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2014年12月

年末年始の休暇を楽しんでいる。休暇に入って3日目になった。年末の掃除はまだやっていない。気持ちはこれからやりたいが、腰が上がらない。この二日間はテレビ漬けで、日ごろは部分的に見ているが、ランダムに通しで見るのは久しぶり。

▼ひと昔、「ながら族」という流行語があった。付けっ放しのテレビを見ながら、パソコンを作動。挿入しているDVDの音楽を聴きながら、時には、タバコをくわえて、2冊の本を交互に読んでいる。

▼落ち着かない「ながら族」だ。だが、日常の行動は、「マルチ」でない。二つの荷物を持つと一つを忘れることが日々多くなってきているから、「悟る即ち立つ」の毎日である。明日やるという予定が当てにならない。こんな症状を「ボケ進行」というらしい。

▼高齢化が進む社会に、活力を与えるテレビ番組を途中から見た。一点集中主義というのか、カメラを持って旅する老人の特集らしい。「耳をすませば2・・・情熱と観察」という表題だが、全部を見ていない。しかし、途中の映像からでも、何かピリッと光るものを感じた。

▼持ち主の意図はわからないが、旅先の町家の周辺にある変わった構築物に「芸術美」を感じる。そんな景色を撮影している人を追っている番組だった。「路上探歩」をしながらから、「老人力」を謳歌している。故「米倉斉加年・赤瀬川良平」という「マルチ人間」は、そんな「こだわり人生」を楽しんだという。

▼きのう、大聖寺の街中を通る国道を、『足裏健康道路』と名付けて観光客を呼び寄せる。そんな、アイディアを提案してくれた浜松の旅人へ、礼状を郵送した。旅行先で感じたことを「素」に先方に伝える浜松の人も「マルチ人間」なんだろうと思った。

▼「肉食妻帯」と並んで親鸞聖人が際立っているのは、『歎異抄』に記入された、『悪人こそ救われる』という悪人正機説であろう・・・・・。こんな「はじめに」から始まる「親鸞聖人を学ぶ」の単行本から学び、有意義な休暇にしたい。

「余所者が大聖寺の目玉を見つけました。私が加賀大聖寺観光案内所を尋ねたのは八月九日だと思います?(台風通過の雨降り)・・・・・男性は自称、市役所でトイレ掃除人と語っていました?・・・・一番の印象は、北陸銀行北側の国道三〇五号線で、余所者から見るとあれは凄いですね。雪が降る為であろうか、お金が掛かってますね。石をひとつづつ並べ、健康足裏マッサージーの様でした。・・・・あれはすごいです。朝日テレビ「ナニコレ珍百景」になりますよ? メディアの力を借りて大々的にアピールすれば、JR西日本、大聖寺駅の乗降率も上昇?街に活気?イベントで国道を歩く?」。

27日の当番日に、こんな手紙が案内所に郵送されていた。「・・・トイレ人・・」だから、わたし宛だと思い、「すごい!健康道路」をあらためて視察に行った。旧大聖寺警察署跡地と北陸銀行にはさまれた、国道305線のコンクリート道路の数百メートルの一部は、たしかに径5センチの丸い石が混ざって並んでいた。言われてみれば「足裏健康道路」だった。

▼わたしも余所者だから、いつ頃、つくられた道路か分かりませんが。専門的に分析すれば、石を一つずつ並べた道路ではありません。昭和39年に国道8号線が開通しております。当時はアスファルト舗装道路でなく、コンクリート舗装でした。大型工事現場には、コンクリート製造プラントを仮設して、生コンクリートを製造していました。

▼そんな時期に街中の道路も舗装されたのではないかと考えられる。当時は砕石工場もなく、海岸で採集された砂や砂利を利用したコンクリートでした。骨材の石は自然石を用いていたから丸い小石でした。

▼半世紀?も経過すると、それまで表面に露出していなかった小石が表面に現れて「足裏健康道」になったということです。わたしも「余所者の着眼点」の立場で、城下町「大聖寺」に残っている遺産を後世に伝えるという活動に、ボランティアとしての参加している。浜松から、「お遍路」で知り合った大聖寺の人を訪ねて来た人からの手紙を見ながら、豊かな発想の着眼点へ、住民の一人として原点に戻り、心をあらたにした。

年末の大掃除日。朝日は久しぶりにまぶしかった。昨夜は、いつもより遅く深夜過ぎに床に就いたが、目覚めたのはいつもの5時だった。習慣付いた体内時計は正常?に作動していた。今年もあと残す60時間になった。軽めの昼食後、食卓に座って「穏やかな年の瀬」を、うつらうつらとしていた。

▼「サイバー攻撃」という耳新しい言葉が、年末のニュースになっている。インターネットに関わっている情報社会だけでなく、関係のない一般社会と言いたいが、既に世の中の隅々までにもつながっている情報網に、大きく関わることになるという。「情報戦争」で、経済はもとより原子力発電所の機能を狂わせ、「メルトダウン」という恐ろしい操作もできると言う。

65年前。戦後4年後に「ノーベル物理学賞」を受賞した湯川英樹博士の『中間子理論』が、平和利用より、水素爆弾の製造に利用された。と、回顧録画がテレビで映っていた。他にも、当時世界の戦闘機の中で最も優秀な「零式戦闘機」の製作者、堀越二郎氏は、爆弾を積んで敵艦に向かって戦死した「特攻戦闘機」の兵士に対した苦悩の映像も映っていた。

