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感じたまま

日々感じたこと。 外歩きや、見学をしたことを記録しています。

2019年01月

築地散策2/5回目続きます。



築地本願寺内見学、続きます。

本堂の入り口では、牛・馬・獅子・象・孔雀が、ぽってりとした姿で迎えます。
他にも各所に、猿や鳳凰、グロテスクと呼ばれる珍獣、
青龍・朱雀・白虎・玄武がいます。

これは牛でしょうね。

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孔雀。
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虎。
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一階に降りる階段、大理石です(だと思います)
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階段の壁の石、材料は分りませんが素人目にも高級なものに見えます。
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一階です、像でしょうね。

青龍・朱雀・白虎・玄武については探しきれませんでした。
ただ、これらの動物がこの浄土真宗の教えの中でどのように扱われて
いるのか調べきれませんでした。

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本堂入口の黒い扉の上部には、美しいステンドグラスが配されています。
これは表から撮ったものです。

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境内にある国指定重要文化財の票です。
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もう一回眺めましょう。
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鉢が置いてあります。
蓮の花が植えた在りますが今は枯れています。
右側の棕櫚の木は子だくさんを表わしているとか。
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こういう物がありました。
2025年に開けるのだそうです。
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此の大谷石の塀も重要文化財です。

これを欄楯(らんじゅん)というそうです。

仏説阿弥陀経の極楽世界の七重にかこむ玉垣だそうです。

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本願寺を後にして進みます。
「くどき上手」こういう名前のお酒がありました。
口説くには、たくさんの考え方があるとは思うが、此の酒の絵柄から、

自分の愛情や恋心を受け入れるよう説得する。言い寄る。
「言葉巧みに―・く」と思っていますがどうでしょうか。

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此処からは発祥の地巡りをします。

工学院大学学園発祥の地。

工学院大学は 1887(明治20)に この地築地に創設された「工手学校」に始まる。
1928(昭和3)に 新宿区に移転, 戦後 1949(昭和24)に 工学院大学となった。

現在は 新宿副都心の 28階建ての超高層ビルと 八王子市に校舎がある。


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江戸東京博物館にあったような家ですね。
大正年間にこういう壁に堂版を張る作りが流行したと記憶しています。
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花の都中央区宣言の碑

中央区平和都市・花の都中央区・太陽のまち中央区の三宣言を表示した記念碑を、
区内三か所( 築地7-19-1あかつき公園内、日本橋浜町2-59-1日本橋浜町公園内

1-11-4佃公園内)に設置しました。

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アメリカ公使館跡。聖路加ガーデン前にあります。
説明版

アメリカ公使館跡

所在地 中央区明石町八

開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政六年(1859)
現在の港区元麻布1-6の善福寺に公使館を開設しました。
ついで、明治8年(1875)12月、築地居留地内のこの地に公館を新築し、
はじめて形容を整えました。

後にこれが手狭となり、同23年3月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に
移転しました。

この公使館跡には、五個の小松石の記念碑が残っています。
大きさは、縦86〜101Cm、横84〜118Cm、
厚さ18〜34Cm、うち、二個には当時のアメリカの国章である盾、
1個には星と鷲と盾、2個には5陵の星が刻まれています。

この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、
中央区民有形文化財に登録されています。

平成8年3月

中央区教育委員会

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立教大学発祥の地の碑

聖路加看護大学の構内に ドーナツを半分に割った ユニークな形の 黒色の石碑が
建っている。

この碑は 立教の創立125周年を記念して 2000年に建立された。

立教学院は 1874(明治7)年 築地の外国人居留地に開かれた 「立教学校」という
名の私塾がルーツ。

その後 「立教大学校」「立教専修学校」「立教中学校」などの名称を経る。
1907(明治40)には「立教大学」を開設し, 1918(大正7)に
現在地(豊島区池袋)に移転した。

