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感じたまま

日々感じたこと。 外歩きや、見学をしたことを記録しています。

2021年06月

八国山から北山公園散策7/9

7の北山公園の中です。
[画像:R-P6112756]

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北山公園。
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今年は菖蒲祭りも中止で模擬店も出ていません。
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集合場所のベンチから。
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北山公園をでました。
8の正福寺に向います。
柏葉アジサイでしょうね。
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正福寺に着きました。
山門側でなく脇から入りました。
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鐘楼。
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本堂。
ミツウロコの家紋がついています。

北条時宗が鷹狩りの折病気になり、夢枕に黄衣をまとった地蔵菩薩が現れ丸薬をくれた。
これを飲み、眠りから覚めたら病が治ったので、地蔵尊を信仰して、
弘安元年(1278年)正福寺を開創したと寺伝にあります。

しかし、昭和9年改修の際発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407年)の
建立とわかりました。
鎌倉の円覚寺舎利殿とともに禅宗様建築の代表的遺構で、
国宝建造物として名高いものです。

なお、国の指定名称は正福寺地蔵堂ですが、堂内に奉納された小地蔵にちなみ、
地元では正福寺千体地蔵堂とも呼ばれています。


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北条氏のミツウロコについては、一般的に平べったい三角形
(二等辺三角形)を3つ、三角形の形に並べたものが、
北条得宗家のものであるという説がある。

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仏さまがずらーっと並んでいました。
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これが国宝の地蔵堂です。
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八国山から北山公園散策7/9回目終ります。

八国山から北山公園散策7/9

続きます。

食事休憩を終り、7の北本公園に向います。[画像:R-P6112756]


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北本小学校の脇を通ります。
北川沿いを歩きます。
ハマユウ。
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たいまつ花。
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オトギリソウ。
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北山公園に入りました。
リーダーが「アヤメ」「菖蒲」「カキツバタ」の見分けかた
説明をしてくださいました。
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八国山から北山公園散策6/9回目終ります。

八国山から北山公園散策5/9


4の場所久米川の古戦場跡過ぎて北川沿いに進みます。
[画像:R-P6112756]


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北川は

東京都東大和市の多摩湖に源を発し、東京都立狭山自然公園内から東方向へ流れ、
八国山緑地の麓にある北山公園の南側を沿りながら埼玉県所沢市との境の
柳瀬川の二瀬橋付近で柳瀬川に合流する。
流域は武蔵野台地上に位置する。

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ハナビシソウ。
鮮やかな黄色が綺麗ですね。
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此の木肌、何だろうと思っていたら教えてくださる方が居ました。
ハナミズキでした。
R-P6112876ハナミズキ

名前が分からない花。
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ヤマボウシの花。
さわやかな感じがいいね。
R-P6112880山帽子の花

5の藤の森公園に着きました。
おそらく昭和天皇の即位記念碑でしょうね。
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6に向います。
射撃場跡。
何があったのでしょうね。
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陽だまり広場。
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八国山緑地のふたつ池(下池)

ふたつ池(上池・下池)は、上池と下池が水路でつながっています。

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6のコロコロ広場に着きました。
ここで昼食休憩を取りました。
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踏切は西武線の線路です。
昼食後はここで集合して北山公園の菖蒲を見に行きます。
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八国山から北山公園散策5/9回目終ります


八国山から北山公園散策4/9


3の将軍塚付近です。
[画像:R-P6112756]

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元弘青石塔婆所在跡
(将軍塚のそばにあります)

元弘青石塔婆所在跡は、かってこの場所に国指定重要文化財の「元弘の板碑」が
あったところで、現在は下の写真のとおり元弘青石塔婆所在跡の碑が建っています。
元弘の板碑は現在、東村山市の徳蔵寺の板碑保存館に展示されています。
この板碑は上半分が欠けた状態ですが、歴史資料としては実証性に欠ける部分が
多いといわれる『太平記』の物語を補足する重要なことが刻まれています。
元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの時に分倍河原や相模の村岡の戦いの時、
討ち死にした飽間氏一族3人の供養のために立てられたことがわかっています。
飽間斉藤氏は群馬県安中市の秋間村出身の人であるといわれ、飽間の地は
里見氏の里見郷と続き、里見・飽間両氏は早くから新田氏に従っていました。

板碑の下部には次のように刻まれています。
「勧進玖しろいしかくしろいしかく陀仏・執筆遍阿弥陀仏」建立者は長久寺の玖阿上人です。
またこの板碑以外にも入間市元加治の円照寺の板碑も同じ
元弘3年の重要な金石文資料です。

