表題のテーマで散策に行ってきました。
今年の暑さはただことではない、今日も35°Cを超える猛暑日でした。
集合場所所のJR新子安駅。
1943年、鶴見駅と東神奈川駅の間に新しく開業した。通勤客の輸送にあたって
必要とされたために開業したが、当時は折りしも太平洋戦争の末期であり、
開業からしばらくは当駅の開業の前日に廃駅となった中央本線万世橋駅の備品を
そのまま当駅で使用していたという。
また、当駅の開業前に既に京浜電鉄(現京急)新子安駅があったが、
国有鉄道が強引に駅名に会社名を冠させた経緯がある。
きょうの散策のコース。
下の新子安から鉄道に沿ってキリンビールまで歩います。
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すぐそばにある「京急新子安駅」京急の文字はJR側に強制的に
付けささせられた。
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陸橋を渡ります。
此のお寺の敷地部分はJRと京急の線路に挟まれた土地です。
本慶寺です。
浄土宗のお寺です。
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下の線路は東海道線と京浜東北線です:
東京方向を見ました。
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5分ほど歩くと浅野学園に着きます。
浅野中学校・高等学校(あさのちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、
神奈川県横浜市神奈川区子安台一丁目に所在し、中高一貫教育を提供する
私立男子中学校・高等学校。
高等学校においては生徒を募集しない完全中高一貫校。
実業家・浅野總一郎が明治期に欧米を視察し、フォード・モーター等米国の
有力企業で人材教育が重視されていることを受け、当時の日本の教育が教養主義に
偏っているのを憂い、1920年(大正9年)淺野綜合中學校を設立。
ゲーリーシステム(施設利用の効率化による勤労主義、実学教育、広い視野の獲得)
を導入し、学校内に実習工場を設置、幅広い知識と実践的指導力を身に付けさせる
科学技術教育と実用的な語学教育を特色としていた。
旧校名である浅野綜合中学の「綜合」には、教養主義に陥らない幅広い知識と
実践的指導力を身に付けさせるという意味が込められているという。
こんな坂を上っていきます。
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急な坂を上ります、木陰だが暑いね。
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これが浅野総一郎さんの銅像です。
頂上にある銅像。埋め立てを行った、京浜工業地帯を眺めている。
ご案内をしていただいた教頭先生のお話では高さは基台を入れて10m
近くあるといいます、
像の周辺は一段高くなっており、西には大山と丹沢の山々が良く見えました。
(残念ながらこの日は富士山は雲に隠れていました。)南西方向はみなとみらい、
南には湾岸つばさ橋、東にはキリンビールが見えました。
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この像の裏側には、浅野総一郎が関わった、セメント、海運、鉱山、造船、鉄鋼、
商社、電力等の会社名がずらりと並んでいた。
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こういう表示版もついていました。
戦時中に供出して昭和33年に再建されたのですね。
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見上げてみました。
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校舎の中の資料室を見せて戴ました。
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当然出てきました「努力」
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努力と度胸、稼ぐに追いつく貧乏なし。
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「こころたに、まことのみちにかないなは
いのらすとても、かみやまもらん」
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76歳の時の書です。
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様々な資料、年表などが展示されています。
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資料室に40Cmほどの浅野翁の銅像もあります。
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初代校長の水崎基一先生像
第二代校長に神名勉聰先生像
昭和13年7月
初代校長水崎基一の死去の後を受けて神名勉聰が第二代校長に就任する。
浅野学園で休憩、昼食、場所までお借りしました、
空調のきいた部屋で休む事が出来ましたありがとうございました。
浅野学園を後にしてキリンビール横浜工場に向かいます。
東京方向に歩くと滝坂の踏切に出ます。
此の踏切は昔、大きな事故がありました。
私の先輩んの弟さんが亡くなったのでよく記憶しています。
昭和35年(1960年)12月のことです。
三菱電機の社員を乗せた会社所属のバスが遮断機の上がった踏切を横断する折、
試験走行中の機関車と衝突して8名の死者を出してしまった。
事前に踏切を止めて通行禁止にする旨の表示がされていたというが何らかの理由で
見落とされたらしい。今でこそ考えられない事故だが、
当時は「フェイルセーフ」のシステムが発達していなかったのだから避けられない
要素もあったのだろう。
ところで滝坂踏切といえば昭和の5大鉄道事故のひとつに数えられる「鶴見事故」
を忘れてはならない。
この踏切に立って東の方角に目を向けると、線路の山側に小さなほこらを望める。
これが鶴見事故の慰霊碑で、大惨事はまさにそのあたりで発生した。
昭和38年11月9日の夜半横浜方面へ走っていた貨物列車のうち一両が脱線して
後続の貨車と共に旅客路線にはみ出し、隣の上り線路を塞いだところへ同線を
走行してきた東京行きの横須賀線が接触した。
はずみで脱線した上り列車はそのまた隣の下りの旅客路線に逸走、そこには逗
子行き下り列車が貨物列車の脱線を知り緊急停車中だったため、側面からこれに
衝突するという旅客列車同士の追突事故を引き起こす。
犠牲者は死者161名、重傷者120名という夥しい数にのぼった。
死者は鶴見の總持寺に運ばれてそこで供養されたという。
総持寺には慰霊のお地蔵様があります。
キリンビー横浜工場に着きました。
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見学を終わりレストハウスでビールや飲料を頂きました。
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見学コースの入口にこんなものが作ってありました。
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永い間かかっていた高速道路の工事も完成しました。
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付近の工事が終わり生麦事件の碑も新しい堂に入れていただきました。
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愛友会と読めます。
どの様な組織、団体か不明です。
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生麦事件の碑文翻訳文。
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浅野総一郎とキリンビール工場見学を終わります。
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