は不動産王の「ダイヤ」の商人。ヒラリーさんは、ファースト・レディーの上院議員で元国務長官という、「スペード」の貴族でもある。

▼スペードのカードを持つクリントンさんが負けたのは、トランプ氏の「切り札」でもある「ポーカーフェース」に翻弄されて、負けたのであろう。

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