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2016年04月

また、「ゴールデンウィーク」の過ごし方が、取りざたされている時期になった。昨年はどうしていたのかと発信したブログをバックして見た。高岡の国宝「瑞龍寺」を中心にぶらついていたが、今年も予定がなく「行き当たりばったり」の思いつきで、連休を楽しみたいと考えていた。

▼マスコミは、東京都知事が毎週の休日に東京を離れて湯河原の別荘で、知事として明日の東京を考えているという。だが、緊急時には東京にいないから、最高責任者としては如何なものかとの議論が噴出している。

▼公人には、公私混同の境目を難しくする御仁もいるが、枡添さんも今ごろは別荘で何を考えているのか。お役目、お疲れさまと言いたい。その点、同じ別荘風の「五徳庵」に居住まいするわが身は、公私混同を考えながらの毎日でない。ありがたい素浪人の余生を送っている。

▼肌寒い風が吹く「昭和の日」。大聖寺「川流し舟」の予約客が途絶えた昼下がりの頃、船頭役だった瀬戸さんから、300年以上も続いている「蓮如忌」のお参りに行こうとのお誘いがあった。

▼大聖寺の町から吉崎御坊へ舟で「吉崎参り」の客を運んでいた歴史のある「流し舟」を一部であるが再現した大聖寺「川流し舟」。昭和22年に参拝客を乗せた船が沈没した事故から、「吉崎参りの船」は廃止になっていた。

▼京都「東本願寺」を出発した蓮如上人の御影は、4月23日に吉崎に着き、10日間の御忌法要を勤められて、5月2日に京都へ帰る。法要期間中は大勢の参詣客で溢れていた吉崎の町は、祭日の「昭和の日」は静かな人通りになって、昔を知る人からすると当時の面影もない状態だという。

▼浄土真宗中興の祖と崇めれれている蓮如上人が、吉崎で布教活動して545年。「蓮如忌」は300余年の歴史がある。時代の趨勢なのか、信仰理念の変革なのか、「中興の祖」にあやかって地元も、角度を変えながら模索しているサマを身近にした日になった。

4月29日は「昭和の日」。昭和は激動の時代だったともいわれている。戦前時代には、軍部は強引に戦争に導き、勝って正義を証明できると、国民を洗脳した時代であった。だが、この「正義は勝つ」という、一時的な勝利は無意味に近いということを、いまも語り継がれていているが、懲りもせず世界には愚かな主導者がいる。

▼日米開戦直後に産まれたから、「よっしゃ、勝つぞ!」という意味の名前を付けてもらった。名付け親から命名の経緯を尋ねたことは無かったが、子どもながらに勝手にそう思い込んでいた。

▼時代を示す流行の名前ランキング表を見る機会があった。男子の名前では、戦前の「清」。戦中の「勝」、「勇」。戦後の「博」、「茂」。高度成長期の「誠」、「大輔」。バブル期の「翔太」、「大輝」。そして現在は「大翔」がトップランキングになっている。

▼女子の流行名前にも似たような歴史があった。1927(昭和2)年から1948(昭和23)年のトップは「和子」が連続する。2番目には大半が「幸子」で、3番目には、節子」だった。

▼わが兄妹たちにも「しろまる勝」、「幸子」、「茂」がいる。隣家の姉妹には、「和子」、「節子」がいた。三軒向こうには、「文子・幸子・末子」の三姉妹もいた。時代を表す名前には、時代が背負った重い荷物への祈りがあった。

▼昭和の激動期を生きて来た。それもまた、わが宿命の人生だった。昭和元年から71年目を迎えている今年の「昭和の日」は、「4・29」の語呂合わせで「至福」と呼びたい。戦争のない時代を迎えたことにも「感謝する日」と付け加えたい。突然起こる地震には、日本列島に縁あって住む国民は、避けて通ることはできない。しかし、戦争は止められる。

春霞なのか、黄砂のせいなのか、空からは春の日差しが届いていない昨日だった。九州地方には雨の日が続いているという。土砂災害も心配されている。社会インフラも少しずつ回復されているが、道路や橋の復旧にはまだ時間も掛かる。

▼50年前に作られた、全国の鉄筋コンクリートの道路や橋梁などの、構築物の老朽化が一斉に限度に近づいているという。それに比べると人間の方が長生きしている。3年連続世界のトップを維持している女性の平均年齢が86・83歳という。男性の80・50歳は4位から3位になったというが、あの鉄筋コンクリートより強いらしい。

▼しかし、専門家に言わせれば、50年という時間は減価償却年であり、実際は100年ぐらいまでの耐久力を見越して設計されているともいう。だが、地震には弱かった。人間で言うならば50歳になったら、「人間ドック」で精密検査を受けて、成人病などに気をつければ、100年まで生きられるという。

