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2015年11月

ここ一番に勝負を掛ける。「ハイリスク・ハイリターン」は、スポーツ界のアスリートにはつきものであるが、特にフィギュア「女子シングル」で「浅田真央選手」がジャンプに失敗して転倒するシーンは見てしまった。「NHK杯大会」の試合を実況で見ていた。

▼「ショート・プログラム」で、真央ちゃんは最初のジャンプで失敗した。失敗で歪んだ顔は、すぐに気を取り戻し笑顔になる。テレビで見ているファンは、そんな瞬間を、目を閉じて「アー」と、声を出してしまった。「ハーフ&ハーフ」という言葉から、決意して、現役に再挑戦するまでの時間は長かった。

▼また、あの笑顔を見たい気持が、陰ながら応援していた。だから、失敗するとわがことのように、くやしいやら、かわいそうで、直視できなかった。しかたがない。次の「フリー」で頑張って欲しい気持ちが、順位を確認する前にチャンネルを替えてしまった。

▼一生懸命に小さいころから、大好きなスケートをして来た。がんばって、世界に名を轟かせるトップアスリートとして頂点に登りつめた。そして、引退も考えたが、決断して銀板に戻ってきたが、いつの間にか出場者のなかで、25歳は最年長者になっていた。今やるべきことをしっかりやりたいと再出発したが、現役選手としての時間も残り少ない。

▼いずれは後継者を指導する立場になるだろう。一般社会でも、現役引退して後輩を指導する立場の人はたくさんいる。スポーツ界の引退年齢を30歳とすると、一般社会の60歳である。指導者の年齢差を、単純に比べてみると30年の開きがある。

▼多くのアスリートたちは、スポーツ界を現役引退して、それぞれの残された人生に向かう。俗にいう業界に残る人や、まったく違う業種に挑戦する人らも多い。真央ちゃんは、引退後の2度目の人生を、高く回転するジャンプをして、美しい姿でまた、テレビ画面に登場してほしい。

大聖寺駅で客待ちしているタクシー運転手に聞いたら、業績は昨年より倍になったという。この業績は、何を意味するか。北陸新幹線開通の影響がだと言わざるを得ない。多くの観光客は、金沢を観光してから加賀温泉に来る人は、温泉駅から旅館が差し向けるバスに乗って旅館に行く。

▼しかし、温泉駅を通過して大聖寺駅に降りる人が、昨年より倍になったタクシーの売り上げに表れている。その事は、新幹線開通前から大聖寺駅前でオープンしている「大聖寺観光案内所」の、ボランティア活動日誌が証明している。

▼新幹線開業後に案内所を訪れた観光客の出発地が、関東圏はもとより、全国から。そして、海外組が金沢に来て、第二の目的地の大聖寺駅で降りて、「九谷焼美術館」を訪れている。

▼先日の日曜日。秋田県から来た若い夫婦と九州からの中年の夫婦連れが、案内所で偶然に一緒になって、美術館以外の見どころ場所は何処かと聞かれた。どちらも来聖目的は「九谷焼」。若い二人の第2目的は「うさぎの里」だけで、初めて大聖寺駅を降りた。

▼加賀百万石の金沢城の「兼六園」は、メジャーな観光地。もちろん、支藩の十万石大聖寺藩のことなど知るよしもない。戦災、震災にも遭わず江戸期からの城下町。町割りや町名も昔のままで、迷路のような城下町独特の雰囲気のある町が、映画セットのように残っている。

▼俳句の門外漢でも知っている「松尾芭蕉」の「奥の細道」は、誰もが知る江戸時代に旅をしながら詠んだ俳句紀行。江戸を出発して、東北を巡って新潟から日本海沿いを歩き、大垣が到着地だったことはあまり知られていない。

▼加賀路に来て山中温泉に長く逗留し、金沢と往復したことや、従者の「河合曾良」との別れた「全昌寺」のことを知っている人は意外と少ない。そして、全昌寺の「五百羅漢像」のことも。「日本百名山」のことを知っていても、著者「深田久弥」の生誕地であることも、説明して分かるお勧めの場所である。もちろん、「百姓の持ちたる国」が、百年もあったことなど若い年齢層には隠れた、ご土地の歴史である。

▼予備知識の少ない旅人に接すると、案内所の担当当番は、訪問客の訪地目的を尋ね、その内容によってご本人の歴史視野を判断する。そして、スケジュールに合わせたポイントだけを勧めるようにしている。

「まだ生きとたんや!」。93歳で逝った、大女優「原節子」訃報を知って驚いたひとりでもある。何があったのか知らないが、わが青春時代に忽然と、銀幕から消えた大女優だった。そのころ、「太陽族」のシンボルだった「石原裕次郎」も大スターだった。多くの若者が口ずさむ流行歌「おいらはドラマー、やくざなドラマー・・・」に夢中になっていたが、もう亡くなって28年。存命であれば81歳だった。

▼「川崎敬三」や「北の海」の逝ったニュースが報道されて、今度の原節子さんのニュースを聞いても、知らないという若者が多いと。そんな世相に「けしからん」とボヤく「コラム・時鐘」を見て共感している。「明治は遠くなりにける」の、明治を昭和に書き換える時代になった。

