[フレーム]

感じたまま

日々感じたこと。 外歩きや、見学をしたことを記録しています。

2018年04月

六義園、他に行ってきました。
写真は三回に分けて貼ります。


集合場所のJR駒込駅。

駅構内の掘割の斜面にあるつつじの植栽が有名で、これにより関東の駅百選にも
認定されている。
バリアフリー対応のためエレベーターやエスカレーターの設置工事が行われた際、
工事の支障となる北側斜面のつつじの一部が伐採された。
その後、可能な範囲でのつつじの新規植栽がされた。

R-P4241580

駅周辺にはツツジが満開でした。
花びらの上に向かって赤い模様があるが蜜標です。

ツツジの花には、上方の花びらにだけ斑点があります。花びらにある斑点は、
一般に「蜜標」または「ガイドマーク」と呼ばれ、昆虫に蜜の在り処を教え、
花の思惑どおりに花粉を運んでもらうよう昆虫をガイドするためのものです。
このことはツツジだけでなくほかの花にもあります。

R-P4241581蜜標

六義園に入りました。
R-P4241584

此処の枝垂れ桜は有名ですね、満開時一度くらいはご覧になったことがあると
思います。
説明版によれば昭和30年代に東京都によって植栽された桜で樹齢は70年ほどだ
そうですが、先生のお話では70年ではここまで大きくならないだろうと。
R-P4241589

サクランボが付いていました。
R-P4241591

これがこの枝垂れ桜の根元ですが、明らかに寄せ植えであることがわかります。
開花の時期に来てみると枝ごとに開花が異なるのがわかるそうです。
また秋に葉が枯れて落ちていくときにも枝ごとの異なるのを見ることが出来る
そうです。
R-P4241593

五葉アケビ。
私たちが普通アケビと呼んでいるものがこれだそうです。
三つ葉アケビと呼ばれるものもあるそうですが苦みがあるそうです。
R-P4241595五葉アケビ

隠れ蓑の葉。
黄色いのは昨年の葉で常緑樹でもこのように葉は新しいものに変わっていきます。
R-P4241596隠れ蓑紅葉古い葉

直径が1mほどもある樟の切り株からコンナ可愛い新芽が出ています。
R-P4241598楠

竹、バンブー。

タケ類にはタケ(竹)とササ(笹)とバンブーがある。タケとササとバンブーの
相違点を以下に挙げる。

地下茎の有無

地下茎で生育繁殖するタケ、ササとは異なり、バンブーは分蘖(株分かれ)に
よって株立ち状になる

竹皮の着生

タケは生育後落下するが、ササは生育後も着生している。

葉の形態

タケは格子目があるが、ササにはそれがなく縦に伸びる平行脈である。

開花

タケは約120年周期、ササは40年から60年周期でどちらも開花後には枯死する。

バンブーは、熱帯地方に生息し、外見がタケに似ているものの、地下茎が横に這わず、
株立ちになる

R-P4241603竹バンブー

朴ノ木。
葉は横向きに出て日当たりを調整している。
R-P4241610朴ノ木葉は横向きに出て日当たりを調整する

此の直線道路は大名屋敷時代の馬場の跡です。
R-P4241611馬場だった

青木。
花が咲いた先に新しい芽が出る。
R-P4241613青木花の咲いた先に新芽が出る

藤代峠。
R-P4241617

藤代峠から見える景色は素晴らしいです。
R-P4241619藤代峠から景色

山桑の花。
R-P4241620山桑の花芽

躑躅、本霧島。
R-P4241623本霧島


R-P4241628


R-P4241635

田鶴橋。
R-P4241639


R-P4241640

松の雄花(黄色い花粉が見える)と雌花が立ち上がっています。
そこに松ぼっくりが出来ます。
R-P4241645松の雄花とがったところが松ぼっくるになる

木の根っこ、踏まれて瘤になっています。
R-P4241647踏まれて瘤に成った根

躑躅、紫琉球。
R-P4241648紫琉球

黐躑躅(モチツツジ)

花の萼や柄、葉(両面)、若枝、子房、果実に腺毛が多く見られ、そこから分泌
される液滴によって粘着性を持つ。
野外ではここに多くの昆虫が粘着してとらえられているのが観察される。
この腺毛は花にやってくる、花粉媒介に与る以外の昆虫を捕殺して、花を昆虫に
食害されるのをふせぐために発達したものらしく、実験的に粘毛を剃ると、花は
手ひどく食害される。

また、ここに捕らえられた昆虫を餌とする昆虫も知られる。
ヤニサシガメなどのサシガメ類がよくここに居ついている他、
モチツツジカスミカメという、ここに専門に居つくカスミカメムシ科のカメムシ
知られており、自らは腺毛に粘着することなく、この上を自由に歩き回って
捕らえられている昆虫を捕食する。

R-P4241650モチ躑躅

八角蓮。

ハッカクレンは台湾や中国の深山の林床に生える大型の植物です。

太い茎の先端に大きな角のある葉を2枚広げ、葉の下に赤褐色の抱え咲きの花を
数輪咲かせます。
このハスに似た葉の角の数から「六角蓮」や「八角蓮」と呼ばれています。

R-P4241654八角蓮

気を付けてみないと、花は葉の影になって見落とします。
R-P4241657

出汐の湊付近の景色。
R-P4241660

六義園1/3一回目おわります


この本は私が感想を書くより一橋大学の教授、吉田裕先生のコメントを
呼んでいただくほうが良いと思い全文載せました。

読売新聞一月二十二日月曜日 朝刊 文化欄の記事です

戦場の現実、死の現場 克明に 吉田裕・一橋大教授 新著「日本軍兵士」

だいやまーく戦死上回る戦病死、衛生軽視

兵士の目線で日中戦争〜太平洋戦争期の戦場の現実を描いた『日本軍兵士』(中公新書)が、発売から1か月もたたずに3刷となる売れ行きを示している。著者の吉田裕(ゆたか)・一橋大教授は「戦場や戦闘の現実にリアルな想像力を持たなければならない」と話す。