埼玉県の板碑の説明。


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裏面です。
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将軍塚を見て先に進みます。
開けたところにきました。
真ん中の高いビル右側、西友の看板が見えるあたりが「所沢駅」だそうです。
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初めの地図4の手前ににきました。
ここは八国山緑地の端です。
此処から暫く住宅街を歩きます。
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地図3の久米川の古戦場跡にきました。
小さな公園になっています。
碑を公園の外から見ました。
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狭山丘陵東麓(現在の八国山緑地)から柳瀬川にかけて広がる一帯は、
古代に武蔵国府と上野国府を結ぶ東山道武蔵路が通り、鎌倉時代には鎌倉から
上野国に向かう鎌倉街道が南北に縦断する交通の要衝でした。

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やがて戦乱の時代になると、久米川の地は入間川と多摩川の中間の軍事的な
拠点として重視され、元弘3年(1333)に、新田義貞が鎌倉幕府倒幕のために
挙兵し戦った〝久米川合戦′′、建武2年(1335)に北条時行が鎌倉幕府再興のために
挙兵した〝中先代の乱′′や文和元年(1352)に足利尊氏ら北朝方と新田義興ら
南朝方の軍勢による〝武蔵野合戦′′、応永24年(1417)には〝上杉禅秀の乱′′などの
合戦の舞台となりました。

特に有名な戦は元弘3年の〝久米川合戦′′です。新田義貞の挙兵に対し、
幕府軍は鎌倉街道を北上、小手指ヶ原(所沢市)で一戦交えた後に久米川へと
戦場を移しました。
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新田義貞が陣をそろえて渡ったといわれる。

かちじん橋と読んでいたら、この辺は「精進場」「将陣場」とも呼ばれるらしく、

「しょうじんばばし」と読むのだろうか。
鎌倉古道上道もここを通っていたと思われる。

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今年もきれいなアジサイを何回も見られました。
早くコロナ禍が終息してほしいね。
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八国山から北山公園散策4/9回目終ります。

朝鮮戦争

シニアの皆さまご記憶がありませんか
今日6月25日はあの朝鮮戦争が起こった日です。
子供心に新聞の見出しを見て大変は事が起こったんだと記憶しています。

朝鮮戦争画像。

ソ連崩壊を受けて公開された機密文書によると、1950625日に中国の
毛沢東共産党主席とソ連のスターリンの同意と支援を取り付けた
金日成労働党委員長率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を
越えて韓国に侵略戦争を仕掛けたことによって勃発した。

分断国家朝鮮の両当事国、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国のみならず、
東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と
東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、
3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場と化して荒廃させた。

1953727日に国連軍と中朝連合軍は朝鮮戦争休戦協定に署名し休戦に至ったが、
北緯38度線付近の休戦時の前線が軍事境界線として認識され、
朝鮮半島は北部の朝鮮民主主義人民共和国と南部の大韓民国の南北二国に分断された。

特に記憶にあるのが

朝鮮特需(ちょうせんとくじゅ)は、朝鮮戦争に伴い、在朝鮮アメリカ軍、
在日アメリカ軍から日本に発注された物資やサービス需要を指す。
また、在日国連軍や外国関係機関による間接特需という分類も存在する。
朝鮮戦争勃発直後の825日には横浜に在日兵站司令部が置かれ、
主に直接調達方式により大量の物資が買い付けられた。
その額は1950年から1952年までの3年間に特需として10億ドル、1955年までの
間接特需として36億ドルと言われる。


朝鮮特需によって引き起こされた好景気は「特需景気」と呼ばれ戦後日本の景気を
一気に立て直したといいます。

興味にある方WEB上に膨大な量の記事や動画が出ています。
ググってみてください。

写真は本文と関係ありません
我が家の鉢植えに咲いた花です。

八重のユリカサブランカ。
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木槿(ムクゲ)
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胡蝶蘭。
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八国山から北山公園散策3/9


2のオオゾラ広場付近です。
[画像:R-P6112756]


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この付近は粘土質ですから芝生広場に入るには「靴の泥をおとせ」ですか。
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なるほど。
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確かに綺麗な芝生ですね。
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大勢の人の努力があってこんなに良い環境になるんですね。
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切り株の脇から出ていました。
キノコでしょうかね。
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蛹から成虫だ出た後にも見えなくもないが・・・
何でしょうね。
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蝶の森。
今回の散策、蝶には全く会えませんでした。
余計なことですが八国山は、宮崎駿監督の『となりのトトロ』に出てくる
「七国山」のモデルになったといわれる丘陵です。

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将軍塚に着きました。
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将軍塚

将軍塚は新田義貞が鎌倉攻めのときに、ここに陣を置いたところと伝えられています。
また鎌倉攻めのときに、ここに塚を築いて白旗を立てたところともいわれています。
一方でこの塚は古い古墳であるとも考えられているそうです。