▼「集団的自衛権」の拡大解釈に踏み切った日本の政治。戦後70年を迎えて、日本人が「本当の平和」を考えさせる重大な年になる。

▼戦中に生まれ。ボランティア活動に交じったことから、「老人のつぶやき」を発進できる縁に触れている。稚拙な文章だが、生きがいを感じている。

▼案内所の当番日。「菜根譚」から学ぶ現代の生き方という録画されたDVDを見ていた。儒教・道教・仏教の教えを融合させた「人生訓」は、400年前に中国で発刊された「不朽の名著」。印象に残った「ことば」は、「拙(せつ)」の1字で言い表される深い意味だった。「技巧を捨てることによって、進歩もし、成就もする」。「拙」は「巧」の反対語で、「つたない」という。「巧」は小利口だとすれば、「拙」は愚直(ぐちょく)という。

師走の大聖寺観光案内所は、29日から正月3日までクローズになる。28日の天候は雪なしの晴れ間も見えている穏やかな土曜日になった。年末年始の休暇に、大聖寺を選んで来る人がいる。そんな観光客に出会えることを楽しみにしながら、今年、最後の当番をしていた。

▼案内所のドアを開けたのは、3組だった。お昼頃に、「そば屋」を教えてほしいと、県外車ナンバーから見えた中年男性に、200メートル先の蕎麦屋が見える、交差点まで同行して指差しながら教えた。ついでに「わたしの口に合う蕎麦です」とも付け加えた。蕎麦屋で修行したことから、身に付いた「うまい蕎麦」でなく、「口に合う蕎麦」と言うようにしている。

▼次に訪れたのは、リタイヤした独り旅の男性。リュックサックを背負い、防寒服に身を包んで電車から降りてきた人だった。大聖寺には20年ぶりだと言って、お勧めの観光場所は何処かと言う。仕事で一回来たことがあり、そのころの大聖寺駅はもっと賑わっていたが、何故かと聞かれた。「加賀温泉駅」になった経緯を伝える。町村合併でむかしからの地名が消えて、そのころを知っている者からすれば、不便になってしまった同世代同士の意見が一致してしまった。

▼「青春キップ」を使って、気ままに出歩くカメラ趣味。兵庫県から来たという。豊岡市のことを逆に尋ねた。すると、先日の「赤瓦の景観の里」セミナーで知った「城崎・出石・豊岡・但東・竹野」を、詳しく観光案内をしてもらった。

▼3組目は、神戸からの若いカップル、彼女は留学生?。ちかくの温泉に来たらしい。初めて大聖寺駅で降り、時間つぶしの、観光地を教えてほしい。「九谷焼・芭蕉・百名山」を説明してもよく分からない感じだった。パンフレットを渡し、予定時間まで、迷いながら小さな城下町を散策するようにと言って送り出した。
▼若い旅人を送り出して、大事なことを宣伝すること忘れてしまった。「日本で初めて、量産していた鉛筆会社が大聖寺の町にあったことを・・・」。来春から、案内所当番のときには、忘れないで宣伝したい。「江沼神社」の対岸にあった「加州松島社」跡地に、来春には「エンピツ」のモニュメント?が出来るニュースを、今朝、知った。

出筆業を生業(なりわい)にしていると、時には筆が走り出す前に、何を焦点にして書けばいいのか途方にくれることがあるという。そんなとき先輩の一言を思い出し、便所へ行くという。「無我の境地」になって気張ると、ヒントが出てくる。

▼わたしの先輩格でもあるコラム「時鐘」に載っていた。そう言えば、御用納め日の休憩時間に、「喫煙室」で第2の職場へ移動してきた顔見知りの元教職員と、寒い話の流れで、むかしのトイレの話になった。彼の生まれ育った家は、田舎の農家。子どもの頃の冬はいやだったという。便所は母屋から離れた別小屋にある。

▼「どうけ」という軟質石材をくりぬいた「便つぼ」を地面に埋めた。そんなところに足を乗せる二枚板がある。板に座って用を足す。通称「寒所(かんしょ)」とも言っていた。人糞は農家の畑の肥やしにもなっていたから、母屋から離れた外小屋からの人糞くみ取りには便利だった。夏には母屋に匂わないが、冬は寒く思い出すだけでも辛かった。

▼でも、そんな便所に「ワラ束」が用意されている家もあったという。使い方の知らない彼が友人宅で習った「お尻拭き」を見事に演じてくれた。電気は通じていたが、「裸電球」だけの時代でもあった。

▼もちろん、「三種の神器(洗濯機・冷蔵庫・テレビ)」の普及する前の1950年代のころの話。「寒所」時代は終わり、便利社会になって約半世紀。日本にやってきた外国人が驚く「クールジャパン」のナンバー1は、「便器」だという。「シャワートイレ」が当たり前になっている子どもらに、永年教壇から見てきた元先生は、「寒所」の体験談を直接伝えても意味のないほど、急速に発展した社会になってきた。
▼「厠(かわや)」も、同義語でもあるが、もっと昔には「川の上に掛けて作った便所の意」で、便所を囲う家の側の屋の意味だともいう。私も知らない時代のことで、辞典を調べた。

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