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慶応義塾発祥の地記念の碑。
慶應義塾の起源は、安政5年(1858年)に、福澤諭吉が中津藩中屋敷内の蘭学塾の
教師に就任したことに始まる。
中屋敷は江戸の築地鉄砲洲にあった。現在の東京都中央区明石町の一部で、
聖路加国際病院のあるあたりといわれている。
「慶應義塾発祥の地記念碑」は、昭和33年(1958年)に、慶應義塾創立百年を
記念して、聖路加国際病院敷地内に建立された。
台座は黒御影石で、正面および側面に建碑の由来が記され、スウェーデン産花崗岩で
できた書籍のかたちをしたオブジェの表面には、『学問のすゝめ』初編初版本の
活字と同じ字型で「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字が
刻まれています。
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右にあるのが「蘭学は此処に」の碑です。

中津藩中屋敷は、藩医であった前野良沢が『解体新書』を翻訳した地でもあり、そ
の記念碑「蘭学の泉はここに」も隣接している。この二基は、合わせて
日本近代文化事始の地記念碑と称されている。

無題


築地散策2/5回め終ります。


築地散策周辺を散策してみました。
写真は五回に分けて貼ります。

一回目です

今日はここから出発です。
築地市場駅。

東京都交通局(都営地下鉄)大江戸線の駅。
副駅名は朝日新聞社前。

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目の前に案内板が、親切ですね。
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築地がん研究所です
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朝日新聞社です。
昔、有楽町にあったころ見学に行ったことがあるな。
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道祖神とも違うような気がしますが。
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築地場外市場。
外国人観光客でごったがえしていました。
右側の道路には観光バスが何台も止まっていました。
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新大橋通りを進み「築地本願寺」に着きました。
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正門。
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門について居る紋です。
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全景、画像をクリックしてみてください。
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手水鉢。
此処には屋根がありません、何か理由があるのでしょうか。
昭和四十三年一月一日 水盤石 庭石寄贈と銘があります。
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境内にあったクロガネモチの木。
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陸上交通殉難者慰霊碑。

築地本願寺の境内にはたくさんの碑があります。

これは昭和44年11月に建設された「陸上交通殉難者追悼之碑」です。

原文のまま碑文を以下に紹介します。

いつ果てるともない交通事故は、日夜多くの犠牲者を続出しています。今ここに

いたましい犠牲者の追悼碑を建設し、こころから、その冥福を追慕し、ふたたび、

このような悲惨事をくりかえしてはならぬという警告を、より広く、より深く、多

くの人々にうったえ、交通事故絶滅への礎としたい。

交通事故殉難者追悼碑建設会 名誉総裁 三笠宮崇仁親王

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台湾物故者遺骨安置所。
説明版によればおおよそ、

太平洋戦争の終結とともに台湾にいた日本人は本土へと戻ることになりましたが、
台湾に残された日本人墓地はそのまま残され放置されていました。
このことを憂う方々の願いと、多くの方の努力また台湾政府の協力などのよって
昭和32年に台湾各地の日本人墓地の整理が進められ、昭和36年までに整理が完了して
1万3千人あまりの遺骨が納められたそうです。
その後これら全員分の分骨を日本に持ち帰ることができ、これを安置するために
昭和38年に本願寺に遺骨安置所が建設されたそうです。

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九条武子歌碑

九条武子は西本願寺第二十一世門主明如の次女で歌人であり、
築地本願寺内に住み慈善事業に尽くしたことでも知られる。

境内には、
「おほいなるものの ちからにひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」と
いう武子の歌を刻んだ石碑が建てられている。

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間新六(ハザマシンロク)供養塔

間新六は吉良屋敷討ち入りをした赤穂浪士47人の一人で、事件後ほかの浪士と
共に切腹したが、義兄の中堂又助が遺体を引き取り中堂家菩提寺である
築地本願寺に葬ったため1人だけ泉岳寺に埋葬されていない(墓碑のみ)
赤穂事件。
私はこのドラマ(忠臣蔵1985年のテレビドラマ)を見て間新六を記憶しています。

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親鸞上人の像
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当然のことですが来歴、業績等が丁寧に説明されています。
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勝如上人は

大谷 光照(おおたに こうしょうさん)とお呼びし、
(明治44年(1911年)11月1日 〜平成14年(2002年)6月14日)
浄土真宗本願寺派第23世宗主、伯爵。
諱は光照。
法名は勝如上人。院号は信誓院。 昭和天皇の従兄弟にあたる。

