1962年7月1日。第6回参議院選挙が行われた。選挙権を得てはじめての投票に興奮した。地方区は林屋亀次郎に投票した。辻政信は、3年前に全国区で出馬して、第3位の得票を得た有名人だったことを、高校生の少年は知っていた。
▼昭和27年の衆議院選挙に初当選した「辻政信」。当方はまだ小学生だったが、確か7万票の最高得点だった。「作戦の神様」と言われていた。後から知ったが「潜行三千里」の著書がベストセラーだったという。それから、しばらくして国会議員の肩書きで、東南アジアを歴訪中に姿を消したというニュースを聞いた。
▼江沼郡の山奥で生まれ、「炭焼き」の子で生まれた辻政信は、「えらい者になれ」と親から言われて育ったという。昭和20年サイゴンで終戦を迎えた前線で高級参謀は、部下の青年士官と共に僧侶に化けて部隊を逃げ出した。このころ小生は、母親の実家の動橋で、富山の空襲を見ていた3歳児であった。
▼サイゴンから逃げ出し、中国大陸を戦犯として逃げ回っていた時期の真実は誰もが知らない。「潜行三千里」を読んでいないが、事実であろう。だが、所詮小説である。
▼昭和17年。日本軍はマニラ・シンガポール占領して、ミッドウエー海戦のころ。大本営派遣参謀として、辻参謀は40歳。この年に我輩は生まれた。そして、昭和36年4月。ラオス・ハノイ訪問に出発後消息を絶つ59歳。当時の池田首相はケネディと会談。小生は東京オリンピック前の東京で就職していた。
▼辻政信と、うまれ育った時間も場所も、生きた環境も違ったが、20年足らずだが、同じ時代を生きていた。戦場での生死は、何で決まるのか。戦犯裁判も逃げ、逃げた戦地で生き延び、それをネタにした本が売れ、有名人で選挙に勝ち、そして、消えた。
▼7日後に、政信を知らない若い世代が乗ったバスで、今立町の「辻政信銅像」に立ち寄る。ちょっと、聞いてみよう。「えらく(辛く)なって」、戦場に戻って死んだのか。
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