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関東圏の海に面していない所から、長寿を全うした実母の埋骨にやってきたご一行様が、預けた荷物を引き取りに見えた。菩提寺で供養後、大同工業の敷地内にある先祖代々の墓へ、埋骨を済ませての帰りだった。入店するかしないかに、喪主の奥さんが、30センチの手幅を広げて「はじめて、ムカデを見た。怖かった!」。すると、隣にいたご主人が、「違うよ。これくらいだよ」と言って、奥さんの手をつかんで幅を半分にした。

▼レンタルロッカーのサービスも兼ねている「大聖寺観光案内所」での、「海の日」の夕方の一コマだった。伊東氏は今年の3月にも大聖寺に来ている。観光案内所のレンタサイクルでは常連客だった。何度目かの時に、名刺交換もしている仲で、保存家屋の「五徳庵」も見てきたと言う間柄である。

▼伊東氏は、関東で書籍出版業で手広く活躍されているとのこと。先祖は大聖寺藩邸から近いところを通る、旧北国街道の本町で「本陣宿」を営まれていた。毎年の墓参の折に、本町に明治時代からあった「本陣宿」の家屋を見て帰っていたが、今年の3月に来聖した時には、本陣宿跡は無残にも解体されていた。「こんなことなら、『本陣』を買い取っておけばよかった」と、埋骨時に見えた時に、悔しさを口にしていた。

▼昭和51年4月1日発刊の「加賀市史」資料編第二巻には、「本書に収められた伊東家の資料は、江戸時代本陣宿経営関係を主としたものである。大聖寺藩時代の本陣、交通を知るためには欠くことのできない貴重な資料である。」と、加賀市長・中野巳之吉の「序」の言葉として載っていた。

▼本陣・宿帳の古文書の解説には、興味あることが記載されていた。慶応3年7月(1876)には異国人がはじめて現われる。鹿島郡所口(現・七尾市)に入港した英国船から陸路大坂に向かった。アーネスト・サトウ等の一行であった。宿張には、『七月十五日、異国人 イギリス弐人、南京仁壱人、会津藩壱人、其外公儀役人』 二見屋彦左衛門記。

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