戦争そのものを歴史学の観点から考え直そうと、部隊史や兵士の回想記、軍事医療関係の資料などを分析、「死の現場」を再構成した。本書では非常に高い餓死率や自殺率、30万人超の海没死、「処置」と呼ばれた傷病兵の殺害など、「無残としか言いようがない」実態が記される。また、戦争栄養失調症や、失語などを伴う戦争神経症にも多くの兵士がかかり、戦病死者は1941年の段階で、戦死者を上回っていたことにも言及する。

ほかにも、歯科治療の軽視で兵士の7〜8割が虫歯や歯槽のう漏になっていたこと、水虫やマラリアへの対策不備で戦後数十年にわたり悩まされた人の例、戦局悪化に伴って体格や体力の劣る兵士が増えたこと、多い部隊では入営者の3〜4%が知的障害者だったことなどが記される。そもそも戦地の動員部隊には休暇がなかったり、体重の半分ほどの重い装備を装着させて長期行軍させたりするなど、兵士のケアという発想も乏しかった。吉田教授は、日中戦争期の1940年にはすでに国力の限界を超えたため、様々なひずみがあらわれたとみる。

さらに日本は、国家の総力を動員する総力戦体制も取れなかったとする。政治や軍事の権力が細分化する明治憲法の制度上の問題や、第1次世界大戦の直接当事者ではなかったことが要因だが、吉田教授は日本軍にあった、作戦と戦闘をすべてに優先させる作戦至上主義も重く見る。結果として作戦関係を担当する幕僚のエリート意識と力が非常に強くなり、情報や補給、衛生などの分野が軽視された。

軍のエリートは大学生の能力や愛国心も低く見て、彼らを動員するのが遅れた。この点、多くの大学生が早くから航空兵に志願したアメリカと対照的だったという。「国民の持っている能力を引き出せるような体制ではなかったから、アメリカとは元々の国力以上に格差が広がったといえる」

では、我々は何を学べばいいのか。「自衛隊が海外で戦闘行為に参加する可能性が増す中、為政者や国民が現実から遊離した判断をしないことが重要だ」と語り、戦場や戦闘への想像力を持つ必要があるとする。さらに、自衛隊の正面装備の充実ばかりに予算や関心が向き、情報や補給、休暇、精神的ケアなどがないがしろにされることを危惧。「公の場ではあまり議論されていないと思うが、そうなると戦争中の失敗が繰り返されかねない。歴史から学ぶべきだ」(小林佑基)

「かり出された兵士たちの無残な死を何とか記録に残しておきたいと思った」と語る吉田教授。

[画像:P3280655]


亀戸散策4/4

香取神社続きます。

「亀ケ井」の経緯が説明されています。
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大黒神・恵比寿神の尊像がある。

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柄杓で亀ヶ井戸から汲みあげた水を掛け、参詣する。

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かつてこの地には臥龍梅庭内に「亀ケ井」と呼ばれる井戸があったそうです。
亀島もしくは亀津島が亀戸という地名になったのは、この「亀ケ井」と混同され
亀井戸と呼ばれるようになったという説もあるそうです。
そのくらい有名な井戸だったのですね。

失われたこの井戸は、亀戸香取神社とその氏子の方々のご尽力により亀戸香取神社
境内に再建されました。
汲み上げた水は、恵比寿神と大黒神の前の甕へ注がれています。

この井戸の水は、飲用ではなく御神水として恵比寿神と大黒神に注ぎ幸せを願う
ためにあります。水量も僅かで、飲用には適していません。

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神輿。
約300年前江戸時代のものと思われます。

(江東区登録文化財)

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神輿。

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説明文。
意味が不明の部分が在ります。
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境内の様子。
楠の新緑が綺麗です。
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木遣音頭碑。

江戸時代、町火消しという日本初期の自治的消防機関が生まれたがこれは鳶火消しと言われ鳶による消防の起源となった。木遣りはこの鳶の間で広く歌われるようになり、江戸木遣りとして定着し明治以降は江戸消防組に受け継がれ現在では江戸消防記念会の人々によって伝承されている。1月6日の消防出初式のほか祝い事や行事に広く唄われているが、香取神社この木遣りの記念碑が建っていて毎年この前で木遣りが奉納されている。

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此の力石、なんと50貫コンナ重いものを担ぎ上げて人がいたのかな。
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南の鳥居から境内、本殿側を。
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香取神社を出ました。
この花は何でしょう・・・桐の花に落ち着きました。
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寶蓮寺に着きました。

真言宗智山派寺院の寶蓮寺は、東林山華蔵院と号します。嘉元元年(1303年)に
創建したといいます。
当初江戸横山町にありましたが、後当地へ移転しました。
荒川辺八十八ヶ所霊場73番札所です。

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弘法大師像。
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正木ひろしさんのお墓です。
墓碑の正木ひろしは直筆です。
墓石は岩手県の橋本八百二画伯からおくられた赤石。
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本堂。
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更に石井神社に向かいました。
参拝して、印刷した紙が掲示されていたので見ると神社 縁起だった。
それによれば

