[フレーム]

晩秋の晴れた日になると、必ず白山を見る。幼きころから身についた習慣だろうが、頂上の白くなった部分が、だんだん増えてくるのを待っている。「白山は白くなきゃ、白山じゃない」の、自説を曲げていない。

▼観光案内所で、当番役をしていたら、レンタルロッカーを利用する同世代が訪れた。ロッカーの利用時間は午後4時までだということを告げると、4時ごろの電車で帰るから、それまで「山の文化館」へ行ってくるという。

▼これまで登った山の数は幾つですか、と投げかけると、「50ぐらいかな」。と、重い答えが返ってきた。それはたいしたものです、「時間と金と健康」の3拍子がそろわないと登れないから・・・と応えたが・・・。「若い時分で、いまは低い山歩き・・・」。「生家は、今も商売しているのかね」には、やっていますと応える。

▼「本光寺で墓参りもしたい」から、地図がほしいという。深田久弥が眠る菩提寺をコースに入れている、若い頃山登りだった遠来者は、初めての大聖寺のことをかなり知っていた。そして「今日は富士ヶ岳は見えるかね」には、高いところに登れば姿は見えると応えたが、この夏、錦城山に建った「百名山発刊50年周年記念の石碑」のことは案内しなかった。

▼久弥のことに詳しく、今でも山歩きをする元気な高齢者に、暗号を覚えて施錠するロッカーは、番号を忘れる場合があるから、解除の時に開かないと伝えたが、土産袋を預ける老人が「カッチン」ときた表情は、手に取るように分かる。そんな同世代に出逢って、わが身を写す鏡を見ているようだった。

▼我輩だって、大聖寺から見える「白山、富士写ヶ岳、鞍掛山」は登っている。百名山の「岩手山、八幡平、蔵王山、磐梯山、妙高山、穂高岳、乗鞍岳、御嶽山、八ヶ岳、富士山、荒島岳、伊吹山、開聞岳・・・」の、「百名山」の20ヶ所ぐらいの麓までは行っている「山好き」だが、本格的な登山家からすると、眺めるだけじゃダメだということも知っている。

アクセルとブレーキの踏みまちがいで、老後の人生が「こわされ」た自動車事故が多発している。全国で、これまでの事故件数が5830件は、語呂合わせで「5830(こわされ)」たというらしい。報告されただけでも、1日16件もあるというから他人事ではない。運転歴半世紀以上もあるからと、自慢にもならない。

▼踏みまちがいではなかったが、「うっかりミス」で車体に残っている傷跡を見るたびに、これまで無かった身体機能の老化を意識する。先日の高齢者運転免許書証更新前に受けた講習会での項目を再確認してみた。

▼1交差点安全進行義務違反、2脇見運転、3安全不確認、4一時不停車、5漫然運転、6運転操作不適、7信号無視、8動静不注意(相手の動きをよく見ていない)。自己分析すると、5漫然運転と8動静不注意が原因で接触事故につながっていた。

▼横断歩道を渡る歩行者は、左右確認してから渡ろう。と、教えられている。運転者にも視野を広くハンドル操作で、安全運転を義務付けられている。だが、昨今の足元の操作を間違えて、事故につながるとは思いもしなかった。

▼昨日のブログの続編になるが、「ためしてガッテン」の「耳石(じせき)」障害が原因ではないかと老人は考えた。宇宙から帰還した飛行士が、地上に降りるときに足元が定まらず、介護されながら検査施設へ送られる。1時間も運転していると、若者でも正常に足元が定まらないという。運動不足の高齢者は、1時間座っていると22分も命が短くなる。

▼老人が電車に乗ってきたら、席を譲るマナーが「老人に優しい」日本の美徳とされてきた。だが、運動不足の老人は、電車に乗った時ぐらいは、立ったままの姿勢で運動しよう。と、いうような「老人には長生きしてもらいたい」という標語が、車内にぶら下がる日も来るかもしれない。

雨で見損なった36年ぶりの「スーパームーン」を見ておきたいと思った。先日は小春日の穏やかな日だった。今夜の「十八夜月」は見えるだろうと、昼から待っていた。暗くなってから、今か今かと待っていたが、なかなか月は昇ってこなかった。結局10時まで待って、あきらめた。十八夜月は「居待月」という。居は「座る」の意味で、立って待つには長すぎるので「座って月の出を待つ月」。座ってても疲れるかも。と、辞書にもあった。

▼月の出を待つ時間帯に、待っていました!。「遠藤」の金星相撲を見ることができた。怪我から復帰して、その実力を先場所に残した。今場所は、連日対戦した三大関を倒した結果に驚いていたが、まさかの白鵬からの金星だった。たいしたものだ、拍手である。