これから向かいますが、この塚のところをそのまま南に山を下りた辺りに、
久米川古戦場碑がありますが、そのまま下りる道はないので、
ここから東に行く道を下りて右に迂回して行けば久米川古戦場碑の前に出られます。

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元弘青石塔婆所在跡

元弘青石塔婆所在跡は、かってこの場所に国指定重要文化財の「元弘の板碑」が
あったところで、現在は下の写真のとおり元弘青石塔婆所在跡の碑が建っています。
元弘の板碑は現在、東村山市の徳蔵寺の板碑保存館に展示されています。
この板碑は上半分が欠けた状態ですが、歴史資料としては実証性に欠ける部分が
多いといわれる『太平記』の物語を補足する重要なことが刻まれています。
元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻めの時に分倍河原や相模の村岡の戦いの時、
討ち死にした飽間氏一族3人の供養のために立てられたことがわかっています。
飽間斉藤氏は群馬県安中市の秋間村出身の人であるといわれ、飽間の地は
里見氏の里見郷と続き、里見・飽間両氏は早くから新田氏に従っていました。

板碑の下部には次のように刻まれています。
「勧進玖しろいしかくしろいしかく陀仏・執筆遍阿弥陀仏」建立者は長久寺の玖阿上人です。
またこの板碑以外にも入間市元加治の円照寺の板碑も同じ
元弘3年の重要な金石文資料です。

埼玉県のいた碑の説明。

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八国山から北山公園散策3/9回目を終ります。

八国山から北山公園散策2/9


1〜2に行く途中です。
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丁寧な道標が出てきます。
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まもなく将軍塚です。
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こういう鬱蒼とした森です。
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初めの地図の2の手前に付近です。
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2付近おおぞら広場です。
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ここでトイレ休憩を取ろうと思いましたが広場の整備をしていまして。
利用できませんでした。
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前方に見える芝生の広場が「大空広場」です。
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大きな木の切り株から、この芽が出ています。
ヒコバエなのかまたは木の種が穴に落ちで芽が出てきたのか。
生命力の強さに驚かされませね。
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一息入れて先に進みます。
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八国山から北山公園散策2/9回目終ります。

八国山から北山公園散策1/9


表題の場所に行ってきました。
この地図の左の1の西武園駅〜やや右下の東村山駅まで歩きました。
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この表は工程の時間と場所の簡単な説明です。
ご覧になるときは拡大してみてください。
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西武園駅改札口。

当初は、現在の新宿線の一部である村山線の駅として開業した。
同線は東村山駅から現在の西武園線のルートを通り、現在路線が北へ
向きを変えるところから直進して、現在の多摩湖駅近くにあった
村山貯水池駅へと向かっており、当駅は隣接する埼玉県所沢市に開設された
村山競輪場(現在の西武園競輪場)の観客輸送のために1950年(昭和25年)
523日に開業した支線の終着駅であった。

当初は競輪開催時のみ営業する臨時駅であったが、当時西武が進めていた
「東村山文化園」構想にとって当駅が重要な駅と見なされるようになったこと、
従来の終点である村山貯水池駅を維持するのは駅が多すぎて不合理であること、
本線と支線の分岐をつかさどる野口信号所が当駅営業時に列車をさばききれず
機能不全を起こしたこと、村山貯水池駅の地元需要が少なかったことから、
村山貯水池駅を当駅に統合することが決定され、1951年(昭和26年)31日に統合、
同時に村山貯水池駅と野口信号所 - 村山貯水池駅間が廃止されて
東村山駅 - 西武園駅間が本線となり、当駅も常設駅となった。

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駅出口。
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少し歩いて八国山緑地に着きました。
広く気持ちのいいところです。
ここのところ天気には恵まれています。
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看板。
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八国山緑地。

狭山丘陵の東端に位置し、北側を埼玉県所沢市に接する東西に細長い緑地。
東西約1.5 km、南北約300 mほどにわたって広がる。
南側には西武鉄道西武園線が通っている。
園内には標高89.4 mの八国山がある(頂上地点というものは存在しない)。

この八国山は、かつて上野・下野・常陸・安房・相模・駿河・信濃・甲斐の
8つの国を望むことができたことに由来する(現在は樹林に囲まれて展望は無い)。

八国山は新田義貞が「久米川の戦い」の際に陣を張ったとされる場所であり、
これに因んで尾根の東部にある塚には「将軍塚」と書かれた石碑が建てられているが、
元となった塚は富士塚、あるいは古代の古墳といわれている。
都県境を挟み東京都側は緑地であるが、埼玉県側は住宅地となっている。