つまり明治天皇は祖父に当たられるわけです。
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もう一度角度を変え全景です。
丸みを帯びた本堂の屋根。
正面のモチーフは菩提樹の葉、その中央に蓮の花が描かれているそうです。
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正面に見える大きな階段の両側に翼のある獅子像がいました。
寺院ですから狛犬とは云わないのでしょうね。
特徴的なのが翼で、上向きにくるりと巻いており、丁寧な彫りが施されています。

築地本願寺の設計も古代インド様式ということで、オリエントの雰囲気ですね。

たてがみはシンプルな波形になっており、毛先が少しだけ盛り上がっています。

また、前脚の肘も甲冑をつけているかのようですね。

向かって右側のみの写真ですがこれは「阿」左側の物は「吽」形です。
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本堂内に入りお参りさせていただきました。
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ご本尊は聖徳太子手彫と伝承される阿弥陀如来立像。

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本堂にある
七高僧御影(右余間)
(よく理解できないが)

七高僧(しちこうそう)とは、浄土真宗の宗祖親鸞が選定した七人の高僧のこと。
正信念仏偈の依釈段に示してある。
七高僧選定の理由は、自ら西方浄土への往生を願うこと、著書をもって
他力法を弘伝すること、教義において発揮するところがあること、
本願の趣旨に相応することの4つがある。

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勝如上人御影(正面左)。
第二十三代宗主、国内、海外への巡教に積極的に取り組まれた。
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聖徳大使像(左余間)
親鸞聖人が「和国の救主」と讃えられた方です。
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パイプオルガン

本堂の入り口の上にあります
音楽を通じた仏教伝道と仏教音楽の普及を願い、1970年(昭和45年)、
財団法人仏教伝道協会様より寄贈いただいたものです。
法要行事、結婚式での演奏のほか、ランチタイムコンサートも開催しています。

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築地散策1/5回め終ります。


読売新聞の人生案内から

私はこの相談と回答者のお話を読んで涙が流れて仕方がありませんでした。
末期の親御さんを診ていた方のほとんどが、形こそ違ってもこういう
思いをされたと思います。

全文掲載します。

50代女性。もうすぐ一周忌を迎える母のことを思い、喪失感でいっぱいです。

母は父のギャンブルなどで苦しみ、70歳まで働きづめでしたそんな境遇なのに
人の悪口は一切言わない、本当に優しい人でした。

晩年は寝たきりで認知症が進み、母の治療方針は私が決めることになりました。
母が苦しむことを望んでいなかったのに、周囲の助言もあり、私は延命治療を
選択してしまいました。

母は食べることも話すことも出来ず、地獄のような日々だったと思います。

まだ意思表示ができた時、「またお母さんの子どもにしてくれる?」と聞くと、
手を握ってうなずいてくれました。
独身の私にとって、母は自分の命より大切な、かけがえのない人でした。


母が亡くなった後、周りの人から「自分のためにがんばって生きるように」
と言われます。
でも最期まで苦しんだ母を思うと、普通に暮らすことが申し訳なく思います。
これから私は何のために生きていくのでしょう。(福岡・G子)


◇久田恵(作家)

介護は、献身すればするほど、献身しきれなかった自分に苦しんでしまいます。
頑張り抜いた分だけ、喪失感も大きく、その状況から立ち上がれないこと
もあります。それがとても悲しいですね。


でも考えてみてください。岐路に立たされ、お母さんの延命治療を選択して
しまったのは、一日でも長く生きてほしいというあなたの願望が切実だった
からです。
お母さんにもあなたにも、別れを納得するために必要な時間だったのかも
しれません。

そのようにしかできなかった、ということは、常に人生には付きまとうものです。

どうぞ、その体験をお母さんが身を投げ出して最期に教えてくれたこと、
と受けとめてあげてください。
自分の死の迎え方が子どもに苦しみを与え、生きる勇気を失わせたとしたら、
親は悲しいと思いますよ。
しばらくは、存分に悲しみに浸ることを自分に認め、それから歩き始めましょう。



先日(二月二十四日)鎌倉を散策しました。
梅が咲始めていました、鼻の悪い私でも香りが分かりました、
とても嬉しかったです。
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浅草名所七福神5/5

