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2016年10月

先祖の墓参に来た還暦過ぎの大阪の人が、レンタサイクルのリピーターですと言って、「大聖寺観光案内所」を訪れた。いつも、時間のある限り自転車で大聖寺の町中を見て帰るという。「流し舟」にも乗船した。そんな縁で、墓参時には、「ええもん市」で新鮮野菜などをお土産に買って帰る。「長流亭」などを訪れ、町中での昼食後、帰りの電車時間まで「九谷焼美術館」の茶房で時間を費やすという。

▼先祖の住まいが「本町」の角であった。昭和9年9月9日に、中町からの失火で20メートルの強風に煽られて、消失戸数402戸、消失区域6万坪の「昭和の大聖寺大火」があった。その当時のことや、家財道具の持ち出し様子を、父親から聞かされていたという。

▼大聖寺本町の住人と言えば、大聖寺藩邸に一番近いところで、藩の御用達だった住民が住んでいた重要な町だった。先祖のことはいろいろ聞かされていただろうが、墓参に毎年訪れるようになって、大聖寺の居心地の良さを感じるようになってきたという。

▼「ゆく秋やふくみて水のやはらかき 石橋秀野」。「日々の歳時記」から一句取り出した。日の短くなった秋に、墓参に訪れて、あちこち自転車で走り回る。先祖も飲んだであろう大聖寺の水。歴史風土に人情や水は、日常生活に欠かせない大事なもの。先祖も懐かしんでいただろうが、私も感じてきたという大阪の人が、日の長い夏場の方が、長く大聖寺に居ることができるという。

▼奇しくも、注文していた東谷口の水で育った「おもて農園」の「こしひかり」の新米と、遺伝子の組み換えのない「大豆と赤米(古代米)」が、当番で詰めていた観光案内所に届いていた。そのふるさとの水で育った穀物を目にした大阪の人も、買って帰るかもしれない。柔らかい秋の日差しが差し込む今日は、のどかな日曜日の観光案内所。大聖寺は「日本の縮図」と言われているから、いつの日か。ふるさとに立ち寄る人で、忙しい日曜日になるであろう。

今年は柿が不作だという話を聞いていたが、きのう職場の仲間から、真っ赤に色づいた柿のお裾分けをもらった。買ってまで食べる柿でもなかったが、久しぶりに甘い柿を食べた。さっそく「里古りて柿の木持たぬ家もなし 松尾芭蕉」の句を、「日々の歳時記」から見つけ出した。

▼だが、門外漢には「里古りて・・」の「古りて」が、自信を持って分からない。注釈から「古りて」は、「こりて。古びての意味。」を教えられた。「柿は古くから日本で栽培され、私たち庶民の食生活・食文化の中で重要な位置を占めています。」の、記述もあった。

▼「柿が赤くなれば医者が青くなる」。という「ことわざ」を思い出すが、今では簡単に手に入る「ビタミンC」が、多く含まれている果実の一つでもある。古希を過ぎた者でも、先人の知恵を忘れかけている。人類が誕生して、多くの人が命を掛けて知りえた自然界の恵みが、すぐ傍に有りながら、近代の便利な物に頼っていることを改めて知る。

▼「しぶ柿」は、吊るし柿にして食べることも、忘れかけてきた。正月の飾り餅も、「サギ長」の時に処分する、もったいないことが起きている。焼いて食べることすら知らない子どもたちがいる。

▼「奥の細道」で、芭蕉の足跡をたどる「句会ご一行様」を案内した瀬戸氏の話を思いだした。芭蕉も通った、山中温泉に逗留して、越前に向かう「橘の宿」でのこと。句会を主宰する古老が、「立花(たちばな)は、橘(たちばな)」だとは、知らなかったと告白したという。

▼古くからの日本の風習を体感して伝えることをコンセプトにしている、「大聖寺活性化サロン」の行事を来月に企画している。勉強とは、見て学ぶ「見学」が原点だといつも彼は言っている。私も知らないことは、「見て学ぶ」ことに精進したい。

一昨日の25日は、心配していた雨にも遭わず、第3回目の「定住化促進セミナー」10月定例会も無事に終了した。朝の9時から午後3時のプログラムを、収録カメラで記録する役目は、いつもながら緊張する6時間であった。それでも、帰宅後26日の朝に発信するブログの原稿を、夜の9時ごろに書き終えて、バッタン・キューで就寝した。

▼習慣になっている睡眠時間は6時間。夜中に一回は起こされる小用もなく、朝刊配達の門扉を開ける音も耳にして、早朝の3時には健康的に目覚めていた。いつもの、田中裕子が歌う「星めぐりの歌」を聞きながら、再度、ブログ原稿をチェックする。いくつかの訂正ヵ所もあったが、今日も継続できた喜びの方がうれしかった。

▼セミナー当日は、寒い風が吹いていた、むかしの呼び名「竹の浦」地区だった。厚着のきのうは気温が上がって24度となったから、汗だくの清掃作業だった。休憩室で片付けた扇風機を取り出し、健康的な涼を求めた。