『当社は嵯峨天皇の御代弘仁弐年九月弘法大師により発現せられたる社にして、
級長彦命・津長井命・罔象女命の三柱を奉齊し、亀井戸郷中図子の鎮守社にして
毎年9月28日を以て例祭日となし当日、薩摩芋数拾俵町内住民より献じ後、
これを参拝者及び里童に授け與う別名おしゃもじ様の芋祭りと称す。
熱病除、百日咳除におしゃもじを拝受して特殊霊験顕著なりしは数多き崇敬者
ありし事で知るべし。』

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手水鉢。
昭和40年の銘がありました。
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古い狛犬、目と口に色を付けてあった。
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拝殿。

飯杓子を奉納する神社は、石棒を神体とすることが普通であるが、これは石棒を祭る
神社を石神(しゃくじん)とよび、「しゃくじん」が「しゃくし」となり、飯杓子を
奉納することになった。
また石神を「せきしん」とよぶこともあって、「せき」が咳の病と同音であるから
咳の神にもなった。
当社は、昭和20年の戦災で、社殿を焼失し、いまは小祠となっている。
当社の飯杓子奉納のことは、文政3年(1820年)刊行の、大石千引著「野万舎随筆」に、
「咳神、葛飾の亀戸村に、オシャモジという神の祠有り、神前に杓子を夥しくつめり、
依て其故よしを土人に問けるに、咳病を煩う人、此神に願たてぬれば、
さはやぐ事すみやかなり。此故に報賽に杓子を奉納するといへり。」と述べ、
その由来の古いことがわかる。

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シャモジが奉納してありました。
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今日の散策の最後、水神宮に行きます。
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亀戸水神宮は、江東区亀戸にある神社です。亀戸水神宮の創建年代は不詳ですが、
享禄年間(1528-1532)の開村の頃に創建されたのではないかと推測され、
延宝年間(1673-1681)の古地図には当社が記載されているといいます。
亀有香取神社の兼務社です

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祭神は罔象女神 (みつはのめのかみ)

享禄年間(1528-1532)、新田開墾の際に水害から免れるための祈願として
大和国吉野の丹生川上神社から勧請したことに始まるとされます。

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拝殿の鬼瓦?が水神になっています。
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水神森若人の歌。
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片隅にこんな像が。
意味不明ですね。
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亀戸駅に向かう途中に料理屋の前に亀戸大根が置いてありました。
此処、割烹升本ではこの大根を使った料理を提供しています。
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亀戸散策4/4回全部終わります。


亀戸散策3/4

龍眼寺、萩寺続きます。

不動堂。
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布袋堂。
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地蔵堂。
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子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)、優しいお顔の地蔵さんです

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次に天祖神社に行きます。

江東天祖神社は、応永2年(1395年)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと
伝えられます。
古くは柳島総鎮守神明宮と称されていました。柳島村の鎮守、村社を経て、
現在に至っており、亀戸七福神の福禄寿としても有名です。

御祭神、天照皇大御神。

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この神社の境内にはこう云う物がたくさんあります。
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皇孫殿下のご誕生を祝して作られて国旗掲揚台。
現在の皇太子殿下ご誕生を祝して作られたものですね。
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お地蔵さんでしょうか、道祖神。
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木化石。

木化石とも呼ばれるように、古代に何らかの原因で土砂等に埋もれた樹木が、
膨大な年月をかけ地層からかかる圧力により木の細胞組織の中にケイ素と酸素、
水素との化合物であるケイ酸を含有した地下水が入り込むことによって、
樹木が原型を変えずに二酸化ケイ素(シリカ)という物質に変化することで、
石英や水晶などと同様に固くなり、化石化したものである。

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御水舎。
昭和27年に作られました。
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復興記念碑。
昭和30年に作られていますから、戦争によって焼けた町などが
ようやく復興したことを祝して作られた物です。
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境内に有る福禄寿。
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境内社の太郎稲荷神社は、筑後立花家下屋敷にあった、立花家の守護神を
江戸時代に移したもので、樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社です。
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道祖神の「きずな」

本来は、犬・馬・鷹などの家畜を、通りがかりの立木につないでおくための綱。
しがらみ、呪縛、束縛の意味に使われていた。「ほだし」、「ほだす」ともいう。

人と人との結びつき、支え合いや助け合いを指すようになったのは、
比較的最近である。

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本殿。

現社殿は昭和二年九月に反対意見の根強いなか造営会が組織され、翌三年六月起工、

四年十二月七日竣工、日本で初めての鉄骨筋コンクリートの社殿として神社史に名を
刻むことになりました
先の大戦での東京大空襲にもらい火を受けるも、現社殿のみ消失を免れ数百人の命を救う

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狛犬。
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遥拝版。
有名な神社の方向がわかるように作られています。
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天祖神社を後にしてさらに進みます。

浅草通り北十間川の畔に梅屋敷跡があります。

梅屋敷は、元は浅草(本所埋堀とも)の伊勢屋彦右衛門の別荘でした。

子孫の喜右衛門のころになると梅は300株にもなり、「清香庵」と名付けられました。

広さ約3600坪の庭に多くの梅が植えられていたことから「梅屋敷」と呼ばれる
ようになりました。

中でも「臥竜梅」と名付けられた梅が大変有名でした。
臥龍梅は、高さは3メートルあまり、木の根元は1.6メートルあまりで、
枝は四方の地中にもぐったり出たりしているため龍が大地に横たわっている
ように見えたことから、徳川光圀が「臥竜梅」と命名したと言われています。

続きを読む。

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現在は、梅屋敷の面影はは全くありません。
浅草通りの脇の歩道の植え込みに、石柱と説明板そしてわずか1本の梅の木が
あるだけです
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花王株式会社 すみだ事業場/東京工場/東京研究所/花王ミュージアム