此の地図の吉原神社から地図には出ていませんが1分で
吉原観音に行きました。
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記念碑。
左に十周年供養塔、左に六十周年供養塔が見えますね。
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観音様、とてもお優しいいいお顔ですね。
いやされます。
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此処は吉原神社の奥宮です。
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これが社殿です。

2012年に、東京芸大や武蔵野美大、多摩美大の学生、卒業生らによって

壁画や彫刻も制作されたそうです。

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おられました
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花吉原名残の碑

吉原は、江戸における唯一の幕府公許の遊郭で、元和 3年 ( 1617年 )
「葺屋町東隣 ( よしやちょう ひがしどなり )」( 現中央区日本橋人形町付近 ) に開設した。

吉原の名称は、植物の葦 ( よし ) の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより
、はじめ葦原と称したのを、のちに縁起の良い文字にあらためたことによるという。

明暦 3年 ( 1657年 ) の大火を契機に、幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され同年 8月、
浅草千束村 ( 現台東区千束 ) に移転した。

これを「新吉原」と呼び移転前の遊郭を「元吉原」という。

新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、
幾多の歴史を刻んだが、昭和 33年「売春防止法」の成立によって廃止された。

その名残を記す当碑は、昭和 35年地域有志によって建てられたもので、
碑文は共立女子大学教授で俳人、古川柳 ( こせんりゅう ) 研究家の
山路閑古 ( やまじかんこ ) による。

昭和 41年の住居表示の変更まで新吉原江戸町、京町、角町、揚屋町などのゆかりの
町名が残っていたそうです。

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境内にある小さな池。

こちらは関東大震災で多くの遊女が飛び込み、折り重なるように窒息死したと
伝わる弁天池の一部、当時は広大な池だったと云います。

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さらに進んで鷲(オオトリ)神社に着きました。
此処は寿老人です。

鷲神社(おおとりじんじゃ)は、「おとりさま」の通称でも呼ばれ、
11月の例祭は「酉の市(とりのいち)」として広く知られていますね。

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立派な社号標。
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本 殿。

言い伝えによれば、古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が
東征の折に戦勝を祈願したとされるが、実際は隣接する長国寺に祀られていた
鷲宮に始まるという。
江戸時代中期から酉の市で知られ、東京都足立区花畑7丁目の大鷲神社の
「おおとり」に対し、鷲神社は「しんとり」と称された。
明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となった。

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なでおかめ"は顔の各場所により違うご利益を授かると伝えられており、
鷲神社は商売繁昌の神様なので金運の鼻が多くの方に撫でられているようです。
向かって右の頬の恋愛成就も鼻に負けじと撫でられ黒ずんで来ています。
若い方の参拝者が増えて来ているせいでしょうか。

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御祭神

天日鷲命(あめのひわしのみこと)

日本武尊(やまとたけるのみこと)

寿老人

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寿老人、こちらは「人」です。
写真はHPより
[画像:oo_zou]

他にも碑があります。
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鷲神社後にし先に進みます。
此処を右折します。
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此処を通り面白いものはないかなと、きょろきょろ。
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商売繁盛河童の河太郎。
ここは七福神とは直接関係ありません。

今から約180年前の文化年間、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)という雨合羽
で財を成した商人がいました。
この辺りの水はけが悪い低地で、雨が降るたびに大洪水となり、人々は困りはており、
見るに見かねた合羽川太郎は、住民を救いたいと一念発起し、私財を投げ出して
治水工事を始めました。
しかし、工事は難航。その様子を見ていた隅田川の河童たちは川太郎の良心に
感動して、夜な夜なこっそり工事を手伝ったといわれています。
それにより、工事は無事完成したというのです

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河童橋道具街を見て最後の参拝地、矢崎稲荷神社に着きました。
此処は福禄寿さんです。
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御祭神

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

福禄寿

寛永19(1642年)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と
市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を
建立しました。

三十三間堂では弓の射技練成のために「通し矢」が行われました。
通し矢は先人に勝てば堂に掲額できるとあって武士としての名誉となり、
大いに流行したようです。
この通し矢は江戸市民にも観覧が許され、評判を博しました。

京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、
その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられました。
いまからおよそ360年前のことになります。