▼夕食の用意をしながら。もう一つ、完成を待っていた映画「匠のかくれ里・加賀市」が、「YouTube」でも見られると言うから、大相撲と同時にスイッチオンしていた。

▼「匠のかくれ里・加賀市」の18分映画を感慨深く見入った。企画から、映像資料集めや原画チェックなどの編集会合に、初めて関わった数ヶ月だった。制作したのは、「NPO法人歴町センター大聖寺」。プロデューサーの瀬戸事務長は、これまでの地域の活性化活動に尽力してきた「まちづくりの匠」のようだった。

▼独自のアイディアを駆使した「まちづくり」。誰もが真似のできない「匠の技」は絶品である。出来上がったこれまでの「一里塚・赤瓦セミナー・時鐘堂など」の作品は、企画から完成まで行政に頼らず、「この指とまれ」のアピールに、正義を感じた多くの人が集まってくる。不思議な魅力を感じさせる匠である。

▼そして今夜の、3部作は「自然を造った神々の匠」から、「歴史をつないだ匠」に、「今を生きる匠」たちの作品で、今も多くの市民が恩恵を受けている「匠のかくれ里」の映画だった。スムーズに一句できた。「月待ちのかくれ里には光る星 吾亦交」。

宇宙飛行士が、帰還したときに、ふらついて自立できない様子をテレビで見たことがある。そんな、「NSA(米航空宇宙局)」の研究報告から分かった。人間は1時間座り続けると、寿命が22分短くなるという。「ためしてガッテン」を見た。「耳石(じせき)」の動きが正常でないと成人病などになる原因だという。30分に1回立ち上がると長生きできる。そうなんや!、「ガッテン」と、テーブルを叩いて椅子から立ち上がり、テレビを見ていた。

▼老後の体調管理も含めて、清掃作業員として、ランダムに隔日ペースに勤めるビル掃除の仕事には、床や階段の掃除、トイレ掃除、ガラス窓拭きや、一般ゴミの回収などの他に、この時季、敷地内の落葉掃除もある。

▼実働6時間勤務は、長い廊下を歩く。立ったり、座ったり、屈み込むなどの作業である。携帯「万歩計」は、平均7〜8000歩を示している。そんな作業に従事して7年目を迎えているが、「快眠・快食・快便」と体調は極めて良い。

▼落葉が舞うある日のこと。ゴミ袋をいっぱいにした落葉を持って、施設内の銀行業務の窓口で、「これを、両替してほしい」と真顔で頼んだ。窓口の女性も真顔で、「すぐにはできませんが、自宅に帰ってから、狸の頭に載せた葉っぱをくるりと回しながら考えてみます」。

▼3時の閉店前に、もう一度、窓口で「若い女性に、似たような問いかけをしたら、変なおじさんという顔をされた」。この報告を聞いた彼女は、しばらく笑いこけながら「しまった!。わたしも、そんな応対をすればよかった・・・」と言って、シャッターを閉めた。

▼「なまけものは、人間のクズや」と、昔から耳から聞かされていた。地球に人類が誕生した200万年まえから、「生きる」ことを知っていた人類の祖先に対して脱帽だ。たまには、木の葉を頭に載せてみるのも一考かもしれない。

「人生一寸先は闇である」。ふと、そんな言葉を思いだした。日曜日に放映した、アニメーターの「宮崎駿」の「終わらない人・・・」と、題した「NHKスペシャル」のDVD録画を、仲間に依頼してまで観たかった。録画は、「活性化サロン」の大型テレビで見ることができた。予告編の感動は間違っていなかった。

▼2013年に引退した宮崎駿は、引退していなかった。誰もいなくなったジブリで、手書きの漫画をインターネットの画像処理を駆使して長編映画の制作を模索していたという。引退後の700日間は、悠々自適の生活でなく。次なる制作にスタッフを集めてCG画像の制作をスタートしていた。

▼長年温めていた幻の映画、「毛虫のボロ」のCG制作に取りかっていた。230万本の毛が、コンピュータの自動計算で書き上げるという時代になってきている。手書きの絵コンテから、CGで仕上がる別世界の制作現場の様子を見た。

▼残された時間をどう生きるか。同世代の彼とわが身を重ねる。住む世界は違うけれど、見習うことがある。若いスタッフから、「眼力が違うから、元気に見える」と勇気づけられたが、「後期高齢者だよ」と照れていた。友人が先に死んでゆく現実に会いながらも、もどかしながら目標に向かっている。

▼手書きの絵コンテが、コンピュータ画像処理でうまく描けない。「生まれた」毛虫のボロを表現したいが、いまいち表現できない事で悩んでいた。「30代とか40代の沸き立つような気持ちになんて持ちようがない」。同感である。彼を動かす原動力はなんだろう。「何もしないことがつまらない」という。同感である。

▼「面白いことは人にやらせない」。「生き物の気配がない」、「夜の魚を描く」。悩んでいたことを見つけた。それから、来る日も、来る日も毛虫の大群を描きつづけていた。「何処へたどり着きたいのですか」。だから、「生きることは映画を作ることです」。生きる世界は違っても、余生のわが身と、相通ずることを確認した。

↑このページのトップヘ

traq

AltStyle によって変換されたページ (->オリジナル) /