花王株式会社 すみだ事業場/東京工場/東京研究所/花王ミュージアム
花王株式会社 すみだ事業場/東京工場/東京研究所/花王ミュージアム

花王株式会社 すみだ事業場
東京工場/東京研究所/花王ミュージアム。
博物館もあるらしいですね。

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初めて聞いた「亀戸大根」。
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香取神社に着きました。

天慶の昔、平将門が乱を起こした際、追討使俵藤太秀郷はこの亀戸香取神社に参籠し
戦勝を祈願しました。
乱をめでたく平定した後、弓矢を奉納し勝矢と命名。
この古事により「勝矢祭」が現在も守り伝えられています。
歴代の天皇をはじめ源頼朝や徳川家康などの武将達、剣豪塚原卜伝や千葉周作を
はじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受けてきました。

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このような由来から、現在亀戸香取神社は「スポーツ振興の神」として、全国に
知られるようになりました。
毎年、スポーツ選手をはじめ、スポーツ大会・試合の勝利を願う多くの参拝者が
訪れ篤い祈りを奉げており、また、そうしたみなさんの勝利をご祈願しております。

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紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅(江東区登録文化財)。

軸に仕立てられた道祖神祭の様子を描いたものです。人物や宝船を墨で描き、
朱や青などで淡彩を施しています。画面の右から宝船が進み、前で宝船を担ぐ
人物と周りを歩く人物3人が描かれています。
画面右肩に「年中行事亀戸道祖神祭」という題、その下方には広重の署名と落款(
らっかん)があり、歌川広重の肉筆として貴重な作例です。
また、宝船の旗には「宝船」「亀戸村氏子」の文字が確認できます。

亀戸香取神社の道祖神祭は、毎年正月14日に行われ、氏子の子供たちが宝船を
担いで亀戸から両国あたりまで練り歩いたとされています。
道祖神祭は、『江戸名所図会』や『東都歳時記』にも取り上げられています。

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亀戸大根の碑

香取神社周辺が亀戸大根発祥の地といわれています。
何も勝負の神さまだけではないのです。大根の"神さま"でもあるのです。
江戸末期に荒川水系の肥沃な土地に恵まれて、大根栽培が一気に広がりました。
現代では、宅地開発に押されて、江戸川区など一部地域で栽培されているそうです。
近年は練馬大根に押され気味ですが、亀戸にも江戸野菜はあるのですよ。

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何時建てたか書いてありました。
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こういう方も祈願に来ていいま。す
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あそこのあるものは何でしょう??。
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勝石です。
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「勝石」は重さ約4.5屯。台座を含めた高さは約1.1m。
幅は最大で約2.5m。
藤原鎌足の故事に基づいて、太刀一振りを冠したデザインが施されている。
触るとご利益があるとのこと。
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本殿。

旧本殿は1945年(昭和二十年)に空襲で焼失し、現存する建物は
昭和63(1988年)に再建にされました

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飛鳥時代の天智天皇4年、藤原鎌足により創建されたといわれる。
御祭神は香取大神のほか、相殿に鹿島神宮の祭神・武甕槌神も祀り、武道の御神徳
から現在ではスポーツの神として崇敬を集める。
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亀戸散策3/4回目終わります。


亀戸散策2/4回目続きます。


普門院に着きました。

真言宗智山派寺院の普門院は、福聚山善應寺と号します。普門院は、
1552年橋場に創建、元和2年(1616年)当地へ移転したといいます。
当地に移る際、梵鐘を川に落としてしまい、その地を鐘ヶ淵と呼ぶ伝承を持ちます。
伊藤左千夫墓や大島伯鶴の歌碑など数多くの文化財がある他、亀戸七福神のひとつ
毘沙門天としても親しまれています。

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入門した瞬間、境内は樹木がうっそうと伸び、かなり荒れた感じで手入れが
イマイチの印象で廃寺の雰囲気で不気味さを感じました。
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伊藤佐千夫の墓があるので有名。
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亀戸七福神の毘沙門天があります。
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伊藤佐千夫の墓。
シュロの木に覆われ、陽が当たらづ可哀そうな感じがしました。
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広い境内にある草木は自然のままに、落ち葉は落ちたままで自然に任せる
感じになっていました。

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荒れ果てた本堂。
扁額には昭和四十六年の銘がありました。
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寺号標もこのありさま。
掃除とかかたずけとか全くやる気の無い境内でした。
最初は入っていくのをためらってしまう感じがした寺でした。
二度と参拝する気になりませんでした。

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次に光明寺に行きました。
光明寺は、亀命山遍照院と号します。
光明寺は、弘治元年(1555)に僧慈宏が創建したといいます。

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歌川豊国(国貞)墓があります。
(江東区登録文化財)

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戦災殉難者慰霊地蔵尊。
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菊と躑躅に囲まれています。
市場通笑の碑だと思います・・・
何も説明版も無い為に確定出来ませんでした.