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扁額。
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福禄寿さん。

矢先神社のご神像は拝殿右手に奉安されています。

長寿の象徴の鶴をはべらせ、白髪白髯、調和のとれた円満な福相をされており、
人の最高理想の姿をあらわしています。


写真撮影禁止でした。
HPより
[画像:ya_zou]

本殿内に入って天井画を拝観してもいいと聞きましたので入らせて
戴きました。
これは天井画のサンプルでこれだけの絵が天井に描かれています。
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拝殿の格天井には、神武天皇の御世から今日にいたる「日本馬乗史」を描いた
100枚の絵が奉納されています。人物、馬の姿態、武具、服装などすべてが
精密な考証のもとに描き上げられていて、馬にまつわる歴史が一目瞭然に理解
できる貴重なものだそうです。
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手水舎。
何か他のところと感じが違います。
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立派なご神木です。
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これで浅草名所七福神巡りを終わります。
同行していただいたお仲間の皆様お世話になりました。
楽しい一日をありがとう。

浅草名所七福神4/5

此の地図の右上、石浜神社の続きです。
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富士塚正面からみました。
一番右側黒い鳥居が「富士遥拝所」、赤い鳥居は「白狐祠」、
一番左は「招来稲荷神社(おいでいなりじんじゃ)」です。
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本殿。
御祈祷お願いしている方がいました。

神亀元年(724年)9月11日、勅願(国家鎮護・皇室繁栄などを目的とした
勅命による祈願)によって創建された、荒川区内最古の神社である。

1189(文治5)年、源頼朝が奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安4年(1281年)の
蒙古襲来の折には、鎌倉将軍家お取次による官幣の奉納などを経て、千葉氏、
宇都宮氏など関東武将の崇敬も篤く、中世初めには大社として発展する。

社地は東方に隅田川、西方に富士山、北方に筑波山を望む景勝地であり、
江戸名所図会などにも紹介された。

「朝日神明宮」とも称され、伊勢に行けない人々が代わりに参詣し、
夏越の大祓は江戸随一とされるなど、多くの参詣者を集めたと伝えられる。

1872年(明治5年)、郷社に列格し、大正15年(1926年)、隣接していた
真先稲荷・招来稲荷神社が石浜神社の境内に遷座した。

昭和63年(1988年)9月、白鬚西地区市街地再開発事業に伴う護岸工事により、
前社地よりやや東の現在地に遷座している。

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寿老神(此処はジンの字をカミと書いてあります)
HPより。
[画像:jyurojin]

手水鉢。
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石浜神社をでます。
石浜城址公園??ここに出ています。
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こんな屋台が置いてありました。
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地図中ほど上のほう東浅草二丁目を通過。
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さらに吉原大門を通ります。
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上の写真の場所から横断すると見返りの柳がみえます。

見返り柳(みかえりやなぎ)は、遊廓の入り口付近に生えた柳の名称。
遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを
振り返ったことからこの名が付いた。

伊豆諸島の新島にも見返り柳はあるが、これは刑が執行される直前に罪人が
刑場近くにある柳のあたりで振り返ったことからこう呼ばれた。
枯れるたびに何度も新しく植えられこの柳は6代目だそうです。

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電柱と重なって見えにくいです。
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この道路は表通りから直接吉原の大門が見えないように曲がっているとか。
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この付近にあったのでしょうか。
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古地図。
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上の右の地図の下のほう赤く塗られたところです。
吉原神社です、此処は弁済天です。
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此の狛犬
昭和28年に納められています。
亡くなった旦那さんの供養に納めたという銘がありました。
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よく神社などで灯篭などを担いでいるのを見ますね。
阿吽の鬼。

阿吽とは、「物事の始まりから終わり」という考えや、
「人生の初めから終わりまで」「宇宙の始まりから終わり」など
様々な解釈があります。

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境内社
お穴様
地中の神様で神社の土地をお守りしています。
心を込めてお参りすると必ず福が得られると伝えられ大切にお護りしております。
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吉原神社は、かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する
吉原弁財天を合祀した神社です。

また吉原弁財天の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で、
吉原神社にお祀りされていると共に、現在でも本宮が大切にお祀りされていて
信仰が続いています。

