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2015年09月

日本に来て、「みそ汁」にハマっているという千葉大学院生がいた。「海の重伝建地区」橋立の「北前船資料館」へ向かう途中、歩きながらの会話から聞こえてきた。大聖寺で2泊3日の「文化合宿」は、最後の日程をこなす最中だった。

▼中国からの留学生が、学食などの和食に出る「みそ汁」は、ふるさとにはない献立の一品。歩きながらの会話だから、話の流れは別として、「郷に入っては郷に従え」なのかと、聞き耳を立てていたが、そうでもないらしい。

▼海の町でとった昼食にも、みそ汁が出た。寒仕込みの味噌が1番おいしい食べごろは、秋の時期だともいう。長く外国生活していた邦人が、帰国したら、まず一番に「みそ汁」を味わいたいという話はよく聞く。

▼学生たちは、「学術的造園学」を学んでいるという。勉学も然る事ながら、「みそ汁」が好きになった留学生。もう既に、味噌文化で「日本化」している。

▼引率の教授も、居住区が東京でも、先祖が関西だから北陸地方の味に近い、みそ汁の味が口に合ったという。「みそ汁で ふるさと分かる 秋の旅 吾亦交」。

▼大聖寺の「文化合宿」を引っぱっている「歴町センター大聖寺」の「瀬戸達(さとる)」は、「町並み保存連盟」の中でも有名人。「歯に衣着(きぬき)せぬ」発言は、コピー語でなく、実績が伴う行動から来た説得力に、熱いものが感じるからでもある。

▼盛りだくさんの日程を終えて、加賀市役所の中型バスは、加賀温泉駅に到着した。車中、世話になったお礼を兼ねて、引率先生からのあいさつがあった。「学生の皆さんは、文化合宿で学んだことは基より、瀬戸さんから学んだ多くの貴重な実績から、卒業後の就職先でもある企業や官庁でも役立つ、『瀬戸化』を実践してください」。と結んだ。

▼さわやかな秋風の加賀の地で、邦人学生に混じって、熱心にメモをとる中国の留学生たちに出会った。後世に残す、遺産を守る活動の一環を、世界にも発信した3日間でもあった。

夕べ「スーパー・ムーン」を拝んだ。月に祈ることは特別なことではない。しかし、夕べの6時過ぎに昇った月に、特別の上にもう一つ上の「特特別」のランク付けで祈った。何を祈ったかはナ・イ・ショ。

▼「スーパー・ムーン」は、わが町内を通る国道305号の延長線上の空に出ていた。いつも見る満月より大きな満月だった。昼間であれば、霊峰白山が見える方向でもある。織豊時代には、既に築かれていた錦城山の「大聖寺城」から、真東に遠望する「霊峰白山」の位置は、今も変わらない。

▼大聖寺を勢力下に置いたのは、 一向一揆勢を打ち破った信長軍勢だった。その後、「本能寺の変」で信長亡き後を、引き継いだ秀吉の配下であった、丹羽長秀を福井の「北の庄」に置き、長秀の側近家来「溝口秀勝」に、能美郡と江沼郡を統治させ、大聖寺城に領主として入城させた。

▼溝口秀勝は、錦城山にあった「大聖寺城」の眼下に城下町を造った。現在の「本町・京町・魚町」は、そのころからに創られた町並みである。本町・京町の通りは大聖寺城から、直線状に白山を遥拝する線上にある。

▼その線上に平行するように、江戸期に造られた町割りや国道も並んでいる。霊峰白山から、昇った月に願いを託すには、家の前に出ればいつでも拝むことが出来る。400年前にそんな町割りを造った殿様の粋な計らいは、昨夜の「特特別な月見」を予想させていたのかもしれない。

▼月には、「ウサギ」がいると、子どものころには信じていた。今ではそんな事を信じている子どもはいないだろうが、「のんのんさま」に手を合わしていた。そんな幼児期に埋め込まれたDNAは、白髪頭になっても消えてなかった。だが、数年前からウサギから「白いネコ」に変わっていた。

▼百万年前から月には、「白いネコ」がいたというロマンチックな説に出会った。信じてみたい気持ちになっている。

分散移動の車中で、「ふるさとより、うつくしい景色・・・」と、ポツリと女子大学院生が言った。西日に輝く、大聖寺川が海へ向かっている、田園風景の畑町を通過する時だった。ふるさとはどこかと聞くと、「満州」と言う。満州なら、長春(ハルピン)か、と聞くと、瀋陽(シンヨウ)だという。助手席の男子学生は、青島(チンタオ)。残りの学生はどこかと聞いたが、発音が理解できなかったが、上海との隣接地区らしい。

▼「一人っ子」政策で生まれて、中国の大学を卒業した学生が、千葉大学院の「池邊教授のゼミナール受講生」16名のなかに混じって、2泊3日の「大聖寺文化合宿」に来ている。