市場通笑(いちばつうしょう)は元文2年(1737年)江戸日本橋・通油町の表具屋
に生まれる。
本名は寧一。通称を小倉屋小平次といった。家業の表具師を継ぐが、
安永8年(1779年)に黄表紙の処女作となる虚言弥二郎傾城誠
(うそつきやじろう けいせいのまこと)を発表。

続きを読む。

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歌川豊邦の墓。
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延命地蔵堂。
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お地蔵さん。
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延命地蔵尊の碑。
〇〇大師策とありますが名前が詠めません
文久3年(1863年)の銘があり。

5月 長州藩が下関で外国艦隊に砲撃を行う。姉小路公知暗殺(朔平門外の変)。

7月 薩英戦争

8月 天誅組の変。京都で八月十八日の政変が起こる。

9月 井土ヶ谷事件10月 生野の変

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腹も減ったので昼食休憩とします。
冷やしとろろそば。
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この店です。
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亀戸天神のある町らしい歩道のタイル。
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スカイツリーが良く見えるスポット。
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次に龍眼寺(萩寺)に行きます。
萩寺の名で親しまれている龍眼寺の境内入口
正面左には、 榎本其角、大納言家長郷
正面右には、 松尾芭蕉の句が彫られている
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門、右側の芭蕉の句。
「濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩」
と句が彫られている
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境内に入ります。
布袋さんと綺麗な芍薬。
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小さいけれど良くまとまった池と滝。
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鯉に交じって大きな金魚がいました。
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女の狸。
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こちらは男。
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月や秋 秋や世にして 15日の句。
作者のお名前が難しくて読めません。
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蹲(つくばい)。
こう云う物ってよく木の葉や汚れがあるものが多いのですが
此のお寺さんは実に掃除が行き届いていて、きれいでした。
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庚申塔。

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姓を持つ10組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。

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本堂、六角形をしています。
法隆寺の夢殿を模したという。
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ご本尊は秘仏で公開はしていません。
逗子の前に前立の仏さまがいます。
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この写真は説明版のものです。
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亀戸散策2/4回目を終わります。

亀戸散策に行ってきました。
写真は四回に分けて貼ります。
亀戸天神の藤の開花が今年は異常に速いと聞いて早めに
行こうと思い此の時期になりました。


JR総武線の亀戸駅です。
中央・総武線各駅停車のみが停車します。
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亀戸と書いて「かめいど」と読むのは難読地名の一つといえるが、元々は亀井戸と書いたことに由来するものである。元々の地名は「亀島」(または亀ヶ島、亀津島)で、その名の通り亀の形に似た島であったことによる。後に島の周辺に土砂が堆積して周りの島々と陸続きになり、亀島は亀村と呼ばれるようになった。これが、現在の亀戸三丁目附近にあった臥龍梅庭の井戸「亀ヶ井」と混同されて「亀井戸」と呼ばれるようになり、さらに「井」が取れて亀戸となった(亀津島の津(「つ」は古語で「の」の意)が「と」に変化したものとする説もある)。


駅前の公園にある玄武(げんぶ)羽のある亀。
玄武は、北方を守護する、水神
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現在の荒川の水位・・・これは何でしょう。
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こう云う物でした。
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この水の出ている亀の位置が現在の荒川の水位だそうです。
面白いことを考えましたね。
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過去の大洪水時の水位を示しています。
コンナに水位が上がってこの町は大丈夫かな??。
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堤防の高さははるか上の方でした、安心しました。
ただ、堤防の決壊ということも良く起こりますからね。
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街の中を歩いていたらこのようなものが。
確かに綺麗な街です。
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これはこの碑の在った付近です。
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今まで銀座、金座という言葉はよく聞きましたが「銭座」
言う物もあったのですね。
こうやって街歩きをしてみると様々なことを見つけられて面白いね。
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ウイキペディアには寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)と出ています。
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日清紡績創業の地。

日清紡績株式会社は明治40年1月 創立後,東京府南葛飾郡亀戸町の 当敷地2万余坪に,最新鋭設備を誇 る本社工場を建設した。

最盛期には,紡機107,800錘, 織機360台を擁した本工場は ,昭和16年軍の要請により陸軍被 服本廠が使用するに至るまで,45年 に亘り主力工場として綿糸布を 生産し,広く内外の需要に応えると 共に,幾多の人材を輩出した。

この間明治43年,大正6年, 昭和13年の三たび横十間川の洪水 で浸水し,大正12年には関東大震 災に逢ったが,従業員の献身的努力 によりこの職場を守り得た。

昭和20年大戦下の空襲により焼 土と化したが,運動場として整備し 主として勤労青少年の体育に寄与し てきた。偶々昭和42年東京都浄 水場,日本住宅公団用地として提供 するに至り,当社の手を離れた。

今般この地に記念碑を建立し会社 創業関係者の遺徳と,生死苦楽を共 にした多数従業員各位の功績を偲ぶ ものである。

日清紡績株式会社

昭和46年5月建之


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亀戸天神ウソガエ神事にちなんで歩道の飾りに鷽のデザインが。

鷽替え(うそかえ)とは、主に菅原道真を祭神とする神社(天満宮)において
行われる特殊神事である。
鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを
嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる。

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この店は甘いもので有名らしい。
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此れもお付き合い、葛餅を食べてきました。
色加工しています、本当はもっときれいな色です。
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つきました。

正保年間(1644年 - 1647年)、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、
菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。
そして寛文元年1661年(1661年)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の
小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。

当時、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として
本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を
寄進した。
そして寛文2(1662)、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが
太宰天満宮に倣い造営された。本殿の扁額は、御本社である筑紫国太宰府天満宮宮司で
あった西高辻信貞による揮毫。

古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、
あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」と称されていたが、明治6
(1873)に府社となり亀戸神社、昭和11(1936)に現在の亀戸天神社と
なった。

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天気がいいからすごい人出。
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古い、立派な社号標。
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太鼓橋とスカイツリーと藤の花。
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此処の藤の花は盛りを過ぎていました。
かえってツツジが綺麗でした。
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ご覧のような人。
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このあたりは満開。
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鷽替えの石像。
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神牛。
触れることで病を治し知恵を授かると言われています。
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文房至寶碑
中国より渡来した紙筆墨硯は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から
明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた

今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国
を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日(文化の日)を文具
の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ
学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する