▼3時ごろに掛かってきた電話の内容に驚いた。きのう、6時間掛けて、収録した定住促進セミナーの「報告DVD」が仕上がったから、配達するという瀬戸事務局長からの連絡だった。こんなことは今に始まったことではないが、「すごい。またか!」の反応をした。前日のセミナー報告が翌日には、取材した中日新聞の「切り抜き朝刊記事」と「編集DVD」が、参加者に届けられる。

▼収録時間は、移動時間を省いても4時間。編集DVDは2時間に短縮されるが、旧瀬越小学校の正門校舎の写真に、セミナー次第をプリントした完成品だった。これらの作業には、篠原氏の応援もあったというが、その一役に関わっていることに感謝している。そして、地道な活動セミナーが、新しく参加した若い賛同者にも、刺激を与えている。そんな事が一因ではないかと、あらためて感じた。

昨日は、不思議な人たちが集まる第3回目の勉強会だった。加賀市の小型バスに便乗して、市内を回遊しながら歴史勉強会という名目で行われた。出席メンバーはバラバラの仕事に関わる人たち。共通趣味の同好会でもない。もちろん年齢も違う20代から70代の男女14名のグループだった。

▼温泉旅館のフロントマン、建築設計事務所のオーナー、観光流し舟の船頭、移住コンシェルジュの会社員、瞑想の会の主宰者、地区公民館長、石川県で手話活動を広めた先駆者、市議会議員、シルバー人材センター所属の清掃員、ダイエットトレーニングジム運営者、カイロプラクテックの整体師、移住コンセルジュの市職員、観光土産コーナーの女性管理人、ミュージックー・コンクレート(具体音楽)演奏者。

▼今回の見学地は、「源平戦い」の篠原合戦で平家の大将「斉藤実盛」が、木曽義仲軍の手塚太郎光盛に討たれた。そんな実盛が深田村の池で白髪を染めた「鏡の池」。浄土真宗本願寺派の「中興の祖」8代目の法主「蓮如」が、布教をスタートした「蓮如山」。福井県「吉崎町」と石川県「吉崎町」の県境線上にある「県境の館」。

▼「文科大臣賞」も受けた、ユニークな町づくりで注目を集めている加賀市三木町。「竹本利夫三木公民館長」は、いつもの笑顔で活動報告をしてくれた。隣接の「橘町」は、むかし旅人を癒し、賑わった宿場町だったが、落ち葉で埋まる旧北国街道は、「橘の宿」の石碑だけが目立っていた。

▼吉崎町寄りの、国道305号線沿いに祭られている「安東の母」の碑。終戦後、大陸からの3000人の満豪開拓団員や帰国邦人を、身銭を切って助けた上河崎町生まれの「道官咲子(没43)」は、戦後、中国人民政府からスパイ容疑で処刑された。

▼10月25日の「歳時記」には、「裏を見せ表を見せて散る紅葉 良寛」。車窓からは「赤葉のもみじ」、「紅葉のカエデ」、「病葉の銀杏」が見えていた。乗合バスの乗客全員は、途中下車して昼食の「へしこの陶板焼き」、食べたのは「竹の浦館」。そして、次の駅へ向かった。

「戦災も震災にも遭わなかったから、後はもうけものさ」。こんなせりふの場面があった。映画「蜜のあはれ」の再生画像(DVD)を見ていたら、金魚屋の兄さんと老作家「室生犀星」が、消息の分からなくなった、恋する「金魚の赤子」を心配する場面だった。

▼金沢生まれで、明治の3大文豪だった「鏡花・秋声」と「室生犀星」(1889〜1962/72歳没)は、1959年「蜜のあはれ」発刊後の、半世紀以上も経ってから映画化された。小説の舞台は東京で、映画化されたロケ地は北陸地方(金沢・富山・大聖寺など)だった。特に昭和初期の設定地80%が加賀市の片山津や橋立に大聖寺での撮影が行われた。

▼この映画の企画当初から関わった、NPO法人「歴町センター大聖寺」の瀬戸さんの傍にいた関係上、人生初体験の映画出演(エキストラー)や大聖寺地区での撮影風景や、撮影収録後の撮影スタッフや監督も交えての懇親会。後日の撮影地選択の現場視察やプロデュサーの苦労話など、映画撮影の裏話を知るご縁に触れた。

▼「この城下町は、戦災や震災にも遭っていないから、江戸時代の城下町の町割りの道幅や細い迷路の道。城下町特有の職人が住んでいた町名がそのまま残っている」。そして、戦後の町中には企業進出などで再開発されなかった。と、観光案内所に初めて訪れる県外観光客に伝えている。

▼数年前には、加賀市は「海の橋立・船主集落」「山の東谷・山村集落」の2ケ所が「重要伝統的建造物群保存地区」に選ばれている。これに、「江戸時代の町大聖寺・城下町」が保存地区として加わると、日本でも類を見ない画期的な歴史保存地として「加賀市」が、「日本の縮図地区」として証明される。

▼現存する歴史的建造物は、新しく再現できない。残して行く勇気が必要だ。誰かが手を上げ、声を掛けながら辛抱強くやらねばならぬ。30年前からこの運動に動き出した男が大聖寺にはいる。縁あってその仲間に加わっていることに、不思議さを感じている。

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