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台東病院の前を通ります。
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これには驚きました。
長寿者慶祝記念樹。
台東区ってすごいね。
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吉原弁財天本宮社殿
吉原観音に着きました。

吉原神社のすぐ近くにある奥宮です。入り口に奥宮なのに鳥居がない。

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この付近でも
関東大震災、東京大空襲と火災にみまわれていて、大勢の方がなくなっています。

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十年毎に慰霊祭が行われているようですね。
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浅草名所七福神4/5回めおわります。

浅草名所七福神3/5


待乳山聖天を過ぎ山谷堀公園を通過今戸神社に向かいます。
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付きました今戸神社、此処は福禄寿さんです。
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招き猫は豪徳寺が発祥の地だと思っていた。
認識不足だった。
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度数拝礼碑
よく判りませんが百度石のような物でしょうか。
裏には昭和三十六年解脱会浅草と記されていました。
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縁結びの神様、絵馬は四角ではなく丸いものです。
縁があるようにということです。
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本殿の階段下(左手)にあったのが、石なで猫という石像。
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後冷泉天皇康平六年(1063年)、京都の石清水八幡を勧請し、今戸八幡を創建。
昭和十二年七月に、白山神社を合祀、今戸神社と改称。
應神天皇の御神徳は武運長久と慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としております。

後冷泉天皇康平六年(1063年)、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、
勅令によって奥州の夷賊安部貞任・宗任の討伐の折、篤く祈願し、鎌倉の
鶴ヶ岡と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが
今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。

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今戸神社に祀られてるのは、
伊弉諾神(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の神様。
この神様は夫婦で祀られています。これが「縁結びの神様」の由縁です。

又ここは今戸焼き発祥の地で、江戸時代には今戸焼きで焼かれた「招き猫」が
大ブームになりました。
本殿の拝殿にあるのは、今戸焼きでできた大きなペアの招き猫。
奥の大きな猫は60〜70cmくらいあるビッグサイズで、顔立がとても可愛いです。
さらに拝殿(やや右手)に鎮座しているのは七福神の一人、福禄寿様。
この神様も今戸焼だそうです

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沖田総司。
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なぜこんな立派な碑があるのでしょうか。
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境内の松の木にぶら下げてありました、風鈴でしょうか。
此処にもねこがいました。
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神殿全景。
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昼時になったので蕎麦屋に入りました、私は親子丼をいただきました。
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通りすがりにせんべい屋さんがありましたので、お仲間がお土産にかいました。
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なんと店の中にこんな感謝状がありました。
間違っていたらすいませんが想像では伊勢神宮の式年遷宮の時にこのお店の
お菓子「磯姿」を奉納したので感謝状を頂いたのでしょう。
徳川宗敬
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コンナ所の前を通りました。
中に碑というのか墓というのか立派なものがありました。
世界救世教。
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さらに
橋場不動尊に着きました、此処は布袋尊です。
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浅草名所七福神の布袋尊をお祀りしている不動院(橋場不動尊)は、
天平宝字4年(760年)、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の
第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創された。
当初は法相宗だったが、長寛元年(1163)に時の住職教円(一説には長円)に
よって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となり、現在は
天台宗総本山比叡山延暦寺の末寺となっています。
明治末年の大火、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、
不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、
霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されている。

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布袋尊、よく見えませんでした。
この写真はHPから。
[画像:photo04]

さらに白髭橋の脇を通ります。
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石浜神社に着きました、此処は寿老神です。
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立派な二の鳥居です。
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子の鳥居は有形文化財のなっています。
寛延二年八月に出来たものです。
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富士塚ですね。
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浅草名所七福神3/5回目終ります。

浅草名所七福神2/5

続きます。


現在地は待乳山聖典手前言問橋を過ぎたあたりです。
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面白い型のバスがありました。
場所は普通のマンションの一階の駐車場です。
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待乳山聖典に着きました、此処は毘沙門天さんです。

待乳山聖天は「聖観音宗(しょうかんのんしゅう)」です。

浅草寺一山のお寺のひとつで、本龍院というのが正式な名称です。

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池波正太郎さん生誕の地。

「大川(隅田川)の水と待乳山聖天宮は、私の心のふるさとのようなものだ」

と記し、作品には待乳山や近くの今戸、橋場などをたびたび舞台として描いています。
平成19年11月、台東区立待乳山聖天公園に生誕地碑が建立されました。

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こういう祈祷もあるのですね。
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本堂。