平成元年十一月三日

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塩原 太助(しおばら たすけ、寛保3年2月3日(1743年2月26日) - 文化13年閏8月14日
(1816年10月5日))は、三遊亭円朝の「塩原多助一代記」で有名な江戸時代の豪商。
幼名は彦七。
裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。

木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団を発明し大成功する。

「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほど
の成功をおさめた。こうしたサクセスストーリーが、多くの人々の心をつかんだ。
戦前には立志伝型人物として教科書にも登場した

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舞殿(マイドノ)。

神社の境内に設けた、舞楽を行うための建物。
神楽殿(かぐらでん)。

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亀戸天神を出ました。
この建物は何でしょう。

亀戸天神の東門のすぐ横に、平成18年10月1日に「レインボーステージ
55(ショールーム)&ギャラリー」がオープンしました。

この建物は、株式会社正光社殿の資料によると、

2005年・2006年は「日本・ドイツ友好の年」であり、ベルリン出身の
カール・ベンクス氏(現在、新潟県松代町在住で建築デザイナーとして活躍)
らの協力により、新潟県十日町市にあった築100年の古民家を、日本と
ドイツ両国の技術と材料で、亀戸の地に甦らせたものだそうです。

建物の中には、照明を中心に、各種インテリア、家具、換気・空調機器、
薪ストーブ、住宅設備機器、オール電化などがあり、建物全体が
ショールーム・ギャラリーとなっています。

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亀戸散策1/4回目終わります。


軍法会議と聞くと限りなく負のイメージが付きまとう。

「暗黒裁判」「不当な裁き」「人権侵害」などなど。しかし影の部分に目を奪われ不要と言い切っていいものだろうか。

自衛隊は今や世界有数ン軍事装備を持つ「重武装集団」である。

独自の司法制度が必要ではないのではないだろうか。

本書はこうした問題意識を出発点に「旧陸(海)軍刑法」「陸(海)軍治罪法」の制定と運用の苦闘の歴史をたどりながら正義を実現することの大切さを訴えている。

例えばPKOに従事する自衛隊員が戦闘に巻き込まれ不幸にも現地の民間人を死に
至らしめたとき、裁く法律は刑法の殺人罪しかない。

殺人は殺人だろうという批判は十分承知しているが、現実に生命のやりとりをしなければならない状況に置かれていることを無視し、一般社会と同じ尺度で裁くことが正しいのだろうか。

一方で「重武装集団」が万一国政を危うくするような重大罪を犯した場合、普通の国家公務員と同じ扱いでいいのだろうか。

軍法会議を含む群司法制度は不法な実力行使を阻止する最後の
砦となるのではないだろうか。

著者は軍法会議の闇の部分を結城昌治の「軍旗はためく下に」光の部分を1992年に公開されたアメリカ映画「ア・フュー・グッドメン」に沿って描き出しています。

しかし軍司法制度是非の検討も憲法学者の多くが自衛隊違憲論を唱え、自衛隊は軍隊でないという一種のフィクションが支配していては一歩も先に進まないという根本的なジレンマを抱えている。

著者は軍司法制度を整備することで「近代国家」を作ろうとした明治の先人への限りない敬意の思いが伝わってきます。


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麻布十番4/4

氷川神社続きます。
此処にも狛犬が置いてあります。
此方の物が古そうです。
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本殿と後方は、何度も出てくる元麻布ヒルズ。
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氷川公園を後にして有栖川の宮公園方向に進みます。
野球場前にあった此のオブジェは何でしょう。
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港区さん、味なことをなさいますね。
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花水木も綺麗に咲き初めました。
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有栖川宮記念公園、銀杏の新芽が綺麗でした。
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この地は、江戸時代、盛岡南部藩の下屋敷として使われていました。
そして1896年(明治29年)、有栖川宮威仁(ありすがわのみやたけひと)親王の
栽仁(たねひと)王新邸造成の御用地となります。
有栖川宮が廃絶して後は、大正天皇は第三皇子光宮宣仁(てるのみやのぶひと)
親王に、有栖川宮の旧称高松宮の称号を賜り、その御祭祀をお継ぎになります。

その後、児童福祉を目的とする遊び場に深い関心を寄せられていた高松宮殿下は、
故有栖川宮威仁親王の20年のご命日にあたる1934年(昭和9年)にこの地を東京市に
賜与され、記念公園として一般開放されました。

北東部を編入し、1975年(昭和50年)には港区に移管されて、区立公園となり
多くの人に親しまれています。
管理事務所近くには、この公園とも縁の深い、有栖川宮熾仁(たるひと)親王の
銅像が建っています。

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これは紅葉です。
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はるか遠くにこんなものが建っていました。
何か宗教関係の物では無いかと思われます。
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池と野村モミジ。
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丘陵に富んだ園内には大小2つの滝があり、せせらぎへと流れます。

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振り返ると、小さな滝が見えます。
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真っ白な躑躅、躑躅と言えば赤系統が多いですが
こういう色もいいですね。
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公園のシンボルとも言える「有栖川宮熾仁親王騎馬像」

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花水木の花、まだ開く前です。
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新聞少年の像。
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有栖川宮記念公園前にあった不思議な建物。
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安藤記念教会。