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エゴの木の実。
R-P6112763エゴノキの実

高低差もほとんどない、歩きやすい道です。
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保育園でしょうか、幼児が遊んでいました。
老人から見るといい感じの風景です。
我々が通り過ぎるとふざけたり、手を振ったりしてにぎやかでした。
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私の好きな逆光に光る若葉。
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八国山から北山公園散策1/9回目終ります。


皆様、此の方が亡くなりました。
また昭和が一つ遠くなりましたね。

以下ニュウスから
2021年6月19日 18時03分

エレキの神様の愛称で人気に

昭和40年代のエレキギターブームで人気を集め、「エレキの神様」の

愛称で親しまれたギタリストの寺内タケシさんが、
18日夜、横浜市内の病院で肺炎のため亡くなりました。82歳でした。

寺内さんは茨城県出身で、昭和37年に結成したバンド、
「寺内タケシとブルージーンズ」を率いて、エレキギター奏者として活躍しました。

昭和40年には、ザ・ベンチャーズの来日公演をきっかけに
エレキギターブームが起こり、寺内さんは、いわゆる「テケテケ奏法」と
呼ばれる特徴のあるギターテクニックを披露してファンを魅了しました。

この年に公開された加山雄三さん主演の映画、「エレキの若大将」にも出演しています。
(こういう映像を見ると自分が歳を取ったのがよくわかるね)

寺内さんは、その後、エレキギターの音楽が子どもたちの非行を招く
という誤解を解こうと全国の高校などを回ってコンサートを行う活動を続け、
平成12年に文部大臣から感謝状を贈られるなど、
教育の分野でも高い評価を受けてきました。

寺内さんは、結成から50年以上にわたってバンド活動を続け、
マネージメント会社によりますと去年までライブ活動を行っていましたが、
ことし2月からは誤えん性肺炎のため入院していたということです。

その後、回復傾向にあったということですが、18日、
状態が急変して午後8時ごろ横浜市内の病院で肺炎のため亡くなったということです。

82歳でした。

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山北地層と化石の観察4/4

続きます。

5の付近の河原から見ました。
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この付近のお茶畑。
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用沢の青いタダラド橋の下の河原。
砂利の中の白いものは富士山から来た石です。
多摩川の上流でもこのお話を聞きました。
此処でも沢山のご説明をしていただきましたが理解していないので
省略します。
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橋を渡り対岸に行き河原におりてみます。
この付近は足柄層群塩沢層だそうです。
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この白いものは「牡蠣礁」と呼ばれる物の化石です。
牡蠣の化石です。
こう言う物を初めて見たから本当にびっくりしました。
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これはハマグリの化石です。
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これもハマグリの化石がはがれて岩が出ています。
こういうものが「ウジャウジャ」あるのです、くどいですが
本当にびっくりした。
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以下の図は先生の資料の中にあったものを使わせていただきました。
10年ほど前に「昔丹沢は島だった」という講座を聞きました

丹沢が昔は太平洋にあっ島だったそうです。
丹沢が日本列島にぶつかり、そのあとに伊豆半島が日本列島にぶつかり
丹沢が隆起したそうです。
なお丹沢山塊から海の生物の化石が出ているそうです。
(皆が採取に来るから場所は教えませんだって。)

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岩陰で蜂が巣を作っていました。
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上流、丹沢湖方向に矢倉岳が見えました。
矢倉岳、この下の矢倉沢若いとき渓流釣りに通いました。


矢倉岳は
神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある山で、
金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。
おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から
足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かる。

山頂部は平坦な裸地で、一角には木造の見晴台が設けられている。
足柄山地の独立峰的な山であるため360度の眺望があり、富士山、
金時山や明神ヶ岳などの箱根山地の山々、丹沢山地、相模湾などを望むことができる。

矢倉岳と金時山の鞍部にある足柄峠を越える旅人を見張る櫓(やぐら)のような
山容をしていることから、矢倉岳と呼ばれるようになったといわれている。


見学、講義を終りここで解散になりました。
バスの待ち時間が一時間以上あるので谷峨の駅まで歩くことにしました。
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お茶畑、刈り取った後でしょうか。
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ユキノシタかな。
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ほうき杉はまだ見たことがありません。
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この付近には大正年間多くの水力発電所が作られました。
東京電力峰発電所です。
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こういう水路式発電所によく使われるペルトン水車が展示してありました。
この後、徒歩で谷峨の駅に出て帰りました。
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足柄層群畑層〜塩沢層の地層と化石の観察を終ります。

ご案内、説明をしたいただいたのは神奈川県立生命の星・地球博物館
学芸員の田口公則先生でした。
世話焼きの皆さん、同行のお仲間の皆さま楽しい一日でした。
お世話になりました。


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