▼曇り空の日。小学校の同級生が、おばあちゃんになってもまだ開いている、タバコと駄菓子も売っている店を訪ねた。時々思い出したように、近くまで行った時に寄る「幼なじみの店」。洋モクを含めて、値段が違う多種類のタバコも管理販売している。昔からやっている店といいながらたいしたものだ。

▼世界一長寿国の日本。女性の平均年齢にもまだ10年以上もある同級生の店長と男性の平均年齢に近いご主人と夫婦で経営する店だった。介護されながら生きるより、平均年齢まで現役で生きることが理想である。雑貨屋から帰りがけに、2年後の77歳には、まだ元気だと思うから、小学校の同窓会の世話役をやってほしいと懇願された。

▼「分かったよ。ボケていなけりゃ、引き受けよう」。最近は、ボケへの心配より「M7」の方が怖い。小学校へ入学した年の、昭和23年6月28日の「福井地震」を記憶している同級生の何人が集まることやら・・・。

余震が続く熊本や大分県は、まだ油断がならない。このあと本震があるかもしれない。被災地には各地からの救援物資が送られていているが、対応に苦慮しているとか。崩壊した家の片づけに、各地からのボランティアが集まっているが、まだ、見通しもついていない。もう、2週間になろうとしているのに現地は混沌としてる。「3・11」の東日本地震から、また、あらためて地震の怖さを、テレビを通して実感している。

▼127年前。1889(明治22)年に熊本地震(M6・3)が起き死者20人の記録があるが、それ以来今世紀までに地震は無かった。だから、過去の教訓が生かされていないかった。

▼有史以来から頻発する地震国日本だからこそ、日本歴史にも傷がつかなかったという面白い事実があったという。江戸時代の200年間は、日本は鎖国時代だった。鎖国を解除させたのは、欧米列強の中国への侵略成功から、日本への開国も海上から猛烈に仕掛けられた。1850年、ペリーの黒船艦隊から開国を迫られていた。

▼日米和親条約締結の後、米国に続き、フランス、英国、ロシアが一斉に日本に接近した。黄金の国「ジパング」に期待を寄せて日本に上陸した列強は、ガッカリした。象牙もダイヤモンドも無く採掘された金鉱もない。教育を受けた人はいたが奴隷にする人々もなく、植民地には不適当な国だった。

▼和親条約後、欧米人を恐怖にさせる強大地震が相次いで起きたという。1854年7月安政伊賀地震。同年12月安政東海地震。32時間後の1224日安政南海地震が発生した。これら地震の死者は1〜3万人。

▼さらに、1855年1111日には首都・江戸をM6・6の直下型強大地震が安政の江戸を襲って1万人の死者。この地震に直面した欧米人は腰を抜かせたという。こんな災害の多い日本列島に欧米人は植民地としての欲望は萎えた。「日本史の謎は地形で解ける」竹村公太郎著を読んで、複雑な気持ちで納得した。

先日のコラム時鐘に、日本の国民食にもなった「ライスカレーとカレーライス」の違いがの記事が載っていた。祖母の味だけが「ライスカレーの名に値する」という結論だった。同感の記憶があるから、懐かしい子どものころに食べた母の手作りの味を思い出した。

▼食料事情の悪い時代。肉は無い、ジャガイモと数少ない野菜だけの具に、黄色の水っぽい「カレールウ」がうまかった。そんな流れでライスカレーは、今でも大好きな食べ物の一つである。だから、好みの具材やカレールウにもこだわらない、格安のレトルト・カレー党でもある。

▼大聖寺駅前通りの「大聖寺観光案内所」の前に、ネパール人が経営する「インド・ネパールのレストラン」がオープンしている。時々、昼食時に食べに入るが、「カレー・ナン」を注文する。何と大きな薄いパンを、ちぎっては、カレー汁に浸けて食べる。大きなボリュームを見ると、食べ残すかと思いきや、何と完食できる。

▼この店の若者常連客からの情報では、最近の「ナン」が前より大きくなったという。ご飯やナンが何度もお代わり自由というサービスが売りでスタートしているから、ナンを大きくすると2度目の追加が無い。その分、店は材料や手間が省けコストダウンになるからだという。

▼「カレー・ナン料理」といえばインドが本場と思っていたが違うらしい。カレー粉はイギリスで作られた。インドでは宗教上の約束で牛肉はご法度。特に北インド方面の食べ物で、ナンを焼く釜は家庭には無いから、レストラン料理で三角形でなく、「チャパティ」という丸い形だという。

▼日本食の「寿司」も、家庭料理では簡単に食卓にでない。料理屋か回転すし屋で食べるものだ。そんな回転すし屋にも、寿司のネタに変化が出てきている。特に外国でのすし屋を取材したテレビ放送は、何であんなものが寿司と言えるのかと、思うものまでもが寿司ネタになっていた。

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