安藤記念教会は、創立者・安藤太郎が、自宅を日本メソジスト銀座教会安藤記念講義所とし、大正7年(1918年)に「安藤記念教会」として設立が許可されたことに始まります。安藤太郎は、函館戦争で榎本武揚に従軍。その後 明治政府の大蔵省、外務省に登用されました。明治19年(1886年)には初代ハワイ総領事に就任し、キリスト教と出会い、文子夫人とともに洗礼を受けます。現存する教会堂は、大正6年9月に献堂式を行っています。大谷石による石造りの建物で、通り沿いにステンドグラスをはめこんだポインテドアーチ(先の尖ったアーチ)が見えます。そして、その横に鐘楼の張り出しが設けられています。設計を担当した吉武長一は、米国ペンシルバニア・テクニカルカレッジで建築を学び、村井銀行本店や銀座教会(関東大震災で焼失)の設計も手がけた建築家です。ステンドグラスは小川三知の製作によるもので、全体として緑色を主調としながら、赤色ガラスを要所に効果的に用いています。

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さらに進むと一本松が出てきます。
様々な言い伝えがありますが、

もともと古墳であったそうです。そして江戸初期には「首吊塚」とも呼ばれて
いました。
関が原の合戦で送られてきた首級を家康が検分し、埋めた所だそうです。

また、異なる伝説では、平将門を討伐にきた源経基が、将門の屋敷内を
内偵しての帰り道、一軒の民家に泊まって料理をふるまわれた。
経基は翌朝、装束をあらためて出立しましたが、そのとき脱いだ衣服をかけたのが
この一本松だといいます。

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一本松の表示。
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松の根本に由来の書かれた石碑があります。
この碑によると古樹は明治九辰年焼失と書かれていますが?明和九辰年(1772年)の
間違いではないでしょうか。
明治9年は子年です。
植え継がれた松も昭和20年4月の空襲により焼失したと書かれています。
現代の松は 三代目とも五代目とも言われています。

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一本松坂の坂下は狸坂、暗闇坂、大黒坂と、それぞれ更に下方へと続く急峻な
坂の接続しており、坂ばかりの四叉路というのも珍しい。

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さらに大黒坂を下りていくとお寺が出てきます。

大法寺は 慶長2年11月(1597年)、慈眼院日利上人によって創建されました。
享保15年(1730年)、日舜上人法華経三万部読誦の功徳によって不思議な
大黒天尊蔵を感得されました。
このご尊像が 伝教大師作「三神具足大黒尊天」です。

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本堂内の大黒天、40体以上あります。
江戸時代以前の古いものばかりです。
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正面のご本尊は日蓮上人。
逗子の中に三神具足大黒天が祀られています

ご尊像「三神具足大黒天」の「三神具足」というのは、ご尊像のお姿が大黒天の
小槌を持ち、弁財天の髪をいただき、背には毘沙門天の鎧をつけているところから、
大黒天の福寿と弁財天の円満と毘沙門天の除災得幸を表して居られると讃えられる
ことになりました。

この三神具足大黒天尊像は秘仏として普段は公開されていません

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境内に有ったお百度石。
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お稲荷さんも祀ってあります。
此れも戦災で焼けなかったそうです。
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帰り道にありました。
母と子という題でした。
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これで麻布十番付近散策を終わります。
各寺院でご説明ご案内をしていただきました、ご住職、関係者の
皆様ありがとうございました。

麻布十番3/4

善福寺続きます。
本堂前の灯篭、明和弐乙酉歳霜月と彫られています。
これは1765年、とり年11月ですね、
しかし昔は月齢ですから今の暦でいえば12月になるのかな。
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本堂。
港区指定文化財になっています。

東京都内では、浅草寺、深大寺に次ぐ古刹の一つです。

現在の本堂は、慶長12年(1607年)に徳川家康が東本願寺八尾別院本堂として建立し、
京都天明の大火の後10年間御影堂の役を勤めた建物を昭和36年(1961年)に移築、
再建した由緒あるものです。

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本堂の柱の飾り、亀でしょうね。
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此の碑は何なのかわかりません。
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越路吹雪の碑
昭和時代の歌手・越路吹雪の歌碑がある。芸能関係者らが訪れることもあり、
その姿が報道されることもある。
なお、越路の墓所は、当寺院ではなく川崎市にある。

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越路の代表曲である「ラストダンスは私に」の歌詞も刻まれている。
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[フレーム]

逆さ銀杏(国指定天然記念物)

推定樹齢750年以上、親鸞自ら植えたとされるイチョウの古木。
伝承によると、親鸞のついた杖から生えてきたという。
名の由来は、枝か下のほうに伸びて逆さになっているように見えることからきている。
大戦時の空襲で被災したことで小さくなったものの、現在でも都内最大の
イチョウである

ちなみに東京の大銀杏の第二位は、雑司ヶ谷の鬼子母神前にある銀杏の木です。

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鐘楼。
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逆さ銀杏を離れたところから。
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法輪

法輪は仏教の教義を示す物として八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、
卍と共に仏教のシンボルとして信仰され、寺院の軒飾りにも使用された。
また、中国では道教にも取り入れられ、教義を示す用語として使用されている。

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タウンゼントハリスの顕彰碑の裏側。
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亀子臺。

亀子臺の額
徳川家光公のころ「亀子山善福寺」と号した

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開山堂。

開山堂(かいさんどう、かいざんどう)は、仏教寺院において開山の像を祀った堂のこと。寺院の「開山」とは、当該寺院に最初に住した僧のことを指すのが通例で、寺院の創立を発願し、経済的基盤を提供した人物である「開基」とは区別される。開山や宗祖の像を安置する堂を、寺によっては祖師堂(そしどう)、御影堂(みえいどう、ごえいどう)、影堂(えいどう)などともいう。宗派や寺院によっては、祖師堂や御影堂が本尊を安置する本堂よりも規模が大きく重視されることがある。

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善福寺を出ました。
此処にも花水木が綺麗になってきました。
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仙台坂。