聖天様鎮座のいわれ

当山は推古天皇の御世、地中から忽然湧き出た霊山で、その時、
金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。

それより6年後の夏、この地方が大旱魃に見舞われたとき、
十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)の
姿となってこの山に降臨されて、 苦しむ民を救いました。
これが聖天様が当山に鎮座された起源であるといわれています。

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境内各所に印されてあります巾着や大根は、御信心をされて祈願することによって
得られるその御利益を端的に表したものです。

大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く
一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。

巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを
示されたものです。

境内のあちこちに大根と巾着のシンボルを見ることができます
これは提灯です。

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手水鉢。
水が出てくる龍の頭が面白い形でした。
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築地塀

江戸時代の名残をとどめる唯一のものであって貴重な文化財である。

全長25間(45,5m)た広重の錦絵にも開かれている
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築地塀を裏側から見ました。
この通路は庭園に降りる通路です。
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本堂内。
たくさんの大根が奉納されています。
お清めが終わった大根は貰って帰れます。
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毘沙門天、HPより。
[画像:matu_zou]

本堂の軒にも大根の飾りが付いています。
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庭園を上から見ました、よく手入れされて綺麗です。
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文政十年、子亀石。
亀は縁起のいいものだから奉納したのかな。
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珍しいものがありましたので乗ってみました。
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四人のれます。
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楽しかったので往復しました。
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神社仏閣でこういう乗り物は珍しいのではないでしょうか。
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山谷堀公園、昔の堀割を緑地公園にしたのですね。
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橋の親柱。
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こういうお寺の前を通過。
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本龍寺の名にふさわしい本堂の彫刻。
七福神とは関係ありません。
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浅草名所七福神2/5回目終ります。

正月の人出も一段落したころ
浅草名所七福神巡りをしてきました。

写真は五回に分けて貼ります。

浅草寺を起点としてこの地図の反時計回りで赤線に沿って歩き、参拝しました。
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今日の出発点、東武線浅草駅す。

1927年(昭和2年)12月30日 - 東京地下鉄道の浅草駅が
「東洋で最初の地下鉄」駅として開業。
日本の駅百選に選ばれています。

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浅草寺の雷門。

門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門である。
門の中央には高さ3.9m・直径3.3mの提灯が吊り下げられており、
浅草のランドマークとなっている。
東京および日本を象徴する風景として、外国人向けの観光パンフレット、
お土産のレリーフなどに写真やデザインが用いられることも多い。

また雷門から道路を挟んで向かい側には、観光案内所・浅草文化観光センターがある。

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雷門をくぐり、仲見世通りの商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門
(2階建てで、外観上も屋根が上下二重になっている門)である。
江戸時代には一年に数度2階部分に昇ることが可能であった。
現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コンクリート造で、
実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。
門の左右に金剛力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と
呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵門と称している。
その名の通り、門の上層は文化財「元版一切経」の収蔵庫となっている。

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上の門の前にある七福神の案内板。
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境内には池があり水が流れています。
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影向堂(ようごうどう)
この中に大黒点がおられます。写真撮影は禁止です。

本堂の西側にある。鉄筋コンクリート造、寄棟造、錣葺き(しころぶき)屋根で、
平成6年(1994年)の建立。堂内には本尊聖観音像のほか、鎌倉期の円派の様式を
示す阿弥陀如来坐像等十二支の守り本尊である8体の仏像を横一列に安置されています。

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隣の
浅草神社に向ます。
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水盤舎。
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水盤舎の寄贈者のお名前。
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由緒

浅草神社は、台東区浅草にある神社です。浅草神社は、浅草寺本尊の観音像を
拾い上げた桧前浜成命、桧前竹成命、奉安した土師真中知命、及び東照宮を
祭神として、約700年前に創建したといいます。
浅草七福神の恵比寿神です。

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コンナお名前も。
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境内に十月桜が咲いていました、これは縁起がいいね。
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二天門