▼NPO法人「歴町センター大聖寺」が、後世に残す「城下町の景観遺産」の20年間の足跡を学ぶために加賀市へ来た。官民一体の「ふるさと創生の一環事業」に関わった人たちから、経緯過程の説明後に質疑応答があった。

▼今は老域に達している人たちもいるが、なぜ、これまでにも、意欲的に活動できているかの質問が、引率教授や留学生から相次いだ。途中から参加している、私も知りたい素朴な質問だった。

▼簡単に表現すれば、「好きだから」だと思うが、なぜこの活動だったかが知りたい。この活動を立ち上げた、瀬戸氏の挙げた「指先に止まった」と、異口同音に質問に答えていた。単なる仮説でなく、やると言う決意が、バッシングを受けても、進める途中にも止めなかった。そんな素朴な運動に賛同した、善意の市民から、不動産という財産や寄付金が、自然発生的に集まって来た。

▼私利私欲のために活動する者には、世の中の厳しい眼がある。しかし、正しい眼は、素直に応援する「善意」の力をあらためて知った。

▼「お金のある人は、善意の財産を」、「お金のない人は智恵を」、「何もない人は、体力を」。これが「市民運動」の原点かもしれない。

日本は、平和の象徴でもある、高齢社会の国になって来た。他人事でなくわが身もその仲間の1人でもある。または、長寿社会とも言う。昔風に言えば「翁(おきな)」の「ジジィ」や、「嫗(おうな)」の「ババァ」が多くなった国とも言える。いずれも、年をとった老人を指す尊敬語だという。

▼辞書を開くと、「翁・嫗」は既に人でなくなった存在に位置づけされていた。老人になると「翁・嫗」となり身体の衰えに応じて働くとある。また、「童(わらべ)」は神仏に近い存在とされていたが、老人も同様で、原則的に役割も果たせられなくなる神仏に近い存在だった。

▼「100歳が5万人強、65歳以上が3千万人で、世界一番の長寿国・・・」の、新聞記事を見た。「少子化現象で、赤ちゃん用の紙オムツより、大人用のオムツが上回った」。「老人の自殺者が増えた」。「出歩く人がいなくなって、交通機関もデパートも空洞化の箱になる」。などの、おまけの記事も載っていた。

▼高齢化の現象は、日本だけでなく世界の先進国や発展途上国も、スピードを上げている現象だともいう。またしても、日本は世界に先駆けて、少子化と高齢化国としての、インフラ改善のさきがけの国となる。

▼高度成長期を体感した、戦後70年の生き証人として、何かにつけてこの標語を思いだす。「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」。1973(昭和48)年全国交通安全運動に選ばれた優秀作品である。

▼と、あるブログに、「翁」の漢字を分解すると、「公に羽ばたく男(翁)」だという。現在、大人と小人と書き表すが、元来の翁(おきな)から「おとな」になったという。なるほど、うまいこと分解したと感心もした。「公」は社会のことだから、「翁とは、社会に羽ばたく大人の男」と解釈した。

ガラ系からスマホが店頭に並び始めた頃。買い求めたガラ系の、突起した数字ボタンの一箇所が動かなくなった。この際、スマホに機種変更と思って、「ドコモショップ」へ何年かぶりに行った。平日の開店と同時に入ったが、あっという間に10人近くの来店客になった。一番客だったが、店員に説明を受ける順番が3番目だった。

▼白髪の客が買い求める機種選びは、時間が掛かるのは、客の私でもおおよそ見当が付く。ましてやスマホだとなお更である。迷っている側からすると、使用方法など納得してから買い求めたい。

▼結局、スマホに変えないことにした。前機種に保険が掛かっていたことを知る。故障機は取り替えることが可能だから、在庫確認したが、もう既に無いという。その後に製造された別の機種から、選べばお取り寄せできるという。「どうしますか」。そこが問題である。ガラ系でも機種が変わるとややこしい、慣れるのに時間がかかる。仕方がないが交換した。

▼孫世代の店員に、選んでもらった。万歩計が付いていた。その日の動いた歩数が表示され、エネルギーの消費値まで分かる仕組み。もらった取扱い説明書はまだ広げていない。多分見ても分からないから、誰かに教わるしかない。

▼「敬老の日」の新聞には、「80歳以上1000万人超」の、見出しがあった。3000万人以上の高齢者社会の日本。そんな老人でもスマホを使っているらしいが、携帯電話は必需品になって来た。しかし、どうもスマホは苦手だ。

▼運動不足解消に、役立つ機能を利用して、これから、さわやかな秋の風を感じながら、散歩に出かけることにしよう。ほかにも便利な機能があるらしいが、ややこしい操作方法は据え置いて。まずは健康維持が優先だ。

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