坂の名称は、かつてこの坂の南側に松平陸奥守(仙台藩伊達家)の
下屋敷があったことに因みます。
なおこの坂を登った 仙台坂の中腹には韓国大使館があります。

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この花は何でしょう。
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氷川神社に着きました。

938年(天慶の年 朱雀天皇の御代)、源経基(みなもとのつねもと)朝臣が
天慶の乱(平将門)を鎮定するため東征した際、武蔵国豊島郡谷盛浅布冠の松(
現・麻布一本松の地)に創祀・創建されました。
社号標の「郷社氷川神社」の文字は 尾張徳川家第19代徳川義親氏筆であります。

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右の建物が神輿舎です。
左は神楽殿でしょうか。
中は見ることはできません。
此の二つの建物と水盤舎は戦災で焼けなかったそうです。
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写真が飾ってありました。
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水盤舎。
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拝殿。

御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

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何故か狛犬がこんなところでひっそりと。
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末社の高尾稲荷さん。
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麻布十番3/4回目終わります。

麻布十番2/4

賢崇寺続きます。
イリオモテヤマネコの発見で知られる作家の戸川幸夫さんの墓。
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復興頌徳碑

高さ5メートルもある大きな石碑です。

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探しましたよ。
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226事件で処刑された人の墓。
事件後、2名が自決、首謀者17名は死刑、関連事件で3名が処刑された。

反逆罪の汚名を着せられ死んだ将校等の遺族も、罪人の身内としての視線に晒され、
また、憲兵隊、警察の監視下で遺体の引き取り遺骨の埋葬すらできない状況だった。


そのような情況のなかで、首謀者の一人栗原安英中尉の父 栗原勇大佐は、賢崇寺の
第二十九世住職藤田俊訓師に入門、得度して、遺体の収容、遺骨の供養、遺書の保管、
遺族との連絡に奔走した。

また、藤田俊訓師は、憲兵隊、内務省、警察等へ、遺骨埋葬合同慰霊祭の許可、
墓碑の建立を願いでたが、死罪処刑者の公の法要は禁じられ、なかなか許可は
下りなかった。
「死すればみな仏」と説く藤田俊訓師の信念と献身的な努力、僧籍に身を置いた
栗原大佐の情熱がやがて憲兵隊や警察を動かし、藤田師が施主となり役人監視下で
二十二士の合同慰霊祭が厳かに営まれたのは処刑された7月12日から久しく日を
重ねた秋だった。

以後、賢崇寺では毎年2月26日と7月12日に合同慰霊祭が行われている。
現在の墓碑は、昭和27年7月12日第十七回忌法要に合わせて「二十二士之墓」
として開眼供養されたものである。

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平成27年(2015年)9月24日に胆管がんのため54歳の若さで亡くなった女優・
川島なお美の墓がある。
平成28年(2016年)6月10日、夫・鎧塚によってデザインされた墓が建立され、
納骨された。墓には生年のワイン「ロマネ・コンティ」や女優帽が象られ、

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下には「YOROIZUKA」の文字やダックスフントの絵が彫られている。
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明治43年の七里ヶ浜 沖ボート遭難事故で犠牲になった逗子開成中学校生徒
12名も葬られている。

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宇都宮徳間さんの墓。
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徳馬氏の父、陸軍大将朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎氏の墓
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銀座三愛の社長。
右側の柱は三愛ビルを模っています。
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不二家の社長の墓。
右の柱は銀座クリスタルビルを模っています。
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賢崇寺を出ます。
大黒坂、
大国坂とも書く。坂の中腹北側に大黒天(港区七福神のひとつ)をまつる大法寺
があったために呼んだ坂名である。
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七面坂(ななめんさか)。

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されて
いたためにできた名称である。

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このあたりで休憩、食事にしました。
レバニラ炒めライス。
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次に善福寺に着きました。
元麻布ヒルズが大きく見えます。
此処、光景異様だと思いませんか。
参道両側には、金蔵寺、真福寺、善正寺、左側には、光善寺、善光寺、
善通寺、専光寺、西福寺があります。
由緒ある寺院の街を壊すように善福寺本堂の後ろに立ち上がった
高層マンション。
閑静な元麻布の高級住宅街を台無しにしたこのビルの建設に、地元の人は
反対しなかったのでしょうか。
このような再開発、本当に必要なのでしょうか。

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都旧跡。
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開山は弘法大師。
親鸞聖人御旧跡の地。
初代米国公使館跡。
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更に参道を進むと。
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水が湧いていました。
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こんな説明版が。
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勅使問脇の真福寺。

棲仙山真福寺は、親鸞聖人が開祖の浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院で、

室町時代(天正年間)に、現在の桜田門に小さな坊舎が建てられたことに始まります。

以来、四百数十年にわたり、ご本尊阿弥陀如来のみ教えのもと、門信徒の皆様と
共に歴史を刻んでまいりました。

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善福寺勅使門。
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勅使門の菊の御紋章。
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本堂。

天長元年(824年)に空海(弘法大師)によって開山されたと伝え、当初は真言宗の
寺院であった。
その後鎌倉時代になって越後国に配流になっていた親鸞が当寺を訪れ、浄土真宗に
改宗したとされ、その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展を遂げた。


前方の超高層の建築物は元麻布ヒルズ(高所得者向けマンション)であり、その敷地
は元は善福寺の所有地であったがバブル景気直前の1983年に森ビルが譲り受けて
建設されたものである
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水屋。
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境内案内図。
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安政5年(1859年)には日米修好通商条約に基づき当寺院内に初代アメリカ
合衆国公使館がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留していた。

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アメリカ公使館が設けられていたことを示す記念碑が建っている。
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麻布十番2/4回目を終わります。



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