重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。
元和4年(1618年)の建築で、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。
この門は、本来は浅草寺境内にあった東照宮(徳川家康を祀る神社)への門として
建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼失後、再建されていない)。
現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓地にある厳有院
(徳川家綱)霊廟から移されたものである。
平成22年(2010年)、改修により創建当初の様式に戻された。

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東参道を出て言問橋方向に向かいます。

履物問屋発祥の地の碑。

浅草寺東側の花川戸公園内にある。石碑は大きく、名称がはっきりと刻まれている。
幾度かの災害や時代の波を乗り越え、地場産業として現在に至る繁栄を築いてきた
先人達の功績を讃えて、地元の浅草履正会協同組合が花川戸公園内に建立した
ものである。
この界隈は昔から日本有数の履物問屋街であること、今でも公園隣の合同履物
はじめ履物問屋があり多くの草履や下駄などが売られています。

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姥が池の旧跡。
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様々な言い伝えがあります。
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助六歌碑。

台東区にある花川戸公園内に、「助六歌碑」はあります。
この碑は明治12年(1879年)に9世市川団十郎が中心となり、大旦那であ
る日本橋在住の須永彦兵衛(通称は棒彦)を顕彰して、彦兵衛の菩提寺である
仰願寺に建立されました。大正12年の関東大震災の折に消失しましたが、
のちに発見されました。そして、碑を創建した際に世話役を務めた人の子孫が
中心となりこの地に再建され現在に至っています。
石碑の台には「花川戸鳶平治郎」、石碑の裏には
「昭和33年秋再建・鳶花川戸樋田」と刻まれています。
この石碑の表側には「助六にゆかりの雲の紫を 弥陀の利剣で鬼は外なり」
団洲と刻まれています。ちなみに「団州」とは、9世市川団十郎の雅号です。
また、落語界の名門である三遊亭円楽の噺に「助六伝」と言う演目があり
「助六歌碑」との縁を感じさせてくれます。

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白髭橋方向に進みます。
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この付近には革製品のお店が多いですね。
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前方が言問橋です、此処からスカイツリーがよく見えます。
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宮本卯之助商店
太鼓・和太鼓・神輿の製造・製作・修理・販売・レンタルで有名なお店です。

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浅草名所七福神1/5回め終わります。

港みらい21夜景

今年の冬は天気の良い日が続いていますね。


パシフィコ横浜の通路付近。
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クイーンズスクエア横浜に向かう通路。
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クシーンズスクエア通路。
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横浜美術館方向。
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ドック跡。
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上に同じ。
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汽車道から見た横浜コスモワールド方向。
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クイーンズスクエアー。
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ランドマークタワーと日本丸。
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コスモワールドの観覧車と手前はアルベルセルみなとみらい。
(結婚式場です)。
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以前と違って色の変化が増えたような気がします。
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見ているだけで楽しい。
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10分間ほどの間様々に変化します。
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横浜ワールドポーター。
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今年一年健康で過ごせるといいね。


今から丁度24年前の今日阪神淡路大震災が起きました。
この年は上の孫が生まれた年だから特に記憶にのこる年です。
あの日の朝のことは24年経っても記憶にのこっています。

地震発生時刻が5時46分と早朝であったことから
地震が有ったことを出勤前のニュウスで知った。
テレビの画面で神戸の震度が表示されて無く✕印になっていた。
不思議な思いがした。

このころは朝出勤前にラジオ体操をしていたが此の日は放送が
中止になった。

会社に出勤してふつうに仕事をして、昼休みに食堂に行きテレビを見て
度肝を抜かれた。

なんと死者が200人・・300人と刻と増えてくる。
高速道路が倒れている、火災が何か所も起き炎と煙が高く上がっている。
大きなビルが倒れている、電車が横転している。

まさにこの世の出来事とは思えない光景の連続。
皆、呆然とテレビの画面に食い言っていた。

当時、私たちの職場にベトナムから研修生が来ていました。
お国では地震はありますか、聞いたらほとんどありませんと言っていました。

この年は「地下鉄サリン事件」もあった大変な年でしたね

この年に生まれた孫が24歳になります。
当然干支はイノシシです。

ABBAです
大好きなグループです。
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