1127日の紙面に、今年の「紅白歌合戦」の出演者名が載っていた。男26名女25名の総勢51名の名を見たが、女で13名、男で10名しか名前と顔が一致しない。横文字やローマ字の外人?も多く、大みそかの伝統番組に出るという。司会役を務める82歳の黒柳徹子さんは、出場歌手を掌握していなければならない。才女は、さすがである。

▼先日のテレビで見た「瀬戸内寂聴」。世界で唯一の作家であると。93歳で出筆中の作家として紹介されていた。スマホ用語や新略語を使う、若い世代の恋愛小説を、癌病を患った後に出筆活動を始めたという。

▼「歌は世につれ 世は歌につれ」という名言があったが、「長寿社会」の最近、こんな文句でしゃべり出す司会者はもういない。いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを」。「ゴンドラの唄」は、大正末期に作られて、昭和期に入って唄いつがれていた。平成の世、作られて90年経っても、時々、わが唇はうごく。

▼きのう、「あられが降った」。早朝、雷鳴のとどろきやアラレ音を聞きながら、「ショパン・幻想即興曲」を流していたが、ふと、ストーブの備蓄灯油の有無を確かめに納屋へ行った。

きょうの1126日は、語呂合わせで「いい風呂の日」。お風呂屋さんが、日ごろのご愛好に感謝してイベントをやるという。今月は、「いい石の日」、「いい夫婦の日」に続く「良き日」の目白押しである。もしかして、「いい肉の日」もあって、「肉の大安売り」の店があるかもしれない。

1129日の「いい肉の日」は、「加賀ふるさと検定」テストの日でもある。もしかしたら、合格したと「言いにくい日」になるかもしれない。それとも、「うまくいった」と、合格プレゼントに「いい肉」が食べられるかもしれない。テストは、「四択方式」だが、結果は、合格か不合格の「二択」のどちらかである。これを、「捕らぬ狸の皮算用」と言っていたが、狸より牛肉がいい。

▼試験と言えば、昔、「いい国(1192)」作ろう、鎌倉幕府」と、覚えたことがあったが、今は、違うという。源頼朝が「1185」年に、朝廷に全国の守護・地頭を認めさせた年が、幕府成立となったらしい。小学校の教科書は訂正されている。という話を、元小学校の校長先生に教えられた。

▼「歴史は繰り返される」と言われて来たが、現在は「歴史は訂正される」が正解でもあるとも言う。頼朝は「国じゃなくて箱を作った」と、言い直されている。1185年のころ、江沼の国では何が起きていたのだろうか。「箱」を作る前の戦乱のころだった。平家は「1183(いい破産)」。木曽義仲軍が決起して、平家軍を追った。源氏軍は篠原の戦いで、指揮った「斉藤実盛」のクビを取ったころだった。

▼「百姓の持ちたる国」への精神的支えになった。蓮如が吉崎に道場を開いたが、長く留まる「1471(意志無い)」。一向一揆軍は、「1583(以後破産)」して、大聖寺城主には溝口秀勝がなる。山口玄蕃は前田軍に敗れたのは、関が原合戦と同じ「1600」と覚えやすい。父、利常の三男利治が大聖寺藩主に「1639(色咲く)」。奥の細道の帰りに山中温泉に「1689(入ろう早く)」。山中・大聖寺間に馬車鉄道開通も覚え易い「1900年」。

わたしにとって、今年最後の5連休。「勤労感謝の日」を挟んだ「シルバーウィーク」が終わった。小春日和があり、冷たい風が吹く日や、秋の澄みきった青空のキャンパスに、白い一本線を描く飛行機雲は、「一服の絵」として眺めた日もあった。

▼好天を目掛けての「紅葉狩り」や秋の味覚を楽しむ予定もなかった。長い休みを利用して試験勉強の予定だった。「加賀ふるさと検定」の教科書4冊を読み返す日々が予定になっていた。ところが、完全に予定が狂った。

▼大谷哲夫著「永平の風(道元の生涯)」を、秋の夜長に読みふけってしまった。明日の予定がない夜に、朝寝坊できる環境を利用して、若い時分の読書のやり方を復元してしまった。行間の広い大き目の活字は、抵抗なくページが進む。

▼そして、「寝床読み」も再現してしまった。何十年ぶりかに、復活の読書法。眠たくならないから不思議である。数年前に同じやり方で試みたが、10行もいかない間に眠りに入る「睡眠薬」代わりだった。それでも、分厚い小説の、3分の1ぐらいを深夜の2時で止めて、楽しみは翌日に残した。

▼道元の母は、幼くして父の政略的な道具にされて、木曽義仲の側室にもなった。時は、「末法思想」が民衆の心を支配していた。「法然」は「極楽浄土」を望む人々に、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで往けると説いていた。そんな風潮の中、母「伊子」はこの浄土信仰になぜか馴染めないものを感じていた。

▼せっかく生まれてきたこの世ではないか。それならば最期の最期までの一瞬まで自分の力で生きたい。自分を救えるのは、この自分でしかありえない。この母の遺伝子が道元も受け継いでいた。

▼今から、800年ほど前の「道元禅師」は、距離的に近い永平寺で、「ただひたすらに、座禅にうち込むことが最高の修行である。」と主張しながら、53歳で逝った。せっかくの連休を、ただあれこれと、迷いながらだったことに自戒を込め、道元に一歩も近づけなかった連休だった。

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